陰・斬り裂く・影
01 - 04:陰・斬り裂く・影
彼女は激怒した。
なんですかそれはどういう事ですかっ。そんな事があっていいはずないでしょうにっ。
そのような具合だ。
何に対してかというと、とある領地の領主がすでに一週間以上連絡が取れないという状態に対して。さらに言えば、その調査を外部の人間に依頼したことについて。
「まったく……身内の問題くらい自分たちで解決できなくてなんのための組織ですかっ」
とはいえ、彼女も理解はしているつもりだ。
組織は――<楽園騎士団>は先の大戦において戦力を大きく失った。その影響から未だに抜け切れていないのだ。
戦闘の中心となった欧州本部の被害は甚大であり、今でも度々日本から人員を派遣せざるを得ない状況だ。それが響いて日本支部でも慢性的な人員不足なのである。
とはいえ自国を守る余裕を失っているようでは本末転倒だ、と彼女は考える。
今回の件は、それが露呈したものだと彼女は知っている。
それを差し置いても、外部協力者の存在が許せなかった。
彼女はそう言ってはばからないが、彼女のことを知る人間はその実のところをしっかりと見抜いていた。
つまるところ。
外部協力者の『人選』が気に入らないのだ。
とはいえ、彼女の言い分は理にかなっていた。
今回の外部協力者は実績に乏しく、予測不能の事態を任せるには能力的に不安があるのではないか、という事だ。
それは確かに理屈の上でも正しく正論であるのだが、今さら決定を覆せるわけでもないし、そもそもこの決定は彼女でさえ手出しのできない領分で決められていた。
それがまた、彼女の不満を助長させる一因でもあるのだが。
「とにかく、私は許せません」
白い肌と白い髪。日本人離れした容姿はそれ以上に人間離れして美しく、可憐であった。
室内蛍光灯の簡素な光のもとにあってさえ輝く白い髪はあまりに長く、今のように低めの椅子に腰掛けると床についてしまうため膝の上でまとめられている。
白い肌にはシミ一つなく、対レギオンの筆頭と言える騎士団において幾多の激戦をくぐり抜けてきたにもかかわらずキズ一つない。
整った顔立ちには中学生らしい歳相応の活気が息づき、魅力をさらに輝かせていた。
質素な椅子に腰掛け粗茶を飲む仕草さえ異様に様になっている。
<楽園騎士団>日本支部において彼女は『姫』と呼ばれる。いや、他国の騎士団や、それどころか、外部の人間にまでそのように呼ばれる。
その姫は不満を顕に彼女にぶつけてきた。音で表すならばぷんぷん、という感じで。
「はあ……えと、それで姫はどうしたいんです?」
「どうにかして騎士団からきちんと人員を派遣出来ればいいのですけれど」
「それは……さすがに難しいですよぅ。だって団長の決定ですよ?」
「だから困っているのです」
ため息を付く姿を見ながら、こっそりと三奈は笑みをこぼした。
鈴橋三奈。年齢は十八。主に姫の世話係をする、騎士団における非常に貴重な事務隊員である。
もうこの愚痴に付き合って三時間にもなるが、三奈は姫のこうした行為に付き合うこと事態は嫌いではない。普段は努めて表情を作っている『姫』が、こうして年相応の感情の豊かさでころころと表情を見ているのはむしろ好きだった。
ただ、溜め込む傾向にあるためか、一度始まるとやたら長いという問題があるが。
「確かに大きな実績はありませんが丁寧な仕事をする人ですよ、あの人は」
「むー。三奈は彼の肩を持つのですか?」
「ええと、そういう事じゃなくてー」
そもそも彼にしても唐突な話だったはずなのだが。この場合肩を持つというのなら上層部の方になるはずなのだ。
が、もう姫の中では彼が積極的に仕事を持って行ったということになっているらしい。
「姫はどうして、そんなに彼を嫌うのですか? 確か前回の時にも、随分とその、あれでしたけど」
いちゃもんとか言いがかりと表現して問題ないレベルの発言の数々を思い出し、それを微妙な言葉で濁す。
この状況で姫の神経を逆なでするのは自殺行為である。
「……あれ、っていう言い方が気にかかりますけど、まあいいです。だってあの人、変じゃないですか」
「あー……」
変人。
その認識に異論を挟むことは、残念ながら三奈にもできなかった。
話題になっているのは無論、龍夜の事である。
騎士団の騎士と龍夜では対レギオンの姿勢が微妙に異なっているため、そこが姫には引っ掛かりを覚えるところなのだろう、と三奈は考えている。こればかりは互いの育ってきた環境や教育してきた人間からの影響が色濃いために、どうしようも無い。
