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彼女の笑み

日記を、また書けなくなった。


日記に向かい合うと、どす黒い感情が体中を駆け巡った。

彼女の日記を読むことも億劫になった。

もう何回も、日記を渡されても一度も開かずに返すということを続けていた。


その交換日記は、自分でも制御できないような感情を溢れ出させるものだった。

今書いたら、どんなことを書いてしまうかわからない。

やっぱり自分には、交換日記なんてものは不向きなものだったのだ。



――――もう、やめてしまおう。

白紙のまま彼女に渡して何度目かのある日。

ふとそう思い立った。


不毛だと思った。

これ以上はもう無理だとも思った。

自分で自分をどうしようもなかった。

自分は自分で想像していた以上に扱いにくい人間だった。




「交換日記を、もう止めにしたいのです」


廊下で出会った彼女に、俺はそう告げた。

声に出して言った言葉が、何だか緊張しているのが自分でおかしかった。

彼女は俺に渡すためだろう日記を手に持ったまま、驚いたように目を見開いた。


「え、えっと……なんで、そんな急に」


彼女の声からも動揺しているのが伺えた。

俺は彼女から視線をそらすように頭を下げて言う。


「申し訳ありません。しかし、ずっと考えていたことなのです」

「べ、別に書くのが難しいなら、また白紙でもいいよ!

それで、書けるときにまた書いてくれたらいいんだし!

だから」

「いいえ」


彼女の言葉を遮る。


「俺はもう、あなたの日記を読みたくない」


自分の声は思いのほか辺りに響いた。

彼女のほうを見られないまま視線を足元にやっていると、彼女はどこか呆然としたような声で言った。


「よ、読みたくないって……そ、そんなに不愉快なこと書いちゃってたのかな。

い、言ってくれれば直すから」

「そういう話ではないんです」

「え……」

「俺は、あなたのように強くはないから……。あなたの日記を読むと、自分の弱いところがさらけ出されるようで、正直、もう耐えられない」


声が微かに震える。

自分がこんなにも感情的な人間だとは思わなかった。

そしてそのことは、気づかなくてもいい事実だった。


初め交換日記を書けなかった時点で、諦めるべきだったのだ。

あの時点でもうわかっていたはずだ。

自分は彼女のようには書けない。

彼女と俺は違う。

どれだけ人と関わることが苦手で、挙動不審でも、彼女は自分にはとても生きられない世界で、前を向いて生きていける人だ。

俺とは違って、とても強い人なのだ。


調子に乗って続けるべきではなかった。

思い知らされる前に、やめるべきだった。

そうしたら、こんな制御できないような強い感情を抱かずにすんだのだ。


「そ、それは嘘だよ」


僅かな沈黙の後で、彼女の驚いたような声が響いた。

思わず顔を上げる。

彼女はびっくりしたような顔をしていた。


「私が強いとか、それは買いかぶりすぎと言うか、過大評価と言うか」

「それこそ嘘だ。少なくともあなたは、俺よりずっと強い」


彼女の言葉をまた遮るように反論する。

彼女は俺の言葉にうっと言葉を詰まらせた。

また沈黙が生まれる。


とにかく、もう交換日記をしない旨は伝えられたのだから、もう彼女の前から立ち去ってもいいだろうか。

今は正直な話、彼女と話すのも億劫な状態だった。

そう思って部屋に戻ると彼女に伝えようとしたが、その前に、先に彼女が口を開いた。


「は、恥を忍んで言うんだけど」


開きかけた口を閉じて彼女を見る。

彼女は眉間にしわを寄せて、何か考えるような表情だった。


「何でしょうか」


今更無礼も何もあったものじゃないが、さすがに話の途中で退出するのは憚られた。

ならば早急に話を終わらせてもらおうと言葉を返すと、彼女はまた少し考えるように黙った後で、やがて重々しくその口を開いた。


「実は私、友達がいないんだ」


それは酷く深刻そうな口調だった。



「……はあ」


予想していなかった言葉に、間の抜けた返事を返してしまう。

彼女はふざけているのだろうか。

しかし彼女の雰囲気にはふざけているような様子は微塵もなかった。

いっそ何かフォローの言葉でもかけたほうがいいのだろうかとさえ思う。


「いや、今まで一度もいなかったってわけじゃないんだよ?

