転変の夜 後編
真っ暗な闇の中ひたすら走る。感じるのは、私と、佳月の生きている音だけ。
佳月の腕は女の私よりも細くて冷たかった。その服の下にはきっと、無数の痣があるのだろう。全速力でかけていくと、佳月の手は次第に熱を帯び、湿り始めた。それは自分の手の体温のためかもしれない腕の脈がどくりと打つ。
全速力で走ることに慣れていない体は、すぐに疲れを訴え始めた。きっと怪我をしている佳月はそれ以上に辛いはずだった。どこかへ逃げなければ、と思う。でもどこへ逃げればいいのだろう。いつだって、逃げ場所はないのだ。私にも、きっと、佳月にも。
ならばどうして、佳月の手を取って走り出したのか。それは自分でもわからなかった。
でも、思ってしまったのだ。今、彼を見捨てることは、自分を見捨てることだと。
口の中は鉄の味がしていた。走るスピードはどんどん落ちて、体はふらつき始める。咄嗟にシバザクラの奥の茂みへと走り出したが、失敗だったかもしれない。木々が生い茂って視界が悪く、確かに人目を避けて逃げるにはうってつけだったのかもしれないが、それは私達にとっても悪いように作用した。行く手を遮る茂みは私達を殊更走りにくくさせる。月明かりは木々によって遮られ、進む先には暗闇しかなかった。前後感覚がおかしくなりそうだ。
どこか。どこかないのだろうか。必死で佳月の手を引きながら思った。逃げ場所などないことは知っている。でも、逃げずにはいられないのだ。
その瞬間、私の足がほつれた。体が傾く。手をつないでいた佳月もろとも体制を崩し、ずっと走っていた勢いに任せて体がどこかへ押し出された。木々が体にあたる。枝が引っかかって、顔や腕にちくちくとした痛みが走る。ぎゅっと目を閉じて勢いに任せたままでいると、体はころころ転がった後にゆっくりと地面の上で止まった。
痛い。走りすぎて、体が重かった。急に動きを止めたためか、心臓も痛くてたまらない。
痛い。しんどい。疲れた。ああ、結局逃げられないのかなと思った。自然と、佳月の手を握っていた力が弱くなる。本当に、どうして佳月の手を取って逃げ出してしまったのだろうか。逃げ場所などなくて、でもずっと逃げ続けてきたけれど、結局安全で平穏な場所などなかった。今だってそうだ。世界は恐ろしいままで、私は背を向けるしか出来ない。もういっそ、このまま眠ってしまいたいと思った。
――――目を開けて、耳を塞いでいる手をどけてごらん。そうしたら
こんなときに限って父の言葉を思い出す。ああ、やはり無責任な言葉だと思った。父はきっと知らないのだ。私の目の前に在る世界の恐ろしさを。だからあんなことがいえるのだ。こんな、痛くて辛くて、途方も無く恐ろしい世界を、一人で見ろと。一人で、立てと。
その時、右手が動く気配がした。熱を帯びたその右手が、私の手を引く。
「ここは……」
少し呆然としたような、佳月の声が聞こえた。
ふわりと、柔らかな花の香りが鼻腔をくすぐる。それに促されるように、私はゆっくりと目を開く。目の前を薄桃色の影が横切った。
――――目を開けて、耳を塞いでいる手をどけてごらん。そうしたら
父の声がまた、脳裏で聞こえる。目の前で、月明かりを浴びてきらきらと輝く、これは。ふわりと柔らかな風が吹いた。前髪が風に揺れて持ち上がる。
――――きっと、世界はお前が思っているより、ずっと美しいから。
心を奪われるほどに大きく、美しい、桜の木が、そこにはあった。
それは、あまりにも神秘的な光景だった。薄桃色が、やけに大きな月の光を浴びて、きらきらと輝きを放っていた。くるくると舞う花びらはまるで、金色に輝く月から光が零れ落ちているようだった。これは。
「魔法樹……」
隣で佳月がぽつりと呟いた。魔法樹。そう言われて、思い当たるものがあった。魔法樹、それは確か、普通の木だったものが、誰かの強い魔力を受けて、寿命以上に生き続けるという樹。樹の命を延命させるほどの強い魔力を込めなければなれないその魔法樹は、別名「想樹」。誰かの強い想いで生きる樹。本で見たことはあったが、本物を見たことはなかった。そして本でさえ、これほど大きな想樹は描かれていなかった。
