不確かな予感
その後数時間、私はみっちりと椿くんから魔法の使い方を仕込まれたのだった。
帰ることを許されたのは日もすっかり暮れた頃になってからで、私は門の前で待たせていた車に乗り込んで、へとへとになった体を引きずりながら漸く家路についた。
「ただいま戻りました……」
運転手に謝罪とお礼を言って、屋敷へと戻る。
体は酷く重い。今までにないほど疲れている感じだった。
遅い帰宅を心配する屋敷の人たちに返事をしながらとぼとぼと自室に向かう。
部屋の扉を閉めたところで私は大きくため息をついた。
「まさかあれほどスパルタ教育だとは……」
疲れに引きずられるように畳の上に座り込みながら、私は一人呟く。
ほんの数十分前の彼との特訓を思い出して、げんなりしてしまった。
椿くんの指導は、想像以上に厳しいものだった。
弱音なんて吐こうものなら、その吐いた分の倍「いかに私が駄目なのか」について延々と語られ、失敗するとこれみよがしにため息をつかれる。
椿くんが私を嫌いだとか、私の出来が悪すぎるせいもあったりするのだろうけれども、でもそれを差し引いたって中々に彼の指導はスパルタだったと思う。
とどめに、「できないのは君の努力不足だ」とあの冷たい瞳で見下ろされたときにはもう堪らない。泣かなかった自分を褒めてやりたいぐらいだった。
確かに彼の言うことは正しいのだけれども、私のぺらぺらのメンタルでは中々に辛いものだった。
特訓に付き合ってくれるのはすごくありがたいのだが、おまけの精神攻撃は本当に勘弁してもらいたい。
再び深いため息をつきながら、ふと、そういえば原作の彼も、あんな感じだったな、と思い出す。
真面目で堅物、そして人にも自分にも厳しい人、というのが原作を読んで感じた彼の印象だった。
実際に今日一緒にいて、まさに彼は原作そのとおりの性格だったなと思う。
あれで彼が他人にだけ厳しいのであれば彼はただの酷い人で終わるのだが、彼は自分にも厳しい人、いや、どちらかというと自分に一番厳しい人だった。
だからこそ、彼の言動に落ち込みこそすれ、文句を言ったり嫌ったりはできないのだ。だって、彼が私に課したものの倍以上のものを、彼はいつも自分に課していると思うから。
まあ最も、原作の凜と会話をするときはもっと棘が取れて、私に対する対応とは比べ物にならないぐらいに優しい感じだったが。
如月椿という人間は、「弱い人」を嫌い、「強い人」に憧れる性格だったから、色々な意味で強かった原作の凜は、彼の中で特別な存在だったのだろう。
私も彼女ぐらい強ければ、彼の対応もまた変わっていたかもしれない。
「失礼します」
そのままぼんやり座り込んでいると、不意に閉じられた障子の向こうからくぐもった声がした。
その聞き覚えのある声に、私は慌てて立ち上がる。
「どうぞ」と返事をすれば、障子は静かに音を立ててゆっくり開かれた。
「おかえりなさいませ、凜様」
障子を開けて現れたのは、やはり佳月だった。
彼は私の姿をみとめると、その場で一度頭を下げる。
「今日も1日お疲れ様でした」
柔らかい声色でそう言って、彼は静かに頭を上げた。
そして私を見て小さく微笑む。
「うん、ただいま……」
その佳月の笑みに、私は気分が少し晴れていくような気がした。
さっきまでの憂鬱な気持ちが少し緩和されたようだった。
佳月が自然に笑うようになった、と思うのは何も私の願望だけではないと思う。佳月は以前よりもずっと、作り物めいた感じがしなくなっていた。
上手くいえないのだけれども、言動も行動も、表情だって四年前に比べて、そう、人らしくなっている。
私の成長と同じように少しずつではあるが成長してきていて、それでもなおどこか線の細い感じは拭えないのだけれども、当時に比べて身長も伸び、ひょろひょろとしていた体型も、健康的な子どもの体型に近いといっていいぐらいになっていた。
私は佳月が自然に笑ったり、自分の気持ちを素直に言ってくれたりすることが本当に嬉しかった。
そんな彼も、今はまだ歳相応の学力をつけるために自宅で勉強中だが、時期編入試験を受けて学園に通う予定だ。
その時が本当に待ち遠しかった。
「今日は随分と遅いお帰りでしたね」
部屋に入ってきた佳月は、前髪が切られたことによってハッキリと現れたその瞳に、微かに心配の色を滲ませながら軽く首をかしげた。
「え? ああ、うん。まあね。色々あって……」
その言葉に、私は思わず言葉が詰まる。
色々、の部分を何と説明したものかと迷うが、どう言った所で魔法が使えなくて補習を受けていたと言わざるをえないだろう。
だがそう言うのも恥ずかしくて、何て誤魔化そうかと考えていると、佳月は不思議そうに私の顔を覗き込んできた。
「何かご不便なことでも?」
言いながら、彼の金色の瞳がグッと、間近に迫る。至近距離のそれに、私は反射的にびくりと体が跳ね上がった。
見透かすようなその瞳の前で、私は慌ててで手を振って否定する。
