私の決意
「あなたは、恐いものがないのですか?」
そう、少年は目の前にいる少女に尋ねた。少女は少年の言葉に数秒固まって、軽く首をかしげる。
「唐突ね。どうしてそう思ったのかしら」
少女の戸惑うような声色に、少年は「だって」と言葉を続けた。
「だって、あなたが何かに怯えたり、何かから逃げ出そうとしたりするところを見たことがありませんから」
率直な少年の物言いに、少女は数度眼を瞬かせた。そして、自身の行動を振り返るようにふむ、と頷く。
「そうね。まあ確かに、今の私に恐ろしいものなんてないのかもしれないわね」
少し考えた後、少女がそう答えると、少年は「やはりそうなのですね」と、どこか感動するように少女を見つめた。その視線を受けた少女は少しだけ得意になる。少女は威張るように腰に手を当てると、笑って言った。
「私は今、とっても幸せなんだもの。ここに恐ろしいものなんて、一つもないわ」
その笑顔は強く、底抜けに明るかった。
「また君は妙な夢を見ているな」
ぼんやりとした意識を覚醒させるように、無機質なアルトの声色が鼓膜を揺らした。聞き覚えの在る声だ。ゆっくりと閉じていた瞼を開けると、視界一杯に真っ白な空間が広がる。何だか覚えのある感覚だな、と辺りに視線を巡らせれば、白い空間にポツリと浮かぶように一人の少年が立っていた。
「まさか、また会うとは思わなかったけれど」
そう言って首をかしげたその少年は、酷く見覚えの在る少年だった。ジッと見つめて、気づく。そうだ。彼は以前もここで会ったことがある少年だ。死装束のような真っ白な着物に、銀色の髪。そして顔の上半分にはお面――――とそこまで見て、「あれ?」と首をかしげる。
「……般若?」
何故だか少年のつけているお面は、記憶にあるお面の種類とは異なっていた。感情を前面に表した般若のお面は、少年の雰囲気にはあまりにも不釣合いに思える。だがしかし、その他の点では以前の少年と一致することから、どうやら彼は以前会ったことのある少年で間違いないようだった。
「……え、ええっと……こ、こんにちは?」
「こんにちは」
とりあえず挨拶をしてみると、意外にも気安く返事は返された。しかしその声のトーンとは裏腹に、彼の口元はぴくりとも動かない。表情の無さは以前とまるで変わっていないようだ。
「えっと、ひ、久しぶり、なのかな?」
前回会ったのはもう一年も前だった気がする。そう言うと少年は再び首をかしげた。
「さあ。君の時間ではそうなのかもしれないね。ただ、ここの空間は時間に影響されないから」
「へ、へえ……」
少年の不思議加減も相変わらずのようだった。
話す言葉は何だかふわふわしていて、糸のようにか細い。醸し出す雰囲気は見失ってしまいそうなほど薄く、存在感もまるで感じられない。けれど何故だかやけに目を引いた。
「えっと、あの、私って……どうしてここにいるの、かな」
そう言う自分の質問が何だかとても間抜けに感じた。しかし、前回と同様、どうやって自分がここに来たのかもまるでわからないのだ。ただ唐突に、目を覚ませばここにいたのだから。
「どうして。それは君しか知らないことだろう。ここは心の奥の奥。そこまで落ちてくるということは、君がそれだけ現で強い衝撃を受けたということ」
「心にね」と少年は自身の胸元に触れた。それにつられて私も自分の胸元に触れてみる。そこで目に入った自身の右手を見て、ふとここに来る直前のことを思い出した。右手を開いて見つめてみる。そこにはもう既に誰のぬくもりもなかったが、確かに温かかったことを私はしっかりと覚えていた。
「ああ、なるほど。そんなことがあったのか」
「え!?」
納得するように呟かれた言葉に視線を右手から外して少年を見た。
「い、今心を読んだの!?」
