陰・這い出る
01 - 03:陰・這い出ル
感じた予感に従い、全力でここまで来た。
しかし、その先に目に見えるものは絶望である。筈だった。
だが、絶望的な状況であるにも関わらず、少女は――どうあがいても間に合わない、手の届かなかったハズの少女は、黒い女性――レギオンの一撃を、凌いだ。
その驚嘆すべき胆力、技量、実力。それに僅かに目を奪われ――同時に感じたのは抑えきれないほどの歓喜。
間に合う、と。
己はまだ間に合うことができる、守ることができると。
それは龍夜にとって何よりも尊い希望となる。
だから。
故に。
少女が気を失い、その少女を手にかけんとレギオンが動き出すのを見て。
彼はただひたすらにただ一つ事、間に合うためだけに、己の限界を超え、翔ぶ。
雷鳴の如き咆哮とともに、地を蹴り、風より疾く疾く駆け抜ける。
「おおおおおおぉぁぁああああっ!!!!」
裂帛の気合を込めて敵に向かって――翔んだ。
「けひっ?!」
突進の勢いそのまま、今にも気を失った少女に襲いかからんとするレギオンに掴みかかる。
鈍い衝撃が体を突き抜け、重なりあって地面に投げ出された。
相手から手を離さずにすぐさま立ち上がる。
抑えこもうとするが、尋常ではない力で暴れ回る相手をうまく拘束できない。
「て、んめぇ!」
力に任せて抑えつけようとする龍夜。激しく抵抗するレギオンは遮二無二暴れる。
出鱈目に振り回される右足が、思いがけない角度から側頭部に襲いかかる。片腕で受けることを本能が拒絶。両手で受けるために掴んでいた手を放してしまう。
衝撃と共に視界がぶれた。
「――ぐっ!!」
ただ力任せに振り回された、技術も何も無い一撃。力に逆らわずに飛んで威力を削いだというのに体の芯までしびれるような衝撃が走る。
「……化け物が」
気を失った少女のそばに着地する。
「その子の様子、わかるか」
レギオンからは視線をそらさず、小声で姿なき相棒に尋ねる。
『大丈夫だ、精神汚染の気配もない。気絶しているだけだな。というか、よくもまあここに踏み込んでその程度で済んでるもんだ』
「たしかに大した胆力だが……無謀が過ぎる」
龍夜が森の以上に気づいたのは、隠蔽の結界がなんの前触れもなく消失したせいだ。溢れ出した瘴気は5キロ近く離れた位置にいた龍夜をもって戦慄を覚える禍々しさを放っていた。
おそらく、この少女が結界を壊してしまったのだろう。どうやってかは分からないが。
『っておいおい、このお嬢ちゃん、この間の公園のじゃないか』
「? ……ああ、あの時の」
レギオンとの戦闘禍の残る公園に踏入り、あろうことかこちらの気配まで感知した少女。なるほど、彼女なら、何かの偶然でこの結界を発見し、迂闊にも踏み入れてしまう事もあるだろうと龍夜は納得した。
「俺たちとしては助かったが……それだけに、面目丸つぶれだな」
『だな。ここはひとつ、汚名返上といくか?』
立ち上がった女性型レギオンは、先程からこちらを殺意のこもった視線でもって睨み続けている。
望むところ。
「そうだな……<大天使級>、逃せば厄介の種になる」
ここで、決める。
身を屈め、左手の竹刀袋を腰のやや低い位置に合わせる。するりと、袋の口ひもが解け、中身が僅かに顔を出す。
黒い柄があった。刀の柄だ。
それだけで相手に動揺が走るのを感じる。
「わかるか、こいつが。それならば尚の事、ここでケリをつける」
集中を高める。視界が極度に狭まると同時、聴覚触覚嗅覚が極大にまで広がる感覚。
無音。
互いに筋一つ動かさぬ膠着。
無言の中に高まる闘気が静かに大気を灼いてゆく。
そして。
「……ん」
少女が、小さく呻く。
それが引き金となり。
――爆ぜた
ぼっ、と。
足の裏を破裂させたかのような錯覚さえ与えるほどの爆発的な右の踏み出し。目算三歩。それが、20メートル以上のこの距離を踏破するに必要な歩数だと龍夜は判断する。
