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夜の淵源


夜の庭の空気は、ひんやりとして少し肌寒いほどだった。

虫の声もしない静かな夜を、ちょうど雲から顔を出していた月が明るく照らしている。


椿くんとの会話は特別弾んだというわけではなかったが、それでも昼間に比べれば多くのことを話せたような気がした。

何気ない会話だったけれど、それでも私にとっては大きな進歩だ。

時折沈黙は訪れるが、それほど居心地の悪さは感じない。


浮かれた気分のまま、軽い歩調で庭を歩く。

庭師さんによって整えられた庭は、やはり母の花壇とはまた異なる美しさの在る庭だった。

椿君は花にそれほど関心はないようだったが、別に花が嫌いだというわけではないという。

昼間は花なんぞ嫌いだとかなんとか言っていたが、花、というよりは単に私が嫌いなだけだったようだ。思ってて哀しくなるけれど。


ああ、でも。


ふと、母を拒絶したときに見せた、椿君のあの赤い強烈な眼差しを思い出す。

あの時彼が怒ったのは、それだけじゃないんだろうな。



そんなこんなで、私と椿くんはここに来て初めて穏やかな時間というものを過ごしていた。

けれども、浮かれた歩調のまま歩きすぎてしまったらしい。気づけば屋敷から随分離れたところまで来てしまっていた。

ふと空を見上げれば月は真上にまで昇っている。


ぼんやりと空に浮かぶ月は、満月。今日は雲が多くて、さっきからつきは出たり入ったりと忙しい。

前々から思っていたが、この世界の月は、前世の記憶にある月よりも幾分か大きい気がする。

私は月は、別に嫌いじゃない。むしろ好きなほうだ。綺麗だし。


でも今日みたいな、空でじっとりと存在感を主張してくるような月は――――正直苦手だった。

こんな月が出ている夜は、大抵怖いことがおきた経験がある。

そんな私の恐れが通じたわけではないだろうが、ぼんやりと眺めているうちに月は雲間に隠れてしまった。



僅かに暗くなった景色に、そろそろ戻るべきだろう、と考える。

月の話うんぬんは別にしても、もう随分と屋敷を抜け出してから時間が経ってしまっている。

正確な時間はわからないが、抜け出したことがばれれば屋敷は大騒ぎになるだろう。


「ねえ、椿くん」


そう思い、もう戻ろうか、と椿くんに声をかけようとしたそのときだった。

私はふとある場所に目を止めた。


「門が……」


目を止めたのは私の家の敷地から外へつながる裏門の扉だった。

いかめしい門扉は、正門とは違い小さく、長く使われていないためか所々黒ずんでいる。

普段ならば、そこはよそからの侵入を拒むかのように、固く閉ざされているはずなのだった。


それがなぜか今日はかすかに開いていた。




「どうした?」


急に立ち止まった私に、椿くんは訝しげな顔で尋ねた。


「え、あの……裏門が開いているみたいなの」


そう言うと、椿くんも視線を門のほうへと向けた。

微かに開いた門の隙間からは、敷地の外の景色がちらりと覗いていた。

普通に考えて、きっと誰かが閉め忘れたのだろう。

開けっ放しにするなんて無用心だし、閉めなきゃ、とは思うのだが、何故だか私の足がその扉に近づくことを拒否した。


近づいてはいけない気がする。

根拠のない、猛烈な不安に襲われる。

これはまさしく「嫌な予感」と呼ばれる類のやつだ。



「……あそこだけ結界が切られてる」


訝しげな声でそう言った椿くんを振り返れば、彼はじっと睨みつけるように門を見据えていた。

結界、と聞きなれない言葉を耳にしたが、ここは魔法が使えるファンタジー世界。そういう便利なものだってあるんだろう。セコムみたいな。

というか、今はそんなことより、早くこの場を離れたかった。

結界がなんなのかはどうでもいいが、切られているということはよくないことに決まっている。

椿くんだってさっきから怖い顔しているし。


「早く戻ろうよ」と、椿くんの腕を掴みかけたとき、私が掴むよりも先に椿くんが私の腕を強く引いた。

腕を引かれるまま、私の体は近くにあった茂みの中に入る。


「な、ななな、なにを」

「しっ! 誰か来る」


それにどきりと心臓が跳ねた。

思わず茂みからそっと門のほうを見れば、外から人影が門を通って入ってくるのが見えた。

こんな時間に一体誰が。

屋敷の人間ではないはずだ。

というかこれって所謂不法侵入なんじゃ。

もしそうなら、早急に家に戻って誰かに報告しなくてはならない。

けれど、不法侵入者が間近に居る今、下手に動くのは果たしていいことなのか。


伺うように椿くんを見れば、椿くん食い入るように茂みの外をうかがっていた。

それに習って、私も黙って茂みの外を覗く。


月が雲に隠れているせいでよく見えないが、不法侵入者はそのまま屋敷に向かうことなく、門に入るとぴたりと足を止めた。

よくわからないが、もしかして誰かを待っているのだろうか。

こんな時間にこんなところで待ち合わせなんて――――しかも屋敷の外の人間が、わざわざ結界を切ってまでここで誰かを待っているなんて。少なくとも普通の待ち合わせではないだろう。

