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夜の刃、月の牙  作者: 蟹井公太
2章 傷痕・刻むみち
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傷痕・刻む・疵口

 葛籠雪杜にとって、人間とは素材だった。それ以上の意味も価値もない、ただの物体。

 彼にとって重要なのは術式であり、それこそが世界だった。人間など、術式を動作させるための部品でしかない。

 その点、己の肉体は実に理想的な素材だった。

 常人どころか一般の術者をはるかに超える体内精霊量。

 術式症候群という病理を抱え込まざるを得なかった精神構造。

 全身に広がる血管と気脈は健康的に脈動し全身を巡る。

 すべてが自分のために用意されていた。ならば自分のやることはいつだって決まっていた。


「ねえ、あなたはあそばないの?」

「あそんでるよ、ほら」


 まだ十にも満たない頃、芳鈴に言われた言葉に雪杜が返したのは、バラバラに解剖され、つなぎ合わされたカエルだった。


「精霊の流れを調整するだけでこれだけのことができるんだ。後はその流れをこちらの思い通りにつくってやれば、また別の法則が見えるはずだよ」


 その言葉を続ける前に、芳鈴は泣いて逃げた。雪杜は理解できなかった。

 奇跡が目の前にある。なのに、なぜ彼女は怯えた表情で逃げていったのだろうか。

 奇跡は素晴らしいものだ。感動的だ。故に、全てに優先される。そうだ、倫理、道徳、理念、現実、そのようなものに、この世界を縛ることなど許されない。

 真実だけが世界に残ればいい。





 冷たい感触に目が覚めた。

 視界には空が広がる。雲に覆われ、そこから降り注ぐ雨。冷たさの原因をさとり、それをぼんやりと、なんとなしに見ていた。

 全身の熱はまだ引かない。これほど全力で術式を使ったことなんてなかった。爽快だった。魂が浄化されるようだった。そしてその事に嫌悪を覚えた。自分が、何一つ変わっていないと、そう思えて。


「目ぇ覚めたか」

「――――君か」


 ぼんやりと、声のした方へ声を向ける。

 東雲――いや、篠中龍夜がそこに居た。けだるい表情で、雨に打たれるまま焼け残った木に背を預けている。

 雪杜は起き上がろうとして……けれどすぐに諦めた。もはやそれだけの力も残っていない。


「……勝負は、どうなったんだっけ」

「覚えてねえのかよ。てめえの頭突きで俺が気を失ってお前の勝ちだ、くそ」

「その割に、君のほうが先に目を覚ましてたみたいだけど」

「恥の上塗りをしろと? 冗談じゃない。これでも自分の技に自負も愛着もあるし、なにより責任がある。負けを受け入れられないヤツは一生負け犬だ」


 最後の競り合いで負けた。その時点で龍夜は敗北した。それ以降は蛇足にしかならない。例え龍夜の気絶を見届けた次の瞬間に雪杜が気を失い、止めをさせなかったのだとしても。

 本気で悔しそうな表情の龍夜を見て、雪杜の中に満足が生まれた。

 そうか、自分は勝ったのか。あの化け物のような漆黒騎士に。


「そうか……勝って、しまったんだね……」


 ぐ、と。胸の奥から何かがこみ上げてきた。

 結局。

 結局、自分には何も出来なかった。力はあった。戦う力は。けれど、気づく力はなかった。己では役者不足。それだけだ。

 大切な人の運命に届かなかった。届く立ち位置ではなかった。

 たったそれだけの事なのだ。


「…………お前とあいつは、どういう関係だったんだ。お前にとって――」

「僕にとって」


 言葉を受け取り、思い出す。

 自分にとって、彼女はどういう人だったのか。


「彼女は……」





 過去の研究全ての封印。

 大系同士の融合を目指す雪杜に下された判断はそれだった。それは術式世界に対してどのような影響が出るのか誰にも予測ができないほどの技術だった。

 今はまだ、雪杜以外に使うことのできるものはいないだろう。しかしもし、仮にその技術を広く使えるレベルまで簡素化されてしまえばどうなるか。便利な技術として単に広がるだけか、それにより今まで通用した概念が破壊されるか。

 最悪、その技術を元にした新たな怪異が発生する可能性すらも存在する。

 化生の類は人類とともに、複雑化を辿ってきた。それが大きな変化により、さらなる転化を迎える可能性。建前として、十分な説得力を持っていた。

 いかな雪杜とて、十分な施設と環境がなければ研究を続けられない。隠れて続ける選択肢もあったが、バレればその瞬間に殺される事は確実。あるいはそれを狙っていたものもいただろう。

 それよりもなによりも。

 中学三年にして、雪杜はすべてを失い、気力をなくした。


 なぜ誰も理解しない? こんな奇跡を。この世界の奇跡を。なぜ知ろうとしないんだ。


 理解できなかった。この世界が。全てが。

 だからもう、どうでもよくなった。

 高校に進学したのも、暇つぶしにすぎない。自分が終わるか、世界が終わるか、そのどちらかの瞬間まで、雪杜は世界に飽いているつもりだった。

 学校は退屈な場所だった。けれど与えられる作業をこなしていれば時間は過ぎていった。暇つぶしには持って来いの場所と時間と空間。ボロアパートでは寝るくらいしかやることがないので、それはそれで役には立った。

