彼女の心
だが、その後俺は彼女への交換日記に少しずつ文字を綴るようになった。
文字数は少ない上、相変わらず何を書けばいいのかさっぱりわからなかったが、わからないならわからないことを彼女に伝えた。
彼女はそんな日記とも言えないものに、懇切丁寧に返事を書いた。
彼女の返事はいつも俺の倍以上の量はあった。自分の最近の話。俺が質問したことについての話。そして俺がどんなものが好きかという質問。
少しずつ彼女へ返事を書けるようにはなったが、かといって毎回返事が書けるというわけではなかった。
やはりどうしても書けなくて、白紙のまま彼女に渡すこともあった。
だが、不思議なことに、書くことに対して以前のような抵抗感はなくなっていた。
白紙で出すことに、彼女の反感を買う恐れのほかに、罪悪感のようなものも感じるようにもなった。
数行しかない日記に対して、彼女が倍以上の返事を書くのを見るのを、少し面白いと感じる自分がいた。
それは、とても不思議な感覚だった。
『漸く雨が上がりましたね。
あなたは雨上がりの庭を見たでしょうか。
ほんのり湿った大地に太陽の光が当たって、まるで庭が宝石を散りばめたみたいにきらきら輝いて本当に綺麗でした。
あれだけもう止んで欲しいと思っていた雨に、もう一度降ってもらいたくなりました』
『今日は久しぶりに母に叱られてしまいました。
母は怒るととても怖いです。
頭ごなしに叱るのではなく、延々と諭すように何時間も叱ってきます。
あなたもくれぐれも気をつけてください。
でも、あなたが母に叱られているというのは想像できないので、いらない心配かもしれませんね』
『最近は、学校の帰りに少し近くを散策しています。
運転手さんには付き合わせてしまい申し訳ないのですが、新しい場所を見つけるのは楽しいです。
最近はよく運転手さんと話すようになりました。
運転手さんは話すととても気さくな人。でも時々不機嫌そうで、そういうときはまだ話しかけられません。
話しかけるタイミングを掴むのがとても難しいです』
日差しが一段と強くなるようになった。
彼女からまた交換日記が回されてくる。
彼女の日記を通して、彼女は日常というものをとても真っ直ぐに見ていることがわかった。
だからだろうか。
彼女を通して見える世界は素直で美しいものだった。
「最近は何があっただろう……」
次第に、彼女への返事を考えることが苦ではなくなった。
日常生活の中、ふと彼女へどんな返事を書くか考えるようになった。
何か真新しいことや、変わったことが起こると、すぐにそれを日記に書いた。
日記に綴る内容が、段々と多くなる。
日記を書くことは、もう日常の一環になってしまっていた。
日記を続けていく中で、彼女の書く日記についても、少し見方が変わるようになった。
彼女の書く日記の内容は本当に些細なことだが、だがそこには彼女なりの必死さのようなものを感じた。
彼女が、毎日の中で出会う全てのものに真剣に取り組んでいる様子がその日記からは連想された。
彼女の印象は、初対面のときから大きく変わっていた。
人と関わることが苦手だが、真面目すぎるほど真面目で、そして、強い人。
彼女の日記を通して彼女を知ることは、思いのほか楽しいものだった。
けれどふと、冷静になることがあった。
どれだけ彼女に返事を書いたって、それは彼女と同じ日記とは言えないのではないかと。
自分はどうやったって、彼女のように世界を美しく捉えることはできなかった。
日常のちょっとしたことを、美しいだとか、悲しいだとか、そんな風に心を砕いて感じることが自分にはどうしてもできなかったのだ。
交換日記を上手く続けられるようになったと錯覚していたけれど、でも実際自分はまだ、書けない頃と何も変わっていないことに時々ふと気づかされた。
どれだけ彼女を真似てそれらしく書いてみたって、自分の日記は彼女に比べて空っぽだった。
彼女と日記を交わすたびに、その思いは強くなるばかりだった。
「浮かない顔をしているわね」
彼女の母親は剣山に花を生けながら静かな声でそう言った。
「凜と何かあった?」
彼女の向かいに座ったまま、俺は視線を彼女の母親へ向ける。
彼女の母親とは、あれから何度かこうして話す機会があった。