対するレギオンは、ブチブチと筋を断裂させながら骨を砕きながら関節をひとつ増やし、重力の加護を受けて彗星のごとき勢いで両腕を振り下ろす。
後の先を狙った相手の攻撃が僅かに早い。
即座の判断は龍夜にさらなる加速を選択させる。
「サマエル!!」
呼びかけに応じるは年齢不詳のざらついた声。
『承知ぃ!』
ざり、と空間にノイズが走る一刹那。龍夜の全身を青い光が覆う。そして踏み出した二歩目。
それは異常な光景だった。爆発するような初歩に対して、単に足を踏み出しただけにしか見えない二歩目。しかしその歩は音もなく、距離を無視して龍夜をレギオンの眼前へと運んでいた。
レギオンがその驚愕を顔に表すいとまを与えず。
「――っ、穿!」
加速の勢いすべてを直線の動きに転換。
踏み込みの右足が大地に根ざし、左肩が鋭く腕を運び、勢い全てを喰らい尽くして、影さえ残さぬ柄頭の閃突が放たれる。
残る地響き。裂ける大気。弾ける黒影。
柄の先端がレギオンの顎に炸裂、突き刺さる。ごしゃり、と顎とその先までが砕ける感触が手のひらに一瞬返り、その音を引き連れて木々を巻き込みながら吹き飛ばした。
地面を跳ねるレギオンの後を追い、駆ける。
数本の木を砕きへし折り、岩に衝突しめり込んだその体に。
軽く跳躍――落下の勢いを右の踵に集約。
腰の回転が遠心力産み、ばちん、と弾けるような音を立てて切り裂くような踵落としが脳天から右胸、右ひざへと一息にぶち抜く。
砕かれ、削られ、黒い煙を撒き散らしながらレギオンが悲鳴をあげた。
「オオオオオッ!!」
着地の勢いを膝で殺し深く腰を落とす。
全身のバネの力を一斉に開放し、右の拳が吠え猛る。
胸に突き立てた拳から響く轟音が木々を揺らし、岩諸共レギオンを砕き吹き飛ばす。
頭部は歪み、胸は半ばから千切れ、その姿はもはや人の面影から遠く離れ――しかし、その程度。それでもまだゆらりと、幽鬼のように黒い影が木々の向こうで立ち上がった。
「そうだな……その程度で終わるわけがないよな!」
次こそは、と刀の柄に手をかけ足を踏み出し――
『龍夜、あの嬢ちゃんが!!』
「――――っ!!」
背後に複数の気配。龍夜が給水塔で戦ったあのタイプのレギオンが三体出現していた。
レギオンたちは龍夜には目もくれず、気を失い倒れた少女を目指していた。
「貴様!」
吹き飛ばした女性型レギオンを睨みつける。顔は髪に覆われ影になって見えないというのに、壊れた頭部に炯々と光る瞳だけが不気味に浮かび上がっていた。
笑っている。
嘲笑っている。
怒りを覚えるが、構う暇が今は惜しい。
体を捻り、飛ぶ。意識のない少女に手を出さんとするレギオン達に、回転の勢いのままに竹刀袋を叩きつけまとめて葬った。
素早く振り返り――案の定、<大天使級>は姿を消していた。
『やれやれ、逃げられたか』
龍夜は返す言葉もなく、奥歯を噛み締める。表情にはここで討伐できなかった悔しさがにじみ出ていた。
『――ふん、逃げ足の早いやつだ。もう探査範囲から逃げちまってやがる。これからどうする、タツヤ?』
サマエルの問いに、ため息混じりに応じる。
「……ひとまず、この娘をどうにかしないとな」
『そりゃそうか。にしてもこれまた、ずいぶんと酷い事になっちまってるな』
倒れ伏す少女は酷い有様だった。体に傷を追った様子はないが、血まみれの地面に倒れたせいで、服から肌から、血に汚れてしまっている。
「全身血まみれだな、匂いも酷い。まったく……これじゃあ誤魔化しようがないぞ。とりあえず軽く処置をして、人目に付くところまで運ぶしかないか」
『それが手っ取り早いだろうな。いくら結界を消したとはいえ、こんな瘴気満載の森に女の子をおいてくわけにもいかんだろうしな』
少女を抱き上げ社のおもてへ周り、階段へ腰掛けさせるように下ろす。少し離れたところに落ちていた鞄も持ってきて、中身を確認した。
住所や学校名前、何でもいいのでわかるものが欲しかったのだ。
しばらく探していると、小さな手帳が出てきた。
