花の屋敷
凜は14歳の誕生日の前日に死ぬこと。それは絶対の運命だ。そして、私が「凜」であることで、それを回避できるようになるどころか、ますます死の運命を加速させることもあるのだと、私はあの夜知った。私には自信がない。原作の「凜」のように、器用に14歳の誕生日までも生きられる自信が。
――――そうだ。私は知っているのだ。これから辿る死の運命を。そして、私が「凜」の死ぬ運命を回避するのは不可能に近いことを。目を開けずとも、耳を澄まさずとも、「知っている」のだ。
この世界が、どれほど恐ろしい世界であるのかを。
車の外に出ると、花の強い匂いがした。車は私達が降りたことを確認すると、また元来た道を帰っていく。
私達が降ろされたのは、洋風の、黒い鉄の門の前だった。門の向こうには、既に花畑のようなものが見え、この私達を取り巻く香りはそこからのものだとわかる。とうとう着いてしまったのだ。愕然とした気持ちで、それをぼんやりと見ていたら、くい、と父に握られていた手を引かれた。
「行こうか」
こちらの気もしらない父が、そう穏やかに笑いかけて、歩き出した。
監視カメラのようなものでもついているのか、門は、父が門の手前まで来ると静かに開かれた。父に連れられて門の中に入っていくと、花の匂いはよりいっそうその匂いの強さを増した。一体どこへいくのだろう、と思っていると、門を抜けてすぐところに、男性の人影があるのが見える。どうやら父はそこに向かっていたようだった。
「ようこそいらっしゃいました」
門の近くに立っていたのは、紺色のスーツを着た、40歳ぐらいの、少し小太りの男性だった。男性は私達が目の前に来ると、深く丁寧にお辞儀をする。
「やあ。突然すまないね」
挨拶をする男に、父は軽く笑みを浮かべ、手を上げて返した。その様子から見るに、父はこの男性を知っているらしい。ぼんやりと、父と男のやりとりを見ていると、父は、父の後ろに隠れるようにして立っていた私を男の前に出した。
「この子が、娘の凜だ」
唐突に自分に男の視線が降りてきたので、思わず体が強張った。固まる私に父は、「挨拶をしなさい」と、促すように背中を押してくる。
「は、初めまして。一宮凜です」
初対面の人に対して揺ぎ無い人見知りが発揮された私は、若干噛みながらも、何とか母に鍛えられたように丁寧にお辞儀をしてみせた。
「ご丁寧にありがとうございます。初めまして。私は、この屋敷の主人の一宮正樹と申します。お会いできて光栄です」
男、正樹さんは、少し窮屈そうにネクタイを正しながら、子どもに対するにはやけに丁寧に、「どうぞ、よろしくお願いいたします」と言って私に笑いかけた。
あれ?
その笑顔を見て、私は思わず首をかしげた。
「……何か?」
「あ、い、いいえ……」
思わず正樹さんのその笑顔をジッと凝視をすると、不思議そうに見下ろされた。私は彼から目をそらすものの、やはり何だか気になる。
――――何故だろうか。何だか彼に、既視感を覚えたのである。
どこかで会った事があるのだろうか? そう考えるが、交友関係の極端に狭い私に限って、そんなはずはないと思う。では、誰かに似ているのだろうか?言っては何だが、どこにでもいる普通の男性だし、誰かと似ている可能性もある。だがやはりそれも、私の交友関係から考えたら可能性はあまりないと思い至る。この世界で私が知っている大人の男性としたら、父か家にいる数人のお手伝いさんか、学校の先生ぐらいしかいない。けれど彼はそのどれとも当てはまらない気がする。
――――ということは、前世の誰か?そこまで考えたが、正樹さんとの挨拶を終えたらしい父が私の手を引いて歩き出したので、その思考も途切れた。
木々が立ち並ぶ森の中にひっそりとある洋風の門をくぐるとあるそこは、通称「花屋敷」と呼ばれているらしい。そこは毎年、四季折々の花が色鮮やかに咲くことで有名な場所であり、かつて先祖が好んで立ち寄ったと言われているほど、年季の入った場所だそうだ。ただ、今のこの屋敷の住人はあまり花に興味がないようで、昔よりも小規模になったらしいが。それでも、母の庭に比べると、目を見張るほどに広く、美しい庭が四方に広がっていた。
