雨宿りの遭遇
夜明けはまだ遠いようだった。
空を覆うように鬱蒼と茂る雑木林の中をひたすら歩く。
木々の合間から零れる月明かりだけが唯一足場を照らしていた。
その足場も、無論舗装されているわけがなく、柔らかな土の上を歩かなければならないので、常以上に体力の消耗が激しいような気がする。
「ね、ねえ。それでさ。近づいてどうする?」
こんな暗がりを黙って歩くのは気がめいってしまいそうだった。
気を紛らわせようと、椿くんへ話しかける。
「……そうだな。今の正確な時間がわからないから恐らくではあるが、そろそろ父上たちが動き出すころあいだろう。とにかく入り口に近づいて、助けを待つほかない」
「そ、そっか。そうだね……」
あいにく時計は所持しておらず、体感ではあるものの、確かに私達が誘拐されてからもう随分と時間が経過しているように感じた。
そろそろ屋敷の誰かが気づいてもおかしくはない頃合だった。
そして、居なくなったのが私たちであるならば、浚われた理由は自ずと絞れてくるだろう。無論犯人でさえも。
犯人−−−−ふと、あの夜の事を思い出す。
私達が浚われる寸前に見たあの「密会」。
あの光景を見た後では、父が必ずしも私を助けに来てくれるかどうかはわからなかった。
父が敵か味方か依然判断はつかないがあの光景を見た後では味方だとは断言できないし、何よりあの女性は敵でほぼ間違いない。
私達を誘拐したのは、あの彼女だ。
今の状況下では、彼女が誘拐した証拠はないに等しいが、私の知る「桜の檻」のストーリーが正しいのならば、おそらくこの推測は正しい。
彼女は――――私についで檻人候補として挙げられている人物の母親である。
彼女は自分の子どもに檻人を継がせるため、凜を殺そうと企む。父と、共謀して。
ただ、引っかかるのはそれ以前に彼女が凜を誘拐しただなんて話は原作にはなかったということ。
前々から原作と「ズレ」はあったけれど、これもその一つなのだろうか。
それからもう一つ、気がかりなことがある。
それは父が――――凜を殺す「理由」についてだ。
父は彼女への負い目から、彼女の頼みを受け入れ凜を殺害するわけだが――――その負い目とは具体的には何なのだろうか。
原作で描かれていたのは、幼いころからずっと想いを寄せていた彼女と結ばれることは無く、違う相手とそれぞれ子どもをもうけたことで、彼女に対して何か負い目があるため、彼女の子どもを檻人にするべく、私を殺すというものであるが、どうにもしっくりこない。
私の目が節穴でなければだけれど、父の母への想いは偽りではないと思う。
だとしたら何故か。
他の人を愛してしまった償いとか?
だけど、償いで自分と愛する人の子どもを殺せるのだろうか?
父は――――一体どんな思いで「凜」を殺したのだろう。
わからない理由は、今までまともに父と向き合ったことがないからだった。
「来て、くれたらいいな……」
ぽつりと溢れた言葉は、恐らく本音だった。
父のことは怖いと思うのに、それでも、原作通りに進まない可能性にかけたくなるのは何故だろう。
父を信じられないくせに、信じたいと思う。
「心配はない。檻人が誘拐された以上、父がすぐに手は打つはずだ」
私の呟きを拾った椿くんが冷静にそう告げた。
それが、何か引っかかる言い方だったから、思わず椿くんの方を振り返る。
彼は顔を俯かせていたため表情はよく読めなかったが、何となく彼が思っていることは私と似ているように思えた。
「家族なのに、なんでこんなに難しいんだろうね」
何と声をかければいいかわからなかったが、素直に思ったことを口に出してみる。
だが、椿くんは黙り込んだまま何も言わない。
気を損ねてしまったのだろうか、と思ったところで、少し逡巡してから、「お前は」と小さく呟くように言った。
「お前は……気味の悪い人間だな」
それは戸惑いを大いにはらんだ声色だった。
「え、あの……今の状況でそういうこと言われるとちょっと心が折れそうなんだけど……」
