彼女の不在
再び三話連続の投稿になります。
今回は佳月の視点です。
なんということはない。
ただ、花が枯れていた。
彼女が生けた、赤色の花は、ほんの少し前までは瑞々しく咲いていたはずなのに、その様子は今はもう見る影もなく、黒く濁って朽ちていた。
それは非常に不快で、嫌な感じがした。
細かい木目の天井にぶら下がる丸い照明器具からは、ぼんやりとオレンジ色の光が溢れていた。
8畳ほどの狭い一室を照らすそれは明るいが、相対して空気は酷く重い。何も言葉を発さぬまま、ただ見たところで代り映えがないであろう畳の目をにらむように見つめていた。
もともとの性格ゆえか自身の表情筋はそれほど動かないが、胸中はそう冷静でいられそうもなかった。
苛々する。不安で、そして恐ろしい。
こんなもの、ほんの少し前までは自分は持ち合わせていなかったもので、感情の処理の仕方が難しい。
行き場のない感情を鎮めるように、部屋の隅に座ったまま、下げていた視線を部屋の上座に向けた。
そこには、夜中にもかかわらず、着物をきちんと着込んだ男が姿勢正しく座っていた。
ここに来るまでの間にすれ違った屋敷の人間に比べ、男の表情はやけに落ち着いているように感じる。
一宮家現当主、一宮晃。
ぼんやり光る明かりが、当主を不気味に照らす。
彼は俺の視線に気づくと、顔に食えない笑みを乗せた。
彼女がいなくなったのは、ほんの数刻前のことだった。
異変に最初に気付いたのは、見回りの使用人だった。
人の気配を感じない室内に不審に思った使用人が彼女の部屋を訪れれば、部屋はもぬけの殻。
荒らされた様子はなかったそうだが、彼女の防寒用の羽織と靴がなくなっていたらしい。
当初は彼女は自分の意志で出て行ったのではないかと、使用人数名で周辺を探したらしいのだが、発見することはできず、その上如月の家の檻人もいなくなっているとわかったことで、事態は騒然となったそうだ。
時期が時期だ。誰もが最悪の事態を考えずにはいられなかったのだろう。
人づてに聞いた彼女の不在は、まるで現実感のないものだった。
何せ、ほんの数時間前まで目の前に、手の触れられる距離にいたのだ。
けれど彼女だけがいなくなった部屋を見た瞬間に、それはじわじわと現実味を帯び、熱を孕んで胸中をかき乱した。
これでも自分は冷静な人間だと思っていたが、どうやら彼女に関してはそうではないらしい。
理性よりも感情が勝るなんて体験は初めてだった。
思考回路を停止させたまま、すぐにでも彼女を探しに飛び出そうとして――――しかし、それは阻まれた。
俺の行動を止め、平静に戻したのは、彼女の父の「落ち着け」という極めて冷静な声だった。
使用人に案内され自身の隣に立った彼は、彼女の部屋の状態を一瞥し、ついで俺をとらえた。
ひどく鋭い視線だった。
彼女と同じ青の瞳なのに、彼女の持つあの柔らかな色はなく、彼の瞳は極めて冷たかった。
冷めているのか、落ち着いているだけなのか。
口元に笑みは浮かべているが、その胸中はわからない。
彼は間違いなく、嘘をつくのが得意な人間だった。
「君がここにとどまってくれたよかったよ。佳月」
自身の名前を呼ぶ声が、意識を現在に引き戻す。
眼前に座る当主はやはり、読めない顔をしていた。
何を考えているのか、俺をあの場で引き留めた彼は、後で誰にも見つからぬようこの部屋に来るよう告げた。
言われてこうして来てみれば、部屋には俺と当主しかいない。
ちらりと視線を障子の方へ向けてから再度当主の顔を見る。
使用人を集め彼女を探す手立てを考えるでもなく、ただ一人俺をここに呼んだのは明らかに妙だった。
「なぜ私をここへ呼んだのですか」
思考を巡らせつつ、彼に問いかける。
彼は柔らかく笑って首をすくめた。
「すぐに動きたいところを引き留めたのは悪かったが、そう怖い顔をしてくれるな」
「……部屋の外、やけに静かですね」
当主の声を遮るようにして、彼から視線を外し閉じられた障子を見やる。