「まあなんといいますか、彼は……そう、偽善者、ですからね」
「偽善者?」
あまり響きの良くない言葉に表情に不審を顕にする姫。
当然の反応かな、と思いながら、誤解のないように訂正を加える。
「ええまあその、悪い人ではないんです。ただその、状況に流されやすい上に頑固なので」
「……それ、任務を任せるにとても向いているようにおもえません」
「そう思うのも無理は無いかもしれませんね。でもきっと、彼を表現するのに最も適した言葉がそれで――でも、一番不正確な言葉もきっとそれなんです」
「よく、わかりません。三奈の言うことは難しいです」
「そうですね……うーん」
どう説明したものか、と頭を悩ませていると、電話がなった。
外部との専用回線のものだ。
番号を見てみると。
「あらあら、噂をすればなんとやら、という奴ですね」
「彼から、ですか?」
姫は椅子を少し電話から遠ざけた。
ずいぶんと苦手意識を持っているんだな、苦笑を浮かべながら電話を取る。
「はい、もしも――え? あのそれはどういう……ひゃっ! わ、わかりました! わかりましたから落ち着いてください!!」
姫の目の前で三奈は明らかに狼狽していた。
耳を済ましてみると、なにやら大声で怒鳴っているらしい。姫はむっとする。三奈にはとても良くしてもらっており、数少ない友人と呼べる間柄なのだ。それを怒鳴られていい気はしない。
だから、そちらに意識を向けたせいで、三奈がとんでもないことをしているという事に気づくのに遅れてしまった。
「……? 三奈、なにしてるの……ってちょっと待ちなさい、あなたそのデータは……っ!!」
「はい。送信しました。……ええ、はい。もう、少しは落ち着いてくださいね。ええ、はい。それじゃあご武運を」
電話を切って、三奈がふうと一息つく。
姫はそれを、ぽかんと見ていることしかできなかった。
が。
「み、みみみみ三奈! あなた、今自分が何をしたのか分かっているのですか?!」
「いえまあその、必要ださっさとよこせ、なんて言われちゃいましたから」
三奈が操作した端末にうつっているもの。それは間違いなく、神明市の行方不明の領主、その人の詳細な情報であった。
騎士団所属の騎士の情報は、コンピュータによって厳重に管理されており、普通なら外部への持ち出しや送信などできてはいけないはずなのだが。
なにしろ騎士の情報というのは即ち騎士団の切り札なのだ。同じ騎士団内でさえ不用意なやりとりは禁じられているというのに、それを外部の人間に送信するなど。しかも、わざわざセキュリティまで破って。
「あ、ああああなたそれ、処罰ものですよ? 分かっているのですかっ?」
「ええまあ分かっているんですけどね。でもほら、やっぱりどうにかしたいじゃないですか。頑張ってるんですから」
それは。
そうなのだろうが。
「けれど……規律や、規範を守らなくては、場合によっては逆に被害を広げる形になりかねません」
これだけ情報の扱いに慎重になるのには理由があるのだ。過去騎士団が手痛い被害を被った事は幾度とあるが、そのうちの何度かは騎士の情報が事前に漏れていた事が原因であった。
「そうなんですけどね。だから彼は偽善者なんです」
三奈は椅子に腰かけ直しながら、端末から情報操作の痕跡を消して、姫に向かいなおす。
「目の前しか見えてないんです。そのために全力を出して、その後ろで被害が出ていることもきちんと気付いている。でも、目の前をどうにかせずにはいられないんです。だって、目に映っているのはそっちだから。
情けないくらい自分本位な他者救済。自覚がある分、なお悪質……とは彼の言葉ですけれど、私も同じ意見です。
それでも、誰かを助けようと、頑張っているのなら……頑張って欲しいじゃないですか」
三奈はそう言って、ぬるくなったお茶をすすった。
姫は何も言えず。
けれどやはり納得はできず。
一口お茶をすすり、口の中を潤してから。
「けれど、私の友人のあなたにあんな怒鳴り声を上げていい理由にはやはりなりません。やっぱり私は、彼のことは嫌いです」
ふくれっ面で、そう零した。
龍夜はひときわ高いビルの屋上の縁に立ち、街を見下ろしていた。
時刻はそろそろ九時を回った。
レギオンの活動も、これから時間と共にさらに活発になる時間帯だ。
龍夜はじっと街を見下ろしている。
