風・彷徨う中
プロローグである第一部終了につき。本編開始。
なぜ騎士なのか。
なぜ剣を持つのか。
何のために。
誰のために。
というか理由がいるのかそれは。
02 - 01:風・彷徨う中
案の定というべきか、痕跡はまるで残っていない。
そもそも最初に調査すべき場所だったはずなのに、これだけ調査が遅れたのはレギオン加賀原南帆が発生し、そちらの解決を優先しなくてはならなかったからだ。
時間を稼がれたのかはたまた単なる偶然か。
さりとて今考えなければならないのはアレックス・キングの行方である。
龍夜はひとつの可能性を考えている。
アレックス・キングが何かしらの目的を持って、加賀原南帆のレギオン化を放置した可能性を、だ。いや、今ではさらにその先、積極的にそれを促していた可能性すら。
加賀原南帆がレギオンに憑かれ<権天使級>になった。
騎士団では1ヶ月未満での異例の事態だと判断している。無論『ありのまま』を書き綴った彼の報告書がその認識を植えつけたのだが。
ありえない事態、だとは思わない。
レギオンの生態――生態と言っていいのかどうかがそもそも謎だが、とにかくそれを龍夜自身完全に把握しているわけではない。千年以上の先人の積み重ねが『こうだった』という事実として残っているだけであり、根拠はないのだ。
その辺り、飛行機が飛ぶ理屈に似ている。
気の遠くなるほどの繰り返しを経て、共通項を見出し、そうであると定義付けているに過ぎない。
そしてもしも、その千年をひっくり返すような大きな変化がレギオンに起きているとしたら。
そう考えれば短期間での位階の変遷というのもない、とは言えない。
言えないが、そうだと断言するにはあまりにも弱すぎる。これが2例目、3例目と続くのならば根拠として真剣に考えることも必要であろうが……龍夜は、そちらの可能性を低く見積もった。
あるいは突然変異との考え方もできるが、それよりはまだ可能性の高いものを考えるべきだというのが龍夜の考え方だ。
つまり他の可能性――レギオンの変化を、当然抑制すべき存在がそれを過失か故意により怠っていた、と考えるのが自然だ。
騎士団も本来ならばその考えに至るはずである。
がしかし、それを阻む存在があった。
それが、アレックス・キングである。
彼が残した実績は確かなもので、僅かなレギオンの気配を感じ取り、災害を未然に防ぐ能力を十分に備えていた。事実、彼がここ神明市を領地としてからこれまで……それどころか、それ以前の活動地でも、<大天使級>の発生さえ稀であったのだ。
そんな彼が約二週間前に姿を消した。
そして<権天使級>が現れた。
誰もが当然の帰結として、最悪の事態を想定している段階、だろう。
龍夜は報告書に『ありのまま』を綴った。無論、三奈に不利になる部分はうまく隠してではあるが、必要な事実は曲げていない。
逆を言えば、最低限の必要な事実しか記載しなかった。
彼の私見も意見も何一つ交えていない、今時のニュースでもめったに見ないような只の事実の羅列。
故に、彼の思惑に気付くものが現れるまで、もうしばらくの時間がかかるだろう。
それにしても、本当に何から何まで、違和感がない。
部屋を見回して、そんな感想を抱く。
龍夜は現在、アレックス・キングが拠点としていた教会の調査をしている。
アレックス・キングはこの協会に住み、普段は牧師として生活をしていた。教会の奥がそのまま居住空間になっているのだ。
近所付き合いは浅く広く、人のよい笑みを絶やさないために、評判は悪くなかったらしい。
しかし日本という土地柄、さほど教会というものに興味を持って普段から見ている人間は少ない。そのため、彼が消息を絶ったタイミングが掴めない状況となっていた。
唯一の目撃情報は、九月に入ってから一件。即ち、加賀原南帆の右腕が、公園で発見されるその日が最後だ。
「……時間軸がしっくりこないな」
『確かに、妙な感じだ』
話の流れを頭の中で整理する。
まず、九月に入ってからアレックス・キングの騎士団への定期報告がなくなる。
定期報告は週に二度。そして、三度目の定期報告がなかったため、龍夜が依頼を受けて神明市に派遣された。
ここまでに、一週間経過。
その日の夜、公園で休んでいた龍夜を複数の<天使級>が襲撃。撃退直後、騒ぎを聞きつけた人々が集まり、なぜか加賀原南帆の右腕が見つかる。そして四日後、龍夜は加賀原南帆を討伐。
そうして今日、九月一二日。龍夜はアレックス・キングの痕跡を調査している。
