如月家の事情
私はまだ椿くんとの距離感をつかみきれて居ない。
それは、幾度か補修を通して彼と関わるようになっても相変わらずだった。
仲良くしたいとは思うがどう仲良くしたらいいのかわからないし、向こうがこちらを嫌っているのに無理やり仲良くする必要はあるのだろうかとも思う。
徐々に仲良くなっていけばいい。それが無理なら遠くから何かしらの形で彼を助けられたら。
ついついそう弱腰で考えていた。
けれど、こうして仲良くなれるかもしれないチャンスがあるならそれを見てみぬふりしたくはなかった。
正直まだ彼との関わり方はわからない。
だがわからないからといって逃げたくはない。
だってそれじゃ、今までの私と何も変わっていないことになる。
とにかく、何でも努力してみること。
それが私なりの前進なのだから。
そういう決心のもと、私はやはりまったく乗り気ではない椿くんの手を半ば無理矢理取って歩き出した。
ここまで人に強くでられたことに我ながら感動する。
まあ、無理やりつかんだおかげで大変お怒りのご様子で「ふざけるな離せ花なんぞ嫌いだ」と喚く椿くんが恐ろしくて振り返ることはできないのであるが。
椿くんをなんとか宥め賺しつつ、広大な庭を少し歩くと、すぐにこじんまりとした私と私の母の花壇が見えてきた。
この時期は夏の花が数種植えられていて、近づくにつれて特にラベンダーの濃い香りが鼻腔をくすぐる。
私はそれだけで椿くんによって凍え固まっていた気持ちが癒された気持ちになった。
「あれ、お母様?」
花壇まで近づいて、私は足を止めた。
「あら、凜」
花壇には既に先客が居た。
つばの大きな白い帽子を被った母が、ホースを片手に立っていた。
どうやら水やりをしていたらしい。
母は突然の私の登場に、「どうしたの」と驚いたようにこちらを振り返ったが、私と後ろの椿くんと佳月を見やると、納得したようににこりと笑った。
「仲がいいのね」
そう言われて、思い出したように椿くんは慌てて私に掴まれたままだった手を振り払った。
そういえば彼の手を掴んだままだったことを思い出す。
というか、強引に引っ張ってきたのは確かに悪かったが何もそこまで嫌がらなくても。
花を見に来たのだというと、母は水遣りを一旦やめて横に退けてくれた。
母が水をやっていたあたりには、ちょうど向日葵が咲いていた。
水遣りをしたばかりで、水滴がまだ残った花びらが太陽の光に当たってきらきらと輝いている。
それを見ながら、さて椿くんになんと話しかけたものかと思案していれば、先に母と椿くんの会話が始まった。
「久しぶりね椿くん。入学式以来かしら?」
私は、二人の会話を横目でちらりと見やる。
彼の視線にあわせてしゃがみこんだ母は、柔らかな声でそう彼に尋ねた。
「はい。お久しぶりです。本日はお招きいただきありがとうございました」
椿くんは母の問いに礼儀正しくそう言うと、母へこれまた礼儀正しく頭を下げてみせる。
私への態度との差に思わず顔がひきつるが、母のおかげでなんとか会話が生まれたことにほっとした。
さすがに母の手前、椿くんは先ほどまであたりに撒き散らしていた不機嫌な空気をしまってくれているし、やりやすい。
「仁さんはお元気? 私はまだお会いしていないのだけれど……」
「はい。変わりなく」
椿くんと母の会話に耳をそばててていて気づいたが、椿くんの母への受け答えは、なんというか子どもらしさの欠片もない。
普段の私への態度は辛辣というかとにかく口が悪いが、だがまだそのほうが子どもらしさは残っているなと感じる。
いや、でもそもそも子どもらしくないのは椿くんだけでないか。
今、感情の読めない笑みを浮かべて私たちを静観している、一番子どもらしくない人代表みたいな人が私の傍にいたことを思い出す。
まあ彼らの場合、育った環境が環境なのでそうならざるをえなかったといったらそうなんだけど。
だがそれに比べて私は精神年齢で言えばもう大人だというのに、喋り方は相変わらずつたないのが情けない。
「色々話しちゃってごめんなさいね。お花を見に来たんだったわよね」
