伸ばした先の答え
一体いつの間にいたのだろうか。
彼女は幽霊のように気配無く、その場に立っていた。
彼女の様相には見覚えがあった。
まさ彼女は。
「し、静音……!」
私の予想を裏付けるように、焦ったような声で正樹さんは彼女の名前を呼んだ。
名前を呼ばれたその女性は、気だるげにその長い黒髪を弄りながらその場に立っていた。
私は思わず息を呑む。
――――静音さん。
私は唐突に現れた彼女に驚きを隠せないまま、食い入るように彼女を見つめた。
彼女は白く、細い人だった。
日に焼けていない白い肌の上に膝下まである白いワンピースをきた彼女は、病的なまでに痩せているのに、それさえも儚いと表現できるほどに美しい女性だった。
原作では佳月の記憶の中でぼんやりと描かれていただけだったから、こんなに静音さんをハッキリと見るのは初めてだった。
彼女が、静音さん。
想像していた女性とまるで違っていた。
こんなにもか弱そうな女性が、佳月にあんな酷いことをしているなんて、まるで想像がつかなかった。
「お前、どうして部屋から出てきたんだ! 出るなと言っておいただろう!?」
扉の前に立つ静音さんの前に駆け寄った正樹さんは、静音さんの肩を掴んでそう問い詰めた。
正樹さんの言葉に私は我に返る。
そうだ、何故彼女がここに来たのか。
確かに静音さんが出てくる可能性を考えていなかったわけではないけれど、このタイミングで現れるとは思っていなかった。
正樹さんに詰め寄られた静音さんは、しかし欠片も正樹さんの方を見なかった。
肩を掴む正樹さんの手を振り払い、ふらふらとした足取りで佳月のいるベッドのほうへと歩み寄ってくる。
「ふふ。あなたが部屋に来てくれないから、私、迎えにきたのよ」
彼女の視線は、ただ真っ直ぐに佳月へと向けられていた。
「さあ、早くお部屋に戻りましょう?」
うっそりとした笑みを浮かべて近づいてくる静音さんは、どこか狂気じみていた。
私は思わず後ずさりをする。
声は酷く甘いのに、そこには有無を言わせぬ力があった。
どこか虚ろな瞳で、暗く笑った彼女はその細い手を差し伸べる。
静音さんの目には、佳月のすぐ傍にいる私がまるで見えていないようだった。
手を差し伸べられた相手、佳月に視線を向けると、彼はその手を取るでもなく、ただジッと、静音さんが差し伸べた手を見つめていた。
黙り込む彼の表情は、やはり何を考えているのかわからないままだ。
「どうして何も言ってくれないの?――――ねえ、もしかして、この女に何か言われたの?」
この女、と言いながら静音さんが視線を向けたのは私だった。
向けられたのは一瞬だったのにそれだけでその場に縫い付けられたかのように、私の体は動かなくなる。
その目は、とても六歳の子どもに向けるものではなかった。
それは、嫉妬に塗れた女の目だ。
「大丈夫よ。何も怖いことなんてないわ。何を言われたのかはしらないけれど、こんな女にあなたが耳を貸す必要なんてないの。さあ。だから、部屋に帰りましょう」
それは漫画で感じていた以上の恐ろしさだった。
笑っているのに、恐ろしい。
それは父にも感じたことの在るものだったけれど、彼女のはまたそれとは違う。
――――狂っているのだ。彼女は、佳月という存在に。
このままでは佳月を連れて行かれてしまう。
私は咄嗟にそう思った。
思わず佳月に目を向けた。
しかし彼は表情を変えることも無く、ただ黙り込んだままだった。
微かに俯いた状態のまま、微動だにしない。
静音さんは首をかしげた。
「ねえ。どうして何も答えないの?」
何も答えない佳月に、静音さんは心底不思議そうに首をかしげた。
そして佳月の手を取る。
「ほら、行きましょう?」
些か強引に彼女は佳月の手を引っ張った。
引っ張られるままに、佳月はベッドから連れ出される。
だがそこに彼の意思は何も汲み取れなかった。
私は静音さんの強引なやり方を止めようと口を開く。
しかしその瞬間、佳月と目が合った。
一瞬にも満たない間だったかもしれない。
佳月と私の視線が絡み合う。
それで十分だった。