もし、屋敷の中にいる誰かを待っているとして、それでいて一番最悪な事態であるとするなら、考えられるのは屋敷に内通者がいるということ。

何のための内通者かなんて決まっている。この屋敷に来て狙うものといったら一つしかない。



私の命だ。



どっどっど、と心臓の鼓動が早くなるのがわかった。

脳裏に嫌な記憶がフラッシュバックする。

ああいやだ。いやだな。

いつまでもあんな記憶引きずってんなよ、私。


震えを押さえるようにぎゅうっと右手で左手を握りこむ。

こんなことなら屋敷から離れるんじゃなかった。

今になって猛烈に後悔におそわれる。


庭だから大丈夫だと思ったけど、そうじゃなかった。

そうだ、そうだった。私には安全な場所なんてどこにもないんだった。

だって、私は常に、命を狙われているようなものなのだ。

最近が平和すぎたから、油断してしまった。


そこまで考えたところで、私は思考を切るように大きく深呼吸した。

駄目だ、だめだめ。

後悔や、嫌な予想は、いつでもいくらだってできる。

でも、今それをしたところで状況は変わらない。

それはもう、わかっているはずだ。

後悔先に立たず。そんなものするより、今はこの状況をなんとか切り抜けるのが先だ。

大丈夫。だいじょうぶ。

嫌な記憶を追い払うように、私は強く目をつぶる。

まだ、そうと決まったわけじゃないんだから。大丈夫。大丈夫。




――――しかし、目を瞑っていた私の耳に届いた「その声」は、私の虚勢をあっけなく打ち砕いた。



その声に導かれるように、私は目を開く。

強く目を瞑っていたせいか、何だか視界がちかちかした。

隣にいる椿くんは、茂みの外の光景に、その場に縫い付けられたように固まっていたが、それを気にする余裕なんて私にはなかった。


だって、今聞こえた声は。


茂みの外には、不法侵入者以外のもう一つの影があった。

私が目を瞑っている間に、不法侵入者の待ち合わせ相手が来たらしい。

私は目をこらして二人をを見る。


その時、ちょうど雲の中に入り込んでいた月が再び雲間から顔を出すのがわかった。

真っ暗だった茂みの向こうが、ぼんやりと、けれどやけに明るい月の光に照らされる。

それと同時に、その場にいる二人の人物の顔が見えた。


ひゅっと息を呑んだ。

先ほどまでがたがたとわずらわしいぐらいに震えていた私の体がぴたりと止まる。

体だけじゃない、その瞬間、私の世界はぴたりと静止したような気さえした。




「――――今、君に再び会えたことを、嬉しく思うよ」


月明かりに照らされた男が一人、囁くようにそう言った。

柔らかな、その優しい声を私が聴き間違えるわけがなかった。

見慣れた和服に身を包んで、すらりと立ったその姿を、私が見間違えるわけがなかった。

だって、ずっと聴いて、見てきたものなのだから。




「――――とう、さま……」



心から零れるように、かすれた声が口から落ちた。



その姿は確かに父に違いなかった。

どうして父がこんなところにいる。

いや、父が夜にこんなところにいることに、なんら問題はない。

そうだ、それ「だけ」なら、何の問題もなかったのだ。


しかし私が絶望したのは、父の姿だけではない。

問題はそこではないのだ。



問題は――――父が話している相手の女性。


父の姿を視界に映すと同時に自然と見えた、不法侵入してきた人間の姿。

地味な、薄い色の着物の上に、黒地に赤い花をあしらった羽織をはおった、顔には愛くるしい、少女のような笑顔を浮かべたその人を、私は見たことがあった。


実際に見たわけではない。

私はその姿を―――紙の中で見たのだ。



混乱した頭はまともに機能してくれない。

ただ父に、縋りついて、問い詰めたくて、でもできなくて。



ああ、父さま、父さま。

どうして、その女性と。よりによってその女性といるの。


だって、父様はその人のために――――




原作の「凜」を殺したんでしょう。




地面がぐらぐら揺れたような気がして、立つのもやっとの状態だった。

ここから逃げなきゃと思うのに、動くこともままならない。


ああそうだ、近くには椿くんがいたんじゃないか。

そうだ。椿くんなら、なんとかしてくれるかもしれない。

なんとかするが、何をどうすることなのか、まるでわからないけれど、椿くんなら、きっと。


そう思ったところで、どさりと横で誰かが倒れこむような音がした。

え、と視線をそちらに向ける。けれど、そこには思い描いていた人物はいなかった。


「……っひ」


喉からひきっつたような声が出た。

助けを求めた椿くんはそこにはいなかった。いや、彼はいた。地面に倒れるようにして。

いったいどうして。物音なんて、なにも。


そのとき、椿くんの近くに、見知らぬ男が一人佇んでいることに気づく。。

光を遮断したかのような、暗い瞳と目が合った瞬間、私は一瞬息の仕方を忘れた。

覚えのある感覚だ。

圧倒的に強い相手が、己を、何とはなしに、殺そうとする目。



後ずさりする。逃げないと。でも、椿くんを置いて逃げるなんて。じゃあ誰か助けを呼べば。ああ、けれど、近くに居るのは――――




近づいてきた男が凍りついたように動かない私の頭を強引に掴む。

ぷつん、とまるで糸が切れるように私の意識はそこで途絶えた。




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