「読んだとは人聞きの悪い。読もうとしなくても、わかるんだよ。言っただろう、ここはそういうところだと」
そう言って空間を指すように手を広げてみせる少年に、そうだった、と前回少年が言っていた言葉を思い出した。そうだ。ここでは私の心は筒抜けなのだ。と、そこまで考えて、そういえば逆に少年の感情を感じ取ったことは無いな、と気づく。ここがそういう場であるならば私も彼の心が読めてもいいはずだと思って、少年をジッと見つめてみるが、しかし一向に少年の心情はうかがえなかった。もしかして彼は今何も考えていないのだろうか。
「それで、君はこれからどうするの?」
「え?」
諦めずに少年を見つめていれば、少年は無機質な声色でそう問いかけてきた。突然の質問に数秒固まって、少年の質問の意味を理解する。これからどうするのか。
「えっと……とりあえず、一つは決めていることはある、よ」
私は右手をぎゅっと握りこんでそう答えた。
「決めていること?」
不思議そうにまた尋ねられて、私は「うん」と頷く。
「まずそこから始めようって思ってる。そこから変わろうって」
自分に言い聞かせるつもりでそう言った。握りこんだ右手はもう震えていない。何だか酷く穏やかな心地だった。
「変わる、ね」
そこで、ふと少年の声のトーンが変わった。その変化に驚いて少年に視線を向ける。少年は、笑っていた。
「君は実に興味深いことを言うね。君は自分がそんな簡単に変われる人間であると思うのか?」
それは、ここに来て初めて見る、少年の表情らしい表情だった。そしてそれと同時に、ガツンと心に強い衝撃が走る。冷酷で、残忍で、侮蔑混じりで、そしてどこか、悲観的。少年の冷めた気持ちがダイレクトに伝わってくる。
少し以外だな、と思った。彼はとても人間味の薄い人だと感じていたからだ。けれど今伝わってきたものは、酷く人間らしい。私は衝撃を受けた胸の辺りをぎゅっと抑えた。
「……変われるとか、変われないとか、もうそういう難しいことを考えるのはやめにしたの」
息を吐いて、そして吸い込む。
「ただ、変わりたいって、そう思っただけ」
笑ってみせると、それだけで心が軽くなった。思いのほか、自分の心はしっかりしているらしい。ここが心の中なのだとしたら、きっと今自分が言ったことに嘘偽りはないだろう。大丈夫だ。自分はもう前に進む覚悟が出来ているのだ。そう思うと、何だか体中に力がわいてくるようだった。
「そうか」
少年はぽつりと呟いた。
「君はもう、変われたのだな」
「え?」
顔を上げたときには、既に少年は背を向けていた。
どうしたのかと手を伸ばしかけたところで、また体が消えかけていることに気づいた。もう時間切れなのか。一体どういうタイミングでこの空間から追い出されるのか、さっぱりわからない。私は消えかかっている手から視線をそらして、結局何も知ることの出来なかった少年を見つめた。
「ねえ、君と、また会える?」
聞いてみたものの、自分はこの少年とまた会えるような気がしていた。少年は私の声に振り返らないまま応える。
「縁は結ばれてしまった。君が望もうが望むまいが、近いうち、また出会ってしまうだろう」
予想通りの答えに、私は安堵した。何だかもう一度、この不思議な少年に会ってみたかった。
「ねえ、じゃあ次ぎ会った時、名前を教えて!」
今度こそ、彼について何か聞いてみたい。そう思って声をかけるが、そう言い終わるやいなや、視界は黒く閉ざされてしまった。それでも最後に少年に向かって叫ぶ。
「私は凜! 一宮凜!」
届いたかは、わからない。ただ少年は、こちらを見ていたような気がした。
意識が覚醒する。何だか体全身が重い。しかし、やけに頭はすっきりしていた。
「凜! 起きたのか!」
