帰る方法
その瞬間、私は息の仕方を忘れた。思わず体が後ろへ退く。ただただ、目の前にいる存在が信じられなくて。否、信じたくなくて。
どうして――――今しがた会わないと決めた人が、私の前に立っているのか。目の前には、綺麗に笑みを浮かべた佳月が立っていた。
佳月は、原作よりも少し幼く、どことなく線の細い体つきをしていた。けれど容姿も髪もその瞳も、全てが佳月であると示していた。間違いない。本人だ。今、間違いなく目の前に、あの佳月が立っている。
原作の記憶が頭に鮮明に浮かび上がる。
凜に救われた佳月。
凜を失って絶望する佳月。
世界を滅ぼそうと主人公の前に立ちふさがる佳月。
そして、佳月の――――
驚きと、一度に大量の情報が入り込んだせいで、体が硬直して動かなくなる。しかし、その間にも佳月は「失礼します」と無駄の無い動作で部屋の中に入り、私に近づいてきた。バタン、と閉じられた扉と、近づいた佳月の存在にさらに心が冷える思いがする。佳月は私の数歩手前で立ち止まると、私に向かって丁寧に頭を下げて言った。
「驚かせてしまい申し訳ありません。私は、倒れられた凜様のお世話を仰せつかった、こちらの使用人です。
どうぞ、よろしくお願いします」
数メートル先から聞こえる佳月の声は、甘く、柔らかいのに、私は耳を塞ぎたくなった。
――――どう、しよう。目の前で私に挨拶をした佳月は、そのまま私の返事を待つように直立不動でその場に立っていた。何も声をかけることも出来ずに、その場に不自然な沈黙が生まれる。しかし、それを気にするそぶりも見せずに、佳月はただ人形のような笑みを浮かべて私を見ていた。金色の瞳にジッと見られて、私は視線をさ迷わせる。
「あ、の……」
何とかしなければ、と声を発してみるが、何も言葉が出てこず先が続かない。佳月が目の前に立っている。その予想外の出来事に対処できるほど私の頭の性能は良くなくて、ただ混乱したままその場に立ち竦むしか出来ない。
疑問が頭をかけめぐる。私は、屋敷を出るまでに佳月と出会う可能性は極めて低いと考えていた。だって、彼はあまり人前に出て来られない人間のはずだから。だからこそ、まだ余裕を持てていたのに。
なのに、今、彼が目の前に居る。いったいどうして?
目の前に立つ彼は本物であることは間違いないのに、とてもそれを信じられなかった。現れるはずのない彼が、今目の前にいる。疑問が余計に頭を混乱させる。いったい、どうして、彼はいるの。
――――ああ、駄目だ。とにかく、いったん落ち着かなければ。
一度自分を落ち着かせるために、私は大きく深呼吸をした。すっかり冷えた指先を暖めるように、強くこぶしを握る。
そうだ、落ち着こう。今慌てたって、どうにもならないのだから。不自然にならないように、吸い込んだ気をゆっくり吐き出す。佳月が何故私の前に現れたのか。それは一先ず置いておこう。そんなものは後からいくらでも考えられる。そうだ。重要なのはそこではない。
今重要なのは――――目の前にいる佳月への対処。
私は一瞬だけ目を強くつぶって、再度佳月に視線を合わせた。神秘的な輝きを放つその金色の瞳に、吸い込まれそうな錯覚を覚えるが、気のせいだと言い聞かせる。理由はわからないけれど、私は今佳月と出会ってしまった。このことによって、色々と嫌なフラグが立つ可能性が高くなったことは間違いない。しかし、だからといってすぐにどうこうなるわけではないはずだ。そう。まだ私と佳月は「他人」でしかない。要は、佳月の心に残らずにこの場を去ることができたら、佳月とのこの出会いは帳消しにできる。
意を決して、私はそっと口を開いた。
「父は、どちらにいますか?」
敢えて佳月の挨拶に反応せず、問いかけた。努めて表情を変えず、声色も淡白に、ただの「使用人」に対するのと同じように振舞う。声が震えないように強く手を握り締める私とは対照的に、佳月は落ち着いた声色で返答した。
「当主様は、現在仕事で少しトラブルが起きたため、席をはずしております」
「トラブル?」
「はい。旦那様とともに、先ほど仕事へ向かわれました」
やはり、父が傍にいないのは仕事のせいだったらしい。予想通りの答えに、私は「そう」と頷く。父はここへは仕事もかねて来ていたようだったから、それは仕方ない。私は少し考えて、再び佳月に尋ねた。
「今すぐ父に会うことはできますか?」