そう自己嫌悪に陥っていれば、椿くんとの会話に一段落ついたらしい母が思い出したようにそう言った。
「椿くんは、お花はお好きかしら?」
「え、いえ……まあ、嫌いでは、ないですが」
嘘をつけさっきまで花なんぞ嫌いだとかなんとか散々わめいていたじゃないか。
そう言ってやろうかと思ったが、母の手前やめておく。
これ以上椿くんに嫌われても困る。
母の問いに椿くんが困ったように笑うと、それを見ていた母は「なんだか懐かしいわね」と何かを思い出すように目を細めて言った。
「あなたのお母様もね、花が好きだったのよ。あなたに花の名前をつけるくらいにはね」
そう言われて驚いたのは私だった。
「え、あの、椿くんのお母様と知り合いなんですか?」
それは初耳である。
父親同士が仲がいいことは知っていたが母親同士の交流もあったとは。
でも父親同士が仲がいいなら必然的に母親同士会う機会もあったのだろうか。
「仲良くしていただいたのよ。当主というお立場だったのだけれどとても気さくな方で」
「へえ。そうなんですか」
「私も花を育てることを趣味にしているけれど、あの方のほうが私よりもずっとお上手にお花を育てられていてね。特にツバキを好んでいらして、如月の家ではそれは美しいツバキ園があったのよ」
そういって目を伏せた母は酷く懐かしく、どこか寂しげでもあった。
友達、だったんだろうか。
母の交友関係について私はよく知らないが、そうか椿くんのお母さんと。
「あなたたちが生まれる前には、春先によく―――椿くん?」
そんな母の話しに気をとられていると、母が不意に何かに気づいたように言葉を止め椿くんを見た。
そこで、私もようやく椿くんの異変に気づいた。
不自然に黙り込んだ椿くんは俯いたまま、何かに堪えるようにこぶしを強く握り締めていた。
どうしたの、と心配した母が彼に手を伸ばす。しかし。
ぱしん、と勢いよく母の手ははじかれた。
母が驚いて目を見開く。
手をはじいた本人である椿くんは、母を鋭くにらみつけた。
「触るな」
赤い瞳が怒りを孕んで揺らめいた。
鋭くとがって母をその場に縫い付ける。
「花なんて育てるとは、一宮は随分と暇であるとみえる。夫人も揃ってとは、とんだ腑抜けた連中の集まりだな」
口元に嘲笑を浮かべ、蔑むようにそういった椿くんは、ついで私を睨んで言った。
「君も、そんな暇があるなら君は己の魔法を磨く努力でもしたらどうだ。
檻人の継承者候補筆頭でありながら石を割るという初歩の初歩すらできていない己が恥ずかしくはないのか。愚図は愚図なりに少しは――――」
そこまで不自然なほどに早口に言葉を並べ立てて、だがそこで椿くんははっとしたように口をつぐんだ。
呆然としている母と私を見比べて、何か言いたげに口を開く。
だが結局何も言うことはなく、
「失礼する」
と、ただそれだけを早口で言うと、踵を返してその場から走り出した。
思わずぽかん、とその場に固まってしまう。
突然の彼の豹変に驚きをかくせない。
私にならまだわかるが、母にまで――――
と、そこでようやく彼が何に怒ったのか気づいた。
と同時に自分の無神経さにほとほとあきれ返る。
そうだ。どうして私は彼の前で彼の母親の話なんてしてしまったんだ。
己の失態に気づいた私は、いまだ驚いている母への挨拶もそこそこに、佳月と手分けをして椿くんを探しに走り出した。
彼はこの屋敷に来たのは初めてのはずだ。
このだだっ広い屋敷を一人で歩くなんて迷子になっていなければいいけれど。
それに。
脳裏に苛立ったように揺らぐ赤の瞳が思い出された。
彼にとって「母親」の話は地雷だ。
にもかかわらずそんなの忘れて間抜けに母の話に聞き入っているなんて、私は救いようのない馬鹿である。
とにかく早く彼を見つけ出して謝って――――
謝る。
そこで私の思考が急激に冷える。
とにかく追いかけないとと思って探し始めたのはいい。
だが、行って謝るって、私はいったい何に謝るというのだろう。
無神経にお母さんの話をしてごめんね?