もはややることは全てやった。後は獲物が網にかかるのを待つのみ。
もう一度、端末をひらく。
そこにはある人物の詳細な情報が展開されていた。
三奈に危険を犯して取得してもらった情報だ。ずいぶん手際よく手に入れてもらったが、龍夜とてこれがどれほどの危険な行為かは分かっていた。
もし発覚した場合、三奈は問答無用で背信行為を疑われ、最悪処刑となってしまうこともありえる。
しかしだからと言って、騎士団に正面から掛け合ったところでこの精度の情報は期待できない。
それほどの情報なのだ。騎士の個人情報とは。
だが、それを無理して差し出させた。この街のレギオンを狩るため、人を守るためだと。
偽善。
そう分かっていても、止められない性分だと理解していた。
まるでレギオンだと皮肉を言ったのは三奈だ。感情はそれに反発したが理性は納得し、その時は何も言えなかった。
きっと今でも何も言えないだろうと、内心で溜息をつく。
情報に目を通す。
『アレックス・キング』
『神明市を中心とした複数の市を領地とする』
そこには、彼の騎士としての履歴、能力、技量などが詳細に記録されていた。
技量としては十二分。隊長位に付いていないのがおかしい位の実績と実力の持ち主であることが伺えた。
何よりも特筆すべきはその領地の広さだろう。神明市全体どころか複数の領地の掛け持ち。人手不足もあるだろうが、だからと言って実力の伴わない者をその任にあてられるほど、騎士団は腐ってなければ余裕があるわけでもない。
一流の騎士。龍夜はそう判断した。
その彼の定期報告もまたその実力を裏付けるのに十分な精度と量を持ち合わせていた。
その中には、領地の分析結果も記載されている。
レギオンにも、集まりやすい場所というものがある。心の闇から生まれ、形を成しやすい場所というべきか。
例えば、夕方のあの森などが分かりやすい。
そういった場所では人は正気を失いやすく、レギオンも形を成しやすい。また、瘴気が人の精神を不安定にさせる作用もあり、長居すれば体調を崩すこともある。
集中点と呼べる場所。その場所についても、網羅されていた。
このビルの屋上も、そのひとつだ。
街外れのこのビルは建設工事終了後すぐに自殺が三件も起こったためテナントが入らず、そのまま放置されたものだ。
いかにも、な曰くのあるビルなのである。
神明市の南西のこのあたりは、そういったビルが複数集まっていて治安もあまり良くはない。無論、そういった場所にこそ集まる人間が、こうして夜を照らしているのだが……。
話を戻そう。
龍夜は、街中のそういったスポット全てに、結界を張った。気の巡りを浄化し、気脈を活性化させる結界だ。レギオンの嫌う結界。
そうして残っているのは、ここだけ。ここだけは結界を張らず、
今、街じゅうのレギオンは小さな陰に潜んでいることだろう。
だが。
とてもではないが、小さな陰ではその身を隠すことができないような。そんな存在がいたら。
そいつは果たして、どうすればよいだろうか。
結界を破る?
とてもタダでは済まないし、そんな事をすれば、たちまち結界を張った人間が飛んでくる。結界を破って力を失った状態で戦うなど、愚の骨頂であろう。
レギオンは本能と欲求で動いているからこそ、自らの存在をむやみに危険に晒したりはしない。
それでは影に潜まず、堂々としている?
不可能だ。レギオンにより衝動を刺激されている状態で、我慢が効くはずがない。次の獲物が欲しくて欲しくてたまらない筈だ。
ならば。
答えはひとつ。
「結界を張った人間を――」
『――殺してしまえばいい』
立ち上がる。竹刀袋から中身を取り出す。
中身は、日本刀だった。
鞘は黒く余計な装飾を一切省いた無骨な印象がある。しかし、鞘に収まったままであるにもかかわらず、見る者を圧倒する何かがあった。
刃渡り二尺。
レギオンを斬る。ただそのためだけに生まれた一筋の刃。
銘を『天穿牙』と言う。
彼はしばらく手の中の刀を見つめ――振り返った。
そこにはいつからいたのか、ひとりの少女。
資料で知っていた。ずっと見ていた。だからその顔を見れば名前はわかる――筈だった。
「ようこそ――加賀原南帆」
そして。
『さらばだ――加賀原南帆』
刃の存在理由。
それが果たされる時は、今ここにある。
少女は哂っている。
壊れた笑顔を浮かべ続けて。
表情は蝋人形のように固まったまま。
「どうして……わかったの?
