花壇の遭遇
一年ほど引きこもり生活を送っていた私にも趣味はあった。どちらかというとその趣味は、引きこもり生活中に出来た趣味と言えたけれど。それは、母が管理している庭の花の世話を手伝うことだった。
これは、あの日から部屋に閉じこもってばかりの私を心配した母が、私を外に連れ出すために提案したことだった。私に与えられたのは、母が植えている花や木々に水をあげたり、雑草を抜いたり、咲いた花を摘んだりするという簡単な仕事。母はもしかしたら、フラワーセラピーというものを狙っていたのかもしれない。しかし、結果としてそのセラピーは成功した。私は、外、といっても庭だけれど、部屋から出る時間は格段に増えた。
前世では花を育てたことなんてほとんどなかったのに、私は何故か不思議と花に惹きつけられた。花の世話をしていると、何だか無性に落ち着いたのである。それは、花の種類が前世と全く同じだったからかもしれない。「凜」ではない私の記憶が、たまらなく私を安心させたのだ。最初は、母に気を使ってしぶしぶ外に出ていただけだったが、次第に花の世話をするときだけは、自分で外に出るようになっていた。
今日もまた、花の世話をするために私は庭に出ていた。庭にはやわらかい春の日差しが空から降り注いでいる。光を一杯に浴びる庭の土は少しやわらかく、踏み出す私の小さな足に不思議な感触をもたらした。母は、他の用事があっていない。一人水の張ったジョウロを抱えて、私は花の植わっている花壇へと近づく。
母の花壇は、縁側から見える広い庭の一画にあった。母の個人的な趣味から作られたその花壇は、家に来ている庭師やお手伝いさんたちの手を一切借りず、母の手のみで世話をしているものだった。よって規模も小さく、広大な庭にしては簡素な花壇だが、それでも色とりどりの春の花々が鮮やかに咲いていた。
植わっている花は香りの強いものが多く、近づくと色々な花の香りが混じった匂いがした。しかしそれは不思議と不快ではなく、心を爽やかな気持ちにさせる。
持ってきたジョウロを傾けて、花壇に咲いている花に水をあげていった。最初母と庭に出たときは、小さな体で水の一杯入ったジョウロを抱えるのに苦労したものだったが、今ではもうなれたものだった。
――――花に水をやりながら、私がぼんやりと思い出すのは入学式の日の光景だった。私はふっと、ジョウロをやる手を止める。
幸いにも私は、「椿」とクラスは離れていた。あの後何度か廊下ですれ違う機会があったけれど、特に挨拶をすることも、されることもなく、私は彼と全くかかわりを持っていなかった。恐らく「椿」のほうも、私には特に興味がないのだろう。私達は視線すら合うことはない、赤の他人だった。このままいけば、当初の目論見どおり、今後も関わりあうことはないだろう。それはなによりだ、と思うけれど、そこでいつも心の隅に何かが引っかかった。
脳裏に思い浮かぶのは、椿のあの、無感動で、全てを拒絶したような瞳。ちょうど、今この花壇で咲いているナデシコの花のように真っ赤な彼の瞳は、思い出すたびに、私を責めるかのようにじっと私を見つめてきた。
そう、まるで、何もしなかった私を責めるように。
そこまで考えて私は、はあ、と小さくため息をついた。ジョウロをゆっくり地面に下ろして、その場にうずくまる。膝に顔を埋めると、柔らかな日差しが遮られ、視界は暗く染まった。
――――関わらない。それは、自分とこの世界のために決めたことだった。しかし、それで本当にいいのか、という、そんな思いが、ないわけではなかった。うずくまりながら、私はそっと自分の胸の辺りを押さえる。
あの日から時々胸がチクリと痛んだ。まるでこのままでは駄目だと、訴えるように。しかし、それに向き合うのは、途方も無い勇気が必要なことだった。視界を閉ざして訪れる闇は、どうにも心地がいい。目を閉じ、耳を塞いで、何も気づかない振りをするのは、私にとって一番楽なことだった。
このままではいけない。でも、何かをするのは恐ろしい。そんな思いが、ぐるぐると頭の中をめぐる。我ながら意気地が無くて、情けなかった。しかし、本当にどうしようもないのだ。いつだって、逃げ出したくてたまらなくて。でも、逃げる場所がなくて、だから私は視界を閉ざす。怖いものを、意識から遠ざけるのだ。
たとえそれが、間違っていたとしても。
「元気がないね。お嬢さん」
沈んでいた意識が一気に浮上した。聞き覚えのある、しかし聞こえるはずの無いその声に、ハッと膝に埋めていた顔を上げる。声のほうに振り返ると、草履を履いた大人の足が目に入った。恐る恐る視線を上に上げると、縹色の着物が目に付く。まさか。
