椿の世界
結局その後、椿くんを見つけたのは佳月だった。
日もくれかけたころになって、二人は帰ってきた。
一人はやけにいい笑顔で、もう一人はやけに仏頂面で。
何かあったのは明白であったが、聞く勇気はさすがになかったのでそっとしておくことにする。
椿くんが帰ってくるまで、私はなんと声をかけようかと散々悩んだが、それは無駄骨に終わった。
声をかける以前に、帰ってきた椿くんは、決して私に近づこうとしなかったのである。
彼は――――帰ってから一度も私の顔を見ることはなかった。
そうして、何とも気まずい中、夜の帳はおり、一宮家と如月家で晩餐会が行われた。
正直これ以上ない胃の痛くなる組み合わせでの食事であったが、意外なことにこれといって何かあるわけでもなくいたって平凡にそれは終わった。
ただただ、寡黙な如月父子に、我が父が一人にこやかに話題を提供している様子が印象的だっただけで、晩餐会は穏やかにすぎていった。
精神的にはちっとも穏やかなものではなかったけれど。
夕食後、椿くんは早々に部屋を退出し自室に戻り、私も自分の部屋に戻った。
そうして私は――――夢をみた。
久しぶりの夢だ。
「桜の檻」の、如月椿の夢。
如月椿は、如月家であまりよく思われていなかった。
檻人のどの一族においても、後継者争いは熾烈を極める。
何せ檻人に選ばれれば当主という地位を与えられるうえ、檻人の家族もまた一族内で大きな力を所有することになるのだから。
ゆえに継承者候補の取り決めは常にデリケートな問題であり、一族の上層部が継承者候補の中からより血が濃く、魔力を多くもった人材を厳選していた。
これまでもそれはつつがなく執り行われ、それは一族内の常識だった。
だが、ある代において事件が起こる。
椿の母、如月結は、一族の許可なく、独断で椿に檻人の継承を行ったのだ。
継承者候補として挙げられない、当時5歳だった椿に。
継承はそう何度もできるものではなかった。儀式を補佐する術者、檻人自身にも相当な負荷がかかるなど、継承の儀式は極めて危険の多いものだった。上層部は継承後すぐにまた継承の儀式を行うことはリスクが高いと判断。時間をおいてまた改めて別の人間に継承をやり直すかとなったが、椿は幼いものの檻人の役目を果たすだけの十分な魔力があり、封印も安定していた。上層部は再び危険な継承の儀式をするぐらいなら、特に問題もない椿をそのまま檻人とするほうが安全だと考えたのだろう。こうして異例ではあるが檻人の務めは、まだ5歳である椿が受け継ぐこととなった。
この取り決めに一族の人間は激怒した。
皆口々にこう漏らした。
「全ては椿の父、如月仁の企てた計画だ」と。
如月仁が如月家の実権を握るために企てたのだという噂は一族中に広まった。
禁を犯し檻人となった椿は、一族から嫌われ、疎まれた。
檻人ということもあり直接的になにか危害を加えられるということはなかったが、それでも、その待遇は当時5歳の椿にはあまりにも残酷なものだった。
唯一の肉親である父は典型的な仕事人間であり、椿を省みなかった。
否、たとえ己を気にかけてくれたとしても、椿は彼に頼るつもりは毛頭なかっただろう。
椿は父が嫌いだった。
そして母も嫌いだった。
自分に背負いたくもなかった業を背負わせた彼らが憎かった。
そんな人間に頼ろうなど誰が思おうか。
自分がこんな目にあったのは、父と、そして母のせいなのだから。
だから椿は、一人でも強くあれる力がほしかった。
両親も、一族もいらない。
ただ一人でも立てる強さを、椿は強く望んだ。
誰よりも。何よりも。強く。
そんな椿の前に現れたのが、凛という一人の少女だった。
凛はその境遇ゆえに周りの人間に心を閉ざし牙を向けていた椿の頬をひっぱたいて言うのだ。
――――いつまでもうじうじ強がってんじゃないわよ! 怖いならね、私があなたのことを守ってあげる!