ああそうか、彼は。
「ねえ、何をしているの?」
再び口を開きかけた私を遮るように、低い静音さんの声が鼓膜を揺らした。
はっとして彼女を見上げる。
彼女は能面のような表情で私と佳月を見ていた。
「まさか、ねえあなたは――――私よりもこの女のほうがいいと言うの?」
まずい、と思った。
しかし佳月はやはり何も答えない。
無反応の佳月に、静音さんの表情がみるみる変わっていった。
「ねえ、ねえ、ねえ。まさか、まさか、まさか! 私よりこの女の方が言いというの? 違うわよね。違うといって。今なら許してあげるから」
何かの琴線に触れたように、静音さんは怒気の表情に染まった。
金切り声を上げて、佳月を問い詰める。
明らかに様子のおかしくなった静音さんに、けれど佳月は表情を変えることなく黙り込んだままだった。
彼女を受け入れるでも、拒絶するでもない。
しかし彼は何か出来るわけもないのだ。
私は佳月を見る。
私には彼が何だか迷子の子どものように見えた。
そう、彼が静音さんに何か答えられるはずもない。
だって彼は、わからないのだから。
自分がどうしたいのか。それさえも。
「許さない、許さないわよ。あなたは私もの!! 他の誰にも、あげたりしないんだから!!」
静音さんの怒りはますますヒートアップしていった。
狂ったように声を荒げ、髪を乱す。
そしてその衝動に任せるように、静音さんは大きく手を振り上げた。
私はその動作にハッとする。
何かを考える間もなく、咄嗟に静音さんと佳月のまえに躍り出た。
パシンッ! と乾いた音が部屋に響き渡る。
後ろで佳月が息を呑む気配がする。
途端ジンジンと痛み出す頬。
私の頬をぶった静音さんは一瞬驚愕したように目を丸くすると、すぐにその瞳を忌々しげに吊り上げた。
「し、静音!!」
まるで悲鳴を上げるように正樹さんが静音さんの名を呼んだ。
正樹さんが後ろから静音さんを羽交い絞めにする。
「凜!」
それと同時に父も慌てて私に駆け寄ってくる。
痛い。
あの細い手から繰り出されたとは思えないほどに、それは強烈な痛みだった。
けれどもう尻込みする気持ちはなかった。
正樹さんに取り押さえられながら、私を忌々しげに睨み付けてくる静音さんの視線を受け止める余裕もあった。
私は静かに口を開いた。
彼がもし、どうすればいいのかわからなくて迷っているなら、私できることが一つだけあった。
「昨日の夜、言ってたよね」
私の言葉に、部屋に居る人の全ての視線が集まった。
「『あなたは、私を助けてくれるのか』って」
佳月のほうを見ないまま、私は佳月に語りかけた。
後ろからは佳月の戸惑うような気配がする。
私はそれに小さく笑った。
「正直ね、まだわからないんだ。そりゃあ、今私はあなたを助けたいって思ってる。助けたいから、あなたを従者にしようとしてるわけだしね」
私はじんじんと痛む頬を右手で押さえる。
やはりそこは強烈に痛んだ。
彼はこれ以上の痛みをどれほど味わってきたのだろうか。
そしてどんな気持ちで、それを痛くないと言えたのだろうか。
「でも正直に言うと、ここから出ることが、本当に幸せなのか、私にはまだ保証することはできない。それができるほど、私はまだちゃんと生きていないから」
私は今までずっと逃げてきた人間だ。
スタートラインに立ったばかりの私には、彼にしてあげられる保障は何も無い。
「世界は私達に優しくないかもしれない。いつか、後悔してしまう日がくるかもしれない」
彼が迷う理由が、私にはわかった。
ここがどれだけ自分を傷つける場所であっても、それでもやはり居心地がいいのだ。
例えば一歩踏み出した先のほうが幸せだと言われても、確信が無いなら進めない。
痛みを感じようとも、そこから動こうとは思えない。
でも、このままでいいとも思えない。
だから本当に、どうしたらいいのかわからなくなって、雁字搦めになって、動けなくなるのだ。
身動きが取れなくなって、そんな風にもがく自分も情けなくなって、それで結局諦めてしまう。
もう、このままでいいか、と。
「でもね」