昔は普通にいたというか、ここ最近いなくなったというか……」


彼女の言葉は、何を言っているのかいまいちわからなかった。

自分でもそれがわかったのだろう。

「ちょっと待ってね」と言うと、彼女は俺から視線をそらして言いたいことをまとめるように黙り込んだ。

そしてやや間をおいてから彼女はまた言った。


「あのね、前に日記にも書いたと思うんだけど、私ずっと引き篭もってばかりの生活を送っていたの。だから誰かに話しかけたりとか、友達を作ったりっていうのにブランクがあってね、やり方を忘れちゃってて……」


間をおいたわりに、彼女の言葉はやはり要領を得なかった。

彼女は想像以上に口下手なようだった。

思わず眉間にしわを寄せるが、彼女はそれに気づいた様子もなくまた話を続ける。


「だからなのか、最近よく思うんだ。

人と話すっていうのは、例えばそれが、親とか友達とか身近な人だった場合、やっぱり、心を開いて話すじゃない。それって、すごく勇気のいることなんだなって」


視線を足元に固定させたまま、彼女は直立不動でそう言った。

言葉を探すように時々詰まりながらも言葉をつむぐ彼女を黙って見る。

彼女は何を言いたいのだろうか。


「心を開くっていうことは、自分を相手の前に曝すってことでしょう。でもそれって色んな不安が付いて回ってくるの。

相手に誤解されてしまうかもしれない。ううん。誤解じゃなくて、相手からみた自分は本当に嫌な奴なのかもしれない。そう思うと足が竦んで、結局話しかけられなかったりとか、話しかけても上手く喋れなかったりとかして。

