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夜の刃、月の牙  作者: 蟹井公太
2章 傷痕・刻むみち
25/28

傷口・掻き毟る

 縁側に座った灯駈は日光の懐かしさを感じ思わず顔をほころばせた。

 高い陽射しを浴びて大きく体を伸ばす。

「い、イタタタ」

『くははは、しばらくはその痛みと付きあわなきゃなんねーんだ、我慢しな』

 伸びをした拍子に腹部に痛みを覚えその場にしゃがみこんだ灯駈に、笑いの成分を大いに含んだ声が投げかけられた。

 我ながら奇妙な話ではあったが、既にこの珍妙な監視者に対して慣れている自分がいた。声だけの存在ではあるものの、やけに馴れ馴れしいおかげかもしれない。

 そんな事を思いながら、腹部の痛みに意識を寄せる。

『生きているはずのない自分が生きている』という違和感の根源。昨日までの灯駈ならばどうにも気になって仕方のないものだっただろうが、何故か今は気にならない。理由を考えると、まさしくそれが原因な気もした。

 つまるところ、一度死んだようなものなのだから細かいことは気にするだけ損、である。

 今生きているのが儲けものなのだ。その証とも言える違和感ならば、歓迎してもいいぐらいだろう。

 とはいえ。


「せいれいじゅつしき、ねぇ……」


 口の中で転がした言葉に対しては、違和感が募る。

 というか、イマイチ想像ができない。自分の腹を癒した――正確には、腹の代わりになっているものを。

 自分のおなかをぽんぽん叩いてみる。そこに違和感がないことがまた、違和感を誘う。


「そもそもさ」

『あん?』

「せいれい……って、何?」

『あー…………まあ、そうだわなぁ。そりゃあ気にもなるってもんだぁな』


 軽く。本当に軽くだけ説明された灯駈としては、胡散臭い話だった。

 なにせ。


「この世界総てを構成する根源的エネルギー……ねえ?」


 突拍子もない話だ。

 同じく死ぬところを蘇生したという状況も突拍子もないのだが、それは自分の体だからこそ実感できる。しかしいきなり世界の根源……などという話を聞かされても、新しい宗教か何かとしか思えない。

 とはいえ、そんなものでもなければ致命傷というのも生ぬるい傷を塞ぐ事はできないのかもしれないが。


「四条式がさ、よく『気』って言葉を使うのよ……あ、もしかして一伎型も同じだったりするの?」

『ああそこに違いはない……というより、こりゃあもう四相流の常みたいなもんさ』

「ふぅん……その言い方だと、やっぱりあなたは四相流を全部知ってるんだ」

『はっはっは。ま、隠すことでもねえな。詳細は教えれねーけどよ』


 軽く引っ掛けたつもりだったが、それをさらりとスルーされ逆に虚を衝かれる。あるいは引っ掛けさせるためにわざと言葉を漏らしたのか。ともあれ、この謎存在を相手に主導権を握ることは難しいことを悟る。

 気を取り直し、疑問を口にした。


「いまいちイメージを掴みにくいのよね。この世総ての根源、なんて言われても」


 自分の肌と庭の石を交互に見比べる。これがどちらも同じものからできている、というのはイメージしがたいものがある。無論、ミクロの話をするのならば、この世界は素粒子の揺り籠ということになるのだろう。

 けれどそれを実感として理解できるかというと、話は別である。


『ふむ。まああくまで精霊がそうだってだけの話だからな。精霊術式って言葉に狭めて――あるいは広げて言うのならば、まだ多少はわかりやすいだろうさ』

「って言うと?」

『所謂ファンタジー小説。ああいうものに出てくる【魔法】という言葉そのものを体現したようなもんだと思えばいい。その燃料となるのが精霊ってこったな。人の身に余る奇跡を体現するために、総てを構成する根源の力を利用するって事だ』


 無論様々な制限は存在するがな、とサマエルは続ける。


『要は人工的な奇跡の再現だ。超能力と言ってもいいか。自然発火、瞬間移動、念動力――そういうものを理論により、道具を使わずに再現する。それが精霊術式。

 お前の腹の傷を塞いでるのは、形質変化、時間操作、治癒能力……ま、その他もろもろ数十の奇跡を同時に再現してるってこった』


 原料でも材料でもなく、燃料。結果として奇跡を発現させるための要素。

 精霊術式において精霊とはそう言った存在である。


「ふうん……。さっきの話に戻っちゃうんだけど、それって『気』とはやっぱり違うのよね」

『明確に違うな。とはいえ、四相流においてはそれこそがキモになるわけだが……おい、いつまでも隠れてないでこっち来い』

「…………うはははは。やっぱバレてんだ」


 襖の影から智晴が顔を出す。


『おっそろしいヤツだなお前は。気配の断ち方だけならそこらの暗殺者より上だぜ? ま、最近の暗殺者は気配を断つ必要がないってのも理由だろうが、それにしたって抜きん出てる。

 よりによってその使い方が聞き耳を立てるたぁ残念な話だがな』

「いやぁ……さすがにあちしもその能力をその方向で十全に役立てたくはないかなぁ」

「うん……ないわ、それは。普通に。それで結局気ってなんなの?」

 流石に親友の進路に暗殺者が入ってくるのは嫌だったので灯駈もさっさと話題を流す。

『ああ。精霊が総ての根源だって話はしたが、だからってそれを自由に誰もが操れるわけじゃあない。お前らだってそのへんの原子をちょっと動かしてみろっつわれても無理だよな?』

