信じるための勇気
再び三話連続の投稿になります。
それは、真っ暗な暗闇の中を漂っているような感覚だった。
自分がどこにいるのかもわからないまま、ただ漠然とした不安が心を襲う。
――――彼女はあなたが殺したんだ。
不意に誰かの声がする。
何かをかみしめるようにそう言ったのは、そう、確か原作の佳月だった。
いつだったか思い出した原作の記憶がよみがえる。
あの後彼は、その手で凜の父親を殺す。
そして、彼の世界を滅ぼす計画は後戻りができなくなっていくのだ。
彼の復讐のせいで多くの人が悲しんで、多くの人が死んでいった。
物語自体は主人公が世界を救うハッピーエンドだったけれど、それでも失われたものは計り知れない。
椿だってそうだ。
彼は、主人公に凜を重ねて、最後主人公をかばって死んだ。
あの悲しい物語のすべての始まりは「凛」だった。
凜が父親に殺されたこと――――そこからすべての歯車が狂いだした。
凜はどうして殺されたのだろう。
父はどうして凜を殺したのだろう。
転生する前はわかっていた理由が――――転生して凛として生きている今になって、わからなくなる。
どうしてあの日、凛は死んだんだろうか。
「あら、気が付いたのね」
目を開くと、視界は明るかった。
眩しくてすぐに目を閉じるが、聞こえてきた声にもう一度薄目を開ける。
何度か瞬きをした明るさになれた視界が写したのは―———見覚えのない天井。
「あ、れ……」
かすれた声を発するとともに、意識がだんだんとはっきりしてくる。
あれ、私どうしたんだっけ。
そうだ、私は今誘拐されていて、それで逃げ出したけど、また捕まって、それで――――
意識を失う前のことを思い出して、私は勢いよくそこから起き上がった。
起き上がって気付いたが、私はやけに豪華なベッドに寝かされていたようだ。
慌てて辺りを見渡せば、すぐに目に入ったのはベッドの横の椅子に腰かけた一人の女の人だった。
くすくすと笑う、その砥粉色の着物に黒字に赤い花をあしらった羽織をはおったその女の人を、私は知っていた。
「ど、どうして……」
目の前には、この誘拐の首謀者であり、冴の母親でもある――――一宮澪さんがいた。
「ふふふ。驚かせてしまいましたね。ごめんなさい」
はんなりとかわいらしく笑う澪さんに、私は冷や汗を流す。
意識を失う前のことは思い出したけれど、今の状況がまるで理解できなかった。
まずもって、どうして私は生きている。
あの場で殺されたのかと思ったのに――――いや、そういえばあの男の人たちは私を殺すのではなく「連れ帰る」と言っていた気がする。
私はまた、殺されなかったのか。
「そんな警戒したような顔をなさらないで。その様子では、わたくしが誰なのかご存知のようですね」
丁寧な口調でそう尋ねてくる澪さんに、私は小さくうなずく。
「一宮……澪さん……」
名前を言うと、彼女は嬉しそうにそれは華やかに笑った。
「うれしいわ。覚えていてくれたのね」
可愛らしく笑う澪さんの姿になんだか毒気を抜かれる。
イメージと全然違う。彼女は原作にそう詳しく描かれていたわけではないから性格までは知らなかったのだけれど、もっとこうきつい性格の人だと思っていた。
それこそ――――佳月を閉じ込めていた、静音さんのような。
「待っててね、お腹が空いたでしょう。お菓子でも持ってきますね」と席を立とうとした澪さんを慌てて引き留める。
とにかく今はこの状況を説明してほしかった。
「あの、えっと……私はどうしてここに?」
引き留めて、恐る恐るそう尋ねると、澪さんは一瞬不思議そうな顔をしたが、次いで「ああ」と納得したようにうなずいた。
「そう。そうですよね。それが気になりますよね。いやだわ、私ったら」
照れたように笑う澪さんに、やはりなんだか拍子抜けしてしまう。
この人が、本当にあの澪さんなんだろうか?
誰かの命を狙う人にはとても見えないのに。
「そうね、どこからお話すればいいのかしら?