どうしてだろう。わからないな。わかんないね。わかんないや。
あんなにあんなにあんなにあんなに。きちんときちんと、隠してきたのに」
ニタニタ、ニヤニヤ。
壊れた笑顔。口は動かない。声はどこから発しているのか。
『そうだな。上手いこと隠してた……俺達も、最初の被害者はあんたで間違いない。そう思ってた』
「そうだね。そうだよね。そうなんだよ。
じゃあなんで、どうして。わかったの。わかっちゃうの?」
「巧すぎるんだよ。事件の隠蔽方法が、じゃない。お前が犯人でないと、そういう状況証拠が揃うのが。
片方の獲物は原型もない位に死体を食い散らしたくせに、もう片方の獲物は腕を切り取り頭蓋をぶち抜くだけで済ませるだと?
そんな都合のいいことがあってたまるか!!」
そう。
龍夜が社の中で見たものは、神葉学園の制服を身につけ、片腕を切り取られ、頭部を粉砕された死体だった。
あまりにも。
あまりにも違いすぎる。
本能と欲求が支配する存在の行動にしては一貫性が感じられない。
だから疑った。
可能性を。
「なあおい、お前……そのバラバラの体は一体なんの冗談のつもりだ、ああっ?!」
加賀原南帆。
左右の足の長さが違う。
左右の腕の長さが違う。
袖から出た肌の色が違う。
違う。違う。違う。違う。
顔が、加賀原南帆のものとは違う。
それが答え。
彼女は。もはや彼女と呼ぶべきなのかさえ不確かなこの存在は。
自らの殺した人間たちのパーツを継ぎ接ぎに、自らを構築したのだ。
「だって。だって。だって。ねえ。楽しそうなんだよ、あいつら。
足を。手を。肌を。目を。顔を。あんなに着飾って。
だから。だからさあ。そんなに楽しいっていうのなら……分けてくれても、いいじゃない」
壊れた笑顔で壊れたことを言う。ある意味それはふさわしい姿なのか。
いじめは、たしかに苦にしていなかったのだろう。
だがきっと彼女は初めてだったのだ。自分とあまりにも違う感性を持ち、習慣を持つ、そういった人種と直に接するのは。
異文化と言っても良いほどの存在と衝撃。
それに触れた彼女の中に生まれたのは、侮蔑でも羨望でも排他でも同調でもなく、嫉妬だった。
ただ、それだけのありきたりな話で。
そしてそれだけでは終わらなかった。
結論は、それだけの事だったのだろう。
龍夜が刀の柄に手を掛ける。
夜のような黒目黒髪に、コートもシャツもパンツも黒。全てが黒いその姿は不吉を運ぶ死神を思わせる。
「お前の事情は知らない。もしかしたら同情の余地がどこかにあるのかも知れない。
が、それらの全てがもはやどうでもいい。
お前の終着は今ここだ。ここでお前の執着、切り捨てさせてもらう」
加賀原南帆は。
レギオンは。
笑って。
哂って。
『カヒッ』
『カヒヒヒヒヒヒッ』
『あはははっ! あはははははははっ!!』
ふわりと、浮き上がり、次の瞬間には五メートル程の上空の位置で停止した。
『……龍夜、こいつは』
「ああ……」
笑い声は響き続けている。だが、その姿はもはや見えない。
黒い靄が渦を巻いて、その姿を覆い隠してしまっているせいだ。
ただ、その奥から感じる不吉な気配は物理的な圧迫感さえ伴っていた。
もはやあの森の比ではない。いや、あの時は力を隠していたのか。力を存分に出すことができる時間帯になるまで。
やがて哄笑が収まり。
黒い靄がゆっくりと晴れてゆく。
中から現れたのは――筆舌に尽くしがたい姿をした存在だった。
無理にでも一番近い形を当てはめるとするならば、かろうじてクラゲという言葉で表現できないこともない。
巨大な丸い肉の塊から、無数の触手が生えており、肉の塊のそこかしこには牙をむき出しにした口がかちかちと音を立てている。
触手は全て人間の腕の形をしているが、関節がいくつあるのか見当もつかない。
そして、肉の塊――仮に脳と呼ぶが、この脳は半球状をしており直径は三メートル程。ぐるりと円周には昆虫の足のようなものが生えている。
脳はびくんびくんと脈打っている。シワに見える表面は、よくみると人間の足が絡み合っているものだった。
まるで人間に対するあらん限りの悪意を込めて作ったかのような肉のオブジェ。
人間という生き物のパーツは見て取れる。
だがそこに、人間としての痕跡は何一つ残っていない。