 当然の話だ。

 なにしろ存在のスケールが違う。自意識を持ちうる複雑さを持った以上、一個体の総体としてのスケールは大きくならざるをえない。その反面として、ミクロ単位を認識することを放棄するのは当然のことだ。

 例えば人間大の存在が原子のひとつひとつを認識できる知覚を持つならば、その処理情報量は現在の三次元的空間認識のそれから大きく逸脱せざるを得ない。それでは真に生存に必要な情報を得るまでに無駄なプロセスを踏む事になり、生存確率に重大な瑕疵が生まれる。

 存在のためにはそれに見合った適度な鈍感さが必要なのだ。

『それと似たような話でな。精霊を操作するには、もっと大雑把な形で人間の意志を伝えてくれる媒介が必要になるわけだ。で、これがいわゆる気と呼ばれる力だな。

 気ってなぁ酸素みたいに空間に漂ってるもんでもあり、大地を川のように流れるものでもあり、生命体ならば血流のように体を巡るものでもある。存在のイメージが精霊と近しいだろ?

 これを使うことで、精霊をにこちらの命令を伝え、奇跡を形にする。それが精霊術てぇわけだ』

「ふぅん、テレビのリモコンみたいなものかしら。じゃあ気を使うだけの場合って、どういう状態なの?」

『テレビってよりゃあ、そうだな……ライターで火を起こす、ということを奇跡に例えてみるほうがいいかもな。

 燃料を精霊とし、炎が発現する奇跡だとしたならば、精霊術式は着火機構に相当するって感じか。

 で、だ。

 気は精霊術式においては指の役割を果たす。

 ところがこの指は、まあ火傷にゃなるんだろうが火の元を抑えれば、おこした火を直接消すことも可能だよな? つまりはそういう事だ。

 規模の大小はあるが、奇跡を精霊という燃料を用いて間接的に発言させるトリガーであると同時に、その奇跡に対して直接干渉を起こすことができる。それが気の特徴ってぇわけさ』

 火打石(用意されたルール)により燃料(精霊)が反応し、火(奇跡)が起きる。そのトリガーとなるのが指(気)であるというわけだ。

 なるほど、とある程度の納得を得る。

 つまるところ四条式の――というよりも四相流の有する理念とは。


「人間の人間による人間のための奇跡の否定――てことかな」

『かはは、そうだな。洒落が効いてるよそのとおりだ。とはいえこの場合否定できるのは精霊術式の奇跡だけだが――ま、それは置いておくとしてだ。

 そんな力だからこそレギオンに対しても有効ってこったな。あれもまあ、ある意味悪趣味な奇跡――呪のようなもんだしな』


 存在が精霊で構成されるレギオンへの根源的な否定。それこそが四相流の対レギオンの大きなアドバンテージというわけだ。

 軽く腹に手を添える。

 そこに傷跡はない。傷があったという事実を感じさせる痛みが僅かにあるだけ。


『まぁ何もかも理解する必要はねえさ。テメェ自身の身に何が起きたのか、それさえキチンと理解してりゃあな。気の特性、精霊の意義なんかは、龍夜と訓練してりゃあ自然と覚えるさ』

「そういうものかしらね」


 ふう、と息をつく。

 熱を帯びた風が頬を撫で、自然と瞳を閉じた。


 傷口はもはやなく、痛みも普通にしていれば感じることはない。

 まるで自分の過去がごっそり絵空事になったかのような不安定な感覚。

 あの男もそんな感覚をどこかで感じたりするのだろうか。

 そんな事を考えた。





 過去は変わらない。覚えていなくとも起きたことは変えられない。

 しかしもし、関わった人間全てがその出来事を忘れるかあるいは記憶を書き換えられたとしたら。

 起きた事象と記憶も記録も全て違っていたとしたら。

 果たして今を生きる当人にとっての正しい過去とは、一体何なのだろうか。

 昨晩の傷の全てが癒えたわけではない。大きな傷や後に響くであろうものだけを治癒し、他は自然治癒にまかせている。

 ならば己しか知らない己の傷を癒し、その事を忘れてしまえばそれはなかったことと同義ではないのか。龍夜は否と答えるしサマエルは是と答える。

 結局何ひとつわからないのだろう。

 けれど知ることを、知ろうとする意志を失うことはできない。それになにより、その傷の意味を知らねば前に進めぬ人間もいる。

 それこそを生きるというのであるならば。



「お前と加賀原南穂の間に一体何があったんだ? 恋人同士、てわけでもなかったんだろ」


 それだけは確信をもって言えた。何しろ、そういう事との縁の無さから彼女はレギオンに魅入られたのだから。理不尽だが、事実である。


「それを語る理由はないよ」


 ある意味で予想通りの返答に龍夜は深々と息をついた。

 ふたりは向かい合ったまま、冷たい緊張感を張り詰めさせていた。

 場所は例の森の中の社の前。足場は整っており、以前のような瘴気も消え、なにより人目につかない。

 殺し合いの場所としてこれほど適した場所はないだろう。問題があるとすれば、当人たちの心理状態か。

 龍夜には雪杜を殺す理由などない。むしろ傷を負ったところを助けられたことに恩義を感じている。たとえそうなる状況を敢えて見逃したとしても、そこで見捨てられなかった事は事実。故に殺意を持って向かい合うのは難しい。さらに言えば殺意に殺意を返すなど非効率極まりない。