憧れた。
その強い言葉に、意思に、瞳に。
凛とかかわるうちに、椿は強さとは何であるかに気づいていった。
疎まれ、蔑まれて生きてきた椿にとって、彼女の強さは光だった。
一族という狭い視界は広がり、椿の世界は色づいて、輝いてみせた。
凛の強さに、椿は救われた。
凛のような人になりたいと思った。
いつか、今はまだ無理でも、いつかは、自分も強くなって、凛の隣に並べたらと。そして。
椿は凛に生まれてはじめての気持ちを抱いた。
だが、凜は14才の誕生日前日に、謎の死を遂げる。
凛の死の知らせはあまりにも唐突に、けれどあっさりと告げられた。
凛が、死んだ。
あの誰よりも強かった凛が、どうして。
椿は世界に、絶望し――――そして世界を恨んだ。
だが、椿よりも誰よりも絶望し、世界を憎んでいる人間が居た。
彼、佳月は――――凛の従者であり、また椿の友人でもあった。
彼は暗くよどんだ瞳で椿に告げる。
「復讐しよう。彼女のために世界を壊そう。こんな世界はいらない」と。
椿に断る理由はなかった。
佳月の目的は、凛を殺したすべてのものへの復讐。それは彼女の死の原因への復讐であり、彼女を殺した世界への復讐でもあった。
佳月は頭のよい子どもだった。
一番効率的に全てへ復讐できる術を知っていた。
佳月は言った。
「簡単な話だよ。龍をこの世に甦らせる。それで全てが終わる」と。
手始めに、佳月は代々龍を封じた剣を守っている巫女の家族を殺した。
そして彼らの秘宝、龍の剣を奪う。
椿は知らなかったが、その剣で檻人の体を貫き、一定量の血を吸わせることで、剣の中に封じられた龍が復活するのだという。
佳月は巫女の一族の血で染め上がった大地の上で嗤った。
これでようやく舞台は整った。もっとも殺したかった人を殺せると。
佳月は最初に、奪った剣で一宮の当主であり凛の父だった男を殺した。
椿が16歳になった春、椿と佳月は巫女の一族に生き残りがいたことを知った。
彼女は椿が入学する予定の高校に進学してくるという。
佳月はまだ彼女を殺すつもりはないようだった。
彼女は利用価値があると、佳月は椿に告げた。
彼女に近づき、そして仲のいいふりをして利用しろと。
そうして椿は、桜の咲き乱れる月ヶ岡学園で――――彼女に出会った。
そしてその彼女こそが、物語「桜の檻」における主人公の少女だった。
彼女は檻人も、己の一族の役割すらも知らない無知な少女だった。
彼女は、数年前に両親が殺され、その両親が自分に残した手紙にあった人を頼ってこの学園にきたのだという。
そしてまた――――己の両親が殺された理由を探し、彼らを殺した犯人、金色の目を持つ男を見つけ出すという秘めた目的も抱えていた。
椿は佳月に言われたとおり、自然に彼女に近づき、そして仲良くなった。
彼女は警戒心の強い人ではなくて、案外あっさり仲良くなることができた。
彼女は無邪気で、明るく、けれどどこか気の強い女の子だった。
そんな彼女に惹かれて、いろいろな人間が彼女の周りに集まった。
椿はそんな彼女の一番近くで、彼女の友人として同じときをすごした。
彼女とかかわる中で、椿の心にも変化が訪れる。
彼女は底抜けに明るく、優しく、そして強い人だった。
いつのまにか椿は、彼女のそばに居心地の良さを感じるようになった。
そして――――時が過ぎ、彼女は檻人とかかわるようになる。
檻人とかかわるのと同時に、檻人を狙う佳月とも遭遇することになった。
檻人との出会いを通して、彼女は両親が殺された真実を知った。
そして己が何であるのかを知り、己の使命を悟った。
彼女は巫女として、龍を復活させないために檻人を守り、そして――――両親の敵である金色の瞳を持つ男、佳月を倒すことを誓った。
椿は友人の顔をして、ずっと彼女のそばにいた。
彼女が危ないときは助け、彼女を支えた。
彼女は何度も悩み、傷つき、苦しみながらも、檻人を狙う佳月に立ち向かった。
彼女は逃げず、あきらめなかった。
そんな彼女の強さを、椿は誰よりも近くで見ていた。
彼女は――――まるでかつて椿が憧れた凛のようだった。
そう思ったとき、椿はようやく気づく。
椿はいつのまにか、椿は彼女と凛を重ねて見ていた。
そしてついに、椿の正体を彼女が知るときがくる。
利用するつもりで近づいたのだから、そのときが来ることは必然だった。
迷いも後悔もない。
彼女の非難も怒りも全て受け入れる覚悟があった。
だが。
――――それでも、私はずっと私のそばにいてくれた椿を信じるよ。
そういって彼女はにかっと、場違いにも底抜けに明るい笑みを見せた。
彼女は、真実を知っても椿を信じた。
椿が佳月の側に立ってなお、気丈にもまっすぐな彼女の瞳が、椿の瞳を射抜く。
その瞳は、少しも揺らいだりなどしなかった。
その瞳を、椿は以前も目にしたことがあった。
もう何年も前。椿が初めて凛に出会ったとき。
――――怖いならね、私があなたを守ってあげる!
そうガキ大将のようににかっと笑った凛と、それは同じ瞳をしていた。
そこで初めて、椿の心が揺らいだ。
ただまっすぐに己を信じる彼女の強さがまぶしかった。
椿はもう気づいている。こんな復讐に意味はないこと。
こんなものは、残された側のただの自己満足でしかないこと。
それは彼女のすごす日々の中で気づかされたことだった。
けれどそれでも、椿は彼女のそばに立つことはできない。
椿には、この世界の全ての苦しみを抱えたような、暗い瞳をした友人を裏切り、放っていくことはできなかった。
だから
椿を見つめる彼女に、佳月が暗い笑みを浮かべて近づく。
それは一瞬だった。
無慈悲に佳月の刃が、彼女へと振り下ろされる。
息のつく間もなかった。
だが、そのときにはもう椿に迷いはなかった。
もう、あの子を失えない。
椿は、かつて己の愛した少女のために、彼女の前に飛び出た。
少女の悲鳴と、少女の仲間たちの戸惑いの声。
続く少女の泣き声。
ああ、これでよかったのだと、じんじんと熱を放つ胸元に手を当ててそう思った。
椿は佳月を裏切れない。けれど同時に彼女を失うこともできない。
だからこれでいい。
彼女を守り、そして――――己を剣で貫いたことにより、時期に龍の封印がとける。佳月の望みは果たされるだろう。
眼前には、出会ってはじめてみる彼女の泣き顔があった。
ああ、彼女も泣くのだな、とぼんやり思う。
あの子も、あの強かった凛も、自分が知らないだけで、本当はどこかで泣いていたのだろうか。
椿の心には妙な安堵感があった。
数年前、守ることができなかったあの少女を、ようやく守ることができたような気がした。
ただ唯一気がかりなのは、もう一人の大切な友人を一人残していくことだけ。
視界は薄れ、もう彼の表情を見ることはできない。
椿には彼の復讐を止めることはできないが、でもどうか。
どうか、願わくば、彼もまたあのまぶしい少女に救われてくれたならと。
こうして椿の生涯は幕を下ろすのだ。