このような姿<大天使級>が取ることはありえない。
つまり。
「<権天使級>!」
『既にその位階に達していたか』
サマエルの声にも平時の余裕は既にない。龍夜も決して心中穏やかではない。
だがそれでも。
退くという選択肢だけは、ありえない。
必要なのは覚悟。
「……やるぞ、サマエル」
『ああ。いつでも』
息をつく。
レギオンは上空にとどまったまま動かない。動けないのだ。
人としての存在を捨てその位階を上がったレギオンは、物質に対して直接影響をあたえることが出来なくなる。
しかし今龍夜が感じているように、瘴気を撒き散らし下級のレギオンを無尽蔵に生み出す。
故に、倒すにはこちら側に引き摺り出さなくてはならない。
その手法は単純。
声を張り上げる。
「訊こう! 『汝の名は何と為す』!」
それは言葉。
こちらと『奴ら』を結びつけ――引き摺り下ろす。
レギオンが、揺れた。
半透明のそれがゆっくりと高度を下げ、にわかに動きが慌ただしくなる。
そして、ピタリと止まり。
答えが返る。
『我は――』
声はどこか、加賀原南帆の色を残しており。
それはまるで、人間の声の要素をぶつ切りにして、無理やり組み直したような、不快な音。
『我はゲヘナ――業火の軍勢であるがゆえに!!』
瞬間。龍夜は跳ねた。
直前まで居た空間が無数の触手に蹂躙されるのを尻目に、手近な足へ。
鞘を腰に挿し刀を抜く。
「神浄四相流・一伎型――虎牙突穿」
踏み込みと共に繰り出された突きが昆虫のような節足の半ばまで突き刺さる。手を刃に添え軽く振動を与え、気を通して衝突点で爆発を起こす。
足が吹き飛び。千切れた断面から黒い靄が血の代わりと言わんばかりに噴き出した。
龍夜はその結果を見届けぬまま、別の足を足場に宙へ翔ぶ。
放つ斬撃は三つ。脳に大きな亀裂が入る。
『ルオオオオオオオオオオオッ!!!』
脳の口がパクリと開き、中から炎の弾丸が無数に放たれた。
「サマエルっ」
『いちいち言わなくてもわかってるって』
ざり、と龍夜を青光が包む。光は炎を弾くが、威力に流されるのは防げない。
「……っと」
炎が収まると同時に着地。屋上の端にまで押し戻された。
「さすがに、固いな」
ゲヘナと名乗ったレギオンを見やると、龍夜の切断した足は断面から今まさに足が生えてきているところだった。さらに、脳につけた傷は新たな口となっている。
今の攻撃の全てが、相手の存在にまで届いていないのだ。
<権天使級>以上にまで上り詰めたレギオンを倒すには、単純にダメージを与えるだけでは倒すことはできない。
レギオンは軍勢。
あの黒い靄こそがレギオンなのだ。
結合の弱い<天使級>や<大天使級>であれば、物理的な攻撃である程度の効果は望めるがそれ以上の階級相手ではそうもいかない。
わずかな時間でその結合を回復されてしまう。
「とはいえ、いきなり奥の手まで出すわけにもな――どのくらいかかる」
『ああまて……まだもう少し時間がかかりそうだ。なんとか凌いでもらうしかねえな』
「了解――っと!」
文字通り手を伸ばしてきた触手を切り捨てる。
刃の勢いに乗りくるりと反転、さらに二本の触手を纏めて断ち切る。
「おおおおおっ!!」
次々に繰り出される触手と炎。
右から触手が、躱す。火炎放射を踏み込むことで潜りぬけ、足を三本、断ち切る。足に絡みつく触手を踏み千切り、牙を鳴らす口から飛びすさる。
死角から放たれた足を踊るようなステップでかわすが、肩が浅く抉られバランスが崩れる。姿勢が崩れ動きが僅かな停滞を見せた。
『アハハハはハハ! ハっはハッ八ッ!!』
狂ったような笑顔を浮かべながら鋭い足を床に突き刺しながらぶよぶよと身を揺らし踊るゲヘナ。触手を狂ったように四方八方に叩きつけ、炎の雨を撒き散らす。
「くっ、そっ、がっ!!!!」
炎を見切り、触手を切り捨て、足の隙間を縫うように駈ける龍夜。
しかしどれだけの速度で動こうと、嵐のような攻撃の全てを避けきれる道理はない。既に体には無数の傷が走っていた。
「サマエル、まだかっ?!」
『あと少し耐えろ! こっちだって必死でやってる!!』
しなる足を刀で受け、しかし吹き飛ばされる。立ち上がるまもなく襲いかかる触手の嵐を、ある者は切り捨て、あるものは流して捌く。