唐突の悪口が心の柔らかいところに突き刺さった。
いつも思うが不意打ちで傷つくようなことを言わないでもらいたい。
抗議の声を上げてみるが「事実だろう」と相手は全く悪気がない様子だった。
それがまた哀しくさせる要因だった。
挙動不審な節はあるかもしれないが、ドン引きされるレベルではないと思っていたのだが。
顔がひきつる私に構わず、椿くんはぽつりぽつりと言葉を零す。
「馬鹿で、魔法も使えない」
「う」
「すぐに逃げ出して」
「うう」
「檻人の候補のくせに弱弱しくて情けない」
「ううう」
いい加減泣いていいだろうか。
彼は嘘を言っていないしこれは紛れもなく私の真実なのだけれど、こうも立て続けにずばずばと言われてしまうと泣きたくなる。
「――――でも、このごろのお前は、そうじゃなくなった」
「え」
私は思わず立ち止まって背中に視線をやった。
相変わらず彼の表情はうかがい知れない。
「以前も以前で腹が立ったが、今は何故だか余計に腹が立つ」
だがその声色からして、何となく彼が怒っているような気がした。
首に回されている腕にかすかに力が入るのを感じる。
呆然と彼を見やるが、表情は見えないし、彼が怒る理由もよくわからなかった。
しばし閉口したまま彼を見て、戸惑いながらも思い切って言葉を発した。
「わからないけど……。
椿くんから見て、私が少しでも変わったと思ってくれるなら…それはとても嬉しいこと、だよ」
自分の発した言葉は弱弱しいものだったが、事実であるのは確かだった。
背後で僅かに驚いたような気配がするが、そのまま続ける。
「今の私はどっちが前か後ろかもわかんなくて、でもとにかく動かなきゃいけないって思ってて。
だから椿くんの目から見て――――私が『変わって』見えたのなら、それは私にとって嬉しいことだ」
こんなことを言ったら余計に彼を怒らせるかもと危惧したが、それが真実なのだから仕方がない。
今の私には嘘をつけるだけの要領はないのだから。
けれど、予想に反して私の言葉を聞いた椿くんに動きはなかった。
怒りのあまり黙り込んでしまったのか、と恐る恐る彼の様子を伺ってみるが、やはりよくわからない。
ただ先ほどあった怒気のようなものは霧散したように感じる。
「あの……」
もう怒ってないのだろうか。
椿くんがあまりにも黙ったままなので、心配になって口を開く。けれど何かを言う前に私の意識は他へそれた。
ハッと頭上を見上げる。
頭に何か水滴が落ちる気配がしたのだ。
水滴は段々と間隔を縮めて、私の頭上へと降り注いでくる。
「あ、雨だ……」
いつのまにか月は分厚い雲に覆われ、雨雲が頭上を支配していた。
慌てて木下に身を寄せるが、雨脚が強くあまり意味のある行為ではなかった
これは良い展開ではなかった。
ただでさえ体力を消耗しているのに、雨に打たれては更に体力を持っていかれる。
雨宿りをしようにも、木々が生茂るだけの場所には屋根になるような場所は見当たらない。
「椿くん、どうしようか。多少濡れても歩こうか」
どこかで雨宿りできる場所を探すか、先に進むか。
体力の面を考えれば一度休んだほうがいいのは確かだが、追われている身でそんな悠長なことをしていていいのか。
情けなくもどちらがいいか即決できずに椿くんへ問いかけると、今まで黙りこくっていた彼はここでようやく、「いや」と小さく首を横に振った。
「……今は進むより、雨宿りできそうな場所を探そう」
そう言った椿くんは先ほどの不安定な様子とは違い普段の理知的な表情に戻っていた。
それに安心しつつも、彼の発した言葉が意外で、軽く首をかしげる。
「いいの?」
「お前もそろそろ限界だろう」
「体力的に」と、そう言われて、確かにそろそろ膝がぷるぷるしてきたところだと気づいた。
格好良く彼を背負うとは言ったものの、やはり私は非力で貧弱だった。
これは本格的に筋トレをしたほうがいいのかもしれない。
「じゃ、じゃあとりあえずどこか屋根のある場所を探すね」