「お、生徒手帳だ。ええと……っ?!」
『なんだ。どうかしたのか』
衝撃に息を飲む龍夜。それを感じたサマエルが何事かと尋ねた。
「この娘、神葉学園の生徒って……高校生だと……俺のいっこ下って嘘だろ!」
『なにぃっ? おいちょっとまて龍夜、今の子供は発育がいいんじゃなかったのか?!』
「いや……しかしこれは……何事にも例外があると言う事か……!!」
『それはそうだが、しかし……例外にしても例外過ぎるだろう。俺はてっきり、小学生かせいぜい中学生かとばかり』
本人が起きていたら3回は殺されているであろう言葉を吐く龍夜。
「って、いやそうじゃなくて。いやそれも驚きっちゃ驚きなんだがさて置いてだ。神葉学園っていえば、確か行方不明の加賀原って生徒がいたはずだ。そして、噂がやたらと広まっている学園でもある」
自分の言葉を咀嚼し、呻く。
「おいおい、一体何がどうなってんだ」
『そういえば、今の<大天使級>レギオン、女の姿をしていたな』
「ああ。とはいえ、制服の柄までは確認できなかったけどな」
それは、暗闇のせいでもあったし、同時にレギオンとなった人間が起こす変容のせいでもあった。
レギオン。
人の心の闇に根付き、生まれ、増殖する、人類の天敵。
その発生の正確な時期は不明だが、少なくとも人類の歴史を紐解いてゆけば常にその影を見ることができた。
その正体も目的も長い歴史を経ても容としてしれないが、通説となっているのは『そういう存在だ』という身も蓋もない結論だった。
鳥が空をとぶように。
魚が海を泳ぐように。
奴らは人の魂を食い散らす。
レギオンは強さによって位階が付けられており、さらに下級、中級、上級と分類されている。
位階は9つ。
下級レギオンに分類されるのが、
<天使級>
<大天使級>
<権天使級>
中級が、
<能天使級>
<力天使級>
<主天使級>
そして上級、
<座天使級>
<智天使級>
<熾天使級>
である。
このうち<天使級>は龍夜が給水塔で戦った人の成り損ないの影のような物を指す。これらは、人の心の闇から生まれ落ちたばかりのもので、大した力は持っていない。
そして今逃した敵が<大天使級>となる。人間に入り込み<天使級>とは比べ物にならない力を手に入れたレギオンを指す。
先程の女性型レギオンも、ここに分類される。人としての形を失う過渡期にあり、確とした人の形をしていても人の形に囚われない。そのために全身は黒く影をまとっているかのようになる。先ほどあれだけ破壊して(そう表現するのが相応しい)なお動きつづけていたのはこのためである。
『今のアイツ、進行具合はどうだった』
「<大天使>にしては手応えが薄すぎる。もうほとんど<権天使>の位階に達している感じだな」
己の攻撃に帰ってくる感触を思い出す。手応えは、あった。しかしたしかに効いているという感覚は結局得られなかった。それでも多少の手傷は負わせたはずだが。
『そこまでくると、そろそろ手に負えなくなるんじゃないのか』
「わかってるよ。騎士団には援軍を頼んでる……いつ来るかもわからんがな」
『とにかく出来ることをしていくしかない、か』
レギオンは放っておけば階級を上げてゆく。
階級が上がれば、その存在はより大きく、より強くなる。
いずれ手の付けられない事態になることが確実である災害。それがレギオン。
レギオンは同化した人間を飢えさせる。欲望を刺激し、欲望を満たす行動を促し、いくら満たしても満たされない飢餓感を与え続ける。
そうして深い深い闇へと人を向かわせ、人を失わせる。
それこそがレギオンの階梯。人が堕ちるほどレギオンは上り詰め、<権天使級>となったときにその主従は入れ替わる。
人間の人格は悪魔の本能に喰われ、存在の位階が反転するとされている。
彼女は、手遅れに近い。
いや、手遅れだろう。
口惜しさを感じながら判断せざるを得なかった。
『しかし……どんなスピードだ、こいつは。いくらなんでも早過ぎる。この街に来てから、まるでおかしな事ばかりだぞ。一体どうなっているってんだ?』