 雪杜にしたところで殺意は感じさせるもののそこに揺らぎがある。人を殺し慣れていないか、そもそも経験がないか。いずれにせよ本来辿るべき道でもないということだ。

 ただ、いったい何が彼をここまで極端な行動に走らせるのか。それが理解できなかった。

 少なくとも、単純な恋愛感情のようなもので目の前の男が動くとも思えないからこそ、余計に。


「わかんねえよ。お前は、なんつうかそういうのじゃないと思ってるんだけどな。仇討ち、逆襲、自己満足……そう言った事に、他人を絡ませて悦に入るタイプでもねえだろう」

「さて、どうだろう。以前は僕自身そう思っていたけれど……ね」

「そうやっていつまで何をはぐらかすってんだ。隠し、欺き、嘯いて……その挙句に殺し合い。なんだそりゃ、わかりやすく頭悪くて逆に気持ち悪い事この上ねえだろうが。

 その先にてめぇの未来があるなら付き合うさ。その果てに得られるものがあるなら納得しよう。けどそうじゃないだろこれは。

 復讐なんて意味が無い? 違う、意味はある。それをしなきゃどうしようもないヤツが世の中にはいくらだっている。復讐を果たしてこそ己があると叫んだ奴を知っている。復讐を果たしたことで無意味さに納得した奴もいる。

 けどお前はそうじゃない。

 そんなもの無くともお前は今日を生きられる人間だ。そんな事せずとも未来を目指せる人間だ。

 それより何より――殺したいではなく殺し合いたい、だと。力比べして満足したいか? 馬鹿馬鹿しい俺とお前じゃジャンルが違う。陸上と競泳のタイム競ってなんになるって話だアホくさい。んなもんお前だってよくわかってるんだろ。

 じゃあなんだ。なんでわざわざ『殺し合う』んだ俺達は。殺したければ勝手にやれよ。暗殺のほうがよほど術者向きだろなんでそうしないでわざわざ正面切ってやり合う?

 わけがわからん付き合いきれん。けどお前がやれってんなら俺はやるしかねえよ。それがサマエルの事を黙ってもらう交換条件だしな。けどそれでお前は本当に満足か、納得できるのか?」


 言いたいことをダラダラと並べ立てる。呆れや怒りや戸惑いやその他無数の感情をないまぜに言葉を吐き出す。

 その言葉を受けて、雪杜は空を見上げた。

 まだ日は高い。気温も高いままだ。今日も残暑の厳しい夜がやってくるに違いない。


「……納得、できるよ。

 そうだよ。そうだね。

 僕は納得が欲しいんだよ。意味も理由も興味はない。

 君の言うとおりだ。僕は彼女の全てを知る必要なんかない。そんなもの無くとも生きていける。これまでどおり、これまで以上に。

 でも。けれど。それでも!

 それだけじゃあ意味が無いんだ!

 今日? 明日? それがなんだって言うんだ? だからと言って過去を蔑ろにしていい理由なんて何処にもない。昨日がなければ僕はいない。彼女がいなければ僕は今の僕足り得ない。

 ああそうだ、これは復讐でも仇討ちでもない、ごく個人的な事情による、けれど自己満足だけは確かにある、そういう『モノ』だ!

 僕は――。

 僕が欲しかったのは。

 なぜ、彼女を殺すのが僕ではなかったのか! その今に、未来に、そして過去に納得したいだけなんだ!!」


 ああ。

 そうなのか、と。

 龍夜は、理解を胸に仕舞う。

 いわばこれは彼なりの『法事』なのだ。残された自分のためのけじめなのだ。

 過去の自分の愚かさを否定するために今の龍夜を否定しなくてはならない。理屈になっていない理屈。けれどそれをしなければ。


「僕が……僕が傍にいたんだ! 僕が気づくべきだった、そうなるのが当然だった!!」


 レギオンに侵された人間の探知は困難だ。特にそれを生業とする忌狩りの龍夜でさえ容易であるなどと口が裂けても言えないだろう。

 だからなんだ?

 自分にとってかけがえのない者が変わり果てようとしているというのに、それに気づかずにのうのうと日々を過ごすのは仕方ないと、そう思えとでも言うのか?