『ひゃぁぁっぁああああああぁぁはあははっはは!!!』
業を煮やしたか。
脳が天地逆転し、足の関節を逆に曲げ立ち上がり、触手は空へと手を伸ばし、燃えた。
「っておいこらマジかよ!!」
百を超える炎の腕がゆらゆらと揺れ――龍夜目指して槍のような鋭さで襲いかかる。
「おおおおおっ!!」
飛んで躱す。いくらなんでも、炎を刀で切ることはできない。
飛んだ龍夜向けて、昆虫そのものの動きで脳が迫る。
受身とりその場でしゃがんだまま刀を鞘に添え、構える。
「神浄四相流・一伎型――籠轍」
真一門の斬撃。ぐるりと膝を支点に回転し刃で円を描く。鋒込めた気によって空気そのものを爆散させた。
爆圧は炎の触手だけでなくゲヘナ本体も押し返した。無論、中心にいる龍夜もただでは済まないが。
「か……はっ!! クソッタレが……肺が潰れるところだったぞ!!」
『くすくすくす。
すごいね。うん、すごい。
驚きだ。驚きだよ。驚き、驚きだね』
龍夜の悪態に声が帰ってきた。
他でもない。ゲヘナ――加賀原南帆だ。
「……なんだ、意識残ってんのかよ」
『そう。そうだよ。ざっざざざんねんだったねえええねねねえ』
それももはや限界が近いらしい。
しかし敵の動きが止まったのはありがたかった。肉体へのダメージは、既に限界まで高まっている。
そもそも、一撃が人間一人楽に粉砕できる威力を持っているのだ。かすっただけに見えてもその衝撃は尋常ではない。
『すごおごいね、あなた。どどどうしたらそんなああああに、つよおおおよくなれるのおおお?』
「……褒めてもらって恐縮だが、俺は弱い方だぞ。騎士団の中には、お前よりよっぽど化け物じみた連中だっている」
『へへへええへええへ、すごい、すごいねええんんきしし団は。あは、あははははあ!!
あははははははははははハハハハハハハハハ!!
ああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!』
ゲヘナが炎に包まれる。存在そのものを荒れ狂う炎としたのだ。
一歩一歩、ゆっくりと。まるで己の威容を見せつけるように近づいてくるゲヘナ。
龍夜は、下がらない。下がったところで端はすぐそこ。意味が無い。
刀を鞘に収め、抜刀の構えを取る。
崩れそうになる膝を無理やり立たせて、次の一撃のために気を練り上げる。
動いたのは、ゲヘナ。
正面上下左右を赤く埋め尽くす量の足と触手が、いっせいに伸びた。
『龍夜!!』
「――」
龍夜も、動く。
――轟、と。
炎が立ち上った。。
莫大な熱量が荒れ狂い、狂風を巻き起こした。
『あはははあ! あははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!』
燃える。燃え盛る赤い炎。
確かな手ごたえを感じたゲヘナは、矮小なる騎士の最後を確信し哂った。
空を焼くその赤の中から。
ずるり、と、影が生まれた。
『――あは?』
耳障りな笑いが止まる。
炎の中から、腕が突き出していた。シルエットは人間の右腕。
腕は黒い。
黒い鎧に覆われていた。
刺々しいフォルムをした鎧は、ゆっくりとその全容を腕から肩へ、肩から胸へと炎の奥より歩み出してくる。
金属の重々しい足音と共に、その威容は姿を現した。
それは、影のように黒い鎧。
炎の光さえ吸い込む漆黒は、その全身を覆っていた。
頭部を覆う兜は龍を模しており、睨みつける真紅の眼光がゲヘナを射抜く。
触れれば切り裂く鋭さを全身に纏っているが、禍々しさはそこには存在しない。
むしろ鍛え抜かれた刀のような美しささえあった。
腰に佩きたるは一本の刀。
黒い鞘には竜の装飾が施されている。
刃渡り三尺の唯一無二。
銘を『星震天穿牙』。
鎧が、ゆっくりと刀を抜く。
銀の刃が月と炎の光にさらされ、静かに輝く。
鋒をゲヘナに向け、鎧が口を聞いた。
「龍影影装――刃牙」
その声は紛れもない龍夜のもの。
これこそが、騎士が騎士と呼ばれる所以。騎士鎧の着装。
騎士鎧にはいくつか能力があるが、まず分かりやすいのがそのもの鎧としての能力。
『オオオオオオオッ!!』
無数の炎の触手が龍夜――刃牙に襲いかかる。