レギオンの進化速度に決まりはないが、最初の犠牲者が腕が見つかった頃とほぼ同時期と仮定すると、まだ一週間も経っていない。
それで大天使化をするだけでなく<権天使級>に登り詰めているというのは、驚異的な速度であった。
「そんなの俺に聞かれても……」
言葉を飲み込む。
嫌な可能性が首をもたげるが、それを首を振って払いのける。
「まあとにかく今はこの娘だな。いつまでもこんな所に寝かせてるわけにもいかんだろ」
少女の寝顔は、うっかりすると見惚れる程のあどけなさがあった。
が、ふと思い出す。まず間違い無く手遅れのタイミングの中、彼女自身の技量が今この現状を導いたことを。
強い思った。
龍夜は思う。少女は果たしてこの森の異常にどれだけ気づいていたのだろうか。多少の違和感を感じる程度ならまだいい。しかし怖気立ち寒気の止まらないこの気配を鋭敏に感じ取りながらあれだけの動きを見せたというのなら、感服する思いだった。
龍夜とて恐怖がないわけではない。むしろレギオンとの戦いは恐怖の連続だ。
だからこそ、そんな場に明らかな部外者の彼女が居り、さらに自らの力で生存の道を切り開いたことは素直に感嘆するしかない。
それが、己の未熟さが招いた事態だと理解しているからこそ。
「……そういや、生徒手帳なんだから名前載ってるよな」
生徒手帳の表紙には、写真と学校名、学年位しか載っていなかった。衝撃の事実に気を取られて本来の目的を見失ってしまっていたのだ。
名前や住所は中だろうか、と表紙をめくり。
硬直した。
『……あん? どうした龍夜』
この短時間で何度目かになる挙動不審に、さすがの相棒も声に呆れが混ざっている。
龍夜はあー、うー、としばらく頭を抱えて。やがて諦めたように顔を上げた。
「この娘、四条だ」
『は? え、マジで?』
もう一度ページを確認する。
『四条 灯駈』
『2年8組』
そこにはしっかりと『四条』という苗字が記載されていた。
「い、いやいやいやいや落ち着け。まだこの娘が四条式だなんて決まって」
先程の鮮やかな一撃を思い出す。
美しかった。
鮮やかだった。
人体の限界など置き去りにした動作をみせたレギオンの不意打ちに、完璧といえる形でのカウンター。
「んなもん四条式に決まってるだろうが!」
拳を階段に叩きつける龍夜。
「ああくそ、最悪だ……いや確かに四条式でもなけりゃ<大天使級>相手にあんな動き出来ないだろうけどよ。そうか、四条式だから助かったんだよな。いやでもなぁ」
途方に暮れる龍夜。
『はははっ。相変わらず四条は苦手か』
「嫌というほどに苦手意識を刷り込まれているからな」
顔をしかめて過去の惨劇を思い返す。
「……まあ文句を言っても仕方ない。住所は――ここか」
生徒手帳の住所を携帯端末に打ち込み、検索。歩いて五分程度の距離だった。
歩いて五分。近い。その距離で巻き込まれた彼女はある意味不幸だろう。
大体覚えてしまえば問題ないはずだと当たりをつけて端末を閉じる。
そして。
「さて、どう処置したもんだかな」
『単純に項目消去でいいんじゃねえのか』
「それで余計な記憶まで消したら大事だろうが。つか記憶の消去なんて今はやらないっていい加減覚えろよ」
『となると遡及封印か』
項目消去も遡及封印もどちらも人の記憶を操作する術式である。
項目消去とはある特定の単語に関連する記憶を消去してしまう術式であり、遡及封印とは特定時間域の記憶を封じてしまう術式である。
主にレギオンや自分たちの存在が無闇に広がらないための措置であり、確実性を求めるのならば項目消去が望ましいが下手をうつと重要な記憶を消しかねない危険がある。
そのため龍夜は遡及封印で処置をするのが常であった。
「最初から現場にいたわけじゃないからどの位遡るべきかは正確にはわからんが。けど大体の予測はつくしな」