目を開けた途端、視界いっぱいに父の顔が広がった。驚いてしばし固まる。至近距離で覗き込んでいる父の顔は心配の色が濃く何だかそれにデジャブを感じた。
ここは、どこなのだろう。私は父から視線を外して辺りを見回した。見回してみると、どうやらここは室内であるとわかった。所々にアンティーク家具が置かれた、広い洋室。見覚えのある配置にそこで漸く、ここが私の泊まっている部屋だと気づいた。だが一体、私はどうしてこんなところにいるのだろう。不思議に思ってまた視線を彷徨わせて、父の後ろに居る人間を目にして、私は慌てて飛び起きた。
「お、お父様! かげつ、じゃなくて、あの金色の目の男の子は!?」
一気に、今まで何をしていたのかを思い出した。
そうだ。そうだった。私は恐る恐る父の後ろにいる男――――正樹さんに視線を向けた。
そうだ、昨日私達は彼から逃げていたはずだった。
思い出すと同時に昨日負ったらしい怪我がじんわり痛み出す。そう、確か私達は、昨日シバザクラの咲く花畑の後ろにある雑木林に逃げ込んで、転んで、それで幻の桜の木の前にたどり着いたはずだった。それで。
「心配しなくても、隣の部屋で寝ているよ。彼は君より酷い怪我だったからね」
混乱する私に、父はことの経緯を説明した。
父が言うには、私と佳月は翌朝、屋敷の玄関前に倒れていたのだそうだ。第一発見者は屋敷のメイド。二人とも傷だらけで倒れていたものだから、大騒ぎになったらしい。そして騒ぎを聞きつけた父がやってきて、状況はわからないがとりあえず急いで私達二人を手当てし、現在に至る、と。
「一体何があったんだい」と問いかけてくる父に、私こそ何があったのか聞きたい気分だった。だってあの後、桜の木を見てから私達二人は力尽きてあの場で倒れてしまったはずだ。屋敷の前まで帰ってきた記憶はもちろんないし、佳月があの怪我で私を運んだとは考えにくかった。まさか桜の木が家まで送ってくれたのかな、なんてファンタジックなことを思いついてまさか、と笑いそうになったが、ここがファンタジーな世界であると思い出して笑えなくなる。
だが、何はともあれ佳月も無事に帰ってこれたようで安心した。怪我もちゃんと手当てしてもらったようだし、と私は胸をなでおろす。けれど次の瞬間、正樹さんの姿が目に入って、そんな気持ちも失せた。
そうだ、まだ佳月は無事であるとはいえないではないか。私は、父の後ろに立つ正樹さんを見上げる。私達が逃げた原因の彼と、そして静音さんの問題はまだ解決していなかった。
思い出すのは、傷だらけの佳月の姿。そして、佳月のあの冷めた笑顔。絶望するでもなく、ただ今の状況を幸せだといったあの佳月を何とかしない限り、彼は無事であるとは言えないのだ。
私は目を伏せる。今の私は彼に何をしてあげられるのだろうか。考えても結局、良い案など見つかりはしない。けれど、私はゆっくりと瞼を持ち上げた。
私はもう見てみぬ振りはしないと決めたのだ。何も出来なくても、やれる限りのことはやってやる。そしてそのためにまず、目が覚めたら一番にやろうと思っていたことがあった。
私はベッドの上で居住まいを正した。そして、急に黙り込んだ私を心配そうに見つめる父に視線を向ける。大きく深呼吸をした。
「お父様」
父に声をかける。
「お願いが、あります」
自分の声は緊張で酷く強張っていた。父は唐突に、そしてやけに緊張した様子の私に若干驚いたような面持ちでこちらを見て、「何だい?」と首をかしげた。
私はぎゅっと手のひらを握りこんだ。心臓がバクバクとうるさく音を鳴らしている。喉が絞まるような感覚がする。だが、逃げてたまるかと思った。そうだ。言うんだ。ここから私は始めるのだから。
私は息を大きく吸い込んだ。
「あの少年を、私の従者にしてください」
震えたその声は、けれど確かに室内に響き渡った。