 ああ、或いはそれを当然と思える人間もいるだろう。むしろ大多数かもしれない。

 けれど納得出来ない人間もいる。雪杜はそうだったのだ。

 故に雪杜は否定しなくてはならない。過去の自分が愚かであった事を認めないためにも。

 気づかなかったのではなく気づけなかったのだと。それは仕方のない事だったのだと。自分自身を誤魔化し陳腐な納得を得るために。


 龍夜が己より上に立つのだと、文字通り命をかけて証明せねばならない。


 理不尽というのならこれほどの理不尽、屁理屈はないだろう。

 物事に気づくかどうか、というのは運と一瞬の閃きに左右される。龍夜は今回、それを期せずして得たというだけの話。能力の優劣で測れるものではない。

 そんな事は雪杜もわかっている。わかっていてそうせざるをえないのなら、ああ、それこそ、もはや納得を得るためだけのもので、自己満足ですらない。

 故に。


「……そうか。そう、か」


 実を言えば。

 レギオンを狩った事で恨まれるというのは、さほど珍しい話でもない。特にそれが忌狩りともなればありきたりな話とさえいえる。

 正直に言えば、付き合いきれない。いちいち相手にしていては手も命も足りない。

 けれど。


「なら……そうだな」


 これにはそれらとは違う、別の意味が見いだせる。そんな気がした。故に。


「運や偶然なんて無粋なもんに頼ること無く。自分自身のすべてを賭けて。そういうのも、いいのかもしれないな」


 先を見据えるのであれば、傷を無視するのではなく、忘れるのでもなく、しかして全てを癒すのでもなく。

 ずっと抱えていくために、傷の理由を忘れないために。納得を得るのも必要なのかもしれない。

 だから。


「聞け。葛籠雪杜。

 今から俺の名を告げる」

「君の――名?」

「ああ。これを聞けば俺たちにここで退く選択肢はなくなる。ここに俺たちの運命が決する。覚悟はあるか?」

 あやふやな龍夜の問いかけ。

 しかしそれに対し。

「…………ああ、あるよ」

 視線を逸らすこと無く。強い光を湛えて雪杜は首肯した。

「その意味、正しく理解しているか?」

「ああ。わかっているとも。僕が君を殺せばその時は、君の役目は、僕が引き継ごう」

 自分自身の愚かさとともに。

「それはお前にとって致命的な選択になるはずだ。それでもだな?」

 雪杜は。

 およそ自由な判断を許されていない立場のはずである。そのような状態で、灯駈の保護や領地の管理など、派手な動きをすれば粛清の対象となる確率は、高い。

「それでもだよ。そうでなければ。そう――僕の生きている甲斐がない」

 死んだように生きるよりは、生きて活きて死ぬほうが。

 今の雪杜にはずっと価値のあるものだと、そう見えた。

 その答えに龍夜はふ、と口の端を吊り上げ。


 しゃらん、と刀身を鞘から抜き放つ。

 応じるように、雪杜が両手に精霊符を構えた。


「よく……よぅく、聞け。葛籠雪杜。俺はお前の、敵になるぞ」


 そして、呪いが紡がれる。

「命が生まれた時より抱く果て。逃れ得ぬ唯一の定め」

 それは龍夜の根源に刻まれた術式。

「変化の極地。進化の必然。なればこそ、その名を抱えその内に生きる事こそ、我ら一族の定めと知る」

 仇名と称されるその術式は、呪いと分別されるものだった。

「開放せよ。開放せよ」

 呪いとは即ち、一度発動すれば術者にさえ止められぬ破滅の歯車。

「我が名、それを聞きし者よ。我と汝の運命は、今こそ命の極点を知る」

 その力は『名乗り、名乗られたものを術式の運命に捉え離さぬ』という単純にして強力なもの。

「荒野に立ち、雨に打たれ、その中で己の命を見出すためにこそ」

 そして龍夜の名に秘められた効果は、この場において相応しい効力を持つものである。

「死の中に立ち。死の雨に打たれよ」

 普段名乗っているものはあくまで対外的に使用するためのものであり、彼が生まれた時に授かった名は実は他にある。

「我ら篠突く死の中に立つもの――篠中龍夜」

 篠中――即ち死の内。その名に秘められた力は。

「我が名、我が定め、我が死。受け取り、鎮めたまえ」

『その死に運命の介在を許さない』ただそれだけ。


「篠中? ――っ!!」

 その名を紡がれた瞬間、疑問を感じるよりも先に雪杜の中で劇的な変化が起きた。

 昨晩の疲労や消耗していた精霊が即座に回復した上、思考が冴え渡り意識の回転が限りなく高まる。

「これは!?」

「言っただろ。俺の名前だよ。仇名――お前なら知ってるよな?

 名乗りを聞いたものを強制的に術式の支配下に置く、利便性を完全に度外視した術式だ」

 つまるところ、仇名を施された人間は名乗れなくなる、ということである。ならば偽名を使えばよいと誰でも考えるだろうが、さすがにそれほど甘くはない。

 本人の名乗る名が増えれば増えるほど、術式が力を増し、強制力を高め、他に名乗る名前にまで呪いが侵食してゆく。危険なのは、それを本人も自覚できない、という点だ。

 名乗ってせいぜいもう二つが限度。それを超えると、偽名を新たに作った刹那、呪いに侵され始めるとも言われている。

 それを抑えるため、対外的にまだマシな効果を施された名を表向きに使っている。そちらでも、特別に理由でもない限りは苗字か名前のどちらかしか口に出すこともない。

 さらに言えば、普段なら漆黒騎士とさえ言えば本名など告げる必要もない。

 それだけのことをして隠し続ける名。それには、それだけの理由が当然ある。

「……それで、その効果は?」

「簡単だよ。俺たちが戦うのならそれは互いに体力、気力、精霊が万全でなければならない。俺たちに運や偶然の決着などありえない。俺たちの戦いは死闘以外に成り得ない」

 つまるところ。

「運命の捏造。俺たちはここに至るまでに万難を排して万全を期し、ここから先の状況には一切の不確定要素の介入はありえない。そういう必然をたどってきて、そういう必然に辿り着く。ただそれだけだ」