そんな言葉が彼になんの意味をもたらすというのか。
むしろあの矜持の高い彼にそんなこといえば、余計に彼は怒るにちがいない。
じゃあ、何て言えばいい。
佳月のときもそうだった。
中途半端な前世の知識が私の行動を縛っている。
それならいっそ前世の記憶なんてなかったほうがよかったと思う。
だって私は、彼が『何に』よって救われるのかという正解を知ってしまっているのだ。
何分か歩き回ったところで、私は足を止めた。
考えながら歩いていたためか、気づけば庭の奥――――父の部屋の付近にまで来てしまったようだった。
今は仁さんと会っているはずだからないとは思うが、この状態で万が一にでも父に鉢合わせたくはなかった。
とにかくここらにはいないようだし、別のところを探しに行こう。
そう思ったときだった。
「どうかされたか」
「え――――」
不意にかかった声に、私の体が跳ねた。
まさか父に見つかったのか。
だがそれにしては声のトーンが低い。
あわてて声のほうに振り向く。
そして更に体が跳ねた。
父の私室近くの縁側に、家の柱にもたれかかるようにして、黒いスーツに身を包んだほっそりとした中年の男性が立っていた。
黒い短髪に堀の深い引き締まった顔には隙のない怜悧な表情が浮かべられているが、どこか疲れが滲んでいるようにもみえる。
そして、その男性の容姿で何よりも目を引くのは、瞳。
赤い瞳。
椿くんとは異なりどこか鋭さをはらんだその瞳の持ち主は。
「ひ、仁、さま」
私の知る中では椿くんの父――――如月仁のほか該当する者はいなかった。
突然の登場に思わず息をつめてかの人を見つめる。
仁さんはそんな私をじっと見つめてから、周囲に目をやった。
「お一人か」
低く重みのある声が鼓膜を揺らす。
父とはまるで異なる雰囲気だが、父と似たようなプレッシャーをかんじた。
ごくりとつばを飲み込んで、恐る恐る口を開く。
「あの、どうしてここに。お、お父様は……?」
「君の父君は自室におられる。
私は少し外の空気を吸いたくてな」
「奴との会話はなかなか気がめいる」と疲れたように仁さんはふうっと息を吐き出した。
こんな怖い人を疲れさせるなんてさすがお父様というかなんというか。
「それで、椿が何かご迷惑でもおかけしたか」
椿くんと同じ赤い瞳が、無感情の色を湛えてこちらへ向けられた。
それに背筋が凍る。
癖で逃げ出してしまいそうになるが、すんでのところでグッと堪えた。
そして仁さんの質問に、脳裏に再び先ほどの椿くんの様子が浮かぶ。
「えっと……」
じっとこちらを見る仁さんの視線に、少し考えて、もう一度口を開いた。
「じ、実は今、隠れんぼをしていて…」
そうして口から出たのは嘘の言葉だった。
彼に先ほどの椿くんの様子を言うのは何故か憚られたのだ。
椿くんはさっきの椿くんを父親には知られたくないのではないかと。
少々どもりながらもなんとか無邪気に笑うよう努めながらそう言うと、仁さんはそうか、と考えるように顔を伏せた。
「…そうか、あいつが」
あ−−−−
その瞬間仁さんの纏う雰囲気がふっと変わった。
それに食い入るように彼を見つめるが、だがそれも一瞬で、すぐに鋭い瞳に射抜かれて再び背筋がぴんと伸びる。
「椿と遊んでくれてありがとう。
これからもよくしてやってくれ」
それだけ言うと、仁さんは私から視線をそらして去っていった。
彼が立ち去り、私は気の抜けたようにその場にしゃがみこんでしまう。
緊張した。
挨拶だけで終わると思っていたのでまさか話すことになるとは。
ふと、原作における彼を思い出す。
――――彼、如月仁は、私の知る原作どおりであるならば現在の如月の家の事実上の当主であった。
通常当主の役目は檻人が継ぐと決まっているのだが、成人前に檻人の役割を前任者から引き継いだ場合、当主の役割は檻人が成人するまでは前任者に残る。
ゆえに現在の檻人は椿くんであるのだが、当主権は彼にはなかった。
そして、本来ならばその権利は前任者にあるはずなのだが――――現在、当主権は彼の父、仁さんにあった。
だが、彼は前任の檻人ではない。
では何故、本来ならば前任の檻人ににあるはずが仁さんにあるのか――――
それは、彼の前任の檻人である椿くんの母親、如月 結はもうこの世には居ないからだ。
彼女は、一族の禁を破り、まだ10に満たない幼い継承者候補であった椿くんに檻人の継承を無理やり行い、力尽きて死んでしまったのだ。
また、あの怒りを孕んだ椿くんの瞳を思い出す。
椿くんは、両親を憎んでいた。
一族の禁を破り10に満たぬ年で檻人を継承させた母を。
そして――――一族の当主の実権を握るためにわざとそれをやらせたと噂されている父を。