――――一宮の先祖が、それは愛したという美しい桜の木があるらしいんだよ。それは周りでは「幻の桜の木」と言われていてね、見たものはその美しさに心を奪われ、涙が止まらなくなるんだそうだ。
車で父の話していた言葉を思い出す。そうか、これが「幻の桜」なのか。あの話は本当だったのだ。そして、そうだとするならば、これはもう何千年と生きている樹ということになる。何千年もの間、これほど巨大な大樹を生かしたのだ。誰かの想いが。
――――ああ、なんて美しいのだろうか。
そう思った瞬間、何かがストンと落ちるような心地がした。何だか、体中から力が抜けていくようだった。張っていた色々な糸が切れたようだ。
「りん、さま?」
恐る恐る、という風に、隣から声をかけられた。見ると、戸惑うような表情をした佳月がこちらを見ていた。そして、佳月の、手をつないでいないほうの手が伸びて、私の頬に触れる。そこで漸く私は自分が泣いていることに気づいた。
「……ごめん」
拭っても拭っても、涙は止まらなかった。どうして涙が止まらないのか。そんなものは、自分が一番よくわかっていた。
だって、あまりにも美しかったから。こんなにも綺麗なものが、あるのだと。思い知って、そして、気づいた。そんなこと、この世界が美しいことなど、ずっと前から私は知っていたのだと。放したくなくて、佳月の手を強く握った。強く佳月の手を握る私に佳月の表情は戸惑いの色を濃くした。それを見て、私は笑う。
「結局、初めからわかってたんだ」
父が遠くで「だから言っただろう」と笑っているような気がした。止まらない涙をそのままに私は太寿を見上げる。
こんなに美しいものを見せられては、もう見てみぬ振りはできない。
■
世界は美しい。そんなもの、私はずっと昔から知っていた。だって、この世界は、私がずっと見てきたものだったから。
漫画の中で、主人公が必死になって救おうとしたこの世界は、楽しいことばかりではないけれど、でも、幸せが一杯あって、きらきらして、綺麗だった。本を通して見える世界は、想像の中のものでしかなかったけれど、憧れてやまなかった。だから、自分が生まれた世界がサクオリの世界だと知ったあの日は、本当に嬉しかった。確かに、自分の生まれたポジションは色々な問題を抱えていたけれど、それでも、嬉しかったのだ。
でも、想像していたよりも、世界は私に優しくはなかった。全てはあの日、気づいてしまった。
あの日、和恵さんに殺されかけたあの瞬間。漫画の世界できらきらと輝いて生きていた一宮凜、あれは、「私」ではないのだと、私は知った。
あの日私は、自分が原作よりも早く死んでしまう可能性に気づいた。そしてそれは、私が「凜」ではないから起こる違いであるとわかった。そう。この綺麗な世界に私はもともと存在しない。この綺麗な世界で、私はイレギュラーだ。「凜」のポジションにいたって、それは「凜」じゃない。ここは、私の世界じゃないのだ。
それがわかった途端、私は一気に世界が恐ろしくなった。そうだ。この世界に本当に居るべきは「凜」なのだ。ならば、異分子である私は、世界に拒絶されるのではないか?いやだ、と思った。憧れていたのだ。あの美しい世界に。私は拒絶されたくないと思った。
私は、原作に関わることを恐れるようになった。もし佳月たちに出会って、それで何もできなかったらどうする。それこそ私は思い知らされることになるのだと。この世界が求めているのは自分ではないことを、私じゃなくて「凜」がいるべきだったんだと、この綺麗な世界に、お前はいらないと。関わってしまえば、思い知らされることになる。この美しい世界に、拒絶されるのだ。そう思うと、恐ろしくてたまらなくて、逃げ出すしかなかった。
死にたくなかった。原作の「凜」より早く死んでしまうことが恐ろしかった。誰とも関わりたくなかった。「凜」のように救おうとして何も出来ないのが恐ろしかった。本当に恐ろしいのは、佳月を救うことなんかじゃなかった。世界を滅ぼしてしまうことなんかじゃなかった。