「運命操作……なるほど、君に仇名を施したのは――魔術師か」

 魔術師。

 精霊術式が世界を構成する根源たるエネルギーを用いる術式であるならば、魔術式とは世界を創造する術式である。

 わかりやすく言えば、特定法則を有した世界をこの世に顕現させる。それが魔術式である。

 術式三大系の中でもとりわけ術者が少ないものでもある。

 そして、操作された世界は現行世界から隔離された異世界となる。脱出方法はただひとつ――勝敗を決することだけ。

 篠中龍夜。名乗れば名乗った相手と殺し合わねばならぬ名。

 それは確かに、相対者の敵となるための名であった。

「運命に介入し、前提を書き換えた世界を発動し、押し付ける……話には聞いていたけれど、これが魔術式か。なるほど馬鹿げた力だね」

「呪いを押し付けられた方はたまったもんじゃねえがな。さて――」


 龍夜が腰を落とす。刀先を背後に向け、地面と水平に構える。雪杜からは龍夜の体に隠れて刃が見えない。

 対する雪杜は両手の精霊符をはらり、と地に落とす。音もなく地表に触れた精霊符が、薄ぼんやりとした光を発する。


「神浄四相流・一伎型皆伝。篠中龍夜」

「術者。破門により無流派。葛籠雪杜」


 互いが互いを意識の中心に置きながら、視線は僅かに左右に逸らし。

 次の瞬間。


「「参る」」


 空が、割れた。





 まず感じたのは圧力。大気を押しのけて高速で接近した体から発せられる熱が物理的圧力を伴って精神を圧迫した。

 内心の滾りを抑え、しかし消すことのないまま軽く息を吐く。

 雪杜はこの戦い、勝率は五割前後と考えていた。

 ここ数日の行動だけでなく、彼は過去の漆黒騎士の戦闘記録を調べ尽くした。騎士鎧・刃牙は特殊な鎧としてそれなりに有名だが、本人の業績やそもそも騎士本人の情報は少なかった。それでも、対策を立てるには十分な量と精度の情報を得ることができた。

 まず確実なのは、刃牙には攻撃術式が備わっていないということ。その耐久性、持久力は驚異的だが、戦闘技能がどれだけ優れていようが至近距離から直径十メートルの炎を高速でブチ込めば避けようもない。また、内部への衝撃や熱伝導も完全にゼロにできるとは思えない。

 故に、極大威力の連続攻撃。これが雪杜の考えた漆黒騎士・刃牙の対策だった。単純というより極端だが、実行出来るだけの力量は事実養ってきた。あるいは、奥の手まで出せば鎧の防御さえも貫通できる自信すらもある。

 しかしそれは刃牙も同じだ。単純に強化された身体能力と、想像を絶する剣技。レギオン相手ではその威力が十全に発揮されにくいが、対人の個人戦ではその能力が存分に発揮されるだろう。およそ接近戦になっては敵うわけがない。

 刃牙が避けられる距離よりも近く、その暴威からある程度の安全を確保できる距離。それが雪杜の絶対領域となる。

 そう、つまるところ。


 彼は最初の最初が、まず間違ったのだとその瞬間に気づいた。





 自分と相対する者は基本的に刃牙を相手にすることを考えてしまう。そして自分はそこを突く。

 卑怯と言われるような話だが、龍夜にしてみれば効率的に相手を倒す手段があるのだから実行しないほうが馬鹿だ。

 その単純かつ異質な能力ゆえに龍夜と刃牙は同一として見做される事が多い。

 しかし龍夜が鎧を纏わずに闘うのなら、それはより一般的な騎士に近い戦いが可能になる、ということなのである。

 潤沢な精霊力を元にした、高レベルの精霊術式を併用した戦術。騎士鎧によるサポートがないため、術式展開速度や攻撃、防御力の大幅な低下は発生するが、刃牙の時と戦いのバリエーションには雲泥の差が出る。

 なにより、神浄四相流・一伎型に騎士鎧の有無は関係ない。

 龍夜が何よりも頼るところとするそれさえ変わらないのであれば。そして、騎士としての戦いでないのであれば。龍夜は術式戦士として最高レベルの戦いができるのだ。

 とはいえ、その事実を知る者は少ない。レギオン相手に生身で戦うことの恐ろしさを考えれば、また、彼自身の信条からしても、戦いにおいては基本的に騎士鎧を纏う。故にただでさえ情報の残りにくい身の上の戦闘情報は漆黒騎士のものばかりになる。

 が。

 これは殺し合いでしかなく。

 何よりも、打てる手は全て打たなくてはならない。そうでなくては、同じく持てる手段を全て講じるであろう雪杜に勝利をもぎ取るなど不可能に近い。龍夜の長きに亘る戦闘経験が、直感が、そう叫んでいる。

 故に速攻から中距離での術式攻撃。

 背中に隠した刀の刃先に袖口から流した精霊符を絡ませ、斬撃を放つ前に雷撃を放つ。雷の精霊術式は扱いが難しいが、速度と威力に優れた術式だ。例え防御したところで隙は生まれる。そこに追い打ちの斬撃を重ねる。多少鍛えているようだが精霊術師に回避を許すような斬撃ではない。

 上手くすればこれで手足の腱を断ち戦いを終わらせられる。

 そう、つまるところ。


 彼は最初の最後で、浅はかだったのだと次の刹那に思い知る。



 雪杜の間合いの目算の半歩外。

 そこで振りかぶられた刀から、強烈な雷光が迸る。

 文字通り光速の衝撃が二人の間で炸裂し――次の一歩を踏み出したその瞬間、龍夜の視界に紅が生まれた。



 天を裂く程の爆炎が鼻孔を焼く。防御術式を高速展開しながら背後に大きく下る。

(なん――だ、今のは――っ!!)