灯駈は制服姿であり、さらに鞄も持っていた。そして他に荷物を持っていない事を考えると学校からまっすぐに帰宅してきている公算が立つ。
さらに生徒手帳の中に電車の定期券も見つかった。このことから、彼女が電車通学であることも確実となる。
つまり彼女は、学校から電車に乗って下校し、自宅へ向かう途中でこの森の結界に気づき意図的か偶然か、コレを破壊。先程の状況に至ったと考えられた。
となると封印すべきは今から15分ほど前までの記憶。電車を降りたか降りないか位の時間帯が望ましいだろう。
『ふむ。まあ問題ないだろうな』
「じゃあそれで」
龍夜は右手の人差し指を灯駈の額へ近づけて、ぶん投げられた。
灯駈の意識は随分前に戻っていた。
戻っていたが、体を動かす力も気力も尽き果ててしまっており、さらにはなぜそんなことになったのかもわからなかった。特に目の前の気配から危険も感じなかったため、ひとまず抱き起こされて運ばれるままになっていたのだ。
目を開く気力と体力が戻るのを待ちながら。
「この娘、神葉学園の生徒って……高校生だと……俺のいっこ下って嘘だろ!」
『なにぃっ? おいちょっとまて龍夜、今の子供は発育がいいんじゃなかったのか?!』
とりあえず気力だけは一気に湧き上がったので、目を覚ましたらとにかくこの失礼な男をぶん殴ろうとそれだけは心に固く誓った。
決定打だったのは、なにやら物騒な単語が耳に入った時だった。
上手く聞き取ることはできなかったが、消去だの封印だのと。それが自分に対して向けられているというのがまた、どうしようもなく不快だった。
なので。
その失礼な男の指が自分の額に近づいた瞬間。
気力の全てをかき集め搾り出して、手首をつかみ逆の手で男の襟を巻き込み、足を払いながら相手を引き倒し――完全に油断した相手を放り投げた。
視界は未だにぼやけていてよくわからない。なにやら真っ黒な物体にみえるが、やはり普通の、生身の人間だということだけはわかったのでそれならば恐るるにたらず。
ふらふらと立ち上がり、その無礼な男に対して指を突きつけた。
完全に油断していたーー訳ではなかった。
未だに森は瘴気に満ちており、レギオンがどこからともなく現れても何の不思議もない。だから警戒はしていたのだ。
だというのに、まったく反応さえできずに投げられた。
その事に羞恥と少なくない屈辱を感じながら、それでも受身をとって立ち上がる。
立ち上がった龍夜の視線の先に四条灯駈は立っている。足元はおぼつかず、視線もふらふらと宙をさまよっている。
が、それでも気迫だけは本物である。
肌を差す怒気を感じながら、龍夜はじっと少女の言葉を待った。なにやら言いたげな表情で指を付きつけられたからだ。
やがて、小さな形のよい口から音がこぼれた。
「……あのね」
声はかすれていた。が、凛とした響きが確かにある。思わず、耳を傾けてしまう声。
「あんた達が、なにしようとしてるかわかんない。けど変なこと、しないで」
小さくない怒りの込められた言葉。
「……俺は」
どう言葉をつないだものかと、続ける言葉を飲み込む。
が、すぐに結論を出す。言葉を偽ったところで彼女には何の意味もない。それを悟った。
「今の君の記憶を封じようとしていた。全て、じゃない。今ここであった血生臭い、暗い部分。その部分だけを封じようとしたんだ」
「うっさいバカ。そんなの頼んでないわよ」
もっともな言葉に、しかし龍夜はひるまない。
「そうだな。けど俺はそうする方がいいと思っている。そして俺はあんたの意見を聞き入れる義務はない」
少女の怒り、苛立ちが膨れ上がる。もとより覚悟していたが、心底肝が冷える状況だった。
もしも彼女が本気で向かってきた場合、龍夜には彼女を無傷のまま取り押さえる自信がない。最悪、無理矢理に気絶させざるを得なくなる。それだけは勘弁願いたかった。
「……じゃあ、そうやって、あたしがこんな出来事に関わる度にあんたがわざわざそんな事してくれるって言うの? そうじゃないんでしょ?