仕事の邪魔をするつもりはないけれど、この屋敷から脱出するためにはとにかく父に出会わなければならない。父に会い、体調不良を理由に家に帰してもらう。父と一緒に帰ることは叶わなくとも、また行きのように迎えを寄こしてもらえればいい。そうすれば、少なくとも数時間以内にはこの屋敷から出られるはずだ。そういう算段をつけて、私は佳月にそう尋ねた。だが、佳月の返答は予想外のものだった。
「それは難しいですね」
困ったように眉を下げて放たれた言葉に、私は目を丸くした。
「ど、どうして?」
思わず声に感情が篭って、動揺があらわになる。佳月は少し申し訳なさそうな声色で言った。
「当主様は、先ほど旦那様と共に屋敷を出られてしまわれたのです。ですから、今屋敷にはいらっしゃいません」
「い、いない!?」
思いがけない返答に、声が上ずった。佳月の言葉を理解した頭が、急激に重くなったような気がした。
まさか、そんな。――――父が、屋敷にいない。それは最悪の状況だった。
私が目覚めたときに父が傍にいないなんておかしいと思ったが、恐らく仕事のせいであろうとはわかっていたし、そこは別に文句は無かった。でもまさか、家にいないなんて。自分が思い描いて居た計画がガラガラと崩れ去っていくようだった。どうしよう、どうしよう、どうしよう。先ほどまではどうにか張れていた虚勢が張れなくなる。仕事のトラブルといっても、この屋敷内でのことだと思っていた。まさか外に出る仕事だったなんて、思いもしていなかったのだ。
どうすればいい?
予想外の事実に再び指先が冷たくなっていく。
父が居ないのならば、今すぐに屋敷を立ち去ることはできない。そして、佳月は先ほど父が出て行ったと言っていた。ならば、帰ってくるまでにまだ何時間もかかるのではないか?あるいは、明日まで帰ってこないなんてこともありえるのではないか?
たどり着いた可能性に、心がスッと冷え切る。
父がいなければ、家に帰れない。この屋敷から、出られない。逃げられない。
今、佳月は目の前に、いるのに。
「大丈夫ですか?」
ふらりと倒れそうになった私の肩を佳月が支えた。私の肩に直接佳月の白い指が触れて、至近距離に金色の瞳が飛び込んでくる。
「だ、大丈夫です。すみません。あの、その、ちょっとびっくりしただけで……」
間近にあった強い光を放つ瞳に、心臓がドキリと嫌な音を立てた。私は慌てて自分の足で立って佳月を手から離れる。ざわつく胸を押さえながらも、こちらを見つめる佳月に言い訳をすると、佳月は「そうですか?」と言ってそれ以上は近づいてこなかった。そのことに安心するが、でも現状は何も変わっていない。
どうしよう。
帰れないという事実が、重く肩にのしかかってくる。
いっそ、自分で家から迎えを呼んでみようか?でも、六歳の子どもが迎えを呼べるのだろうか。そもそも、誰に迎えを頼めば良いのかわからない。先ほどの運転手の名前も、いつも自分を送り迎えしてくれている運転手の名前も、私は知らなかった。ここに来て、自分の対人関係の希薄さが浮き彫りになる。
なら、歩いてでも屋敷から離れようか。あの道沿いに歩いていけば、いつかは家にたどり着けるだろう。だが、家からここまで、車で数時間はかかった。子どもの足で歩けば倍以上はかかるだろう。今何時か正確にはわからないけれど、これから向かえば間違いなく夜になる。あそこは開拓されているとは言っても森の中だ。暗くなってから歩くのはあまりよくない気がする。でも、このまま屋敷にいるよりはずっといいのではないか――――?
「当主様は『すぐに戻る』と言って出かけられましたから、心配されずとも、今日のお夕食までには戻られるはずですよ」
俯く私に、佳月の声がかけられた。顔を上げると、佳月は部屋に来たときと同様の作ったような笑みを浮かべてこちらを見ている。
「旦那様から、凜様に庭を案内するよう仰せ付かっています。お部屋におられるよりは気分転換にもなると思いますので、当主様たちが戻られるまでは、私がお相手をさせていただきます」
動揺している私に気づいているのかいないのか、まるで安心させるようにそう言った佳月は、私にその白い手を差し出した。
更新が遅くなってしまって申し訳ないです。
最近少し生活がバタバタしていて、書く時間をとれませんでした。
のんびりお読みいただけると幸いです。
*はなこ