騎士団の依頼が昼過ぎに正式にあったが、それがなくてもこうしていただろう。騎士団の名前である程度の調査を公的機関に依頼できるのは大きいので早速活用しているが。
ともあれ、アレックス・キングが消息を絶って約二週間。
しかし、最後に目撃されたのはその後、加賀原南帆の右腕が発見される日。つまり龍夜が夜の公園でレギオンに襲撃を受けたその日。
「やはり、何かあるな。アレックス・キング」
『騎士団がやつの存在に違和感を感じるのも時間の問題だろう。調査はさっさと済ませたほうがいいんじゃないか?』
「そりゃ、そうなんだけどな……」
溜息をつく。
部屋は、違和感がなかった。
程々に整頓されており、程々に手入れが行き届いていない部分がある。
生活感そのままに残されており、いかにも、ある日突然失踪しました、と言わんばかりである。
『こうして見ていると、お前の想像は単なる妄想だな。くくくく』
「人が不安になっている最中に余計なこと言ってんじゃねえよ。
根拠は勘が八割って所なんだ。今感情を刺激されると見落としが出てくるだろうが」
『それ根拠って言わねえけどな。まあいい。いずれにせよ、不審は不審だ』
「そうだな。これだけ術式臭いってのに日常生活の跡がくっきり残ってやがるのは気色悪い限りだ」
術式――この場合は精霊術式をさす。
大気中と自身の内に満ちた精霊という力を用い、現象を操る術を術式と呼ぶ。
術式にはそれこそ数多の流派があり、有名所で言えば陰陽道、修験道、魔道などがあるが、その全てにおいて精霊――流派により呼称は変わる――を操る事は一致している。
そのなかでも精霊術式は、主に騎士が扱う術式である。
予め、発生させる現象を固定した符や魔方陣を用い、直接精霊を変質させることで現象を生む。使用できる術式が個人の得手不得手により大きく変わる上に、手札が固定されるものの、威力や速射性、持続性において高い精度を誇るのが特徴だ。
そして、その精霊術式のひとつの極地が着装――鎧の創造である。
教会は術式に満ちていた。
詳しく調査をしなければわからないだろうが、探せばそこかしこに符や魔方陣が見つかることだろう。
「……って言ってるそばから見つかったな」
キッチンのカウンターの小さな花瓶の下に敷かれた布。花瓶をどかして裏返してみると、精緻な魔方陣が描いてあった。
『ほう……見事なもんだな。剣士としても術師としても一流、か。喧嘩売る相手を間違えてるぜ、龍夜』
「腕がいいのは見れば何となく分かるが……それほどなのか、こいつは?」
『いや、この魔方陣単体であるならば単に腕がいい、というだけなんだがな。それを惜しげもなく、こんな所に使ってんのが、な。
このレベルの魔方陣を量産できるんなら、術式研究者としても一流の腕だと考えて間違いないだろうぜ』
「ああ、そういう事」
術式を魔方陣に転写するには、どうしても人の手でなくてはならない。印刷などでも効果がない、とまではいかないが、はっきり言って手製のものの十分の一もその力を発揮できないのだ。
魔方陣の作成には知識と技量が必要になる。術式研究者の技量は、その速さと完成度で判断される。
超技工を駆使した術式ひとつを一年かけて作るものと、実用に耐えるレベルのものを月に百作成するもの、どちらも優秀なのだ。
その観点で言うならば、アレックス・キングは、超技工と言えずとも十分に匠の技を持っており、さらにそれを量産できる研究者ということになる。
総合的に見て非常に優秀だと言える。
「なんていうか、もうチートレベルだな」
『そうだな、俺たちとは段違いだ。が、まあ、それだけに、妙な話ではあるな』
「ああ。
これだけの術式を敷地内にばらまいて……まるで、何かに怯えているみたいだ。
はっきり言って俺がここを攻めろって言われたらケツまくって逃げるレベルだぞ。ほとんど城塞じゃねえか」
それでいて、定期報告には何一つ、異変が報告されていない。
こんなに明白に、この場所は異変を訴えているというのに。
「色んなことがズレている感じがするな。ワケわかんねえ」
時間の許すかぎり徹底的に調査すべきか。そんな事を考えていると、玄関の方で音がした。
『なんだ、客かぁ?』
「さてな。とりあえず黙ってろよ、サマエル」
『承知、承知』
リビングを抜け、玄関へと向かう。そこには学生服姿の少女がいた。
彼女も、部屋の奥から現れた龍夜に戸惑っている様子だった。
「……ええと、俺は」