先ほどまでは彼女を探す使用人たちの声や足音が響いていたのに今はそれがなくなっていた。
「もう捜索は打ち切られたのですか」
探るように、もう一度彼に視線をやれば、彼は困ったような笑みを浮かべて、胡坐をかいた足の上に頬杖を突く。
「君は聡明だ」
「彼女が自分の意志で出て行ったのではないのなら、ほぼ間違いなく彼女は屋敷の中にはいない。なのにあなたは捜索範囲を広げることも、使用人へ特に指示を出すこともしなかった」
彼の言葉を遮るように言葉を紡ぐ。
彼は先ほどまで浮かべていた困ったような笑みをスッとしまった。
先ほどまでも作り物めいた表情よりもこちらの方が何倍もやりやすい。
「――――なぜ私をここへ呼んだのですか」
読めない青の瞳をじっと見据えながら、再度彼に同じ質問を繰り返す。
彼は俺の問いに数秒黙り込んだままジッと俺を眺めていたが、やがてにやりと口角を上げて言った。
「君に、共犯者になってもらおうと思ってね」
それはここにきて初めて見る、彼の人らしい表情だった。
共犯者。
あまり穏やかではない言葉に、続きを聞こうと黙ったまま見つめる。
彼は言葉をつづけた。
「凛と椿くんをさらった人間は考えるまでもなく明らかだが、わかっているからといってそう簡単に手を出せる相手でもない。何せこちらはいま人質をとられているようなものだからね」
「人質……」
彼の言葉に引っ掛かりを覚え、言葉を繰り返す。
俺は疑問に思ったことをそのまま彼にぶつけた。
「彼女の部屋であなたに会ったときも思いましたが――――あなたがそうまで冷静なのは、彼女が生きていると確信を持っているからですか」
俺の問いに、彼は肯定するように笑みを浮かべた。
それにますます疑念が募る。
彼が想定している犯人は十中八九檻人の継承関連の人物だろう。
彼女の従者になった時、ある程度一宮の縮図は頭に入れてあるから、該当する人間も考え付く。
だがそうだとするならば、余計にわからない。
「なぜ確信が持てるのですか。犯人の狙いは檻人の継承権一位の彼女を殺すこと。椿さまならまだしも、凛様を生かしておく理由がない」
「犯人の狙いは凛の死ではないからさ」
狙いは彼女の死ではない?
「彼女はまだ凛を殺さない。いや、殺せないといった方が正しいかな。だから」
そこで言葉を切って当主は立ち上がるとこちらへ近づいてきた。
そして俺の前の前まで来ると、しゃがみこんで俺に目線を合わせる。
「だから、安心していい。凛は生きている。」
ぽん、と軽い調子で俺の肩を叩いた当主は、そういって笑った。
その言葉に、ふっと強張っていた全身が緩んでいくような感じがした。
根拠も何もない言葉なのに、肩からから力が抜けるのがわかる。
抜けて初めて、自分がずっと張りつめていたことに気付いた。
「だが、それも『今は』の話だ」
緩めていた表情を引き締めて、固い表情で当主は言葉をつづける。
「だからこそ私はこの件に関して、最善の手を打ちたい」
「入ってくれ」と俺の肩から手を外して、当主はそう声を上げた。
間もなく障子が開かれる。
入ってきたのは、如月家当主、如月椿の父親だった。
思いがけない人物に視線を当主に向ければ、彼は実に楽しそうな笑みを浮かべていた。
「夜分にすまないね、思いのほか向こうの出方が早かったんだ」
気やすい様子でそう話しかけた当主に、話しかけられた如月仁は眉間にしわを寄せた。
「椿もいなくなったそうだな」
「ああ。君に椿くんを連れてきてもらっていて正解だったよ」
悪気なくにこりと笑う当主に、如月仁はあきらめたように溜息を吐くと部屋に入って俺の隣にどかりと腰を下ろした。
このまま隣に座っていいかを考える前に、二人の会話が気になった。
今の会話ではまるで、彼女が誘拐されることを読んでいたかのようだ。
意図を読み取ろうと当主に視線を向ければ、それに気づいた彼は相変わらずのにこやかな様子で言った。
「先手を打たれたことは否めないが、こちらの布石も機能している。
さあ佳月。君にも働いてもらうよ。何せ今は持ち駒が少なくてね」