 図書委員になったのもその暇つぶしの中の一つだった。本を読んでいれば時間は更に意識せずに済む。他者の主張になど興味はなかったが、それでも文字を追って脳を使えればよかった。

 いかに時間を無駄にするか。彼にとって人生とはそれに集約されていた。

 そうして春が終わり、夏が過ぎ、秋がやってきた頃。

 彼女が声をかけてきたのだ。


 秋の深まるある日。図書室のカウンターの中で本を呼んでいると、カウンターの前に人がたった。貸し出しかと思い顔を上げるが、そこには先輩が笑って立っていた。その手には一枚の紙が握られていた。


『ねえ、葛籠くん。副委員長、やってみるつもりない?』

『…………は?』


 雪杜の普段の態度を見れば、学校生活にどのようなスタンスを持っているのかなど一目瞭然。浮かず、沈み、やり過ごす。他者や状況など関係ない。ただそこに居るだけ。

 そんな彼に話しかける生徒などほとんどいなくなっていたというのに、それでも、そんな彼に彼女は声をかけた。


『あの……何を?』

『だから図書委員会の副委員長。わたしが委員長になるからどうかと思って』


 言っている意味がわからなかった。いや、言っている内容はわかる。ただ、なぜそれが自分に向けられているのか、それが理解できなかった。


『いえ、僕は』

『ここに名前はもう書いてあるから、それじゃあ、わたしは生徒会に出してくるね』


 抗議の暇さえなく彼女はすたすたと図書室から出ていった。

 呆然とした。おかしい。質問されたはずなのに勝手に答えを決められていた。

 追いかけようか、との考えが頭をよぎったが、すぐに肺から息を抜いて深く椅子に座り直した。


――わざわざ、そんな事するのも馬鹿らしい。


 どうせ何かの冗談に決まっている。そうでなかったとしても、あんな書類が簡単に受け入れられるはずもない。何しろ雪杜は自分の名前を書いた覚えなどないし、先程の書類の筆跡も全く別物。今の先輩が勝手に書いたのは明白だ。そんなもの、受け付けられるわけがない。

 持ち前の無関心と無感情を発揮し、彼はすぐにそう思い直したのだった。



 無論、冗談ではなかったし書類もきちんと通った。この学校ザルだなと思ったが、まあ所詮そんなものなのだろうとも納得した。実際のところ話を聞いた生徒会長が悪ノリしたのだということを知ったのは割と最近の事だ。

 ともあれ。


『という事で、よろしくね、葛籠くん』

『いえ、僕は……』

『そして今から就任挨拶があります』

『…………』

『予想はしてたでしょうに』

『ええ……まあ……』


 苦い顔で答えた。ふたりが会話している場所は体育館の舞台袖。登校と同時に呼び出され世間話を続けていたと思ったら、いきなり副委員長就任の書類を渡されて先ほどの言葉につながったわけである。

 体育館がざわついた辺りから嫌な予感はしていたが、あからさま過ぎてまさかあるまいと思っていた可能性のどまんなかをついてくるとは。

 強引で、しかしどこかズレていて。常識と非常識の曖昧な、そんな瞳で。


『じゃあ改めて。一年間よろしくね、葛籠くん』


 あえて、だろう。左の手のひらを差し出して彼女は――加賀原南帆は笑った。

 それが始まり。自分と彼女の、たった一年間の始まりだった。





「――いや、いい」


 思考を遮る声に意識が今へと帰る。


「え?」

「俺にとっては終わったことだ。それで恨まれるのも憎まれるのも構わねえが、終わったことを――俺が終わらせたことを、詮索するのは趣味じゃねえ」

「なんだ君、他人に気を使えるの?」

「趣味じゃねえつったろ。俺の都合だよ」


 雪杜は仰向けのまま龍夜を見るが、その表情から真意を窺い知ることはできなかった。

 ただ。


(まあ、そうれもそうか)