「うーわぁあちしの純潔もここまでかぁ!!」
「ぶん殴っていいか」
初対面から性犯罪者扱いされかけて若干キレかける龍夜。怒りの沸点はそれなりに低い。
「あー。スミマセン冗談っす。人がいると思ってなかったんで驚いて思わず巫山戯てしまいました」
「…………ぇー」
どうしよう、この人怖い。そんな感想を抱く龍夜。
目の前の少女は驚いたと言うわりに、すでに自然体を感じさせていた。
端的に、龍夜は目の前の少女に気圧されていた。
「……こほん。俺は、ここの家主の、アレックス・キングに用があって来た」
気をとりなおして、ひとまず自分の事情を伝える。
「え、師匠に? ていうか師匠に知り合いなんていたんだ?」
「は。師匠?」
なんだそれは、と眉をひそめる。
「ええまあちょっとした。
それで、そちらは師匠に用事が……でも師匠、最近割といい具合に消息不明っすよ?」
「知ってるよ。それで、行方を探せって言われてるんだ。あいつの上司に言われてな」
「ほあー。ってことは教会の人ですかー。それにしては滅茶苦茶悪人っぽいっすね!!」
俺はこの娘に対して何か悪事を働いただろうか、と本気で心配になる龍夜。無論、これが彼女の――湊智晴の素なのだが。
「実はあちしもずっと師匠を探してるんですよねー。何か知っていたら教えて欲しかったりするのですが」
首を傾げる智晴に、龍夜はしばし考える。
正直彼女がアレックス・キングにつながる重大な情報を持っている可能性は低いだろう。
だが、何かしらヒントになる話を知っている可能性は否定出来ない。
しかし同時に、こちらも嘘を付くことができない相手でもある。師匠、と呼んでいるということはそれなりに深い付き合いがあった可能性があるからだ。下手な嘘は不審を招きかねない。
(いや、というか師匠ってなんだよ、師匠って)
<楽園騎士団>において師弟関係というものは、ないわけではない。が、彼女がそんなはずはない。この街にいた騎士は、アレックス・キングただ一人。過去の報告書にもしっかりとそう記載されている。
(まあその報告書を疑っている俺がそれを根拠にするってのも変な話だが)
目の前の少女は騎士だろうか、違うのだろうか。
様々な可能性と取るべき対処を思い浮かべ……決断。
「わかった。ひとまず、中へ入ってくれ」
「勝手に使っていいんスか?」
「ここの所有者はあくまでアレックス・キング個人じゃなくて所属組織だからな。許可は俺がもらってる」
「なるほど。それでは失礼を……」
靴を脱いで足を踏み出した少女がその場で固まった。どうしたのだろうと龍夜が見ていると、少女は若干マジに不安げな表情を見せて、
「あのー。ガチで襲うの勘弁ですよ?」
「口調を丁寧にできるんなら頭ん中も丁寧に対応しやがれ」
さすがにキレた。
何者かが居住区にいることは分かっていた。
その何者かがアレックス・キングではないことも、わかっていた。
居住区の音は教会内の数カ所の壁をずらすことで確認できるし、入り口の侵入者察知用の罠は綺麗にそのままだった。
智晴とアレックスの間の取り決めで、罠は入るたびに二つのパターンを交互に切り替える事になっていたのだ。
しかし居住区に入り込んだ人物は罠に気づきながら、それをもとに戻してしまった。それは、アレックスとの取決めに反するがゆえに、アレックスではない。
迷いはあったが、手がかりでもある。
意を決して踏み込んだ智晴の前に、その人物は普通に姿を現した。驚いたのはそれ故だ。てっきり、隠れたり襲ってくるものと考えていたのだから。
多少、信用してもよいか、と考えたが、それをすぐに改めた。
一人しかいない。
話し声は、複数だった。
だが現れた男は『俺』という一人称しか使わない上に、他に誰かがいることも言わない。
そのうえ全身黒ずくめで怪しい事この上ない。
(失敗したかなー。うーん、でもにゃー)
その男は先ほどキッチンに向かってから戻ってこない。
(これで包丁とか取り出してきたら本当にどうしようカナー)
危機感と冒険心の入り混じる感想を抱く。
彼女には特別な力など何も無い。
智晴とアレックス・キングの関係は、情報収集のちょっとしたコツを教わり、その見返りに多少の家事をしていた、という程度のものだ。
危険を侵し、命をかけてまで探さなければならないという程の理由はない。別に色っぽい感情があるわけでもない。
ただ、父親のように接してくれた相手がなぜ自分の知らぬ間に消えてしまったのか。その納得のいく理由が欲しいのだ。