なんとなくわかるわ。あんたみたいな根無し草、だいたいみんな同じ空気してるから。だからわかるよ。あんたは結局今だけしかここにいないお助けキャラ。ボーナスステージ。
次にあたしがさっきみたいな事になったらその時にはきっとあんたはいない。そうでしょ」
「それは……」
「何も言わなくていいってば。そして、あたしはやっぱりきっと同じ目に合うのよ。だったらあたしは、今この時に、今のことを覚えておきたいわ。次は怯えなくてすむように、次は恐れなくてすむように」
灯駈は、ふらふらと、それでも歯を食いしばって立っている。
「ねえ。お願いだから」
何をとは訊かれなかった。だから龍夜も答えられなかった。
ただ返事だけは返すべきだと。今はその場面だと自覚した。
故に返事を返す。答えは決まっていた。
「俺たちの事は、必要ないな?」
『おい、龍夜?!』
「それから……見ただろ。あれ。あの、地面に転がってるの。あれも、いいな?」
「…………うん、ありがと。約束、だからね」
「ああ」
龍夜の返事に満足したのか、灯駈は力を失い、その場に倒れた。その場は階段だったのでごっ、ごっ、となにやら痛そうな音がしたものの、もはや限界を超えていたらしくぴくりとも動かない。
深い溜息が漏れた。
『いいのか龍夜。正直こんな記憶、遺しておく方が酷だぜ? どうせ意識も朦朧としてたんだ。今のやりとりだってまともに覚えちゃいねえ――いやそれどころか、そもそも封じてしまえば今の約束だって』
サマエルの言葉を首を振って遮る龍夜。その表情には明らかな苦悩が見て取れた。
「そうだよ約束したんだよ。例えどんな状況でも、この娘は選んだんだ。だったら俺がそれを約束した以上、守る義務がある。そうだ、俺にはその義務がある」
龍夜の言葉に、サマエルは何も言わなかった。
言葉に込められた迷いと、それ以上の意地を見て。
「ひとまずだから、今の会話の時間とか含めて……まあ五分もないくらいか。その辺りの部分だけを封印する。いいな?」
しばらくの無言。だがしかしやがて観念したのか。
『わかった、わーかったよ。お前がそこまで言うってんなら仕方ねぇ』
相棒の消極的賛同を得て、龍夜は四条灯駈と自分たちの、僅かな会話の時間。それを封印した。
封印の条件は、あくまで時間によるもの。
また、あくまで封印であるため、何かきっかけ……例えばほぼありえない確率ではあろうが、今回のようにレギオンと遭遇してしまったり、龍夜と何かしら強い印象を伴う形で接触するなどがあれば、封印は解けてしまう可能性もある。
が、彼女の言葉通り龍夜は長くこの街にいることもないということ。そしてこれも彼女の言葉のとおり、彼女が次にレギオンと遭遇することがあっても、それは彼女自身の問題であることから、そこは問題ではないだろうと判断した。
少なくとも龍夜から灯駈に積極亭に接触を図ることはない。自分たちの存在を隠すためだけなら、それで問題はないだろうというのが、龍夜の考えだった。
こうして、四条灯駈の記憶は封じられた。
彼女が心底怯え、恐怖した刹那の出会いは彼女の心にしっかりと根を張り、それがこれから力になるか足を引くのかは彼女次第。
そして彼女は忘れた。己がどうして助かったのかを。
それでも、鍵は残された。
それから三十分程して。
龍夜は森の社の前に戻ってきていた。
灯駈は四条の屋敷の近くの公園に放置してきた。結界も張ってあるためレギオンに襲われる心配もない。
ここへ戻ってきた理由は、調査と……弔いだ。
「………………」
『改めて見ると本当に酷いな、これは。よほど人間時代に恨みを買ってたのかね』
「サマエル。今でもあの<大天使級>は人間だよ。ほとんど本能だけとはいえ、やっぱり人間なんだ」