 龍夜は驚愕を強引に抑えつつ、敵の追撃に備え体勢を整えた。

 雪杜の攻撃圏のギリギリ外から放たれた雷術は間違いなく雪杜に直撃した。次の刹那にその懐まで踏み込んだ龍夜は、何の予兆もなく放たれた精霊術式により、押し戻されていたのだ。

 今の反撃は反応が一瞬遅れていれば顔を焼かれ、こちらが致命の隙を生んでいた。

 相手の攻撃力が高すぎたために術式の展開から発動までの時間に僅かな停滞があったのが救いだ。

 運が良かった……とは言うまい。そんなもの、龍夜の仇名が作用している以上あり得ない話だ。

 つまり。

(今のは奴の狙い通り……あるいは、俺の攻撃が奴にとっても想定外だったが、その上で、俺の想像の上を行く反撃の手段を有していた……)

 最初の雷撃は間違いなく不意を打った。一瞬見えた焦りは演技ではなかろう。

 己を焼きつくさんとする炎を斬り払い視界をあきらかにしつつ思考を走らせる。

(やはり一筋縄ではいかないか。想像以上……いや、想像の外にいやがる)

 単に実力の上限を見誤っていたというのであれば、それを上方修正すれば良い。しかし、想定が見当違いの方向を向いていたら。あるいは、そういった隠し種が用意されているとすれば。それは龍夜の背を刺す刃となるだろう。

 周囲の気配を探る。擬体でも放ったか、収まらぬ炎の影に隠れるように己を囲む四方の気配。

 ならば。


「神浄四相流・一伎型――蛮王禍」


 破壊現象の乱気流。触れるもの全てを破壊する気の渦。それを、己を中心にぐるりと一周、刀に巻きつけて走らせる。四つのうち二つの気配が砕かれる。その内のひとつ、左斜め前へと飛び込み、気配が消えた辺りの位置に刀をつきたてぐるりと体を半周。顔面を狙う光線を後ろに滑りながら斬り払う。


「光速の熱線を斬り払うか……本当に人間なのか疑いたくなるね」

「そりゃこっちのセリフだ。雷撃だってほぼ光速だぞ。なんでそれを受けてから反撃が間に合うんだよお前」


 炎がゆっくりと消えてゆく。そのむこうに雪杜がいた。流石に初手の雷撃を完全には防げなかったか、右腕を火傷と裂傷が覆っていた。しかし術の規模からすれば微々たるものである。

 対して龍夜は左肩の後ろに火傷を負った。腕を振るう攻撃動作への影響は避けられない。意識の端で己の技の威力の見積りを修正しつつ、雪杜の動きに神経を払う。

 雪杜の構えは待ち、見の動作を形作っていた。武芸に身を置く龍夜程の完成度はないが実戦では十分に通用するレベル。重要なのは高い完成度を目指すところではなく、己の現状において完全なパフォーマンスを発揮することだ。それは雪杜に語るまでもないことだろう。

 相互の距離は約十五メートル。この距離であれば術者が先手を取り、距離を維持しつつ術式を展開するのがセオリー。しかし先程の初手であったように、龍夜は術者としても戦える。

 故に雪杜は見に徹する。その一撃が戦士か術者か。それを見極め後の先あるいは後の後による優位をもぎ取るつもりだろう。

 対して龍夜は自由に選択をする事ができる……かといえばそうとも言えない。

 先ほどの反撃。あの原理を明かさねば無用に反撃を受けるだけだ。さらに術式への反応や理解を考えれば無為に術式を放ったところで効果は薄いことも明白。騙し搦め手を用いる事が肝要。

 故に、実際のところ先に踏み出さざるをえない龍夜の方が形としては分が悪い。


 最短距離を走れば瞬きひとつの間合い。とはいえ正直に真正面からというのも芸がない。

 故に。


「神浄四相流・一伎型――髑髏堕し」


 ず、り。と。

 空間が霞み龍夜の姿がブレる。

「空渡り――っ!!」

 術式の正体を空間跳躍と看破した雪杜は素早く両の手のひらを打つ。柏手(かしわで)。ぱあん、と響いた音は空間の精霊を騒がせ、術式を軋ませる。

 同時に背筋を凍らす鋭い剣気に、雪杜は術式を発動。最初に地面に置いていた精霊符が爆発した。

 ぐい、と空間捕食の爆心地に引き寄せられる雪杜のこめかみに熱が走る。

「危うく――っ!!」

  背後から頭を狙われた。紙一重で命を永らえた事に腹の底を冷やしながら、それでも凌いだ己の実力を正しく見据える。つまり。


――半端な接近戦は命取りになる。


 死ぬのは可能性のひとつとして捉えている。この場は既に己の願った死に場所だ。故に、生温い結末だけは認める訳にはいかない。決死の覚悟とはいえ必死の状況を容認する理由にはならない。

 方針を修正する。否、既に初手で気づいていた。もはやこの敵、最善手を放棄し、己の最も得意とする領域で、悪手をもってでも、全力持って臨むより他にない。

 空間捕食の術式により失われた空間の分だけ――つまり二メートル弱移動した位置から血の筋を引く銀閃を視界の端に捉えつつ、袖口から針を取り出した。

 龍夜はすでに振り切った刀を返し、その動きを次の攻撃へとつなぎ始めている。

 雪杜はあえて、一歩を龍夜の攻撃圏内に踏み込む。

 疑念と警戒の視線を感じ、しかしそれゆえに己の目論見を悟られていないことを確信した。

 雪杜は。

 左手に握った針を。


 ――己の右腕に突き立てた。





 自分の状況が手遅れだと気づいた時には、龍夜の体は上空に大きく吹き飛ばされていた。背中を社の屋根に打ち付け、破壊し、落下する。鼻の奥を鉄の香りがどろりと満たし、意識が刹那明滅する。