しかし刃牙は特に身構えるでもなく触手は鎧に突き刺さり――弾かれる。
二度三度と繰り返しても結果は同じ。
単純な強度だけでなく、レギオンに対して強い耐性を持つ。それが騎士鎧なのだ。
それを悟ったか、ゲヘナが無数の触手をひとつに纏め、巨大なムチとして叩付けた。
しかし刃牙は腰を落として左手を差し出し、その炎を受け止めた。
さらに受け止めた触手を引いて、
「おおおおおおおっ!!」
脳ごと持ち上げ、叩きつけた。
地震のような衝撃と共に、ゲヘナが屋上の床を砕く。二度、三度とそれを繰り返すと床が壊れ、下階へと落下した。
このように、レギオンがある程度まとまった状態であれば、意志一つで炎の形態をとっていようとレギオンに触れることができる。
レギオンに対しての絶対的な攻撃力と防御力。
これこそが騎士鎧刃牙の力であり、龍夜の力である。
無論、これだけではレギオンを討伐するには力が足りない。刃牙が刃牙たる理由ーー他の騎士であれば持っている能力を有していない事から、決定打に不足する。
それを補うのが。
『見えてるな、龍夜?』
「ああ、良好だ。さすが、と言っておこうか」
刃牙の周りを漂う球体の黒い闇から声が聞こえた。龍夜がサマエルと呼ぶ、その声である。
それはレギオンの黒い靄に似ており、しかし決定的に違う。色は同じ黒ながら、刃牙同様すべてを飲み込む深さを持っている。そして靄のようにあやふやした不定形ではなく、確かな存在感を持って刃牙の周りを漂っていた。
サマエルの力により、下階を見下ろす刃牙の視界にはその決定力不足を補うための情報が視えていた。
「――そこか」
右足を大きく引き、腰を落とす。突き出した左の手甲に刀の背をあて、鋒を低めに構える。
刀に流し込まれた気が大気を灼き、震わせる。
今、刃牙の視界にはゲヘナの『核』がみえている。
レギオンは軍団。軍団である以上、統括する存在があって然るべき。即ちーー脳の中心一片三センチメートルの立方体。
「神浄四相流・一伎型――陰滅影牙」
音を置き去りにした突。
影さえ残さぬ疾風疾駆。
抵抗のために放たれた炎諸共を刃に巻き込み。
醜悪な肉を引き裂き。
灰色の『核』に白刃が突き立つ。
それでも刃牙は止まらず、巨体諸共壁に激突する。
ぎしり、と、核のひび割れる音が響く。
激しい抵抗の炎が室内を荒れ狂う。
「龍咆!」
手首を捻り、気を送り込み続ける。
龍の咆哮が響き渡る。刀に送りおまれる気が、破壊の力を伴って溢れ出す。
『星震天穿牙』がより強く輝く。それでもなお黒き鎧が、己の全力を、牙を突き立てる。より強く、より強く。
そして。
ガラスが割れるような音とともに、ついに灰色が、砕けた。
その光景を、何人は偶然目にしていた。
打ち捨てられた高層ビルの最上階の壁が、轟音と共に炎を噴き出したのだ。
そこで何が起こったのかを理解したものはいなかった。
炎と閃光の向こうに漆黒の鎧を見たものも。
『核』が砕けた瞬間、僅かな靄がレギオンの形を取り――しかしすぐさま、より黒い闇――サマエルに吸いこまれて消えた。
それを見届けて、龍夜は刃牙の着装を解く。
鎧が継ぎ目から離れ、形を失い、龍夜の影の中へ消えて行った。
燃える炎は空気の逃げ道を得たことでより荒れ狂う。すぐにここから避難しなければ、龍夜といえど危険だ。
だが。
少し離れたところに視線を投げた。
四肢を失い、全身に傷を追った少女が、倒れていた。
胸は微かに上下を繰り返しているが長く持つことはないだろう。
彼女はおよそ人間とは思えぬ所業を行った。レギオンに取り憑かれたとはいえ、その行動のトリガーは彼女の内にあるものだ。
だから、彼女のことは許しがたい。
しかしそれでも。
龍夜は彼女に歩み寄り、彼女を抱き上げた。
「……はは、優しいね、君」
炎の音に掻き消されそうな微かな声。驚いて視線を向けると、抱え上げた少女が笑っていた。
疲れと諦めと……色々な感情が詰まった笑顔だった。
「……意識があるとは、思わなかった」
「うん……ううん、これはたぶん、残り香。わたしの中のあいつらが、まだ少し残ってるから」
「……そう、か」
龍夜は何も言わず。
床を蹴り、天井の穴から屋上へと出た。
遠くからサイレンの音が近づいてきている。誰かが通報したのだろう。