歩き出してわかったことだが、父はただ花を見に来たわけではなかったらしい。歩きながら早々に正樹さんの方から父へと振られた仕事の話で、私はそう気づいた。道理で忙しいはずの父が旅行何て言い出せたわけだ。この屋敷には仕事がメインで、花を見るのはついでだったのだ。これで漸く納得がいった、と私は一人うんうんと頷く。それを見た父が、私が何を考えたのかわかったのか、すぐに「ついでは仕事だよ。本命はお前と花をみることだから」と、仕事相手が目の前にいるにも関わらず綺麗な笑顔で言っていたけれど。
庭の奥に屋敷があると言う正樹さんの先導の元、花に囲まれた道を、父に手を引かれて歩く。息を目一杯吸い込むと、花の香りが体中をめぐるようだった。春の日差しを浴びる花々はその輝きをよりいっそう増していて、見ているだけで心が和んだ。道の脇には色とりどりの花や木々が植えられてあり、まるでそれらが道を作っているようだった。父と旅行なんて絶望しかないと思っていたが、案外そうでもないな、と思う。我ながら現金だと思うが、仕方が無い。花に罪は無い。
「現在これらは全て庭師の下で管理されています。少し前までは、私の妻も少しは手をつけていたのですが、現在は体調を崩しておりまして、部屋に篭りがちなもので」
正樹さんは、庭についての説明をしながら、少し苦い笑顔でそういった。
その敷地にある庭や建物は、全て洋風のつくりだった。生まれてからずっと日本家屋に住み、洋風の建物といったら学校ぐらいしか知らなかった私にとって、その雰囲気は珍しく、何だか新鮮である。花の向こうにある少し広々とした野原のような場所には、石造の女性像があり、その抱えているつぼからは水があふれ出てきていて、それが噴水だと気づくまでに少し時間を要した。
これらの洋風な雰囲気は全て、体調を崩しているという正樹さんの奥さんがかつて望んだものだったらしい。ほんの数十年前まではあの野原のような場所も一面花畑が広がっていたそうなのだが、奥さんの要望で刈り取られ、噴水や、彫刻などを置くようになったんだとか。そういえば所々に変な彫刻やベンチのような小物が置かれているな、と気づいて、私はまた、それに首をかしげる。
やはり、その光景に、とてつもなく既視感を感じたのだ。先ほど以上に強く。
やはり、前世でこの場所に近いところに来たことがあるのだろうか。辺りを見渡しながらそう考える。
しかし私は前世では花なんて進んで愛でたことなどないから、こんな風に誰かの家の庭を見に行くなんてこと、したことはなかったはずだ。では、実際に、ではなく、なにかを通して見たのかだろうか?
思い出せそうで思い出せない感覚が、気になって仕方が無かった。前世の記憶を思い出そうとすると、いつもこうだ。確かに印象強かったはずなのに、かけらも思い出せない、まるで夢のようなそれ。何か一つきっかけさえあれば、思い出せるのに。
父に手を引かれていることをいいことに、私はぐるりと辺りを見渡しながら道を歩いた。庭の説明をする正樹さんと、その庭を見比べ、既視感はますます強くなっていく。彼と、この庭。セットで、絶対に「何か」で見たはずだ。写真? 映像? それとも――――
「うわっ」
考え込んでいたその時、私の体が少し宙に浮いた。足元に何かひっかかるものを感じた、と思った瞬間には、体が傾いていく。
「凜!」
ハッとしたように横にいた父が、私の倒れこんだ体を支えた。何が起こったのか自分でもわからずに目を白黒させていると、「余所見をしては駄目じゃないか」と父の怒ったような声が聞こえて、そこで漸く、自分が転びかけたのだと気づく。
どうやら周りを気にしすぎて、足元に注意できていなかったらしい。心配したように私を見る父にばつの悪い気持ちになって、素直に「ごめんなさい」と謝る。しかし、それでは父の心配は収まらなかった。父は、私を支えたついでといわんばかりに、私の体を抱き上げたのである。