「い、いや、違うの。本当に大したことはないから、全然大丈夫」
だが彼はまだ納得していないのか再び、「本当に?」というように更に近くまで顔を覗き込んできた。
必然的に彼の瞳が目前に迫ってくる。
「ほ、本当! 本当です!」
「だから離れて!」とあまりの近さに私は半ば叫ぶようにそう言って、佳月の肩を押した。
あまり力は入れなかったが、佳月は思いのほか簡単に私から離れた。
そして離れた佳月からはくすくすと笑い声が漏れてきた。
「あなたは本当に俺の目に弱いですね」
おかしそうにそう言われて、私は顔に熱が走るのがわかった。
「わ、わざとやったでしょ!」
「はい、もちろん」
すぐに佳月を睨みつけるが、彼はまるで堪えていないように笑って頷いた。
からかうような雰囲気に、私はまた顔が熱くなるのを感じる。
「そ、そんなに綺麗な瞳が至近距離にきたら、誰だってドキドキするよ」
言い訳するようにそう言うと、佳月は「そうですかね」とまた楽しそうに笑った。
彼が楽しそうにしているのは嬉しいが、楽しそうにしている要因がいただけない。
尚も笑う佳月に「もう笑わないでよ!」と言ってようやく、彼は「すみません」とその笑みをしまった。
「まったく……」
収まった笑い声に、私は漸く息をつく。
感情が豊かになったのは良いことだけれど、最近どうにも彼は意地が悪い。
「もう着替えるから、外に出ていて」
笑いは収まったものの、まだどこか面白そうに光る彼の瞳から逃れるように私はそう言った。
彼はすぐに「かしこまりました」と言ってまた私に頭を下げる。
そのまますぐに退出するかと思いきや、彼は「一つだけ」と下げていた頭を上げて言った。
「まだからかう気なの?」
「いいえ。そうではなくて、真面目な話です」
「真面目な話」と言った彼の顔を見れば、彼は少し神妙そうな顔つきをしていた。
そこには先ほどまでの雰囲気はない。
首を傾げれば、彼は真剣みを帯びた声で言った。
「わかっていらっしゃるとは思いますが、今はあなたにとって大切な時期です。冗談ではなく、本当に何か問題があれば、すぐに知らせてください」
その言葉に、私は固まる。
そして続く「あなたはもう10歳になってしまわれたのだから」という言葉に、スッと頭の冷える思いがした。
『10歳になってしまった』
真剣さの中にどこか心配を滲ませたその瞳を見つめながら、私はその言葉を飲み込む。
先ほどとは違う意味で、心臓がざわついていた。
それをなんとか隠して、私は出来るだけ平気そうな顔で彼に頷いてみせる。
「うん。大丈夫。わかってるよ。出来るだけ一人にならないようにはしているから」
明るい口調でそう言ってみたが、佳月はまだどこか心配そうだった。
10歳という歳は節目となる歳だ。それはこの世界の人間全てに共通する事項といえる。
だがそれは私にとっては他の子どもにとってのそれとはまた違う意味で重要な歳だといえた。
いや、私にとってというよりもそれは、一宮、ひいては檻人の一族全体にとっても重要なものであるといえる。
というのも、一族の人間は、10歳になり、魔力が安定するのに合わせて――――檻人を継承する権利を得るのだ。
檻人の役割は、魔力が衰え始めるといわれる50歳になるまでに、10歳以上の子どもの中から次代の檻人としてふさわしい人物に継承されるという決まりごとがあった。
一体誰が継承者を決めるのか、というとさすがにそこまではわからないのだが、父を含めた一族の中でも力を持った人たちによって、だと思われる。
10歳になった私は、もういつでも檻人として指名されてもおかしくない状態だといえた。
ここ数年は、特に大きなトラブルはなかった。
あの夜のような――――誰かに殺されるというようなことも、全く無い。
だが10歳になるとそうはいかないだろう。
私が檻人になることを望まない誰かが、きっと何かしらをしかけてくる。
それがいつなのかはわからないし、直接的に私の死と結びつくものなのかもわからないが、用心するにこしたことはなかった。
原作で私が死ぬ年齢まで、刻一刻と時間は迫ってきている。
一体誰が殺すのか。父だと断言するにはあれから色々ありすぎた。
やはり一度、父と話をしなければならないな、と考えにふけっていると、目前に居た佳月から「後もう一つだけ」と再び声をかけられた。
「今日の午後、当主様からご連絡があったそうです」
「お父様から?」
まさに今父のことを考えていただけに、驚いて佳月を見ると、佳月は「はい」と頷く。
「何でも、来週末に一度、家に戻られるそうですよ」
「来週末……」
タイミングがいいのか悪いのか。
だがどちらにせよ、それは随分と久しぶりの帰宅である。
「それでは」と言って部屋から退室していく佳月の姿を見ながら、私は知らず詰めていた息を吐き出した。
何かが起こりそうな、そんな予感がする。
その予感が嫌な予感なのかどうかはわからないが、父に会えるのが楽しみとはやはり思えそうにはなかった。