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転変の夜 前編

屋敷に戻り案内されたのは、想像していたよりも小さめのダイニングルームだった。

縦長の机には既に正樹さんと父がついている。

辺りを見渡してみたが、佳月は室内にはいないようだった。




待たせてしまったことを謝罪し、私が席についたところで、食事は始まった。

運ばれてくる料理は家ではあまり見ない料理で、おいしそうな香りを醸し出している。


しかし正直私は、とてもじゃないが食事を楽しめるような精神状態ではなかった。

正樹さんがやたらと父に仕事の話を切り出すのを聞きながら、私は周りに気づかれないように小さくため息をつく。

幾らか口に運んだところで、手を止めた。

駄目だ。どうにも食欲がわかない。


「お父様」


せっかく用意してもらった食事を残すというのは申し訳なかったが、これ以上は無理だ。

私は正樹さんと会話をしている父に声をかけた。


「気分が優れないので、先に部屋に戻ってもいいですか」


その言葉に反応したのは正樹さんだった。


「もしや、お口に合いませんでしたか?」


眉を下げてこちらを見る正樹さんに私は軽く首を横にふる。


「いいえ、ただ、食欲があまりなくて……」


そっと目を伏せてそう言うと、父は「そのようだね」と私のあまり手を付けられていない皿を見て頷いた。


「顔色もあまりよくないようだし、先に部屋でお休み」


そして、思いのほかすんなりと、父は私が退出することを許した。

何か言われるかと思ったが何も言われず、正直拍子抜けしたが、言われないのならばその方がいいに決まっている。

私は席から立ち上がり、父と正樹さんに一礼した。

礼をすると、頭が酷く重く感じた。

体力的にも疲れているらしい。

もう早く寝てしまおう、と扉に向かいながら思う。そうだ。寝て起きたら家に帰れるのだから。

部屋まで案内するよう正樹さんに指示された使用人が、ダイニングルームから廊下につながる扉を開ける。



「そうだ、凜」


部屋をでかかったところで、父の思い出したような声がかかった。

振り返る。父の視線はこちらに向けられていた。


「すっかり聞くのを忘れていたよ。幻の桜の木は、見つかったかな?」


「幻?」


不意の質問に、私は首をかしげる。


「ほら、行くときに話したじゃないか」


そういわれて、そういえばそんな話を来るときにやたらと聞かされたなと思う。

すっかり忘れていたし、思い出さなかったのは桜の木がこの敷地内に一本だって生えているところを見なかったからだ。使用人の誰も、佳月だってその話題は一言もしなかった。


「当主様、そんなものは迷信ですよ。私はここに長いこと住んでいますが、そんなものは見たことがない」


私が父の言葉に返答する前に、言葉を挟んだのは正樹さんだった。


「そうなのかい? それは残念だな」


まるで面白い冗談を聞いたというように声を上げて笑った正樹さんに、父も目を細めて笑いながら肩をすくめた。

そしてそのまま


「さぞ美しい花だろうから、お前に見せてやりたかったんだがね」


と酷く残念そうな声色で呟いた。


私はもう一度二人に頭を下げて、部屋から退出した。











父は世界を美しいという。

だから見せたいと、見るべきだと、私に言った。

それはなんて身勝手で、無責任な言葉だろうと、私は思う。


いつだって世界は私に厳しいだろう。

世界を直視してしまえば、きっと世界は私に牙をむくのだ。

そう、たとえ父の言うとおり、世界が美しいものだったとしても。

きっとその美しささえ、私にとっては恐ろしいもの以外の何ものでもないのだ。




瞼を持ち上げて辺りを見渡すと、室内はまだ真っ暗だった。

あの後部屋に戻りすぐに眠ったのだが、眠りは思いのほか浅かったらしい。

疲れていたはずだし、現に今も体のだるさは残っているが、何故か妙に目が冴えていた。

ベッドの傍に取り付けられた窓からは、月明かりが差し込んでいる。

僅かに暗いとはいえ、明かりをつける必要はなさそうだった。



室内はシン、と静まり返っていた。

部屋に時計はないから何時かはわからないが、恐らくもう真夜中と呼べる時間なのではないだろうか。

私はベッド脇の窓に近づいた。


夜だというのに外はぼんやりと明るかった。

窓からは、ちょうど今日の夕方父と訪れたシバザクラの咲く庭が見える。あまり屋敷の構造について考えていなかったが、この部屋はどうやら裏庭側にある部屋だったらしい。

月明かりに照らされるシバザクラは窓から見る分にも十分に美しかった。この部屋が用意されたのはこういうことを意図してだったのかもしれないと考える。

月に照らされ光るシバザクラは、まるで魔法の絨毯のようだった。

昼間見たときも美しかったけれど、夜の方が私は好きだなと思った。


そうして窓辺に立ったまま、ぼんやりと庭を見下ろしていたときだ。

ふと、花畑の奥にある木々の茂っている場所に目が行った。

そこが何だか微かに動いたように思えたのだ。