 認めたくはないが、自分とこの男はどこか似通っている。それは、精神性や方向性などではなく、もっとあやふやで確信のないものではあったが。

 強いて言うなら断絶感、だろう。思えばこの男は騎士としてはあまりにも異質だ。まっとうな在り方はできない。

 そしてそれは、自分自身にも言えることだった。およそこの先、過去に己が望んだ術者の在り方ができない、葛籠雪杜。

 だがそれでも葛籠雪杜は、新たな道を得た。救われ、奪われ、それでも立ち上がれた。

 龍夜は今もその道を歩いている。

 それを頑迷と取るか諦めと取るか。その答えは、きっとこれから先、互いが見出していく他ないものだろう。

 だから、己と違う答えを得ようとしていた雪杜の、こんな自己満足にも付き合ったのだ。


 ふ、と。胸から力を抜く。

 それならば今は満足を得よう。この虚しい勝利を誇ろう。

 そうして、ようやく自分の道は終わるのだ。魔道と呼ぶべきその道は。


「篠中龍夜。僕の、勝ちだ」


 そんな、ささやかな勝利の宣言。

 己の勝利をようやく認められた男の。

 己の愚かさにやっと幕を閉じた男の。

 その言葉に、龍夜は。


「ああ……。葛籠雪杜。俺の、負けだよ」


 そうして、ふたりの戦いは終わりを告げた。





 龍夜が最後の一撃を受けた瞬間、魔術式の結界は解けた。

 本来なら魔術式により顕現した世界の影響は実世界に及ばないはずなのだが、太陽を生むという規格外の術式のもたらした破壊は少なからず出たらしい。

 結果、いくつかの木が真っ黒に焼け焦げ、地面もところどころ裸になるというちょっと変わった風景が生まれていた。

 太陽の核融合による放射線などの影響は魔術式とともに消え去った。なんとも都合の良い術式に思えるが、むしろその影響を飲み込むために、半焼け野原になったのだとも言える。それだけ最後の術式は並外れたものだった。

 また龍夜の目も額に貼った精霊符で既に回復を始めていた。もう一瞬でも刃牙の視界には術的な遮光機能が備わっているのだが、それがなければ一瞬で網膜が焼き切れていただろう。

 けれどもまだ回復途中。ぼやけはっきりとしない視界で空を見上げて。

 龍夜はゆっくりと立ち上がった。


「おい葛籠、立てるか」

「いや、無理を言わないでほしいね。今日はもうここで夜を明かすつもりだよ」


 その言葉もあながち冗談ではないだろう。肉体をこっぴどく破壊されたのが龍夜なら精神を極限までいたぶられたのが雪杜だ。話すのも億劫なはずだ。

 そうか、と小さく口にしてひとまず天穿牙を拾う。戦いの最中柄まで破壊されたのは初めての経験だった。今後はそのへんの強度も考えないとな、と難題に顔をしかめる。


「おら、こっちこい」

「いたっ! ちょ、君、なにっ!?」


 雪杜の襟をむんずと掴み上げ、ずりずりと引きずる。

 荒れた地面と豊かな緑の上を無造作に引きずられる雪杜は当然抗議の声をあげるものの、あっさりと無視した。龍夜とて全身無事なところがない状態なのだ。他人に気遣う余裕などない。

 やがて、戦いの舞台となった空間の外れ。結界から僅か外にずれたその場所に到着する。

 無造作に雪杜をその前に放り投げた。


「……痛いな、一体がしたいんだい?」

「思うようにすればいい」


 それだけを告げる。雪杜が龍夜の視線の先へ――簡素な墓へと視線を向けて、息を呑む。

 その音を聞いて踵を返す。やること、というよりも今自分にできることはこれが限界であろうと思い。


「……篠中龍夜」


 呼び止められるとは思わず、進む足が一瞬乱れる。

 肩越しに振り返った。


「僕は……彼女に憧れたんだ。彼女に変えられたんだ。

 それを恋だと思った。今でもそう思ってる。僕は彼女に焦がれてる。

 それを伝えて――だけど、彼女は僕の感情はそうだとは思わなかったんだろうね」

 ふう、と。倒れたままの雪杜のつぶやきをただ聞いた。

 龍夜はそれに何も返せず、無言のまま背を向け歩みを再開した。

 雪杜が加賀原南穂の墓に何を思うのか。龍夜も親しい間柄の相手を失ったことはある。その喪失感、虚無感をよく知っている。そして、それは決して他人と共有できるようなものではない事も。

 故に、ただ去る。

 今の自分にできる事はそれだけであり、これから先に何かを為すために。





 雨がゆっくりと勢いを失ってゆく。

 体にまとわりつく熱が冷めるのに合わせるように、雨粒は小さく細やかに。勢いは穏やかに緩やかに。それが雪杜の心を癒すことはない。いや、この傷が癒えることはないだろう。そして、それでいい。

 この痛みは彼女が存在したからこそ得られたものだ。以前の雪杜なら覚える事のなかったものだ。

 ならばそれだけで、この傷には意味がある。

 加賀原南穂と出会ったこと。一年を共に過ごしたこと。


『ごめんね?』


 自分の気持ちを伝えた時の彼女の困った笑顔。最後に見た表情がそれ出会ったことは残念だったけれど。

 そのままらなさこそ、彼女が教えてくれたことだから。


「先輩。僕の大切な貴女。今まで、ありがとうございました」


 葛籠雪杜は歩き出す。ようやくここから、この何もない空白の道を。

 志はこれまでと変わることはない。

 目指す理想に陰りもない。

 変わったことがあるとすれば、それは傷を抱えたということ。癒えることも消えることもなく、無限に増え続ける傷を。そしてこの道は傷痕を延々と残し続ける道であるというだけだ。

 それは余計なものかもしれない。単に負担になるだけだろう。重荷になり、足にまとわり、背にのしかかり、肩を抑えつけるものだ。

 それでも、それこそを大切にしたいと。心の底から、そう思う。



 だってその傷は、確かに存在した幸せの証なのだから。


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