でもね、あなたを呼んだのは私なんですよ。連れてきてもらったんです。お願いしてね」
「連れてきてもらった?」とニコニコ笑う澪さんの言葉を反芻する。
「それはあの、男の人たちに、ですよね?」
「ええ、そうです。ああでもごめんなさいね。彼らってば乱暴だから、どこか傷はついていませんか?」
心配そうに私の頬を撫でる澪さんの手は冷たくて、思わずびくりと竦みあがってしまった。
手から逃れるように距離を置いた私に戸惑ったような顔を見せる澪さんに慌てて謝る。
「ごめんなさい。あの、びっくりして……」
言いながら、ちらりと部屋の様子をうかがってみた。
部屋は20畳ほどの大きな洋室だった。寝室兼私室のようで、部屋の奥の方には大きなテーブルやソファが見える。何やら書類がつまれた机も見えることから、仕事部屋でもあるのかもしれない。
一体誰の部屋なのだろう。普通に考えたら、澪さんの部屋かなと思うけれど。
「どうかしましたか?」
心配そうにそう尋ねてくる澪さんを、私は改めてまじまじと見つめた。
可愛らしい人だと思う。くりくりした二重の目に、薄桃色に色づいた頬、ぷっくりとした唇。守ってあげたくなるような雰囲気を醸し出したその人は、やはりとても人を殺そうとする人には見えなかった。
なんて、そんなことを思ったらまた椿くんに怒られそうだけれど。
――――椿くん。
意識を失う前にみた、猛烈に怒っている椿くんの姿を思い出す。
何か怒らせてしまったようだけれど、彼は無事逃げ出せただろうか。
彼を思い出して、今一人なのだと思うと酷く心細くてたまらなくなりそうだったが、頭を横に振って意識をそらす。
今は私しかいないし、それを選んだのは私なのだ。
そうだ、しっかりしなくては。
「あの、どうして私をここへ連れてきたんですか」
それは暗に、どうしてすぐに殺さなかったのかという意味も込めた問いだった。
私の問いに、彼女はことりと首をかしげる。
らちが明かないと思って、私は思い切っていった。
「あの、あなたの目的は、私を殺すこと……ではないんですか?」
その問いかけに、彼女は大きく目を見開く。
そして次の瞬間、楽しそうに声を上げて笑った。
「ふふ、ふふふ。あはは。いやだわもう、どうしてそんなことを思ったのかしら。ふふ。面白いわ。
違います、違いますよ。私はあなたを殺したりなんかしません」
その言葉に、私は目を見開く。
殺したりなんかしない。それってどういうことだ。
微かに見えた希望に私は澪さんを見つめれば、彼女はなんてことないように、また可愛らしい笑みを浮かべて言った。
「あなたのことを殺すのは、私ではありません。あなたを殺すのは
晃さん……あなたのお父様ですよ」
柔らかく優しいその声に、全身が凍り付いた。
今、この人はなんて言った。
お父様が、私を殺す?
「晃さんとお約束したんです。晃さんが心置きなくあなたを殺せる舞台を用意すると。だからあなたを誘拐し、無傷でここへ連れてきました」
「殺せる舞台……って」
「だって、あそこの屋敷では邪魔が多くて殺せないでしょう? 晃さんにも立場というものがあるもの。
でも、あなたを誘拐したら、あなたが死んだとして、万に一つも晃さんが疑われることはありません。誘拐犯の仕業だと思うでしょう。
きっともうすぐお見えになるわ。あの方は嘘がお上手だから……誘拐されたあなたを助けるためだとでも言って、あなたを殺しに来る」
彼女が何を言っているのか、まるでわからなかった。
父が私を殺しに来る?
私を助けるふりをして?
昨日の夜のことを思い出す。澪さんと密会していた父。
もしかしてあれは、私を誘拐し、殺害するための計画を立てていた?
「ど……どうして、父が、私を殺すんですか。だって、でも……。
そ、そうだ、そもそもわざわざ父が自分で私を殺す必要なんて」
「あら。あなたは知らなかったのですか?」
「な、なにが……」
「あなたはずーっと昔から―――晃さんに憎まれていたんですよ」
「それこそ、自らの手で殺したいと思うほどに」とうっとり笑った澪さんに、ついにもう言葉が出てこなくなった。
信じたくないのに、勝手に視界がぼやけてくる。
心臓が痛いほど鼓動を速めて、私はぎゅうっと胸元を握りこんだ。
「あらあら。泣かないで。ああ。かわいそうに。実のお父さんに憎まれるなんて」
頬を伝う涙を澪さんの冷たい指がすくう。
仕草は優しいのに、それに恐怖しか感じなかった。
「ど、どうして……」
「どうしてって……ああ、晃さんがあなたをどうして憎んでいるのかですか?