疲れと雨で彼を落としてしまわないように気合で彼を背負いなおして、目的地とは少し離れた方角へ私は歩を進めた。
**
やみくもに歩みを進めたところでそう易々と屋根のある場所なんて見つかるのだろうか、と思っていたが、その心配は杞憂に終わったようだった。
「その場所」は思いの外早く見つかった。
ただもっとも、見つかる見つからないの問題以外の問題が生じてしまったわけだが。
「う、うーん……。どう考えてもあれは明らかに怪しいよね……」
椿くんを背負ったまま、身を潜めていた木陰からそっと身を乗り出して、「それ」を見る。
「それ」は、木々がただただ無造作に生え茂るこの森のなかにあるには些か似つかわしくないものだった。
「それ」―――–青々と生い茂る木々に隠れるようにして建つ小さな小屋のような家。
平屋に茅葺屋根を被ったその小さな家は、引き戸や窓の様子から見て随分と年季の入った様子だった。
まるで存在を消すかのようにひっそりと佇むその家は警戒するには十分すぎるほどの異質な空気を纏っている。
「怪しさ満点だな。どう考えてもあそこはいかないほうがいい」
「そうだよね。家ってことは人がいる可能性もあるだろうし……」
椿くんがそう即決するのに私も頷く。
一応捜し求めていた「屋根のあるところ」ではあったが、喜んで雨宿りできるような場所ではなさそうだった。
せっかく見つけたのに残念だが、こればかりは仕方がない。また探しなおしするかと思い、ふと何の気なしに椿くんに目をやる。
私に背負われた彼は相変わらず無表情を保っていたが、よくよく見れば表情にどこか疲れが垣間見えた。雨は思いのほか彼にダメージを与えているように思える。
この状態の彼を背負ったままで、また雨の降る森の中を歩くのは、彼に負担がかかりすぎるのではないだろうか。
それならいっそ−−−−
「––––私、やっぱりちょっとあの家見てくる」
「は?」
思わず口をついて出た言葉に、椿くんがは低い声で応答した。
それにひるみそうになるが、負けず続ける。
「だ、だってこんな森の中だし、誰も住んでいない可能性もあるわけでしょう?
せっかく見つけた雨宿りできる場所なんだから、確認ぐらいしてもいいじゃない」
そう言いながら、椿くんをできるだけ雨の当たらない木の下に下ろす。
下ろして、直に彼の顔を覗けば、彼は不審そうな顔つきで私を見ていた。
「信用できないな。人がいたとして君が正しい対処をできるとは思えない」
慌てて逃げようとして見つかる様子が目に浮かぶ、と至極真面目な顔で椿くんはそう告げた。
「だ、大丈夫、誰かいても見つからずに戻ってくるよ!」
もっともな意見に言葉が詰まりそうになるが、なんとか強気に笑って言ってみせる。しかし彼の表情は依然として不信感でいっぱいで、全く信用がないのがわかる。
だがここで引くわけにはいかない。
「と、とにかく、一瞬、一瞬だけ様子を見てくるから。
何か様子がおかしかったらすぐ戻ってくるから」
椿くんが口を挟む余裕も与えないぐらい早口でそう言って、私は彼に背を向けそっと茂みから体を出した。
「椿くんも、何かあったら大声出すんだよ!」
後ろから彼からの罵詈雑言が聞こえたが聞き流す。
椿くんを置いて、私は茂みに隠れるようにしてある小さな扉へ向かった。
そうして扉へ近づこうとして––––扉の少し手前で、私は一度立ち止まった。正面切って玄関から入るのもどうかと思ったのである。
一度家をぐるりと回ってみる––––しかし、玄関以外から入るのは少し難しいようだった。
窓はあった。しかしそれらは固く閉ざされ、とても開けられそうにはなかった。まるで家の中にあるものを外から断絶するかのように。
「……ネガティヴな考えはよそう」
嫌な予感がしたが、すぐにそれを打ち消す。
気を取り直して私はもう一度玄関へと向かった。
玄関の扉は、随分と黒ずんだ木製の引き戸だった。
窓の様子から考えて扉は何かしら施錠されているのではないかと思ったが、その心配はいらないようだった。私が引き戸に手をかけると、抵抗なくそれは静かに開かれた。