考えていると、男が戻ってきた。お盆に、紅茶を載せている。カップは二つ。やはり、話していたもう一人は出てこないらしい。
(まあ、警戒されてるって事なのかもねー)
差し出された紅茶をしばらく見つめて、一口飲む。
「あ、うま」
「ずいぶんと上等なヤツが使いかけで残ってたんでな。せっかくだし、使わせてもらった」
「はあ……」
使いかけ、ということは既に封は空いていたのだろう。
が、今までにここに来たときにこんなにうまい紅茶は飲んだことがなかった。出されなかっただけなのか、単に入れ方の問題なのか。
「ま、いっか。ええと、それじゃ、なにから話しましょう?」
「そう……だな。とりあえず、俺が知っていることから話そう」
その申し出は少々以外ではあったが、同時に自分が相手を疑っている事を見透かされているのだと理解した。
つまるところ、先に手の内を晒すことである程度の信用を得ようとしているのだろう。
(んー、こりゃちゃんと相手しないと大変かなー)
適当にこの場を濁した場合、今後まともな対応を取ってもらえなくなるだろう。
彼は今、彼にできる範囲でこちらに誠意を持って対応している。それを蔑ろにできるような人間……あるいはそもそも理解出来ないような人間など、関係を形作るほうが有害である。
目の前の男は、そう判断するタイプの人間だ。
だから智晴も彼に誠意を持ってい応じることを決める。
無論、手札の全ては晒せない。そもそもそう多くはないのだし。
嘘は言わない。偽りはしない。
二人の互いの情報を突き合わせてみたものの、さして目あたらしい情報は見つからなかった。
「ふむーん。まあ、こんなもんでしょうねぇ」
そううまくはいかない、と多少の落胆を声に混ぜる智晴。
向かい合う男は、なにやら難しい表情をしている。
「……? 何か気づいたことでも?」
「ん、ああいや、そうじゃなくて。なんていうか正直、驚いた。
俺は一応アレックス・キングの上部組織から情報を貰っているし、ある程度の情報網とか公的機関の情報とか、その辺の情報も見られるんだが……君の情報は正確だった。それを個人で集めたというなら、正直舌を巻く」
「そりゃあまあ、あちしの趣味、ですからねー」
「趣味……で済むレベルか?」
「済みますよぅ。
ていうか、趣味だからこそ無意味に無駄に、極限まで突き詰められるんじゃないすか?
仕事とか役割とかならそれをこなせるレベルにあればいいんだろうけど、趣味ってそうじゃないっしょ?」
「……なるほど。至言だな」
苦笑する男。
「ま、師匠の言葉なんすけどね」
智晴も、苦笑で答えた。
「にしても本当、どこいっちゃったんかねー、あの人は」
「こういう風に姿を消すことはよくあるのか?」
「んーまあ二,三日ふらっと居なくなったりはたまにしてたけど、二週間って言うのはさすがに。まあ、あちしも週に多くて二三回くらいしか来ないんだけどね」
「ふむ……やっぱり何か別の方向から探していくしかないか」
「アテは?」
智晴の言葉に無言で両得手を挙げる男。
まあ、ある程度の時間が在ればできることはたいてい終わっているだろう。
これから先は発送の転換か、状況が一気に変わるのを待つか、そういった話になってくる。
「……ところで、時間はいいのか。もう日も落ちてるみたいだが」
「お。ああー。そうだね、そろそろ帰らないと。あっちゃんにも心配されたし。
あ、あっちゃんて言うのはあちしの親友で。愛しき人で、うん、可愛くて可愛くて、可愛いんだよね。ぶっちゃけ食べてぇ」
目の前の男が何故か精神的に距離を取る。
なぜだろうか。灯駈に対する情熱をほんの僅か披露してみただけだというのに。
「ええと……まあ、なんだ。そうか。うん。
俺はもうしばらくここで時間を潰すが、帰りには気をつけろよ。まだ物騒だからな」
「――、あいあいっと了解しました。それじゃああちしはこれで帰ります」
智晴は席を立つ。
男も続いて席を立ち、揃って玄関へと向かう。
靴を履き、扉を開いたところで。
「あ。そういえば、連絡先……ていうか名前、聞いてなかったですね」
根本的に大事なところを思い出した。
意図的に避けていた部分を、最後の最後で突かれて、思わず口を閉ざす。
表情はうまく隠せた。しかし思考が止まった隙に会話は続く。
「あちしは神葉学園一年の湊智晴って言います」
「……ああ、そうか。その制服どこかで見たと思ったら」
むしろ、最近よく見ていた制服だ。
