赤い瞳
「凜」には、その死ぬまでの短い期間の中で密接に関わった人間が二人いる。一人は言うまでも無く、佳月であるが、その佳月と同じくらいの時間を「凜」と過ごした人物がいた。
彼の名前は「如月椿」。「凜」の幼馴染にして、「凜」と同じ立場にあたる人物。彼は一宮とはまた違う一族、「如月家」の檻人だった。
椿と凜は、父親同士が仲のいいことから引き合わされ、幼少期を共に過ごすことになる。椿は、先代の檻人であった母が早くに亡くなったために、わずか五歳で檻人の役目を継いだ。適年齢に達した他の候補者ではなく、幼い椿が継いだのは、先代の椿の母が亡くなったその場にただ一人いた椿へ、椿の母が強制的に封印の継承を行ったからだった。その複雑な経緯から、椿は如月の家の人間からあまりいい目を向けられていない。檻人という立場であるから直接的なものではなかったけれど、それでも幼少期の椿への大人たちの対応は酷く、まだ幼く弱かった椿は心無い大人から虐げられる日々を送ることになった。そのため、椿は強い人間になることに固執し、弱い人間を軽蔑する人間になってしまう。そんな椿の心を癒し、救うのが「凜」なのだ。
しかしそんな「凜」が死ぬことで、彼もまた世界に絶望するようになってしまう。彼女を殺した世界を恨み、佳月とともに世界を滅ぼそうとするのだ。
そう、彼もまた、「凜」の死によって「世界を滅ぼす」人間なのである。
意識が少し遠くなりかけたけれど、これまでのように意識を飛ばすことだけは避けられた。少し重たい頭を右手で抑えながら、目の前の赤い瞳の少年を見る。彼は、間違いなく如月椿であった。原作で描かれていた「凜」との出会いのシーンではもう少し成長して大きかったけれど、それでも見間違えようが無い。
どうしてこの時点で出会ってしまったのかはわからないけれど、私は出会ってはならない人間第二位の人物と出会ってしまった。
「久しぶりね。椿くん。私のこと、覚えているかしら?」
絶望で目の前が真っ暗になりかけている私に気づかず、母は暢気に私の手を引いたまま椿のほうへ近づいていく。逃げよう、と思ったときには時既に遅く、会話できる位置にまで椿と近づいてしまっていた。
「ご無沙汰しております、朱里さん」
感情を感じさせない固い声が、耳に滑り込んできた。椿の赤い瞳が母へと向けられる。「朱里」とは母の名前だったな、とどうでもいいことに現実逃避をしようとする。しかし母がそうはさせてくれなかった。
「覚えていてくれて嬉しいわ。
そうだ、この子とは初対面よね。ほら、ちゃんと自己紹介なさい」
こちらに話を振らないでほしかった。事情を知らないのだから無理はないのだけれど、軽く私の背中を押す母にそう思わずにはいられなかった。
母の言葉に従うように、赤い瞳が母から私のほうへと向けられるのがわかった。先ほどよりも近くにある赤い瞳に、私は顔をひきつらせる。正直今すぐにでも逃げ出したかった。しかし後ろに母が立っている上、ここで逃げると後で母にする言い訳が思いつかない。私は観念して口を開いた。
「初めまして。一宮凜です」
できるだけ簡潔な自己紹介をした。私と彼の立場関係は微妙なので、彼に対してどのような言葉遣いが適切なのかわかりかねたために短くなってしまったというのもある。子ども同士なのだから、許される範囲だと思う。
「初めまして。如月椿です」
それに対して、椿は私と同じように返してきた。どうやらあの自己紹介でよかったらしい。お互いににこりともしない、形式的な挨拶だった。そういえば、時期的に、今の彼は今檻人を継承したばかりで、一族での居場所がない状態のはずだ。周りの人間に対して、完全に心を閉ざしてしまっているのかもしれない。
けれど、わかっていても、私は彼に特別声をかけようとは思わなかった。これ以上、「椿」と関わってはいけない。彼の苦しみを知っているとしても、不用意に声をかけてはいけない。彼が「椿」であり、私が「凜」である以上は。
「椿」
遠くから、椿の名前を呼ぶ声低い男性の声が聞こえた。声のほうに目を向ければ、和装をした、父と同じぐらいの年齢の男が立っているのが見えた。
「父上」
目の前にいた椿が、小さくつぶやくのが聞こえた。父上。そうか、彼が椿の。
「申し訳ありません。父が来たようなので、ここで失礼いたします」
そう言って椿は母へ頭を下げると、父親のほうへと早足で向かっていった。父親はやってきた椿に一言二言声をかけると、母に軽く会釈をし、背を向けて去っていく。私はここで漸くつめていた息を吐き出すことができた。
一度出会ってしまったけれど、今後はもう出会わないようにしよう。私は遠ざかる椿の背中を見ながらそう決意する。今回は母がいたために強制的に出会ってしまったけれど、今後はもう会わない。原作での椿と「凜」の出会いはもう少し先だったと記憶しているが、今の出会いで帳消しになったかもしれない。
もう、椿と関わりたくない。
私の脳裏に椿の赤い、無感情な瞳が浮かんだ。チクリと胸が痛んだけれど、気づかないふりをした。