自分が一言足りないばっかりに、本当に伝えたかったことが伝えられなかったりとか、言うタイミングを逃して、後から後悔したりとかもして」


彼女は俯いたまま苦く笑った。


「人に自分のことを伝えたり、相手を知ったりするのは確かに楽しいことだけど、でも自分はそういう楽しいって感情よりも、まだしんどいって感情の方が多いんだ。

むしろ、楽しいって感じるのは稀かもしれない」



自嘲するように彼女がそう言うのを聞いて、ふと彼女の日記を思い出した。


『隣の人が消しゴムを忘れていました。貸そうかどうか迷って、結局授業が終わってしまいました。どうして早く貸せなかったんだろう』


『運転手さんは話すととても気さくな人。でも時々不機嫌そうでそう言うときはまだ話しかけられません。

話しかけるタイミングを掴むのがとても難しいです』



彼女の日記の節々には、確かに彼女の後悔のようなものもあった。

だがそれすらも、俺から見れば彼女を形づくる綺麗なものの一つだった。

彼女はそれをまるで汚い感情のように言うが、俺にはとてもそうは思えない。

彼女は苦笑いのまま言った。


「私は、こういう人間なんだよ。強いだなんてとんでもない。

毎日失敗ばっかりだし、人と上手く話せないし、仲良くなろうと思って考えた苦肉の策が交換日記って言う残念なものだし」


「私は強くなんてないよ」と彼女は繰り返しそう言った。

そういう彼女の声を聞きながら、段々と心が冷えていくのを感じた。

強くない、失敗ばかりだと彼女は言うが、ならばどうしてそんなに真っ直ぐに生きられるのだろうか。

彼女は俺とは違う。それが真実だ。

彼女が弱いというならば、じゃあ俺とあまりにも異なるのは何故だ。


「だけど」


そんな鬱々とした感情を遮るように、彼女は尚も言葉を続けた。


「失敗ばかりだし、嫌なことも多いけど、でもだからって、それを理由にもう立ち止まったり、逃げたりするのはもうやめにしたいの」


彼女はまるで力を振り絞るように手を強く握りこんでいた。


「私は弱い人間だし、その上人見知りで口下手で、自分でも中々長所を見つけられないんだけど、でもそのことから目をそらしてたら、どこにもいけない。

弱くていい。それをわかった上で、受け入れた上で、私はちゃんと、変わりたい。

佳月に日記を書くのはね、私にとっては自分を変えるための第一歩なの。だから」


彼女は固定していた視線をうろうろとさせ始める。

しかしやがて、以前交換日記をしようと切り出したときのように意を決したような表情をすると、俺に視線を合わせて言った。


「だから私は、まだ佳月と交換日記を続けたい」


凛、とした表情だった。

あれこれ言い返してやろうと思っていた言葉が消える。

思わず食い入るように彼女を見つめるが、しかし彼女はやがてその凜とした表情を崩した。

視線をそらして、自分の言ったことを思い出すように顔を赤く染める。


「ごめん。私何言ってるんだろう。ほんとごめん。

私が強いかどうかって話だったのに、途中から意味のわからない宣言みたいなのしちゃってごめん……でもそれも本音だし、だからえっと……」


あわあわと言い訳をしだす彼女にはもう、先ほどの凜とした姿の欠片もない。

俺は彼女のそんな様子をぼんやりとした気分で眺めていた。




彼女は、本当に強い人なのだろうか。

そんな疑問が、ポツリと頭の中に浮かぶ。




誰かと関わること。

それは日常の些細過ぎるほど些細なことで。

人によっては息をするのと同じようにできる、簡単なこと。

でも彼女にとってそれはとても難しいことで、必死になってやらなければできないこと。

そして自分にとってもそれは、難しくて、必死になってやらなければできないことだった。


彼女と俺は同じだ。

でも、まるで違う。

それは何故だろう。

彼女の方が俺より強いからだろうか。

――――いいや、それは違うのではないか。



また、彼女の日記を思い出した。


『隣の人が消しゴムを忘れていました。貸そうかどうか迷って、結局授業が終わってしまいました。どうして早く貸せなかったんだろう』


『隣の人がプリントを忘れているのに気づきました。

今度は勇気を出してプリントを一緒に見ようと誘いました。

きっと挙動不審だったけど、でも言えてよかった』



『運転手さんは話すととても気さくな人。でも時々不機嫌そうで、そういうときはまだ話しかけられません。

話しかけるタイミングを掴むのがとても難しいです』


『運転手さんが不機嫌なときに話しかけてしまいました。でも別に怒られなかった。運転手さんはお腹がすくと眉間に皺がよると教えてくれました。ホッとしました』



彼女は強い人なんだろうか。

些細なことに一生懸命になって落ち込んで喜ぶ、そんな彼女は。


いいや、違うのではないか。


気づく。

そうか、彼女は強い人なんかじゃないのか。

彼女は強いわけじゃない。

それでも自分とあまりにも違うのは、ただ彼女が――――戦っているからなのだ。



彼女と俺の違いは、強さだとか弱さだとか、そういうところではない。

ただ、彼女は俺と違って、何も諦めていないのだ。

あの日記は彼女の強さの証などではない。

彼女の戦いの証なのだ。



そう気づいて、それならば余計に、自分が酷く惨めに感じた。

彼女は強い人じゃない。だがそうであっても、自分が弱いことに変わりは無かった。

今こうして彼女の前に立っているのが、恥ずかしくてたまらなくなった。

俺にとって、生きるために何かを諦めるというのは当たり前のことだった。

