恐ろしいもの
父と正樹さんは、日が沈みかけた、辺りが茜色に染まる頃に帰宅した。
「凜! ああよかった。心配していたんだよ」
帰って早々父は私を見るやいなや、突進するような勢いで私を抱きしめた。
それは、あれこれ抱えていた戸惑いも吹っ飛ぶような凄まじい抱擁だった。
「お、お父様……苦しい、です」
「いやすまない。つい嬉しくてね」
首に回された腕を叩いてそう訴えると、父は思いの外すんなりと私から体を離した。
体を離して私の顔を覗き込んできた父の顔は、それはもう満面の笑みとも言えるほどの笑顔だった。けれどそこには、微かに疲れの色が滲んでいる。
「やはりどんなに嫌な仕事でも、お前の顔をみるだけで疲れが吹っ飛ぶね」
その「嫌な仕事」相手だった本人が居るにも関わらず、父はきらきらしい笑顔でそう言った。
私の顔の輪郭を確かめるように頬に触れてくる父の手を受けながら、私は苦笑いを禁じえない。
想像していたよりも、父たちの帰宅は早かった。
正直夕食ごろというから、もっと暗くなってからだと思っていたのだけれど、まだ夕食には少し早い、夕方と呼べる時間帯に父たちは帰って来た。
何でも、思いのほか仕事が早く片付いたらしい。いや、父の口ぶり的に早く終わらせた、と言うほうが正しいのか。
父の言い分としては「今日は休暇だから仕事をする義理はない」ということである。
何にしたって、父が早く帰ってきたことは大変喜ばしいことだった。
だって、これで漸くここから出られるのだ。
普段なら避ける父のスキンシップを甘んじて受けたのも、漸く帰れるという安堵が何よりも大きかったからだった。
とにかくここから立ち去りたかった。
しかしその希望は、いとも簡単に消えうせることになった。
「いやね、何としても今日凜と一緒に花を見たかったんだよ」
目前には、夕日に照らされたシバザクラが咲き乱れている。
私の手を引く父は、爽やかな笑顔を私に向けていた。
どうしてこうなった。そう思うのも今日で何度目だろうか。
父が帰ってきたのならすぐにでも家に帰りたかった私に父が口走ったのは、「さあ、花を見に行こう」という言葉だった。
「だって、今回の旅行の目的はお前と花を見ることなのに、私はまだ入り口の花しか見れていないんだよ?」
そう、どこか拗ねたような口調で父は私に言った。
「まだ私は全く休暇を楽しめていないんだ。せっかく花屋敷と呼ばれるほど広大な敷地にいるのに、私が見たのは門から屋敷までのほんの数メートルに咲く花だけ。休暇の収穫がこれだけだなんて、あんまりだとは思わないかい?」
「ねえ?」と父に訴えられて、私は思わず父から視線をそらす。
どこか子どもじみた口調でそう言う父は、不満げな表情を隠そうともしていなかった。
あまり見たことのない父の様子に、どうすればいいのか戸惑う。
「えっと、でも……」
逡巡して、恐る恐る口を開いた。
「実は私、あまり体調がよくなくて。また倒れてご迷惑をおかけするのも嫌ですし……。ですから、出来るだけ早く、家に帰りたいと思うのですが」
とりあえず帰りたいのだという意志を、当初の予定通り父に伝えてみる。
伺うように父を見ると、父は不満げな顔をしまって、今度は思案するような顔をしていた。
「そうだね。確かにお前の体調も心配だ」
確かめるように顔を覗き込まれてぎくりとする。
だが至近距離に父が居る恐怖から、恐らく青ざめている顔のおかげで、体調の悪さは十分にアピールできているはずだった。
父は暫く私の顔を覗き込んだあと、そのまま「大丈夫だよ」と笑う。
「お前の言うように。できるだけ早く家に帰ろう」
父のその言葉に、翳っていた心が晴れるような心地がした。
自然と顔が上がる。
「じゃあ」と、期待を隠し切れない私の声に応えるように、父は「ああ」と一つ頷くと
「大丈夫。明日の朝には帰ろうね」
優しげな笑顔でとんでもないことをのたまってみせた。
父に手を引かれて連れて来られたのは、この、屋敷の裏手にある庭だった。
入り口から歩いて数分もかからないここならば、夕食までの僅かな時間でも来られると踏んだらしい。
正直、ここまで心が疲れたのは久しぶりだった。
今すぐ、あの薄暗い自室にある布団にくるまって眠りたかった。
しかし、そうは問屋が卸さない。
どうにも父は、最初からここで一泊するつもりだったようだった。
実は父がここから仕事へ向かう前に、一度私を家に帰そうかとも考えたらしい。しかし、私の体調を考慮した結果、長距離を車で移動させるよりは一泊ここで様子を見たほうが良いと判断したのだと、父は言った。
つまるところ、最初から私に今日中に帰るという選択はなかったのである。
