優しい人
目を覚ましたとき、あたりはまだ薄暗かった。
どうやら夜が明ける前に目が覚めたらしい。
「頭、重たい……」
大量の記憶が流し込まれたからか、随分と重たくなった頭を右手で抑えながら、私はゆっくりと寝床から起き上がった。
長く悲しい夢を見た。
あれは、如月椿の夢だった。
物語における、椿の始まりと終わりの夢。
ふうっと息を吐き出して、軽く頭を横に振った。
まだ夜明けまでには時間がありそうだが、もう眠れそうになかった。
重たい頭を抱えながらのっそりと立ち上がる。
静かに障子を開くと、月明かりのためか思いのほか外は明るかった。
眠れるようになるまで夜風にでもあたろうか、と縁側に腰を下ろす。
頭に浮かぶのは如月椿のことだった。
椿は「桜の檻」において、所謂裏切り者のポジションだった。
主人公に近づき、彼女を利用すること。それが佳月と椿の目的だった。
だが椿は主人公とかかわるうちに、成長し変わる。そして最後、彼女の中にかつての凛の姿を見た椿は、主人公を庇い、佳月の剣に貫かれて死んでしまうのだ。
主人公、そして佳月が救われることを願いながら。
あのころ確か椿はまだ17かそこらの年だったはずだ。
あまりにも若すぎる死。
そして何よりも、哀しすぎる死だ。
全ては凛が死んだことで起こったこと。
凜は――――私は、死んじゃいけない。
夢を見て、改めてそう思わされた。
今現在、原作のように佳月と椿くんが私を崇拝している様子は見られない。
だから、考えたくはないけれど、私が万が一、億が一、死んでしまったとしても二人は世界を滅ぼそうと思わないかもしれない。
でも、それには確証はない。
確立がゼロでない以上、私は生きなければならない。
そして何より、私自身がが生きることを望んでいる。
私は14歳なんて若い内から死にたくなんかない。
椿だって――――いや、椿くんだって死にたくはないはずだ。
だからそのために、何とか戦ってみようと思っているのだが――――
「こんな時間に何をしている」
突然かかった声に、体がびくりとはねた。
聞き覚えのある声だ。
それも、今の今まで考えていた人の。
座ったまま顔を横に向ければ、そこには和装の寝巻きをきちんと着込んだ仏頂面の椿くんが立っていた。
いきなりの登場に、驚いて声も出ず、まじまじと椿くんを見つめる。
彼はそんな私に眉間のしわをぐっと寄せた。
「こんな時間に出歩くなど君はいったい何を考えている。君には檻人になる者としての自覚はないのか」
厳しい声色でそういわれ、反射で背筋を伸びた。
夕食の時と違い、彼の鋭い視線は確かに私を捉えている。
「す、すみません……」
何が何だかわからないが、とりあえずそう謝った。
けれど椿くんの顔色は晴れず、それどころか私の謝罪にはっとしたような顔をすると、罰の悪そうな顔をして、私から顔をそらした。
「ああ、いや、ちがう。そうじゃなくて」
彼にしては歯切れが悪い。
何を言いあぐねているのか。
首をかしげて彼を見ていれば、彼は少し逡巡するようにまぶたを閉じたあと、ようやくこちらに視線を向けて言った。
「少し、隣に座ってもいいだろうか」
その申し出に驚いたものの、断る理由は特になかった。
了承すると、彼は「失礼する」と一言言ってから私の隣に、少し間を空けて座った。
だが、座ったのはいいものの、気まずい沈黙が落ちる。
何か気のきいた話題はないものかとコミュニケーション能力の著しくかけた頭で考えてみるが出てくるはずもなく。
結局沈黙を打ち破ったのは向こうだった。
「まさか、会えるとは思っていなかった」
ぽつり、とまるで独り言のように彼はそう言った。
自身の足に視線を落としてそういう彼は、常の彼らしくない、どこか頼りなさげな印象を受ける。
「どうにも寝付けなくて、それで少し屋敷を歩いていた。