「元気がないなら、私と旅行にでも行かないかい?」
穏やかな春の日に似つかわしい、柔らかなその声の持ち主は間違えようが無い。父が、いつのまにか私のすぐ傍に立っていた。
突然現れた存在に、私は驚きのあまり、思わず後ろに仰け反った。体勢を崩して、そのまま尻餅をついてしまう。ああ、服を汚して母に怒られる、と咄嗟に思うが、驚きのあまり体が強張って上手く動かせなかった。どうして。何故、今、彼がここにいるのか。
「驚かせようと思って私が帰ることは知らせていなかったんだ。
いいサプライズになっただろう?」
私の疑問に答えるように、父は悪戯が成功した子どものような声でそう言った。「そんなサプライズはいらない」と言いたかったが、そんな突込みを入れる余裕はなかった。なんとか衝撃から体が立ち直らせ、私は地面に手をついてゆっくり立ち上がる。立ち上がりながら、さっと辺りを見渡した。
早く、誰か人を呼ばなければ。
思いがけず訪れた父と二人きりという状況に、焦りで冷や汗が流れていた。注意深く辺りを見渡してみたが、人影はどうにも見つからない。逃げようかと思うが、逃げるにはどうしても父の横を通る必要がある。六歳の足では捕まってしまうのがオチだろう。グッと眉間にしわを寄せた私の気持ちを察したのか、父は楽しそうに笑いながら言う。
「そんな不審者を見つけたみたいな顔をしないでほしいな。ここは私の家だよ?
自分の家に帰って娘にそんな顔をされるなんて、泣きそうだな」
父の声色は全く泣きそうな気配の無い、明るい声色だった。そこには私の反応を楽しむ余裕すら伺えて、自分の警戒は父にとっては取りに足りないものなのだと実感する。
「いやあ、それにしても綺麗な花壇だ。母さんと育てているんだろう?」
そんな焦る私の気持ちを知ってか知らずか、父はくつろいだような調子でそう言った。興味深そうに私の後ろにある花壇を眺めながら、ゆっくり私のほうへ歩み寄ってくる父にまた反射で退いてしまいそうになるが、後ろには花壇があってそれも叶わない。体を強張らせていると、隣に来た父が、花壇のほうを向きながら、私の隣にしゃがみこんだ。視界から消えたけれど、すぐ傍にいる父に、震え上がりそうになる。父はそんな私に気づいているはずなのに、気づいていないように花を眺めているようだった。
「……わ、私に、何かご用ですか」
近くにある父の気配に耐え切れなくて、とにかく早く要件を済ませて帰ってもらおうと考えて、私は父へ声をかけた。先ほど父が言ったように、ここは父の家なのだから帰ってくるのは別に何の問題もないけれど、わざわざこんなところまで来て私と二人きりになるなんてことはこれまでなかったことだ。何の用も無いだなんて、あるわけなかった。
「用も何も、父が娘の顔を見に来ただけでは不十分かな」
父は強張る私の声とは対照的な穏やかな声で返した。はぐらかすようなその返答に対して「真面目に答えてください」といいかける。しかしその前に、私の意志を汲んだように、「でも」と父は付け加えるようにして言った。
「実は今日はそれ以外にも用があるんだ」
その声色は、やはりどこか楽しそうだった。話しながら、父が、花壇の花にそっと手を触れるのがわかる。父は花に触れながら、声の調子はそのままに、軽やかに私へ言い放った。
「今日はね、お前を旅行に誘いに来たんだよ」
それは、思いもかけない言葉だった。
父の言葉に、私はしばらく呆然とした。
旅行。旅行?身構えていただけに、予想外の言葉に思わず目を丸くする。そういえば、最初にそんなことを言っていたな、と頭の冷静な部分が思い出すが、仕事で忙しいはずの人間が何を言っているのだろうか。言葉を失う私の反応を楽しむように、父は言葉を続けた。
「旅行、というのは少し言いすぎだけど。実は分家の敷地に、とても美しい庭があるのを教えてもらったんだ。ここにはない珍しい花も咲いているよ。暫くこの家から出て、二人でそこに遊びに行かないかい?」
「結構です」
考える間もなく、思わず反射でそう答えてしまった。しまった、と思うが、しかし、父と二人で出かけることを誘われていることはわかった。そんなものは、やはり考えるまでも無く、お断りだった。父の口ぶり的に日帰りではないようだし。迷うそぶりも見せず即答した私に、父は怒ることもなく、声を上げて笑った。今日の父は何だかやけに機嫌がいい。それとは対照的に私はだんだんと居心地の悪い心地がしてくる。父は、そんな私の心中を察したのかどうか、不意に上げていた笑い声をしまった。そして、「そういえば」と、先ほどまでの会話を無視するように、思い出したような口調で私に言った。
「母さんから聞いたよ。小学校、休みがちなんだって?