諦めない強さすら、俺は持ち合わせていないのだ。

道理で彼女とは違うわけだ。



「やはり俺は、交換日記をするのに向いていないと思います」


結論は結局そこに至る。

自分が空っぽな理由がわかった。日記に何も書けない理由がわかった。

自分はきっと、生きること以外の全てを諦めてしまっていたのだ。

だから何も無い。全て手放してしまったから。

だから何も書けなかったし、書いても彼女のようにはならなかった。


「諦めないとか、そういうことを、たぶん自分はできない」


諦めない。それは口にするのは簡単だが、俺にとってはそれはたまらなく恐ろしいことだ。

諦めずしがみついて、結果何一つ、命すら残らなかったらどうすればいい。

それならば他のもの全てを諦めて、命を守っていたほうがいいのではないか。




「じゃあ、どうしてあの時手を取ってくれたの?」


その言葉に顔を上げた。

彼女は自分の言った言葉に驚いているようだった。

慌てたように付け加える。


「いや、ほら、あの時、一緒に戦おうって言ったとき、手を取ってくれたでしょう?」


俺がじっと見つめるのを恥ずかしく思ったのか、彼女はまた視線を俺から外しながら言った。


「私には、あの時どうして佳月が手を取ってくれたのはわからないけど……でも、あのままじゃいけないって思ったからなんじゃないかな」


自分の手を見つめた。

確かにあの時俺は彼女の手を取った。


だが、彼女の手を取った理由を、自分でも正確に説明することは出来ない。

しかしそれをただの気の迷いと言うにはあまりにも強い感情が、そこには伴っていたような気がする。

あの衝動のような気持ちは何だろう。

あの時俺は何を思ったんだろう。


「誰かと一緒なら、諦めずに変われるかもしれない」


顔を上げる。

彼女はこちらを見て笑っていた。


「私は、そうだったから。佳月と一緒に変わりたいって、そう思ったよ」



そうだ、あの時俺は確かに、彼女と一緒に自分を変えようと思ったのではないのか。


その事実に呆然とした。

思わず自分の胸を押さえる。

心臓はどくどくといつもよりも早く波打っていた。

この感覚には覚えがあった。

この感覚は、以前彼女に手を伸ばした、あの時にも感じたことのあるものだった。

この気持ちは、何だろう。

この衝動はは、どこからくるのだろうか。



そうか。

その時何かが腑に落ちるように思った。

俺はもう自分を諦めていなかったのではないか、と。

俺はもう、彼女と変わることを、望んでいたんじゃないのか。

確かに俺はあの時、諦めたくないと、彼女と共に生きたいと。


――――私達、きっとちっとも幸せなんかじゃないんだよ。


あの魔法樹の前で、情けなく笑ってそう言ったあの彼女と一緒に幸せになりたいと、そう望んでいたのではないのか。


心臓が、先ほどまでとは嘘のようにばくばくとうるさい音を立てて鳴っていた。

彼女を見る。

彼女は俺が何か言うのを待っているようだった。


日記を交換するたび、彼女との違いを痛感して、彼女を遠く感じた。

その交換日記は、彼女と俺の差を明らかにするものだった。


でも違う。離れていったのは俺のほうだ。

そうだ。俺は共に生きたいと望んだくせに、ちっとも前に進もうとしていなかったのだ。

でも彼女は、そんな俺を諦めずに、手を離さずにいてくれた。

彼女は遠い人?

違う、彼女はずっと俺の隣に居た。


一緒に戦うために。恐ろしい世界を、毎日一緒に生きようとしてくれた。

そうか。漸く理解する。


だから彼女は交換日記にしたのだ。



たまらなくなった。

何だか酷くおかしくて――――そして泣きたい気持ちだった。

涙なんてとうの昔に枯れてしまったのに、何かが胸のうちからこみ上げる。


そして無性に、日記を書きたくなった。


この感情はとてもじゃないが、言葉で言い表せる自信が無かった。

怒涛のように押し寄せるこの気持ちは、口で言うにはあまりにも大きすぎる。

だが、彼女にちゃんと伝えたいと思った。



「……こんな俺でもまだ、交換日記を、続けてもいいのでしょうか」


彼女は呆れていないだろうか。

こんな自分のこともよくわかっていない自分を、彼女はまだ待っていてくれるのだろうか。

散々黙って、漸く口から出た言葉は、酷く弱弱しいものだった。

恐る恐る彼女は見る。

彼女は困ったような顔をしていた。


「だから、私はもうずっと、佳月と交換日記をしたかったんだよ」


それは、気の抜けるような笑みだった。

眉尻を下げて力なく笑った彼女のその言葉が、全ての答えだった。

ああ。彼女はまだ俺を待っていてくれた。


彼女の笑顔に俺はまた泣きたくなる。

きっと俺は、このどこか情けない笑みが好きなのだ。

それは多分、魔法樹よりも何よりも、俺が一番最初に綺麗だと思ったものだったから。



日記を受け取る。

心は軽いが、なんだかそこにはようやく自分が戻ってきたような気がした。




あまりにも恋愛小説っぽくないので、秘密兵器として伝家の宝刀「交換日記」という恋愛っぽいアイテムを投入してみましたが、まるで意味がありませんでしたね。

どうして彼らはこんなにネガティブなのか。


しかし何はともあれ、これで嬉し恥ずかし二人の馴れ初め編は終わりです。

最近は主人公が主人公してくれて助かります。

ただ不審者に磨きをかけているのが心配です。

ここまでお読みくださりありがとうございました!

はなこ

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