家主の許可なく出歩いて申し訳ないし、こちらのほうこそ檻人としての自覚が足りていない行動だったとは思うんだが。
だが――――君に会えないかと思って」
そこまで言って言葉を切ると、彼はようやく顔を上げてこちらを見た。
「君に、話したいことがあった」
月明かりに照らされて不思議な色を放つ彼の赤の瞳に思わずぎくりとなる。
彼は真剣な表情で言った。
「俺は、君が嫌いだ」
それは想像していたどの言葉でもなく、心の準備もなくいきなり飛び込んできたその言葉は、私の柔らかい心にぐさりと刺さった。
何だ。この人はこんな夜中に私を傷つけるためだけにおきてきたのか。
そう思い顔が引きつりそうになるが、そのまえに彼は再度口を開いた。
「だが、だからといって、いくら君が嫌いだからといって、親切にしてくれた相手にあんなことを言っていいわけがない」
そこまで聞いて、ようやく彼が何をしにここに来たのか見当がついた。
彼の顔が険しくゆがむ。それを隠すように彼は深々と頭を下げた。
「すまなかった。昼間は君や君の母上に酷いことを言って傷つけてしまった。
君の母上にも、明日の朝必ず謝る。
本当に、すまなかった」
この子、優しい子なんだ。
頭を下げた彼に呆然としたまま、ぼんやりとそう思った。
彼は真面目すぎるほど真面目で、人にも他人にも厳しい人だ。でもそれと同じくらい優しい人なんだ。
断ることもできただろうに、わざわざ放課後に魔法の特訓に付き合ってくれたり、今こうして自分の非を素直に認めて謝ったり。
原作を通しての彼なら知っていたけれど、改めて、彼という人間がわかった気がした。
そして思う。
そんな彼だからこそ原作ではあんなことになってしまったんだと。
ここでは、彼にそんな最期を迎えてほしくないと、改めて強く思った。
私なんかに何が出来るかわからない。でも私が死なないことが彼の結末を変えるなら、絶対に死んでなるものかと思う。
絶対に――――あんな悲しい結末を回避させたい。
「こちらこそ、ごめんね」
頭を下げたままの彼にそう声をかければ、彼は不思議そうに顔を上げた。
それに何も答えずに、私は言う。
「あのね、私もね、椿くんのこと考えてて眠れなかったんだ。
そうしたらその椿くんが現れるんだから、すっごいびっくりした」
そう告げれば、彼の顔は不思議そうな顔からみるみるしかめっ面に変わった。
「俺は別に君の事を考えて眠れなかったわけじゃない」
ものすごく嫌そうにそう告げる彼はあまりにも素直だ。
思わず顔がひきつる。
それでもなんとか笑みを浮かべて「まあ、それはそれとして」と続けて言った。
「二人とも眠れないわけでしょ。なら提案なんだけど、眠れない者同士、その辺りを一緒に散歩に行きませんか?」
その言葉に、椿くんは訝しげな顔になった。
「今からか?」
「うん。散歩って言っても敷地内の庭でこの辺を歩くだけで、遠くには行けないけど。
どうせ眠れないんなら、昼間できなかったことをしたいなって」
昼間は椿くんと何して遊べばいいか全然わからなくて何もできなかったし、花壇だって紹介するといって何も紹介できていない。
さすがに長時間抜け出すとお手伝いさんに気づかれて怒られるだろうけど、少しの間なら。
そう言うと椿くんは少し考え込むように顔を伏せた。
そしてちらりと視線を空に向ける。
「まあ、大丈夫か」
独り言のようにぽつりとそう呟いた椿は私に視線を戻して一つ頷いた。
「わかった。いいだろう」
よくよく考えてみるとこのとき私はかなり浮かれていたのだろうと思う。
椿くんに一歩近づけたようで、仲直りができたようで。
そんな椿くんと夜の庭を見られたらどれだけ素敵なことだろうと。
だから私は軽はずみにも、椿くんと庭へ出てしまったのだ。