彼の迷いを私は知っている。
彼がこれまでどんな物を見て、どんな気持ちを抱えて生きてきたのか、私にはまるでわからないけれど、彼のその気持ちだけは知っていた。
彼がもし、迷っているのなら。
昨日までの私のように、どうしていいのか戸惑っているのなら。
私が彼にしてあげられることが一つだけある。
私は佳月を振り返った。
大きく息を吸い込む。
「でも、どんなに辛くても、悲しくても、この先どんな嫌なことが待ち受けていたって、あなたがもし私の手を掴んでくれたなら、私は絶対その手を放さない」
見捨てない。何も出来ないと思い知らされても、諦めない。
みっともなくても、「凜」のようにはなれなくても、もう、私は何も諦めない。
だから。
「だから、一緒に戦おう。私と一緒に、生きてほしい」
佳月に手を伸ばした。
そこから動くのが怖いのなら、私が手を引こう。
一緒に歩むことぐらいならば、こんな私でもできるはずだから。
■
「……本当に何も持ってこなくてよかったの?」
私は、おずおずと隣の佳月へと尋ねた。
「ええ。特に思いいれの在るものはありませんから」
隣にいる佳月はそう言って静かに笑う。
辺りは静かなものだった。
この場には私と佳月以外に誰も居ない。
目前には行きに見た花畑が広がり、甘い匂いが辺りを包んでいた。
あの時――――あの部屋で私が佳月へと伸ばした手を、佳月は恐る恐るという風に取った。
佳月の手は細っそりとしていて、私の手よりも小さいように思えた。
私は掴んだ彼の手をしっかり握った。
佳月が何を思って私の手を掴んでくれたのかはわからないけれど、彼の手が私の中にあるということは、彼がここから前に進むと決断したということなのだから。
だが当然のことながら、そう簡単に正樹さんや静音さんは了承しなかった。
佳月が私の手を取った瞬間、静音さんは狂ったように悲鳴を上げると、押さえつける正樹さんの腕の中でもがき暴れ始めた。
正樹さんは暴れる静音さんを抑えるので精一杯のようだったが、その段階では彼もまだ了承している雰囲気ではなかった。
だから、正樹さんが静音さんを部屋から連れ出し彼女を使用人に預けたところで、父は正樹さんに提案をした。
当主の娘を叩いたことを不問にするかわりに、これ以上佳月のことに口出しをしないこと。
それで構わないかと、私の熱を持った頬に手を当てながら、父は私に尋ねた。
私はもちろんそれに了承した。怪我などたいしたことはないし、それで彼らを責めるつもりは毛頭なかったが、それが佳月を連れてかえるための交渉材料になるのならお安い御用だった。
その提案に正樹さんは頷かざるを得なかった。
それは、彼の妻が当主の娘に手を上げたことへ彼なりに後ろめたさがあったからでもあるだろうが、一番の理由は父にあった。
今から思うと、父はあの時かなり怒っていたようだった。
そしてそれは、自惚れ出なければ私を叩いたことに対しての怒りだった。
父の気に飲まれて、正樹さんはもう何も言えなくなったのだと思う。
普段温厚な人が怒ると怖いというのはどこの世界でも共通の認識だ。
父は今、車を呼びに行っていた。
車が来たらまた呼びに来るからと言って、父は私達を屋敷の黒い門の近くにあるベンチに座らせて行ってしまった。
座りながら、ちらりと佳月のほうを盗み見る。
佳月は、その体にある包帯を隠すように長袖の服を着ていた。
私と父は、佳月の怪我がもう少しよくなるまで滞在しようかと提案したが、佳月に断られてしまった。
出るなら早く出ないと、静音さんが何をするかわからないからと。
そうして私達は当初の予定通り、今日屋敷を後にすることとなった。
私と佳月の間には先ほどからずっと沈黙が続いていた。
私から話題をふってみたりするものの、どうにも続かない。
変わろうと決心したものの、私の対人スキルはそう簡単に上がらないようだった。
何か話題はないだろうか。
私は自分の持てる記憶をフルに使って話題を探す。
そしてふと、気になっていたことを思い出した。
だがしかし、何と言って切り出したらいいのかがわからない。