なぜ今まで気づかなかったのかと自分自身に大いに呆れる。
「俺は……」
言葉を区切り。
「龍夜、だ」
続ける言葉を選び。
「東雲龍夜」
その瞬間、龍夜の体の内で劇的な変化が起こる。それを忌々しく思うもののやはり表情には出さず、少女――湊智晴へと携帯端末を差し出す。
互いの連絡先を赤外線で交換し、今度こそ出ようとした少女に、龍夜はなんとなく気になったことを尋ねてみた。
「なあ。気を悪くしないで欲しいんだが……その変な一人称、何なんだ?」
「え? ああ、キャラ付けっすよキャラ付け。
もう、周りの知り合いがキャラ濃いのばっかりでしてねー。こうでもしないと埋もれちゃうんですよ」
龍夜は。
なんかこう色々と納得がいかないものを感じたが。
まあさておいて、智晴を見送った。
「……神葉学園は魔窟か?」
四条式に情報収集のエキスパート。しかも今の少女は、若干表情が年齢制限に引っかかりそうな瞬間まであった。
「それが埋もれる……だと……なんだそれは、人間の住む世界なのか?」
『俺達の知っている世界は、まだまだ小せえって事なのかもな……』
さすがのサマエルも声に驚愕が滲んでいた。
首をひねりながら、奥の部屋に戻る。
とりあえず今一度情報の整理をして……その後、街に出る必要があるだろう。
今朝方、騎士団からアレックス・キングが領主として行っていた活動を可能な範囲で対応するよう求められた。
次の領主が決定するまでのつなぎだろう。
龍夜にはそんな広範囲をカバーできる力はない。
ともかく依頼を受けた以上は対応しなくてはならない。レギオンの発生を抑え、既にレギオンに侵されている人物がいれば、レギオンを除去できるのであればそうする必要があるし、それが既にできないレベルであるのなら、しかるべき対応が必要になる。
「……つうか、これでアレックス・キングの捜査もしろってのはどう考えても俺のキャパ超えてんだがなぁ」
『仕方ねえさ。じっくり腰をすえてやるしかねえだろうよ』
「まあ、そうだな」
ため息を付いて、残った紅茶を飲み干した。
突きだした拳から汗が散る。
交互に左右の拳を突き出す。規則正しいリズムで、正確な動作で。
物心付く前から繰り返してきた動作だ。
ただそれを、無心に繰り返す。
己の中の恐怖を忘れさらんとするように。
それでも。
「――――っ」
乱れた。
拳を下ろす。
「……ダメね。ダメすぎるわ」
あまりにも予想通りの結果に落胆すら沸かない。
ここは四条式の道場。
姿は灯駈ただひとり。
薄暗い明かりの中、ジャージ姿でぽつんと佇む姿は、儚く、力弱い印象を与える。
事実、彼女は弱っていた。
どうしても振り払えない恐怖とどう向き合うべきか、考えても考えてもわからないのだ。
体を動かせば少しはましになるかとも考えたが……逆に、あの時の恐怖を思い出す結果になった。
死、というものを、かつてないほどに意識した瞬間。
生、というものが、燃え上がり輝きを放った一刹那。
極限という経験が、彼女を混乱の底に叩き落とした。
途方に暮れていると、道場の隅から軽快な音楽な鳴り響いた。
携帯電話だ。しかも、この着信音は智晴からのものである。
「もしもし、智晴?」
「やっほうあっちゃん、元気かなー?」
「あなたほどではないけれど、程々に元気よ。
それで、アレックスさんは見つかったの?」
「いやぁ、やっぱり帰ってないみたいだったね」
「そう……」
智晴は帰り際に師匠――アレックス・キングを探しに、ひとまず住んでいる家まで行くと言っていた。
やはり見つからなかったらしい。
「何か、変わりはない?」
「特に何も。ああでも、なんかめちゃくちゃ変な人が居たよ」
「大抵の人はあなたに変だと言われたら首括りかねないから、あまり口にしないほうがいいと思うわよ」
反射的に言葉が出た。
「うっひゃあ相変わらず冗談キッついなぁあっちゃんは!」
いや冗談でなく。
限りなくマジで。
言っても通じないだろうから言わないが。
「その変な人ってどんな人なの?」
「えっとねー。なんか信用しちゃダメだけど信頼してもよさそうな感じ」
「や、意味わからないから」
「だってそんな感じなんだったし。
だって全身黒ずくめの男の人で眼つきが明らかに放送禁止レベルなんだよー。
ありゃ絶対変な人だってば」
「…………ねえ、智晴。その人の話、ちょっと聞かせて欲しいんだけど」
術式とこれからの話。
順調に外堀を埋められていく龍夜。
最初に殻を破るのは誰なのか。