私が本当に怖かったのは――――誰も救えないことだった。誰も救えず、自分はこの世界にとって部外者なのだと思い知ることだった。
救えないと思い知るぐらいなら、救わない。いっそのこと、誰とも関わらずにいたら、救えない事実を思い知らされなくて済む。そう思った私は徹底的に世界を避けた。拒絶されないためにはそれしかなかった。いつしか、美しかったはずの世界を直視するのも恐ろしくなっていた。でも、それでも私はこの世界で生きたかった。幸せになりたかった。大好きな世界に、私を否定されたくなかった。
だからそのためには、仕方がないと思った。この世界で生きていくためにはこうするしかない。目を閉じて、耳を塞いで。世界からの拒絶に、気づかないように。恐ろしい世界で生きるためにはそれしかないから。
でも、そんな私に父は言った。それは、幸せとはいわないし、生きているとはいわないのだと。色んなものに蓋をして、見てみぬ振りをしているだけでは、いけないと。
初めそれを聞いた時、一体お前に何がわかるのか、と思った。世界が美しいなんて、知っている。でもその美しさがこわいのだ。目を開けて、耳を済ませて、それで世界を美しいと感じても、その世界は私を受け入れない。私を拒絶する世界なんて、見たくないし、聞きたくなかった。そうすることが、私にとって一番幸せだと思った。
けれど佳月と出会って、父の言っていた言葉の意味がわかってしまった。佳月の考え方は酷く私に似ていた。佳月は、私だった。理不尽さに耐えさえすれば、幸せになれるのだと佳月は言った。その瞬間、私は思ってしまったのだ。
そうだ。私達は。
「ねえ。きっと私達、ちっとも幸せなんかじゃないんだよ」
随分と下手くそな笑顔だったと思う。あまりに気味の悪い笑顔だったためか、そう言った私に佳月は目を丸くしていた。
世界が美しいことを知っていた。でも、その世界に自分は必要なかった。それが嫌で、怖くて、逃げ出して。拒絶されないようにびくびく怯えながら生きること。それが私なりのこの世界での生き方だった。それを私は、私なりの幸せだと思った。
でも、違う。世界から逃げることの、どこが幸せなものか。生きているといえるものか。
この世界は恐ろしい。でも、美しい。恐ろしくも美しいこの世界は、いつも私を拒絶して、この先も私を拒絶する。そのたびに私は思い知らされる。自分が「凜」ではないことに。けれど。
視界いっぱいに入る桜の大樹は美しかった。握っている佳月の手はまだじんわりと温かく、生きているのだなと感じる。
――――ああ、なんて美しいのだろう。
そう思ったとき、痛感した。やはり何度拒絶されたって、また何度でも思ってしまう。私を拒絶しても結局世界は美しいのだ。そしてその世界を、私は好きにならずにはいられない。この世界で、生きて、幸せになりたいと思ってしまう。
ならばもう、受け入れなければなるまい。向き合わなければなるまい。この世界で生きて生きたいのならば。この世界が、私を必要としないことを。それで、思い知ることになるかもしれないけれど。私は「凜」のようにはなれないけれど。結局何もできないかもしれないけれど。
「あなたを救うなんて大それたことも、きっと私にできやしないけれど。
でもね、それでも――――」
ああ、今度こそ上手く笑えただろうか。
「私はあなたのその目が、とっても綺麗だって思うから」
受け入れよう。今ここにいる私は、何もできやしないということを。それでも、私はこの世界が大好きだから。美しいと思うから。佳月のその目が、とても綺麗だと、思うから。そうして漸く探しにいけるのだ。この世界のために、凜ではない私ができることを。
――――選択肢は二つですね。
記憶の奥底で和恵さんの声がした。逃げ出したい。でも逃げられない。そんな私にある選択肢は、二つだったのだ。
そのまま逃げ続けるか、それとも、逃げていた足を止めて。振り返って、そして自分の限界まで、戦い続けるか。
戦ってみよう。
私が私として、生きるために。