それに、小学校と庭以外で全く外に出ないみたいじゃないか」
私は思わずぎくりとした。何故父がそんなことを知っているのだろうか。思わず視線が足元をさまよう。確かに最近私は、入学したばかりにも関わらず、小学校を休みがちだった。主に精神的な問題で。
だって仕方が無いだろう。ただでさえ人と関わることが苦手な状態になった上に、精神年齢がもういい歳の人間が、小学一年生のあの空間に耐え切れるわけが無い。
しかし、それがなんだというのだろうか。私は半ば開き直ってそう思う。そんなことを、今持ち出されたところで、それが出かける理由になどなりはしない。何より、父に言われる筋合いも無い。私はさらに開き直った。けれど父はそんな私の心情をわかったように、穏やかな、けれどどこか諌めるような口調で、私に言った。
「凜、お前は外に出るべきだ。そして、色々な世界を見るべきだよ」
その言葉に、私は下に向けていた視線を上げた。ゆっくりと隣に視線を向ければ、視界に、父の黒髪が映る。私が家に引きこもるようになってから、父に、それを咎めるようなことを言われるのは、初めてのことだった。少し驚いて、父の横顔を見つめる。花を眺めている父の表情は、相変わらず穏やかなものだった。けれどやはりずっと父の顔を見ていられなくて、また視線を下に戻す。
これまで私の変化に対して、唯一何も言ってこなかった父だったけれど、やはり心のそこでは思うことがあったのだろうか。私は父が怒っているかもしれないという可能性に思い至って、手を握り締めて俯く。しかし、それも仕方が無いと思う。それほど、私の父に対する態度はあまりにもあからさまだった。けれど、取り繕おうにも、上手くできなかった。父を見ると、気配を感じると、恐怖で体が凍りつく。すぐにでも、その空間から、逃げ出したくなるのだ。
私は、びくびくしながら、父からの言葉を待った。少ししてから、父が口を開く気配がした。私は思わず目を瞑る。
「じゃあ、そういうわけで、決まりね」
「は?」
それはまた、予想していなかった言葉だった。つい、呆けた声が出る。父の突然の声色の変化に驚いて、私は目を開いてまた反射で顔を横に向けた。するとやけにいい顔を父が目に入った。
「いつがいいだろうね。できるだけ早くがいいかな。花が枯れてはいけないし」
「え、あの……?」
話が見えず困惑する私に構わないで、父は話を進めていく。何が何だかわからない私の言葉はまるで届かない。父は楽しそうに勝手に何かの段取りを決めていた。そして、少しして後、「よし、決めた」と立ち上がると、父は私を見下ろして言った。
「一週間後の今日、朝に迎えに来るからね。
いやあ、楽しみだね。旅行」
その話、まだ終わっていなかったのか。「待って!」と叫ぶ私の言葉に父はまるで耳を貸さずに、強引に話を終わらせると、ひらひらと手を振って庭から出て行った。
いつもよりも長くなってしまいました。
申し訳ありません