話すといっても、彼女の母親への用事のついでに、ほんの少しだけ話し相手をするだけのものだったが、この時間を自分は苦手だった。
彼女の母親は、いつも彼女についての話を聞きたがるのだ。
それがいつも居心地の悪い思いをさせた。
そして彼女の母親は、彼女のことになると妙に鋭かった。
彼女について話していると、いつも本音を見抜かれてしまった。
「……日記は続いています」
彼女の母親の問いかけに苦い気持ちになりながらもそう返す。
そう、日記は初めのころが嘘のように順調に続いていた。
さすがに彼女と同じぐらいの量の日記はまだ書けないが、それでも確実に自分の書く量も増えている。
「じゃあ、どうしてそんなに嬉しくなさそうな顔をしているのかしら」
嬉しくなさそう。それもまた事実だった。
彼女との交換日記は順調だ。
そして彼女と日記を交わすこともそれほど苦ではなくなってきている。
でも何故だろう。
何故か最近、彼女の日記を読むたびに言い知れぬ恐ろしさのようなものが自分を支配するのだ。
彼女の日記には、端々にその必死さのようなものがにじみ出ている。
それは、生きることへの必死さのように感じた。
そんな彼女に気づくと、そのたびに自分のことを思い出すのである。
自分も生に対しては貪欲な人間だった。
死にたくないという気持ちは、生まれたときからずっと乾いた血みたいに脳の奥底にこびりついていた。
生きることに必死なのは、自分も彼女も同じなはずだった。
けれど日記を交わすたびに思い知らされるのは、彼女との違いだった。
自分は彼女に比べてあまりにも滑稽だった。
何を捨てても生にしがみつくその様の、なんと見苦しいことだろう。
彼女の日記を読むと、それをハッキリ自覚させられた。
彼女はあまりにも自分と違っていた。
「彼女は……花のような人なんだと思います」
その剣山に刺さった赤色の花を見ながら、俺は呟いた。
そうだ。彼女は花のような人なのだと思う。
生きるために光を浴びようと必死で背伸びをして、葉を広げる。
生きることに必死なだけなのに、その様は、酷く美しい。
そう言うと彼女の母親は、声を上げて笑った。
「あらあら。あなたはまた随分とロマンチックなことを考えるのね」
冗談を言ったつもりはなかっただけに、その茶化すような言い方は心外だった。
「ごめんなさいね。別にからかったわけではないのよ」
俺が真剣に言っているとわかったのか、彼女の母親はすぐに笑みをしまった。
「ただ、そうね……私から言うのもなんだけれど、あなたは少しあの子を美化しすぎだと思うわ」
「……そうでしょうか」
言い聞かせるような口調でそう言われるが、素直に納得できない。
それがわかったのか、彼女の母親は困ったように笑った。
「うーん、そうねえ。じゃあ、言い方を変えるわ。
私には、あなたも十分素敵な人に見えるわ」
そう言うと彼女の母親は視線を縁側の外へと向けた。
「私はね、あなたにとても感謝しているのよ」
そしてぽつり、と呟くように言う。
雰囲気を少し変えたその様子に少したじろぐと、彼女の母親は口元を少し緩めて言った。
「あの子はね、一度身近な人間に殺されかけたことがあるの」
そのどこか冷たいような言い方は、彼女の表情と合っていなかった。
殺されかけた。
唐突なその言葉を理解するのに少し時間がかかる。
「あの子」というのは、話の流れから考えて彼女のことだろうか。
信じられない気持ちで彼女の母親を見ると、彼女の母親はそのまま話を続けた。
「あなたも少しは聞いたことがあるでしょう。檻人の一族の後継者争いの話。
あの子はあの人の……現当主の娘なものだから、その争いのど真ん中にいるようなものなの」
確かに、その話を自分は聞いたことがあった。
檻人の話はこの国に生まれた以上は誰に教えられずとも聞いたことがあるし、その後継者争いについての噂も自然と耳にしたことがある。
そして彼女の父親がその檻人であることも、知っていた。
「今はあの人が手を尽くしてあの子を守っているけれど、でも一度だけ、あの子が直接命を奪われかけたことがあった。
あの子を殺そうとしたのは、この家の使用人の一人。あの子が生まれた頃からずっと傍にいた人だった」
彼女が後継者の中でも一番順位の高い位置にいる人間であることも当然知っていた。