人間が、これをやったのだ。
苦々しい思いに胸を満たされ、龍夜は顔をしかめた。
森の小さな社の裏手。
四条灯駈が目にした物。
それは。
人間。
否。
その残骸としか言えない物だった。
手足は、揃っていない。左足が見当たらないのだ。また、明らかに内蔵のパーツも足りていない。もしかしたらあたりの草むらに散らばっているのかもしれないが、それを探す気にもならない。
頭蓋は砕かれ。
中身は引き摺り出され。
それにつながった諸々が、野ざらしにされている。
なによりも狂気を感じさせるのは、それら全てに歯型が残っていたことだった。
歯を使い分解した。そうも思ったが、どうもそれだけではないらしい。
分解した後についたと思しき歯型がいくつもあった。
食らったのだ。
人が、人を。
「なんで……」
嘆きの声は誰にも届かない。
『龍夜』
否。聴く者はいた。常に龍夜と共にある、姿なき声。
その声に、龍夜は頷く。
「ああ。そうだな」
竹刀袋を下ろし、社に立てかける。散らばった部位を可能なかぎり集め、手を合わせる。
そして。
「サマエル、炎を」
『ああ。了解した』
サマエルの返事と共に青白い炎が立ち上り、無残な残骸をせめてと灰に返してゆく。
草むらのあちこちでも、同じように青い炎が立ち上る。しかし燃え移ることはなく、静かに揺れて、やがて消えていった。
静かに、静かに。
後には、何も遺さずに。
月が出ていた。
月光の中。また龍夜は立ち尽くす。
絶望したわけではない。
諦めたわけでもない。
考えていた。
竹刀袋をを手に取り、柄に当たる部分を額に当てる。こつ、こつ、と一定のリズム。龍夜の考えるときの癖だ。時間がなくても考えなければならないことがある場合、ひとつひとつの疑問点にかかずらう暇がない場合。このリズムに乗って思考を絶え間なく進めていく。
果たして、あの<大天使級>が何者であるのか。目的が何であるのか。
あれは未だに一応は人間である以上、その意識に行動は縛られる。
だが強い本能と欲望に突き動かされる衝動的な存在でもある。総合すれば、素体となった人間の強い意識が極端な行動となって現れやすい、ということでもある。
つまり正体がわかれば次の犠牲者が出る以前に補足が可能であるということだ。
龍夜はコートのポケットから紙を取り出す。炎の明かりに照らされた紙には、四人の人物のプロフィールや近況などが記されていた。
即ち、加賀原南帆と、彼女をいじめていた三人。
四条の屋敷から離れた後に受け取った調査報告には、龍夜の予想通りのことが書いてあった。
即ち。
「加賀原南帆は、いじめを苦にしてはいなかった。
成績をストレスに感じていたのは、明らかにいじめていた側の三人の方だった。
つまり――加賀原南帆は、レギオンになる素質は極めて薄かった……か」
レギオンに憑かれるのは、レギオンを生み出す程の心の闇を持っているからこそ。逆を言えば、暗い感情をある程度自制できるような精神状態の人間は、レギオンに憑かれはしない、ということにもなる。
散らばっていた制服は、四条灯駈のモノとは明らかに違うものだった。即ち、加賀原南帆のものではない。
加賀原南帆は行方不明。そしてこれまでの調査で、いじめていた三人の内ひとりが、昨晩から行方不明だということもわかった。
つまり……レギオンとなったのは、いじめていた三人の内のひとりではないだろうか。
もし、そうであるとするならば。
「加賀原南帆は、一体、どこで、どうなった……?」
問題はそこへ立ち返る。事件の発覚が何者かの腕であるのならば、その謎を解く鍵もまた、腕の所有者と共にあるべきだ。
立ち込める瘴気に肌を刺されながら思考する。
レギオン。欲望に突き動かされる人間。その衝動の結果。
