見えない意図
「どうぞ。ここは今の季節、一番美しい場所だと庭師から伺っている場所です」
目の前で綺麗に笑みを作った佳月がそう言った。甘いような、苦いような、独特の香りが、緩い風に乗って運ばれてくる。一面には、目がくらみそうなほどに黄色く染まる、菜の花畑があった。
あの後私は、佳月に連れられて庭まで出てきていた。あのままあの部屋で佳月と二人きりでいるよりは外に出たほうがマシだと思い、私は佳月の誘いに承諾したのである。しかし、外に出てみたものの、状況は良くも悪くも変わっていなかった。目の前には佳月。周りには誰もいない。時たま気を使っているのか佳月がこちらに話を振ってくるものの、ぎこちない返事しか出来ず、居心地の悪い空気が私達を取り巻いていた。
いっそ逃げ出してしまえばよかっただろうか。あまりの居心地の悪さにふとそう思う。佳月を突き飛ばして逃げていたら、こんな変な空気にはならなかっただろうか、と。しかし、佳月は、父は今日の夜には帰ってくるだろうと言った。ならば、ここから逃げ出すよりかは、この空気に耐えて父の帰る夜を待つほうがよっぽど賢明なように思えたのだ。
「き、きれいですね」
一面に咲き乱れる菜の花は見ていて気持ちを幾分か和ませる。私は、すぐ傍に立っている佳月から離れるように、菜の花畑へと駆け寄った。後ろからついてくる気配があったが、それでも、姿が視界に入っていないだけで大分気の持ちようが違う。そっと菜の花に触れながら、佳月に気づかれないように小さくため息をついた。
空に昇っている太陽はまだ真上のほうにあった。燦々と温かい日差しを注ぐ太陽は、まだ沈む気配を見せない。今の正確な時間はわからないが、日没まで、恐らくまだ数時間はあるだろう。父はいつ、帰ってきてくれるのだろうか。あれほど一緒にいるのがいやだった父が、今は恋しく思えた。
父と佳月、どちらが怖いかといったら、どちらも怖いのは間違いないが、まだ父のほうが免疫はあった。何より佳月に関しては、私が死ぬ死なないどうこうの問題ではなく、世界規模の問題になってくるのだ。緊張感の種類も違ってくる。
私は菜の花から視線をそらして、そろりと視線を隣に向けた。すぐ横には、花を見ている佳月が立っている。花に囲まれて立つ彼の姿は、まるで一枚の絵のように見えた。前髪が少し長いのは、あの特異な瞳を隠すためだろうか。それが返って、彼が何を考えているのかわからなくさせていた。
――――そもそもの話、どうして正樹さんは佳月を私の元へ差し向けたのだろうか。佳月の姿を見つめながら、胸の中にあった疑問を再び巡らせる。彼の瞳からしても、今の状況からしても、正樹さんは彼を積極的に人前に出したいとは思わないと思うのだ。佳月に対して正樹さんや静音さんがしていることは、一般的に見れば犯罪だ。佳月の性格からして人に告げ口をしたりしないと思うが、それでも積極的に人前に出したいとは思わないだろう。原作を思い出す限り、静音さんはともかく正樹さんは、まだ自分のしていることに後ろめたさを感じていたから、「隠したい」と思っているはずだし。だからこそ私は、自分から会いに行かない限り、佳月と出会うことはまずないと思っていたわけでもあるし。
けれど佳月は私の傍に置かれた。何故、正樹さんは彼を私の傍に置くことを許したのだろうか。私が子どもだから、構わないと判断したのか?でも、これでも私は当主の娘だ。私から父に何か言えば、正樹さんはすぐに怪しまれることになることくらい、わかっているはずだ。
では一体何故――――
「どうかされましたか?」
ぼんやりと考えを巡らせていた私の耳に、まだ声変わりをしていない、原作よりも少し高めの佳月の声が入り込んできた。ハッと我に返る。気づくと、花を見つめていた佳月が、ジッとこちらを見つめていた。
「あの、えっと……」
思いのほか長く見つめすぎていたらしい。慌てて視線を佳月から外す。しかし、不自然な私の様子に佳月の怪訝な視線は止まなかった。伺うようにジッとこちらを見られ、何か言わなければ、と思う。
「えーっと。その……あ。ど、どうして、あなたがここへ?」
何を言うか迷った挙句、結局今自分が一番気になっていることをそのまま佳月に尋ねてしまった。
「どうして、というと?」
恐る恐る佳月に視線を向けて見ると、佳月は私の問いに不思議そうに首をかしげていた。
「いや、その……そ、そう、普通は、女性をつけるものじゃないかな、とか、思って、ですね」
あはは、と誤魔化すように笑ってそう言った。しどろもどろに取り繕った理由に、佳月はまだ少し怪訝そうな顔をしていた。だが、ぎこちない笑みを浮かべる私に問い詰める気が失せたのか、怪訝そうな表情をしまうと、一つ頷いて言った。
「それは当主様が、私を凜さまのお傍に、と望まれたのです」
「え、お、お父様?」
そして佳月から放たれた思いがけない単語に、思わず目を丸くした。固まる私に、佳月は「はい」と頷く。
「当主様は、歳の近い私を置いたほうが、凜様も気を使わずにゆっくりできるのでは、と考えられたようです。そのために、私が傍に」
淀みなく言われたその答えに嘘の色は見えなかった。確かにそれは、父なら考えそうなことであった。そして何よりも、父からの頼みならば、正樹さんもそう簡単に断ることもできないだろうから、佳月が人前に出された理由としても理解できる。
けれど、それでは納得できないことがあった。だって。
「どうして父は佳月がここにいることを知っていたの……?」
「かげつ?」
思わずもらしてしまった言葉を拾い上げた佳月が、また怪訝そうな顔をしてこちらを見た。私はつい言ってしまった言葉に慌てて口を押さえる。
「ご、ごめんなさい! 何でもないです!」
また笑って誤魔化しながらも、私は脳裏に父の姿を思い浮かべた。慣れない場所で不安がる私のために、年の近い者を置く。そこに不審な点はない。しかしそこには、父が佳月を知っているという前提条件が必要だった。
どうして父は、佳月がここにいることを知っていたのだろうか。ここに来て、再びむくむくと父への不信感が顔を覗かせた。
何度も言うように、佳月の存在を、正樹さんは隠していたはずだ。仮に噂か何かで佳月の存在を知っていたとしても、恐らく父が屋敷に来た時点では佳月は人前には出ていなかったはず。それを、わざわざ指名して私の傍につけたというのは不自然だ。何か、父は佳月を私の傍につけたい理由があったのだろうか?
あるとするならそれは、歳が近いから、なんて単純な理由ではない気がした。
父は一体、何を考えているんだろうか。
「立ちっぱなしも疲れるでしょう。少し歩けば、ベンチがありますから、そこまで移動しませんか?」
考え込む私を、体調が悪くなったと思ったのだろうか。佳月は気遣うような口調でそう私に言った。伏せていた視線を上げると、佳月は菜の花畑の向こうを指差していた。
「は、はい。そうですね……」
断る言い訳が特に思いつかず、腑に落ちない心を抱えながら、私は曖昧に笑って頷いた。