できるだけ音を立てないように、自分が入れるだけのスペース分扉を開いて、そっと中に侵入する。中に灯りの類はないようだったが、何故か外より幾分も明るいように感じた。外から見た感じでは、そう明るくないと思っていたのに。
自身の目の前には低い框と、3、4mほど続く短い廊下があるのが見えた。
そしてその廊下の右手側には、障子で仕切られた部屋が一つだけ佇んでいる。
人がいるとしたらあそこしか考えられなかった。
私は息の飲んで、音を立てないようにその障子へと近づいた。途中靴を脱ぐかどうか迷ったが、何があるかわからない以上は脱がないまま中に入る。
たどり着いた障子は、私の家にある障子よりも些か小さいつくりのようだった。
中からは特に物音はしない。
あいにく私は人のいる気配をわかるなんて能力は持っていないが、普通に見た感じでは誰もいないように思えた。
ほんの少しだけ中を覗いてみようか。
正直、中に人がいるかもしれない障子を開けるのは気がひける。
しかし、ここまで来たのに手ぶらで帰るわけにはいかないと、尻込みする心を奮い立たせた。
そうして、障子の取っ手に手をかけようとして、そこに「何か」が貼られてあることに気づいた。
その「何か」は、長方形の、白いどこにでもあるような紙切れのように見えた。ただそこに書かれた文字が「封」であることを除けば。
恐る恐る、その紙に手を伸ばす。剥がそうとしてみるが、どうにも剥がれない。そこで今度は取っ手の方に力を込めてみる。
しかし、やはり障子は開きそうになかった。
特に鍵があるようには見えないし、これはどう考えてもこの「封」と書かれた紙によって何らかの魔法が施されているとしか考えられなかった。
魔法で閉められているとしたら、私にはお手上げだ。
椿くんなら何か出来たかもしれないが––––いや、これ以上椿くんに魔法を使わせるわけにはいかない。
とにかく、一度椿くんのところへ戻って、この部屋のことを伝えてみよう。それからどうするか考えて––––
「だあれ?」
不意に、障子の向こう側から、人の声がした。
思わず取っ手から手を離し、背後の壁に背がつくぐらいまで退く。
誰か、いる。
ゴクリと唾を飲み込む。
聞こえたのは、幼い声だった。どこか舌ったらずな、甲高い子ども特有の声。
どうして子どもがこんなところにいるのか。
考えている間にも、声の主は障子まで近づいてきているようだった。
微かな影が障子に映る。
逃げなくては、そう咄嗟に思うが、それと同時に、障子がガタリと音を立てて揺れた。
ビクリ、と肩を震わす。しかし障子は揺れただけで開いてはいなかった。
どうやら開こうとしたが開かなかったようだ----恐らくは、あの封と書かれた紙切れによって。
この紙は外からだけでなく中からも開かれないようにしてあるらしい。助かったと肩をなでおろすが、中から開かないということはこの中にいる子どもは閉じ込められているということだろうか。
「監禁」という言葉が脳を過る。
何者か、この場合この敷地の人間が怪しいが、その者たちによって閉じ込められているのか。
しかしそう想像してみたものの、正直これ以上はキャパシティオーバーだった。
中に誰か閉じ込められているとしても、今の状況で助けられるとは思えない。
せめて一度椿くんと合流して、それから–––
「開け」
そう考えた矢先、先ほど聞いた舌ったらずな幼い声が小さくそう言葉を発したのが聞こえた。
え、と障子をみると、障子に貼られた紙がひらりと、宙を舞い、四散する。
「ああ、やっぱりそうだ」
そうしてゆっくりと障子が開かれる。
開かれた扉から現れたのは––––「白い」子どもだった。
陶器のような白い顔に白い髪、白の装束。装束の間から見える肌もすべて真っ白な包帯で覆われた、「白い」子ども。
「知らない人」
唯一色のついた、その翡翠色の瞳を柔らかく眇めて、その「白い」子どもは酷く無邪気に笑った。