どっと疲れが一気に押し寄せてくる心を抱えた私の視界には、満足げな様子の父がいた。
シバザクラは確かに美しかったが、それでも父と並んで見る気にはなれなかった。
帰れないのだ。とうとう。
辺りは薄暗くなり、夜の訪れを告げていた。
父から少し離れた位置に立って、空を見上げて見る。
あんなに太陽が沈むのを心待ちにしていたのに、今度は早々に昇ってきてほしくてたまらなかった。
けれど。
私は空から視線を外して、シバザクラを見る父の背中を見た。
そして思案する。
逆にこれは良い機会なのではないだろうか、と。
無論、佳月のいるこの家にあと何時間も滞在しなければならないというのは憂鬱だ。絶望しかない。
しかし、一つだけ、今このタイミングでしか出来ないことがあった。
家に帰ってしまえば、恐らく当分は会話をする機会はないだろう。
ならば、今のうちに聞いておいたほうがいいのではないか。
そう。父に、何故私と佳月を出会わせたのかということを。
「あの、お父さ」
「ところであの子――――あの、金目の男の子とは仲良くなれたかい?」
私の言葉に被せるように、今まで黙っていた父が、唐突にそう問いかけてきた。
私は言いかけた言葉を飲み込む。
先手をとられた。そんな気分だった。
「歳も近いし、話も合うかな、と思ったんだけど。どうだい? 何か話せたかな」
「それは……」
私が言おうとした話題を父のほうから振られて、言葉に詰まる。
父は私のほうを振り返ることなく、背を向けたまま悠然とそこに立っていた。
その背中と、父の問いかけに昼間のことを思い出して、苦い気持ちになった。
いけない。これでは父の思う壺だ。相手に主導権を握らせてはならない。
「……お父様はどうして……私と彼を引き合わせたのですか」
私は気を取り直すように、もう一度、自分がしたかった質問し返した。
言外に、「歳が近いから」なんて答えを求めては居ないのだという思いを込める。
父は「質問に質問で返すのはあまり感心しないなあ」と冗談交じりにそう言って笑った。
それでも私が何も言わずに父の返答をじっと待つと、少し間を置いてから「そうだな」と静かに言葉を漏らした。
「そうだな。似ていると、思ったからかな」
まるで花を吟味するように父がゆったりとした足取りで花畑の近くを歩き出す。
「似ている……?」
時折立ち止まっては愛おしそうに花に触れるその姿を直視できない。
私もまたシバザクラの方へ視線を向けながら、父の答えを繰り返すように問う。
「そう。お前とあの子はよく似ている。
だからきっと話せば、仲良くなれると、そう思ったんだよ」
父は優しい声色でそう答えた。
私は微かに眉間に皺がよるのを感じた。
「仲良くなんて、なれるわけありませんよ」
素直な気持ちだった。
しかし、思いのほか声は少し強張っていた。
「どうして?」
「……どうしてって」
矢継ぎ早に聞き返されて、言葉に詰まって、俯く。
また昼間の、彼に手を伸ばしたあの瞬間を思い出した。
あの時、咄嗟に口をついて出かけたのは、凜と佳月の出会いの言葉。
――――まるで、お月様みたいだわ。
そう言って笑う彼女に、佳月の心は救われる。
原作のあのシーンを思い出すと、私は何も言えなくなった。
そう。だって、彼を救ってしまえば、世界が滅ぶフラグが建ってしまうから。
だから、私と彼はあれ以上近づいてはならない。
そう。仲良くなってはいけないのだ。
「お前は、恐ろしいんだね」
その言葉に、思考が凍りついた。
父はいつのまにかこちらを振り返っていた。
振り返った父のその瞳は、私の全てを見抜かしていた。
息を呑む。
それはまるで確信をつくように、鋭く私の胸に刺さった。
「向こうもお前と同じ気持ちなのかもしれないね」
父は何かを思い出すように目を伏せる。
「……私、は」
父から視線をそらして、何とか反論の言葉を探すが、見つからない。
父はそんな私を見て小さく笑ったようだった。
父の澄んだ青い瞳が、私をジッと見つめているのがわかる。
私は途端に息苦しくなった。
「じゃあ」
喘ぐように、言葉が落ちた。
「じゃあ、関わって、私に出来ることって何ですか」
声は思いのほか辺りに冷たく響き渡る。
「何も出来ないぐらいなら、下手に関わらないほうがお互い幸せなんじゃないですか」
するすると、心にあったものが吐き出されるようだった。
父はそんな私を見て困ったように笑った。
「凜。違うんだよ。そういうことじゃない」
そしてゆっくり私に近づいてくると、そっと、今日ここに来たときと同じように私の頭に手を置いた。
「何が出来ない。何じゃいけない。何が足りない。そういうことではないんだよ」
