会ってはならない人
「なあに? あなた、もしかして名前がないの?」
一人の少女が、そう言って大きな瞳をパチパチと瞬かせた。
「はい」
少女の前に立っている細身の少年は、特に何の感慨もなさそうに、貼り付けたような笑みを浮かべながらそう答えた。その、気の無い様子に、少女は頬を膨らませる。
「じゃあ、あなた一体今までどうやって呼ばれていたの?
名前がないんじゃ、呼びようがないじゃない」
少女の少し怒ったような問いかけに、少年は軽く首をかしげた。
「自分はそもそも、名づけられなかった人間ですから。
どうぞ、お好きなようにお呼びください。
これまでも皆様、そうされていましたので」
その答えに、今度は首をかしげたのは少女のほうだった。
「それって、あなたに関わった人の数だけ名前があるってこと?」
「そうですね。大抵は『おい』や『お前』と呼ばれていました」
「それは名前じゃないわよ!」
平然と悲しいことを言う少年に、少女は同情するどころか余計にその怒りを募らせたようだった。キッと少年を睨みつけた後、「なら、私が勝手に決めちゃうわよ!」と、少年に告げる。そして、少し考えた後、少年の小さな手を握って言った。
「――――佳月。そう、佳月。
今日からあなたは佳月よ。あなたの瞳にピッタリの、綺麗な名前だわ。
今後名前を尋ねられたらそう答えなさい!」
得意げに笑って、まるでガキ大将のように傲慢にそう言い放った少女に、少年はほんの少しだけ目を見開いた。
見慣れない天井が、視界に広がった。ぼんやりとした意識を覚醒させるように数度瞬く。ここは、どこだろうか。何だか、長い夢を見たような気がした。頭が酷く重くて、どうしてこんなに重いのだろうと考えて――――次の瞬間、これはあの記憶を思い出したとき特有のものだ、と気づいて。
「そうだ、佳月……!」
ハッと、横たわっていた体を起こした。しかし、急に起き上がったためか、途端に襲ってくる眩暈が、視界を揺らす。体から力が抜けて、重力に従うように体は再び倒れた。ボフン、という軽い音とともに自分を支えてくれた柔らかい感触に、そこで漸く自分はベッドに寝かされていたのだと気づく。起き上がるに起き上がれず、ベッドに身を預けたまま、私は視界が絶望に黒く染まるのを感じた。
――――なんということだろう。私の今の心境を一言で表すのならば、それ以外に無かった。
自分が寝かされている場所は、所々に置かれたアンティーク家具が目を引く、広い洋室だった。家具、といっても、そこにはソファーとテーブル、そしてベッドのような必要最低限の家具しかおかれておらず、広い部屋にしては家具は少ないようだったが、趣向をこらされた家具が、シンプルな部屋をそう思わせないような豪華さを醸し出していた。ベッドの近くに取り付けられた窓からは日差しが差し込んでいる。どうやら夜ではないようだが、それだけではあれからどれくらい時間がたったのかはわからなかった。
恐らく、あのまま庭で倒れた私を、父辺りが運んだのであろう、と辺りを見渡してそう検討をつける。
となると、ここは先ほど目指していた屋敷の中か。ベッドに倒れこんだまま、私は痛む額に手を当てた。
冷静になろうと辺りを分析して見たものの、焦りが収まることは無く、出てくるのは、乾いた笑いしかなかった。
あれだけ気をつけようと思っていたのに、まさか、よりにもよって自分から、佳月の入る場所へ近づくなんて。体から力を抜きとるように、深いため息がこぼれた。
――――そう、この花屋敷と呼ばれる一宮正樹の屋敷こそ、原作において、佳月と凜が初めて出会う舞台になる場所であった。
どうりで見覚えがあると思ったのだ。いや、むしろすぐに気づけなかったことのほうが不思議だった。この屋敷も、正樹さんも、原作に登場していたのに。確かに記憶に刻まれた原作での光景に、どうして気づかなかったのか、とまたため息がこぼれる。もっと早く気づけていれば、回避のしようもあっただろうに、と。
だが、こればかりはどうしようもないことだった。だって、佳月と出会うのは8歳であると思い込んでいたのだから。こんなに早く出会うことになるなんて――――と考えて、すぐに首を横に振る。
「……いや、違う。違うから。まだ、会ってないから」
そう。屋敷に来てしまったと言っても、私はまだ、佳月に会ったわけではなかった。その事実が、私の心を支えた。世界滅亡のフラグは、佳月と出会い、佳月を救うことで起こるものだ。この屋敷に来たからといって、何がどうなるわけでもない。会わない限りは、何も起こりはしない。まだ望みはあるのだ、と何度も自分に言い聞かせる。
それよりも、どうしてこんなに早く佳月と出会うきっかけが訪れたのか、ということが問題だ。原作では、「凜」がここを初めて訪れるのも8歳のときだ。2年も早まるなんておかしい。やはり、私と言う魂が入り込んだことで、原作にズレが生じているのだろうか。そうなってくると、ますます油断できない。
原作にズレが出るということは、「凜」の死期も早まるかもしれないということだ。
ああ、やっぱり佳月に出会ってはいけない。そこまで考えて、結局そこに思い至る。原作がズレて、私がいつ死ぬのかわからない以上、佳月と出会うのは危険すぎる。何が何でも、早く、屋敷を出なければ。
佳月に遭遇してしまう前に、屋敷から抜け出せば、それで問題はなくなる。
――――彼を、見捨てて?