彼女は当主の娘である上、魔力量も多いという。
だから後継者の争いにも多少関わっているのだろうとは思っていた。
けれどそこまで直接的に命をねらわれるようなことがあったのは知らなかった。
だって、それにしては彼女はあまりにも穏やかに毎日を過ごしていたから。
「きっとあの子にとって、そのことはすごくショックだった。無理も無いわね。あの子は彼女にとても懐いていたもの。
あの子はそのことが合って以来、人と関わることを極端に恐れるようになったわ」
彼女の母親の言葉は、何かを懺悔するようにも聞こえた。
彼女の母親の言葉がまるで岩のように体全身にのしかかる。
ふと、出会った頃の彼女のことを思い出した。
彼女は出会った当初俺と言う人間をとても恐れているようだった。
もしかするとあれは、俺個人というよりは、人を恐れていたのだろうか。
けれどそう考える思考を遮るように、彼女の母親は「でもね」と微かに声のトーンを上げて言った。
「でも、あなたが来てからあの子は変わった。人と関わることを拒まないようになった。また昔と同じように笑うようになったの」
微かに微笑んだ彼女は、そう言って俺のほうに視線を向ける。
「私も、屋敷の人間も、みんなあなたに感謝しているの。
あの子が変われたのは、きっとあなた――――佳月のおかげだから」
彼女のその微笑みは、酷く優しいものだった。
また、交換日記が回ってきた。
『今日は学校で席替えがありました。
授業中、隣の人が消しゴムを忘れているのに気づきました。貸そうかどうか迷って、結局授業が終わってしまいました。どうして早く貸せなかったんだろう。
とても後悔したので、次は絶対に貸そうと思います』
彼女の交換日記は、相変わらず直情的なものだった。
しかし、彼女の日記を読むたび、次も読みたいと思う気持ちと鬩ぎあうように、読みたくないという気持ちが大きくなっていく。
――――佳月のおかげだから。
彼女の母親の言葉は、あれから何度も頭の中で繰り返し流れた。
俺のおかげ。それは違うと思った。だって自分は何かをした覚えはないのだ。
彼女に何かできるほどのものを持っているわけでもない。
その事実は、彼女の日記を読むたびに痛感させられる。
彼女の日記を交換し、彼女のことを知るにつれてどんどん彼女を遠く感じるようになっていった。
彼女と俺はあまりにも違った。
その日記は、俺と彼女の違いを顕著に表すものだった。
彼女と自分はどうしてこうも違うのか。
その理由を自分はもう知っていた。
彼女と自分では、世界の捉え方が違うのだ。
彼女は、世界を愛していた。
世界を真正面から見て、その上で世界を美しいというのだ。
自分にはそれが出来ない。
だってそうだろう。どうして、いつだって自分を殺そうとする世界を、美しいといえるのか。
愛して、慈しめるのか。
その考えは、ペンの動きを遅らせた。
日記を書くたびに、冷めた気持ちが心の中で膨れ上がるようだった。
どうして彼女は、交換日記なんてするのだろう。
どうしてそんな、まるで見せ付けるように俺に日記を書くのだろう。
そんなものを見せ付けられては、ますます自分が嫌いになりそうだった。
――――嫌い。
その言葉が浮かんだとき、呆然とした。
自分は、自分のことが嫌いなのだろうか。
自分の境遇も、それに伴う周りの反応も疎んだことはない。
目の色だって、自分は自分なりに受け入れて生きてきたつもりだった。
でも何故だろうか。
彼女と日記を続けていけばいくほど、彼女を遠く感じて、そしてそれと同時に自分と言う存在に失望して、落胆して、そして目を背けたいほど嫌いになっていく気がした。
誰かと自分を比べて、それで勝手に失望するなんて、そんな無意味で非生産的なことをしたことはなかったのに。
きっとそれは、あの日記のせいだった。
何も疎んだことは無い。
生きられたらいい。
生きるのにそんな余分な情報は必要ない。
一人で生きるのならば、他の誰かと比べる必要も無い。
だからずっと、一人でいたのに。
彼女が日記を通して彼女と言う存在を自分の前に曝すから。
自分以外の存在に気づいたことで、俺は自分という存在に気づいてしまったのだ。
ああ、自分はこんなにも醜い人間だったのだ。