それは簡単な話ですよ」
澪さんは私の問いに照れたように頬を赤らめて言った。
「晃さんが、ずーっと私のことを愛してくれているからです」
澪さんの言葉に、私の頭が絶望で覆われそうになる。
それは、原作と同じ理由だった。
そうか、やっぱり父は彼女を愛していたから、彼女のために私を殺すのだと。
私の背中を優しくなでる澪さんに抵抗することもできず、私は涙を抑えることができない。
ああ、やっぱり父なんて信用しちゃいけなかったんだろうか。
――――ふふ。変なの。
だが、そこで不意に、冴の笑い声が聞こえた気がした。
彼の、あの時言った言葉を思い出す。
冴は、自分が監禁されている理由は母親であると知りながら、母を知りたいのだと言って笑っていた。
彼はどうして、母親を知りたいと思ったんだっけ。
そうだ、教えてくれたじゃないか。彼は、
彼は、わからないから知りたいと、言ったのではなかったか。
涙を流したまま、私は視線を上げる。
視界に入る澪さんは心配そうな顔でこちらを見ていた。
そうだ。
私はグッと目を閉じる。
そうだ、私。さっき自分が言ったことをもう忘れたのか。
わからないまま疑うことはやめようって、そう決めたばかりじゃないか。
なのにまた、澪さんの言葉を信じて、父を信じなかった。
そう。まだ何も状況は変わっていないのだ。
いくら澪さんが何を言ったって――――それは父の言葉じゃない。
父の話を聞くまで、私は父を疑わないと決めたのだ。
「――――信じません」
こぼれた涙をぬぐって、私は言葉を発した。
私の言葉に澪さんは不思議そうな顔をする。
「信じないって、何をですか?」
「父が、私を殺すことを、です」
はっきりとした口調でそういうと、澪さんは驚いたような顔をした。
「信じないも何も、それが真実なんですよ?
確かに、実のお父さんに憎まれているなんて現実、とても受け止めきれないでしょうが……。でも、あのお方の私への愛は真実です。だから――――」
「父が愛しているのはあなたじゃない」
私がそう断言すると、そこで初めて澪さんの表情が変わった。
「なんですって?」
急に無表情になった彼女に恐ろしさを感じたが、負けずに口を開く。
「真実を、私は知りません。それは私が散々逃げ回って、父と向き合わなかったからです。父はこれまで私に優しくしてくれたけれど、それが本当かもわからない。本当は裏で私を憎んでいたのかもしれません。
でも、それを確かめるすべは、今はないんです」
父と話さなければ、本当のことはわからない。
なのに、一度疑ってしまった私は父のことを信じられなくて、結果わかろうともせずに逃げてしまった。
でも、それではだめなのだ。
疑ってばかりでは、父と向き合えない。
「これまで散々逃げてきたけれど、でも、今決めました。
私はあなたを信じるくらいなら、父を信じます。父から本当のことを聞くまで、父を信じることにします。
私が今まで見てきた父を、信じます」
「だから、父があなたを愛しているなんてことも、信じません」とそう言えば、彼女は能面のような表情をしたまま「そう」とだけ一言つぶやいた。
けれど次の瞬間私は彼女にベッドに押し倒される。
思いのほか強い力でベッドに押し付けられ、抵抗もままならない。
できうる限りの抵抗をしながら彼女を見上げれば、彼女はまた優しく笑っていた。
「かわいそうに。かわいそうにね。本当のことを信じられなくなってしまっているんですね。ああ、かわいそうに。
――――だったら私が、信じさせてあげますね」
瞬間、彼女の瞳が微かに光ったような気がした。
だがそれを確かめるすべもないまま、その光を見た瞬間から私の意識が閉ざされていく。
「おやすみなさい。よい夢を」
耳元でささやかれた声が、私の脳にからみつくようだった。