というかそもそも、私が言っていいことなのだろうか。
いや、私が言わなければ他に言う人はいないのだけれど。
少し逡巡して、私は口を開いた。
「……あ、あのさ。あなたって、名前、ないんだよね?」
気になったのはそれだった。
そう。私は心の中では何度も勝手に佳月佳月と読んでいたが、実際には彼にはまだ名前が無いのである。
そしてその名前をつけたのは他でもない、凜だった。
「はい。ですから、お好きなようにお呼びいただければ」
佳月は綺麗な笑みを浮かべてそう言った。
私はその笑顔に言葉を詰まらせる。
脳裏には先ほどから原作でのシーンがちらちらと過ぎっていた。
彼に名前をつけたのは凜である。
しかし、それを私が言ってもいいものなのだろうか。
そして彼女の考えた名前を私が使ってもいいのだろうか。
頭の中が悶々とする。
けれど名前が無ければ困るのは佳月だし、私も彼を呼ぶ名前が無ければ困る。
それで仮に彼の名前をつけるというのならば、私がオリジナルで考えたもののほうがいいのだろうか。
いやしかし、そんな人の名前などすぐには思いつかないし。
それに名前と言うものはこれから一生使っていくものだ。思いつきで言っていいものではないだろう。
何より彼は私の中ではもう「佳月」という人間なのだ。
他に名前と言ってもそこからまずピンとこない。
だが佳月は佳月でも私の知っている佳月と目の前にいる佳月は違うわけだし……。
佳月が怪訝そうに首をかしげるのがわかった。
いけない。黙りすぎてしまったらしい。
私は頭を勢いよく横に振った。
ああもう、これでは埒が明かない。
私は意を決した。
ええい言ってやれ。
「あの、もしよかったらなんだけど……。嫌なら全然いいんだけど……。でもやっぱり、名前がないのは色々と不自由だと思うし、だから、えっと、その、私があなたに名前をつけてもいいでしょうか……?」
「名前?」
「……うん。佳月、とか」
その言葉を聞いた佳月は、目をきょとりとさせた。
私はそれに慌てて言葉を付け加える。
「ええっと、あの、う、美しい月って意味で、佳月と書くんですが……」
――――おかしい。想像していたのと全然違う。
自分で言いながら、そのあまりの不恰好さに焦った。
原作で凜が佳月を佳月と名づけるシーンは名シーンと言ってもいいほどに美しい場面だった。
無論凜のように、びしっと名前を言うことなんて出来るわけ無いと思っていたけれど、それでももっとこう、しっかり言おうと思っていたのに。
なんだか自分の格好悪さが恥ずかしくなって、顔が熱くなる。
佳月は自分の名前に感じを当てはめるように少し目を伏せた。そして。
「――――はい、ではそのように」
また先ほどの笑みを浮かべて、私に頭を下げた。
その笑みを見て、ああ、やはり原作のように上手くは行かないな、と感じた。
ふと佳月の笑顔に冷静になる。
顔から自然と熱が引いていくのがわかった。
佳月の笑顔に、まだ距離があるように思えた。
本気で笑っていないのだ、彼は。
彼と私の間にはきっとまだいくつも壁があって、それを凜のように勢いよくぶち壊すなんてすごいことは、やはりできそうにもなかった。
けれど。
「うん……よろしくね。佳月」
不思議と悲観する気は起きなかった。
それでいいと思ったし、それが普通だと思った。
これから仲良くなっていけばいいのだ。
だって私は彼女じゃない。
私は私のペースでしか、生きられないのだ。
遠くのほうで父が私達を呼ぶ声がした。
私は立ち上がる。
「じゃあ、行こうか」
私は佳月の手を取って歩き出した。
空は青く澄んでいて、太陽は暖かい。
春風の運ぶ花の香りは爽やかで、清清しい。
ああ。今日はとっても、いい天気だ。
ここで花屋敷編、別名凜の成長編は終わりです。
※一つお知らせです。このお話を子ども編としてずっとやってきているのですが、私がわかりずらくなってきたため、子ども編の中をいくつか章で区切ろうと思います。
皆様も見やすくなるのではと思うのですが、それでもし何か不都合な点があればまたお知らせください。