混濁した記憶
「どうして? どうしてこんな残酷なことができるの!?」
目に涙を浮かべた少女は、目の前の青年を問い詰めた。青年は少女の頬をつたっていく大粒の涙をみながら、笑みを浮かべる。それはすべてを諦めたような昏い笑みだった。
「君が世界を救おうとする理由と同じだよ。
君は世界を愛しているから、俺を許せず、倒そうとしている。
俺は彼女を愛しているから、この世界を許せず、滅ぼそうとしている」
「そんなこと……そんなこと、彼女は絶対、望まないわ……!」
「そうかな。そうかもしれない。でも、そうだとしても、もう駄目なんだよ」
青年は、涙が伝う少女の頬にゆっくり手を伸ばした。砂塵と、血と、涙で汚れた少女の頬とは対照的に、少女の頬を撫でる青年の手は不健康なほど白く、美しい。呆然と青年を見上げる少女に、青年はよりいっそう笑みを深めて言った。
「彼女のいないこの世界を、俺は愛せない」
少女の頬に、青年が爪を立てる。少女が僅かに顔を歪めた。それをを愉快そうに見ながら、青年はまるで愛の言葉でもささやくように、少女の耳に囁きかけた。
「だから、復讐するんだよ」
この、世界に。
息が詰まるような苦しさから唐突に目が覚めた。体を起こせば、額から汗が滴り落ちる。ここはどこだろうか。見渡すと、そこは慣れ親しんだ自分の部屋だった。瞬間安堵するが、自身が今見たものにすぐにまた震え上がる。
酷い夢を見た。
いや、あれは決して夢ではない。私は、思い出してしまったのだ。
「まさか、この世界が、『サクオリ』の世界だなんて……!」
『桜の檻』通称、サクオリ。それは、前世で私がドはまりしていた恋愛ファンタジー漫画である。舞台は、龍や魔法が普通に存在するファンタジー世界。
その世界にはかつて龍がいた。龍は強大な力を持ち、その力を使って世界を破滅へと導いた。しかしそれを阻止せんと現れた「巫女」と呼ばれる存在によって龍は封印される。原作の漫画はその封印から数百年後の世界。世界を滅ぼすため、封印された龍の復活を企んだ何者かを倒すために主人公が奮闘し、最終的に世界を救うというものだ。
実は主人公の正体がかつて龍を封じた「巫女」の子孫、というありがちな設定もあるが、主人公が「巫女」として成長していく姿や、魅力的な登場人物たちとのやりとり、そして恋愛模様が面白くて、これ以上ないというぐらいにはまった。私もこんな恋をしてみたい、なんてことも思った。
しかし、だからといって、その世界に転生することになろうとは。いや、転生したのはまだ百歩譲って許そう。重大な問題はそこではない。私が生まれ変わったポジションだ。
「どうして今まで思い出さなかったんだろう……」
「一宮凜」とは、この世界の今後に大きく影響するキャラクターなのだ。別に、主人公の仲間だとか、敵だとか、そういうポジションというわけではない。そもそも「一宮凜」とは、原作開始時点でもうこの世にはいない。そう、彼女は原作が始まる前に死んでいるキャラクターなのだ。
では何故、物語に大きく影響するのか。
それは、龍を復活させようと画策した「何者か」が、世界を滅ぼそうとした動機が、「一宮凜」にあるからだ。
そう、その何者か――――「佳月」。彼は「一宮凜」の従者だった。「一宮凜」を異常なまでに崇拝し、依存していた彼は、彼女を失ったことで、世界の破滅を望むようになるのだ。
「何もこんな重要なポジションに生まれ変わらなくても……」
私をこの世に転生させた神様がいるのなら、恨む。
とにかく、私が今早急に対策を練らなければならない問題は二つだ。一つは私が原作前に死ぬということ。原作では、凜は14歳で死ぬ。原作が始まるのはその2年後からだ。彼女が死んだことによって、あの物語では色々な人の歯車が狂い、多くの人が命を落とすことになる。これは何としてでも回避しなければならない問題だ。ましてや世界滅亡だなんて、タチの悪い冗談にもほどがある。
それに関連している問題としてもう一つ。それは「佳月」の存在だ。彼は、「一宮凜」に救われることで、彼女を慕うようになり、そんな彼女を失うことで、世界を恨むようになる。つまり、私が彼と出会い、彼を救ってしまうことで、世界滅亡のフラグが立つのだ。しかし、私は生まれて五年、家族やお手伝いさん以外の人と会ったことがない。そう、私はまだ佳月と出会ったことがないのだ。確か、凜と佳月が出会うのは、凜が8才のときだったはず。まだ出会っていないのなら、彼に対する対策を考える余地もまだある。
と、二つの問題を考えたところで、もう一つ大きな問題が発生した。原作前に死ぬ、という絶対に避けなければならない問題の対策を練ろうにも、なぜか私は「一宮凜」が死んだ理由を思い出せないのだ。急激に頭に大量の情報が送り込まれたためかまだ頭がぼんやりとしており、そのためだと思われる。ある程度頭の中を整理できたら、おのずと思い出せるだろうか。いや、何としてでも思い出さなければならない。死を回避できずに死んでしまえば、世界崩壊へのフラグになりかねないし、何より私はまだ死にたくない。
私は私の死亡フラグを折り、世界滅亡フラグも折ってみせる。
とにかく、まずは今の自分の状況を確認しよう。部屋で寝ていたことからして、壁画をみて気絶した私を父が運んでくれたのだろう。そういえば、昨日父は、恐らく私にとても重要なことを話そうとしていたはずだ。それを聞く前に気絶してしまったのは、なんと言うか、本当に申し訳ない。父はまだ家にいるだろうか。障子の向こう側はもう明るく夜が明けているようだから、さすがに仕事に行ってしまったかもしれない。
布団からおきあがり、とにかく誰かを呼ぼうと、障子に近づく。そこでふと、生まれたときからずっと部屋に置かれてある鏡台が目に入った。一つ気になることがあって、鏡台にかけられていた布をはずし、その鏡に自分の姿を映す。
そこに映っているのは、黒い髪に、青い瞳の少女だった。
――――そう、私がこの世界のことに気づかなかった原因は、これにもあると思う。違うのだ。原作の「一宮凜」と、顔が。髪の色も目の色も同じだし、雰囲気はまんま「一宮凜」なのだが、顔のつくりが全く違う。原作の凜は釣り目でどこか気の強そうな面立ち立ったのに比べて、私の顔はたれ目でちょっと気が弱そうだ。なんでこんな変化が起きてしまっているのかわからないけれど、考えられる理由としてはこの体の中の魂が一宮凜のものではないから、かもしれない。
まあ、どちらにしたって、目の色が青い日本人なんて滅多にいないことに気づくべきだったが。それも恐らくは転生したことに影響しているのかもしれない。私は自分の目が青いことも、そして、その元の父の目が青いことにも全く違和感を持っていなかったのだ。この体と脳はこの世界のものだから違和感を覚えなかった、という考えしか今は思いつかない。
考えることは山積みだなあ。私は一つ溜息をついて、再び鏡台に布をかけた。