けれど、そんな自分の決断を咎めるように、脳裏に傷だらけの佳月の姿が浮かんだ。どこかでもう一人の自分が問いかけてくる。それでいいのか、と。
チクリチクリ、とまた胸が痛みだした。この胸の痛みの理由を、もう私は知っていた。これは、己のしている罪の痛みなのだ、と。
わかっている。私は、今から自分のしようとしていることが、どれだけ残酷なことなのか、わかっている。佳月がこの家でどんな扱いを受けているのか知っているのに、私がしている決断は、佳月を見捨てるという行為だ。
だが、それでも私は佳月に出会うわけにはいかないのだ。佳月を救うわけにはいかないのだ。佳月を救って、そして私が死んでしまったら――――佳月はこの世界を滅ぼそうとするのだから。
切り替えるように、私は軽く頭を横に振った。今更迷ってどうする。私はあの日、もうこうすると決めたのだろう。
眩暈も大分治まってきたので、私はベッドから起き上がった。とにかく、早く父に会おう。屋敷を出るためにはまず、父に会わなければ話にならなかった。今すぐにでもここを離れたいけれど、ここを離れるには、さすがに一人では無理だ。屋敷から家まで、子どもの足で簡単にたどり着ける距離じゃない。父に会って、家につれて帰ってもらわなければ。と、そう考えて、私はふと疑問が浮かんだ。
そういえば、どうして今父はいないのか、と。
父のことだから、私が目が覚めるまでは傍にいそうなものなのに。それができなくても、見知らぬ場所に、私を一人にしないように思えた。何かあったのだろうか。あるとしたら、仕事関係しか思いつかないが、まあ、これは考えてもしかたがないことだし、会えばすぐにわかることだろう。そう、疑問を頭の片隅にやる。
とりあえず、部屋を出てみよう。部屋を出たら、誰かしら人はいるはずだろうから、その人に父の居場所を聞いて、連れて行ってもらえばいい。そう考えて、私は部屋の内観に合った、両開きの扉の前まで歩いていった。六歳の体にしてみたら、その扉はやけに大きく見えた。腕を伸ばして、木製の扉につけられた冷たいドアハンドルに触れる。そして、手に力を入れドアを開こうと力を入れると――――ドアハンドルは私の手から離れていった。
「え?」
ドアは私が開くよりも先に、ひとりで開いた。開かれていくドアから、密閉されていた部屋に空気が入り込むのがわかった。
誰だ?
驚いて、扉を凝視する。ことりとも音を立てず開かれた扉の向こう。そこには、私が開くよりも先に扉を開いた人物がいた。
そして、その人物を目の当たりにした瞬間、私の心臓は凍りついた。
白い肌に映えるような、少し長い濡羽色の髪が、さらりと揺れた。髪の隙間からは、息を呑むような、美しい容姿が覗いている。だがそれよりも何よりも、目に飛び込んできたのは、その瞳。眩い、金色の瞳。
「お目覚めですか、凜様」
「か、か、か……」
声にならかった。だってそこには、絶対に会わない、と決めたばかりの人物が、お手本のような綺麗な笑みを浮かべて、立っていたのだから。