こんな自然豊かな場所なのだから、何かの動物だろうか、と目を凝らしてみて――――そこにあるものを見た瞬間、私は、慌てて部屋を飛び出した。


廊下に響く自身の乱暴な足音で、誰か起こしてしまうかもしれないと思ったが、気にする余裕はなかった。

長い廊下を抜け、階段を降り、玄関から外へ飛び出す。

向かうのは先ほどまで見ていたところ、シバザクラの咲く裏庭だった。



荒い息遣いが夜の冷たい空気を揺らす。

運動不足のためかじんわりと額に滲んだ汗を拭って、私はそこへゆっくりと近づいた。

ちょうど先ほど窓から見えていた辺り。

花畑の奥にある茂みに近づいて、私の足は止まった。





「思いがけない時間帯に会いましたね。こんばんは、凜様」


月明かりを避けるように、茂みの中に座り込んでいた彼は、少し意外そうな声色でそう言った。

夜よりも深い黒髪の隙間から覗くその瞳の色は、昼間よりもいっそう輝きを増しているように見えた。


「どう、して……」


荒い息は中々収まらない。

かすれた声でそう問いかけると、その場に座り込んだ彼は困ったように笑う。

夜の闇にまぎれるように、傷だらけの佳月がそこに座り込んでいた。







どうして。


その言葉には二通りの意味があった。

どうして佳月がここに、こんな傷だらけで座り込んでいるのか。

そしてどうして――――それを見つけて、ここまで飛び出してきてしまったのか。


あの瞬間、窓から佳月を見つけた瞬間、私は頭が真っ白になった。

それは所謂、衝動のようなものだったのだろう。

頭が何かを考える前に、体は勝手に動いていた。



息を整えるように私は一度大きく息を吸って、吐いた。

ばくばくとうるさい胸を押さえながら、私は佳月を見る。

座り込んでいる佳月の怪我の様子は、酷いなんてものではなかった。

頬は赤く腫れ、唇は血が固まったのか黒ずんでいた。腕は紫色に腫れあがり、膝からは血が流れている。

首筋に入った赤い線と、どこかぐったりしたような佳月の様子から、何かで首を絞められたのかもしれない。

こんなこと。こんなことをする人間を、私は一人しか思いつかなかった


「これは……正樹……さんが?」


声は情けなくも震えていた。

いや声だけではない。体全身が震えていた。

今日の昼、彼を呼び出したのが本当に静音さんだったのなら。もしかしたら、夕方帰ってきた正樹さんがその事実を知って、彼を痛めつけたのかもしれない。

震える私を目の前に、しかし当の本人はけれどまるで何てことないように、笑った。


「まさかこんな時間にこちらへ来られるとは思いもしておりませんでした。ご希望とあれば、夜でも庭をご案内しましたのに」


まるで怪我などないような、そんな口ぶりだった。

その笑顔はそう、夕食前に見た笑顔と同じだった。静音さんに付けられた傷をたいしたことはないと言った時の顔と同じ。

それはまるで、あの傷もこの傷も、彼にとっては大差ないのだと言っているようだった。

私は唇を噛んだ。


こんなにも。

こんなにも、酷いだなんて、思っていなかったのだ。

脳裏には原作の佳月が思い浮かぶ。

そう、原作でだって、傷だらけの佳月の姿は描かれていた。けれど、違う。

今こうして目の前にある佳月は、想像していたもの以上だった。

こんなのを、彼はもう何十回と繰り返しているというのか。

こんな、酷いことを。



「と、とにかく、手当てを、しないと」


混乱した頭が漸くはじき出したのはそれだった。しかし手当てをするにも、道具もなにも持っていないし、こんなに酷い傷を手当した経験もなかった。

私だけではどうにもできない。


「ま、待ってて。すぐに誰かを呼んできますから」


結局行き着いた考えは誰か大人に頼るというものだった。しかしそれ以上の方法はあるまい。大きい屋敷だから、専属の医者もいるかもしれない。

そう考えて私は佳月に背を向ける。

しかし、私が行くのを咎めるように、右手を佳月につかまれた。


「お心遣い感謝します。しかし、呼びに行かないでいただきたいのです」


「な、ど、どうして!?」


佳月の言葉に、私は進みかけていた足を戻して振り返る。

佳月は困ったように笑っていた。


「私が怪我をしていることを、屋敷の人間に知られたくないのです」


その言葉に、私は目を見開いた。


「そ、そんなの、みんな、気づいているに決まってるじゃない!」


こんな怪我をするのは今日が初めてではないはずだ。

そしてその事実を、屋敷に居る人間で知らないものはいないはずだ。

隠す意味がないと声を荒げる私に、佳月は静かに笑った。


「そうですか? このまま私が何も言わなければ、彼らは何事もなかったように私に接してくれますが」


唖然とした。

それは言外に、屋敷にいる全員が見てみぬ振りをしているのだと。そう言いたいのか。

佳月は言葉を失う私に、また笑みを深めた。


「そんな顔をしないでください。私にとってはその方が都合がいいのですよ。もしあなたが彼らに私の怪我を伝えてしまったら、彼らは見てみぬ振りができなくなるでしょう?