 鋭く息を吸い己の意識を強引に呼び戻し、今の術式を思い出す。それは。

 精霊術大系共鳴術系統放出式空間術『禍津(マガツ)』。

「野郎……やりやがったな……!!」

 簡単に表現するならば『自爆』の術式である。己の精霊を暴走させ、周囲に精霊の軋轢を生むことで防御無視の破壊を撒き散らす禁術のひとつ。

 なにしろ効果対象が精霊なのだ。物理的手段ならば防御手段そのものが、術式ならば防御術式そのものが破壊されてしまう。それゆえに効果は絶大だ。しかしそれだけにリスクも高い。

 この術式の最も危険なところは、術者が最大のダメージを受ける、という点である。

 雪杜を見れば、右目から血を流し、口の端からも血を吐いている。おそらく全身に感じる痛みは気を失うほどのものだろう。それでも龍夜を睨みつけているのは紛うことなき強い意志によるものだ。

 弾かれた空中で刀を納め、懐から取り出した精霊符を放つ。

 それぞれから氷刃が生まれ、一直線に雪杜を目指した。

 雪杜は氷刃をかわしつつ少しずつ後退。新たに取り出した針に精霊を充填している。

「自爆術式で距離をとるとは思い切った事をしてくれるが……」

 己の術式の反動で龍夜も大きく距離をとっている。未だ宙に浮いていることに変わりはないが、既にその全身は木々の影に覆われていた。

 相手の意図は知れた。効果の薄い――しかし己の最大力量を発揮できる戦場。それを望んでいる。

「乗ってやるよ葛籠雪杜。俺とお前の力比べに」

 刀を抜く。銀閃が目の前の空間を水平に二分し、分かつ線から漆黒が溢れだした。


「龍影影装――漆黒騎士・刃牙」


 溢れた闇が龍の顎となり、龍夜の姿を飲み込む。それを中から切り裂くように、漆黒の鎧が姿を現した。刃のような印象を抱かせる龍の鎧。漆黒騎士 ・刃牙。

 適当な木を踏み台に、木の幹に対して垂直に着地する。雪杜を見上げ、次の瞬間には足場をを砕く勢いで跳躍した。

 弾丸のような速度に雪杜が目をむく。しかし冷静さは失われない。

 ただ、術式症候群患者特有の熱が腹の底でとぐろを巻く感情と渾然一体となり、瞳の奥に濁った炎を宿らせている。


「笑えよ術師――手向けになるぜ?」


 相手に届かぬ言葉を吐きながら。

 刃牙は星震天穿牙を振りぬいた。





 戦闘は膠着状態に陥った。


「案の定……術式のバリエーションが無尽蔵な上に、発動直前で術式を変えるか」


 刃牙は攻めあぐねていた。素直に直進すればただの的。それで破れる鎧ではないが、威力と連射により足が止まればその後どうなるかまでは保証できない。

 また、手に持った精霊符、或いは展開される術式の精霊の流れを読んでも、発動の一瞬でそれが僅かに書き換えられ、出力される結果が無数に変わり対策を許されない。

 故に術式発動後の間隙に距離を詰めるのだが――。


「抉れろ夜天!!」

「――っ!!」


 残り五メートル程度まで近づいた瞬間、ぢり、と脳裏を焼く焦燥から逃れるように進行方向を九十度強引に曲げる。直後、雪杜と刃牙が先ほどまで居た直線上の地面が不規則に陥没し地盤が砕ける。


「詠唱術系統まで簡略化するとは、心底驚嘆に値する……!!」


 精霊術師が同時に発動できる精霊術式はひとつか、多くてふたつ。過去にはみっつを同時に扱った者もいたらしいが、伝説の域である。術式の発動には非常に繊細な感性と高い集中力が求められる。それを扱いやすくするための精霊符や鈴や弓、剣や針なのだが、それはあくまで、ひとつの物事に集中するための道具にすぎない。

 絵筆を両手に持って別々の画を描き上げる事が難しいのと同じ事だ。無論、それのみに全ての力を注げば実現自体は可能であろうが、戦闘中にその他全てを忘れて術式のみに力を注げばそれはただの的である。

 雪杜の得意とする術式の融合は、ふたつをひとつに合わせることで新しい結果を生むもので、例えれば水彩と油彩でひとつの絵を描くようなものといえる。難度は高いがまだ現実的である。

 ともかくその制限が故、対術者においては相手の術式の終わり――術式と術式の間を狙うのが定石。無論術者もそれがわかっているからこそその隙を極力減らす様に務める――のだが、雪杜はその詰め方が常軌を逸していた。