「え、あの、お父様!」
「お前はどうにも注意力散漫なようだからね。こちらのほうが私も安心だ」
「でも、あの、恥ずかしいので……」
「お前はまだ6歳。恥ずかしがる年齢ではないよ。それに言っただろう? 反抗期にしても早すぎると傷つくって」
父はどうやら私を抱き上げることがお気に召したらしい。私がどれだけ抵抗しようとも、至極楽しそうに私を抱え込んだ。確かに見た目は六歳なのだから別に問題はないのだろうが、中身はもう成人した大人だ。精神的にきつい。私の不注意のせいだが、こんな暴挙にでなくても。それに何よりこの場には正樹さんもいるのだ。
一体どんな顔で見ているのか、と父の隣に抱え上げられたまま正樹さんを見て――――私を駆け巡っていた羞恥が消えた。
同じ目線で、先ほどよりも近くになった正樹さんの顔を見て、これまで以上に強い既視感を感じたのだ。それはもう誤魔化しようの無いほどに強い「違和感」だった。「仲がよろしいのですね」と笑う正樹さんの声が、耳から通り抜けていく。既視感は、明確な違和感となって、私に疑念を投げかけた。
心臓がざわりと騒ぐ。嫌な予感がした。
スーツ姿の、小太りの中年の男性。広大な花畑。その所々にある、彫刻や小物たち。それらの敷地一体を取り囲む、森とも呼べる木々。
ここに来るまでに見たものが、脳裏をめぐる。何だ。私はこれをどこで見た。ああ、まだ「きっかけ」が足りないのだ。
何か。記憶を引っ張り出すような印象の強い何かが――――
その瞬間、私の目はまるで吸い込まれるように「それ」を映した。隣に立つ正樹さんの背後にある木々のさらに向こう。普段ならば見落とすだろう「それ」に何故か視線が釘付けになった。正樹さんの説明も、それに相槌を打つ父の声も遠ざかる。
心臓が、どくり、と嫌な音を立てて波打った。
――――美しい庭の隅。木の陰に隠れるようにして建つとても小さな、一階建ての蔦の絡まる建物が、私の瞳に映りこんだ。
次の瞬間、ガツン、と鈍器で頭を殴られたような衝撃が私を襲う。覚えのある、しかしこれまでよりも大きな衝撃に、ぐらり、と視界が揺れた。視界にうつるそれと、脳裏に映るそれが、重なる。
私はその建物に酷く見覚えが合った。いや、見覚えがある程度のものではない。私はそれを、知っていた。
「あ、あの……あの、建物は」
かすれた声で、父に問いかけた。
「建物?」
父は私の問いに首をかしげ、私が指をさすほうへ視線を向けた。そしてそこで漸くあの建物に気づいたように声をあげる。
「気づかなかったな。あの建物は?」
「お気にされるようなものではございません。我々がここに住むずっと以前からあるものですが、今では手入れも何もしていない無人の物置でございます故。
お目汚し、失礼いたしました」
父の問いに正樹さんは動揺することなく冷静にそういって、私達から建物を隠すように立った。
「さあ。あんなものよりもどうぞ、こちらへ」
そうして、誘導するように屋敷までの道へ私達を促す。
隠しているのだ、とわかった。それと同時に、その理由も。
衝撃でクラクラとゆがむ視界に、記憶が鮮明によみがえってくる。その強い衝撃に思わず父の服を強く掴むと、それに気づいた父がまた私のほうへ視線を向けて、驚いたように声を上げた。
「凜! 顔が真っ青じゃないか」
父の手が私の頬に当てられた。その温かさに、自分の体温が下がっていることを自覚する。同時に、眩暈が止まらなくなって目を閉じた。するとよりはっきりとよみがえる記憶。「きっかけ」は間違いなくあの、建物だ。あそこには――――
思い出されるのは、傷だらけの、ほっそりとした少年の姿。全てをあきらめた瞳。それを、格子でしきられた窓から覗く、小さな少女。
彼女はその少年の瞳を見て嬉しそうに笑う。その、「特異」な――――月明かりに照らされた、その金色に輝く目を見て。
そう。その目の持ち主は――――
「か、げつ」
ポロリと、渇いたのどからその少年の名前がこぼれた。
あの建物は、間違いない。佳月が軟禁されている、建物だった。