そうなると、旦那様たちのことも見てみぬ振りができなくなる。それは私の望むところではないのです」


佳月の声は、まるで私を宥めるようだった。

私は棒立ちになったままで、その言葉を聴いていた。


「どういう理由でかはわかりませんが、あなたは私の事情を知っているようだ。

けれど、私のためを思うのならば、どうか何も言わないでいただきたいのです」


佳月の笑顔は美しいが、どこか酷薄に見えた。



その時、遠くのほうから太い男の声が聞こえてきた。

その声は誰かを探しているようだった。


「ああ、もう時間ですか」


その声が正樹さんの声だと気づくのと、佳月が立ち上がるのは同時だった。

ふらふらとしながらも立ち上がった佳月は、数度その場で、動くかを確かめるように足踏みをした。


「最後までお付き合いできず申し訳ありません。しかしもう夜も深く、気温も低いですから、できるだけお早めにお休みくださいね」


そう言って、佳月は恭しく頭を下げた。

怪我を感じさせないほどに、丁寧な礼だった。



「どうして……」


震えは止まらない。

弱弱しい声は、ここから立ち去ろうとしていた佳月の足を止めた。


「どうして、そのままでいいと思えるの……?」


振り返った佳月は、不思議そうな顔をしていた。

私はそのままずかずかと佳月に近づいて、その胸倉を掴む。


「どうして、そのままでいいと思えるの!? 助けを求めたらいいじゃない! 逃げ出したらいいじゃない! あなたなら、この家をでて、どこへだって行けるのに!」


何故こんなに憤っているのだろうかと、自分でも不思議な心地だった。

そして何よりも、言っていて、どこか白けている私が居た。そんなこと私が言えたことか、とどこか遠くでもう一人の自分が囁いている。

だって私は彼を見捨てようとしていたのだから、と。

でも、だって。知らなかったのだ。本当に。

こんな酷いとは、まるで、想像していなかったのだ。

知っていたら。知っていたら私だって。


「ならば、あなたは、私を助けてくれるのですか?」


胸倉を掴む私に向かって、どこか冷めたような声色で、佳月は言った。

その言葉に、私の体は硬直する。


知っていたら。彼がこんな怪我をしていると知っていたら、私は彼を助けたのだろうか。

今ここで、傷だらけの佳月を目の前にして、そんな彼から「助けて」と言われたなら。

私は彼を、助けるのだろうか。

固まる私に、佳月は酷く穏やかに笑った。



「助けを求めたら、誰かが助けてくれる。そんな保障が、どこにあるんでしょうか。

逃げ出す? 逃げ出して、どこへ行くのでしょう? 行き着く先など、私には一つしか思い浮かばない。あなたはご存じないでしょうか。後ろ盾も何もない人間が行き着く場所を。そこへ戻ったとして、それで私は一体どれぐらい生きながらえるでしょうか」



佳月は、もう握っているとは言えないほどに弱く胸元の服を掴む私の右手に触れた。

自然と服から手が離れる。


「ここにいればまず死なない。

黙って彼らの欲望を受けていれば、それで、屋根のあるところで寝られて、食事も出てくる。ある程度のものならば、望めば手に入る」


私の右手に触れていた佳月の冷たい右手がゆっくりと離れていく。

佳月はうっそりと笑った。


「これ以上の幸せが、あるのでしょうか」


――――何も出来ないぐらいなら、下手に関わらないほうがお互い幸せなんじゃないですか。



自分の言葉が脳裏に響く。

笑う佳月を見て、思った。

これは。




これは、私だ。







そこは何か大切なものを犠牲にして、手に入れられる場所で。

それでも、自分にとって安全で、そして幸せとよべる場所。

居心地が良くて、いっそこのままずっとここにいれば、救われるのではないかとさえ、思えて。



幸せのために、自分の周りにあるものを見てみぬ振りする私と、幸せのために、自らの尊厳も何もかも見てみぬ振りをする佳月。


ああ、でもそれって。




――――いいかい、凜。


夕方に見た父の笑顔が思い出される。

シバザクラを背に立つ彼は、優しげな瞳を細めて言った。


――――何か一つでも諦めた時点で、それはもう、幸せとは呼べないんだよ



私達の今は、幸せといえるのだろうか。生きていると、いえるのだろうか。







「おい! 早く出て来い!」


佳月を探す声が近づいてきた。

佳月は静かに私に背を向ける。


私の体は、反射的に動いていた。



「……何を!」


佳月が驚いた声を上げる。

だがそんなもの気にする余裕はない。

それは、窓から佳月を見つけたときの衝動と同じだった。


「行こう!」



ただ、無我夢中だった。

私は、佳月の手を取って、走り出した。






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