衝動。
そう、衝動だ。
<大天使級>。その行動は――特にレギオンの特性が強くなる日が沈んでからは、とにかく欲求を優先した衝動的なものになる。
だからこんなに、食い散らされていた。
ここは奴の『巣』だ。レギオンに衝動を刺激されている間の拠点になっている。つまりここにいる間、あの<大天使級>はほぼ本能のみで動いている状態だ。
なら。
それならば、である。
はたして、この社は何者が手入れをしていたのだろうか。
龍夜は、顔を上げ。
社の正面へと回る。
階段を登り、扉に手をかける。
大きさからすれば、人間がひとりはいるのに十分な広さを持っている。
だから。
その扉を開け放ったときに見えた光景は。
予想通りだった。
「――――――――」
予想通りだった。からこそ。
『――――龍夜』
いい加減、限界だったのだ。
そもそも初動が遅れていた。<大天使級>に至る前に、適切な処置をしなければならないのだ。そうでなくては、被害は加速度的に広がる。
レギオンは心の闇から生まれ、心の闇に住み、その闇を広げる。そして、闇を広げられた人間は、より多くのレギオンを生む。
故に、軍勢。
それなのに。
やって来てみれば既に一週間領地担当の領主は所在不明。<大天使級>となったレギオンの登場。し犠牲者は最低でも二人ときた。
先程はついに、目の前で犠牲者を出すところだった。
もう、限界なのだ。
「――――――っ」
食いしばった歯の隙間から漏れた空気は。
「あああああぁぁぁぁぁぁああっ!!」
すぐに怒りの叫びに変わる。
拳を壁に何度も何度も何度も何度も叩きつけ、怒りと痛みで真っ赤になる視線はそれでも眼前の光景から逸らさず、その惨劇を脳に焼き付け。
「サマエルっ!!」
ほとんど悲鳴のその声に、サマエルは無言で応じる。即ち、事切れた目の前の哀れな少女の骸に、青い炎を灯す事で。
龍夜は。
少女が身につけていたであろう、フレームの歪んだメガネを拾い上げる。
少しだけ、それを祈るように握って、炎の中に投げ入れた。
灰になってゆく。
右腕のない、四条灯駈と同じ制服の少女が、たった一人に見送られ。
炎が、尽きた。
そして炎が、ごうごうと燃え盛っていた。
龍夜の中に。その瞳の中に。
「サマエル。ケリを付けるぞ」
『当然だ。当然だろう、なあ、相棒』
「ああ」
聞くまでもないこと。
龍夜は社の扉を閉め、歩き出す。
森の闇の中、不気味な瘴気に包まれながら、その意志は燦然と輝き、瞳の光は刃のごとく鋭く。
未だ謎は多く、しかし時間は幾許も無く。
故に行動に躊躇いは要らず。意志が火を灯し決意が引き金を落とす。
この街はもはや戦場。
彼にとっての戦場となった。
携帯端末を取り出し番号を入力。
数コールの後、相手の声を聞くのも煩わしく。
「今から言うものをよこせ。すぐに。すぐにだ!!」
この街には敵がいる。
彼の――篠中龍夜の敵が。
こうして、戦いははじまった。
それは思いの外、長いものになった。
四条灯駈は声を聞いた。
それは怒りの叫び。それは嘆きの咆哮。
聞き覚えのない声だった。
聞いたことのないはずの声だった。
それでもなぜか。
その声は忘れてはならないような気がした。
声に導かれ目を覚ます。
視界に入るのは見慣れた天井。自室の天井だった。
それでもなぜか、今自分がここにいることが確かだと思えずに。
ふと、外を見る。
月が出ていた。
いつもと同じはずの、夜だった。
設定説明パート。
次回、第一章クライマックスです。ようやくプロローグの終わりが見えてきた感じです。
時に、今更気づいたのですが、某有名格闘漫画と同じ字面で勘違い誘発の危険性がありますね。これ。
なので第一章終了時にタイトル変えます。