吐き出される言葉は優しく、砂糖菓子のように甘い。
私は恐る恐る顔を上げる。
「いいかい、凜。
何か一つでも諦めた時点で、それはもう、幸せとは呼べないんだよ」
目前にいた父は、そう言って、いつものあの、穏やかな笑顔で笑っていた。
■
この世界は、恐ろしい。
それが、私の見解だ。
一歩間違えれば、滅んでしまうかもしれない世界。
一歩間違えれば、今すぐにでも死んでしまうかもしれない世界。
この世界は恐ろしく、だからこの世界を構成する佳月とは、私にとっては恐れるべき対象だった。
佳月という人間は、色々な物が不足している人間だ。
その最たるものは、人並みの「感情」というものだろう。
「凜」と出会うまでの彼の心は、まるで中身のない、空っぽの器のようだった。
そこに人間らしさを入れたのが「凜」だった。
彼は「凜」に出会って初めて、感情と言うものを知るのだ。
そして「凛」によって初めて、救われる。
そう。佳月を救うのは「凜」。「一宮凜」だけなのである。
風が草木を揺らす音しか聞こえないそこは、酷く静かな場所だった。
ここには今、私しかいない。
父は、「少し考えてごらん」と言って、一足先に屋敷へ帰っていった。
ぼんやりと庭の花を眺めながら、私は立ち尽くす。
「凜様」
後ろから私を呼ぶ声がした。
のろのろと振り返って見ると、恭しく頭を下げた佳月が立っていた。
「間もなく、お夕食の時間でございます」
もうそんなに時間が経ったのだろうか。
どうやら彼は私を連れ戻すように言われて来たようだった。
頭を下げたままの佳月をぼんやり眺める。
彼は頭を下げたまま、「それから」と言葉を付け加えて言った。
「午後は、あのままお傍に戻ることが出来ず、申し訳ありませんでした」
申し訳なさそうな声色で告げられる謝罪を、私はまたぼんやりとした気持ちで聞いていた。
「構いません、大丈夫ですよ」と、告げる自分が、どこか遠くに居るように感じた。
「ありがとうございます」
佳月は私の言葉を聞くと、下げていた頭を上げた。
そして視界に現れた佳月の顔を見て、私は漸く我に返る。
「傷が、」
佳月の頬には、何かに引っかかれたような線状の傷が数本出来ていた。
昼間にはなかった傷だ。
佳月は自分の手でその傷に触れて「ああ」と苦笑いをこぼす。
「どうぞ、お気になさらないでください。大した傷ではございませんので」
静音さんにつけられたのかもしれない、と直感した。
というよりも、それ以外に考えられなかった。
白い頬に走る三筋ほどの赤い線は痛々しい。けれど佳月は笑みを絶やさない。
「痛く、ないの?」
「ええ、全く」
不意にその頬に手を伸ばしかけて、浮かべられる笑み慌てて手を引っ込めた。
それは、相手の心を掴むような、綺麗な笑みだった。
しかしそこに、明らかな拒絶があるのを感じた。
佳月の笑顔は常に作り物めいている。
佳月の笑顔は、相手と自分との間を断絶するための、壁だった。
「……後からすぐに行くので、先に戻っていてください」
胸がちくりと痛んだ。それは、彼らを見てみぬ振りするときの痛みと少し似ていた。
私の言葉に、佳月は「かしこまりました」と笑顔のまま一礼する。
そして「そろそろ冷えてきましたから、できるだけお早めにお戻りくださいね」と、心配そうな声を滲ませて、私に背を向けて去っていく。
彼は恐らく欠片も私を心配していないのだろうな、とその背中を見ながら思った。
「凜」と出会う前の彼は、そういう人間だった。
相手の都合の良いように、自分を嘘で塗り固めている人。
私はそっと自分の両の手のひらを見つめた。
結局また私は、彼に手を伸ばさなかった。
――――お前は、恐ろしいんだね。
父の声が脳裏に反響する。
ああその通りだ、と思った。
私は彼と仲良くなれない。
それは、彼を救ってしまえば、世界が滅ぶフラグが建ってしまうから。
世界を守るためには、仕方がないから。
――――いいや。違うのだ。
私は去っていく佳月の背中を見ながら自嘲した。
私は彼に手を伸ばさない。
それは、私の言葉は彼に届きやしないと思ったから。
私には出来ないと、思ってしまったから。
佳月を救うわけにはいかない?
そんなこと、よく言えたものだ。
違う。
救うも何も、私に彼を救えるだけの力なんてありはしないのだ。
救ってしまうかも、なんて、愚かな考えにもほどがある。
本当に恐ろしいのは、彼を救うことなんかじゃない。
世界を滅ぼしてしまうことなんかじゃない。
私が本当に怖かったのは――――
蓋をしていたものから、またじわりと何かがあふれ出す。
その恐ろしさに、私はまたそこから目をそらした。