炎の熱から遠ざかり夜の風を浴びる。屋上は酷い有様だったが、それでもどうにか、腕の中の少女を下ろせる場所を探し当てた。
静かに下ろす。彼女はずっと閉じていた目を開いて、
「ありがとう」
とささやいた。
「気分はどうだ」
「うん。思ったより平気……あんな事したのに、変なの」
浮かべた苦笑を見て、龍夜はたまらない気持ちになる。
彼女を許す気持ちはやはりない。
だが、彼女を哀れに思う気持ちも拭えない。
そんな龍夜を見て、加賀原南帆は悲しげに顔を歪めた。
「なんか、ごめんなさい……わたしのせいで、こんな事になっちゃって」
「別にいいさ。いつもの事だよ。この程度の騒ぎならーー」
「そう、じゃなくてさ。わたしのせいで悲しい顔をさせてるみたいだから」
龍夜は口を閉じる。
「なんかねー。あのこ達の事だって、別に嫌いじゃなかったんだ。うん、むしろ、好きだったよ。
わたしにはできないこと、真似できないことを、あんなに活き活きとしてできるんだもん。
帰りに寄り道したとか、喧嘩して家出して友達のところに泊まったとか、男の人と……とかさ。
うん。羨ましかった。羨ましかったけど、すごく遠く感じて……それでよかった、筈なのに」
「レギオンはちょっとした切欠で心に棲みつく。あんたに非はあっても、落ち度はない」
「あはは……ありがとう。うん、そうやってちゃんと叱ってくれて、嬉しいよ。
慰められたら、悲しくなる。
あんな自分が自分の全部だって、そう言われるみたいで」
呼吸がだんだんと浅くなっていく。
彼女が穏やかに、意識を失っていくのを感じていた。
ふと思う。これは不公平だろうか。他者を理不尽に蹂躙した人物が、報いを受けたとはいえ、穏やかに息を引き取ろうとしている。
とても龍夜には答えは出せそうになかったが……それでも、目の前の彼女の最後を左右する気にはなれなかった。
それが偽善だと自覚していても。
「……あのこ達、ひどいことしちゃったな」
「略式で、あくまでこちらの流儀だが……一応、焼いて弔いはしておいた」
「ほんと……なにから、なにまで……ありがと」
「いや……そういえば、ひとつ聞いておきたいことがある……牧師にあったか?」
彼女は目を少し見開いて――それでも何も見えていないだろうが――龍夜の方を見ながら、微かに、うなずいた。
「……あったよ。優しい人だったよ。怖い人、だったけど」
そうか。と答えて、それきり口を閉じた。
浅い呼吸の間隔がだんだんと長くなる。
龍夜は夜をじっと見つめている。
「なまえ……そういえば、きいてないな……」
「龍夜――いや、篠中龍夜だ。敵にはそう名乗ることにしている」
「そ、か。うん。…………ありがとう、しの、うち……ん」
最後に。
長い吐息を小さく残して。
加賀原南帆は、息を引き取った。
塾の同級生を殺害し。
己の消息を隠すために他者の血肉をむさぼり、切り貼りし。
炎をまき散らして一人の騎士を殺害しようとし。
凶悪と言って差し支えない惨禍をまき散らした少女は。
その騎士に看取られて。
幾多の苦悩と後悔を胸に。
静かに、人生の幕を閉じた。
所業に反して、あまりにも穏やかに。
ゆっくりと、彼女の亡骸を抱え上げる。
『どうするんだ、その娘』
「こんな死体を出すわけにもいかんだろ。焼いて、社の裏に墓でも建てるさ」
『そうか。それで、これからどうする?』
「どうもこうもねえよ。敵は潰す、徹底的にだ」
『だろうな。じゃ、ひとまず俺は帰るぜ』
闇がふわりと龍夜の体の中へ溶ける。
龍夜は屋上の縁に立ち、夜の街を見下ろす。
たとえ姿は見えずとも、確かに敵を見据えながら。
漆黒騎士刃牙。
今はまだ知る者も少ない、ただの放浪者の騎士に過ぎない。
その名が夜の世に知れ渡るには、まだしばらくの時間と幾つもの戦いが必要であった。
Bパート終了。
エピローグのCパートを挟んで、2章へと続きます。
ちなみに、前話のあとがきにも書いておりますが、タイトルが某有名格闘技マンガと被ってて非常に紛らわしいので、2章開始時点で変更します。
ここまで読んでいただいて、さらに先まで読んでいただける方は覚えておいていただけると有難く。
タイトルは「刃牙」から「夜の刃、月の牙」へと変更いたします。
それでは。