 己の体で隠された雪杜の死角から刀の先で礫を飛ばすがそれも結界術式に弾かれる。

 同時に放たれた衝撃波を地面に張り付くように躱し、獣を思わせる身のこなしで再度距離を詰めようとするが次の瞬間に足元の地面が消失。踏み出した足が空を切る。

 とっさにつま先に気の塊を生み代わりの踏み台とし、横に跳躍。同時に放たれた鎌鼬が僅かに足を撫でる。


「想像以上に……やり辛い!!」


 衝撃に揺れる視界で雪杜を睨みつけた。





 雪杜は攻めきれずにいた。

 ただでさえ高い身体能力が騎士鎧により大幅底上げされた事で、どれだけ術式の展開速度を高めても相手の動きを捉え切れないのだ。

 その上今放った鎌鼬。直径数メートルの巨木を切り裂く力があるというのに鎧には傷ひとつついていない。あの騎士鎧の頑丈さは相当高く見積もっているが、それでもまだ足りない可能性を感じさせる。もしそうなれば、それこそ地形を変える程度では防御を突破できない。

 そうなると自然、攻撃術式を大きな威力の物に変える必要があるが――。

 数段威力の高い精霊符の起動準備に入ったその瞬間、刃牙の動きがコマ落としの様にブレる。

 移動速度に動体視力が追いつかず動きを捉えられなくなったのだ。


「――っ! 食らいつきが早すぎるなぁっ!!」


 どこに動けばいい。あるいは動かざるべきか。脳内を走る電流が無数の予測を立て無意識の内に答えを選択。背後に向かって大きく飛び、


 ひや、と。

 冷たく鋭い悪寒が喉を撫でた。


 それ逃れるように大きく上体を逸らす。ちり、と顎を熱が掠めぱっと赤い雫が舞う。

 影のような黒さで、いつの間にか手を伸ばせば届く距離に刀を振り切った姿の漆黒の鎧。それを視界に入れる前に、脳は反応を終えていた。


「略式・獣牙陣!!」


 バチリ、と音を立てて精霊が壁を形成。壁の直上に居たはずの漆黒騎士はその瞬間には姿を消しており、己が倒れこむそのギリギリのサイズに展開した結界の中ならば少なくとも多少は安全――などと思えるはずもなく。


「白華爛哮!!」


 二枚の精霊符を重ねてひとつに。獅子の咆哮のような風切り音。暴風を直上に放った反動で体が地面に叩きつけられ、その首筋をかすめて銀の刃が地面を抉り、黒い姿が横殴りにぶっ飛んだ。

 略式・獣牙陣は縦に長い結界であるため、結界展開時に雪杜の直上に跳躍すれば自然とその内側に入ることができるのである。

 そうして空中で気を足場に落下を加速した漆黒騎士に白華爛哮を放ち減速、弾き飛ばしたのだ。

 とはいえ。


「……心底、生きた心地を忘れるよ」


 首筋を押さえながら立ち上がる。

 皮一枚生き延びた。もしもう一瞬術式の発動が遅ければ。あるいは、融合術式で威力を高めていなければ。


「彼の術式に感謝、かな、これは?」


 篠中龍夜の魔術式。己の直感に欠片でも疑問を抱けば死に直結する。そしてその直感が誤っていてもまた同じく。

 研ぎ澄まされた己の経験、判断が直感となり、それは幾多の死線を越えてきた漆黒騎士と渡り合える域にある。それはひとつの自信であり。

 己の腹でとぐろを巻く嫌悪の源。


「それでも、これも僕だ。これが――僕だ」


 視線の先、体に暴風をまとわりつかされたというのに、平然と立ち上がる漆黒騎士。

 そう、この程度であの男は超えられない。

 そうでなくては。


 息を軽く吐き精霊符を取り出し。

 直感のままに術式を放った。




 状況は膠着――だが。


 ふたりは同時に思う。

 互いにある程度の癖を掴んできている、と。

 龍夜は距離の詰め方が、雪杜は術式の練り込みが。それぞれ精度が上がっている。相手のタイミングを読み、そこに自分の呼吸を挟む事が上達している。

 必殺の攻撃を挟み合い、その先を打ち込むことができない。しかしそれが永遠に続くことはない。

 刃牙の鎧の着装限界は二十四時間で六六六秒。これは騎士鎧という術式の仕様であり努力根性で変えられるものではない。この時間を使いきれば龍夜の勝利は大きく遠退くだろう。

 しかし雪杜にも問題はある。体力、気力、精神力、精霊。そのどれもが無尽蔵ではない。既に息は上がり、動く度に体が軋み、精神が摩耗する。倒れていないのは根性と言える。

 昨夜から合わせて着装時間は既に三百秒を超えている。残り三百秒を使い切るのか、その前に決着を付けるのか。


 決断は同時。


 刃牙は刀を地に刺し自身の動きに急制動をかける。

 雪杜は無数の符を蒔き刃牙から大きく距離をとる。


 刺した刀を構え直す。右手を大きく引き左手を前に。

 右の人差し指と中指を立てる。唇に触れ息をあてる。


 気が一点に集中し大気が震える。

 精霊が空間に凝縮し世界が凍る。



 距離五十メートル。敢えてその位置でふたりは止まった。

 その距離は、互いの絶対生存距離。


 雪杜の反応速度が刃牙の剣術に対応できる限界であり。

 刃牙の運動速度が雪杜の術式に対応できる限界であり。


 刃牙の剣術が最大威力を発揮する為に十分な距離であり。

 雪杜に術式の全力展開の猶予を与えるに足る距離であり。


 互いの声を聞くのに必要最低限の距離であり。

 互いの瞳から意志を汲み取るに不足ない距離。


 つまるところ。

 これを最後にしようと、そう決めた。

 意志を通じ合わせることもなく、声を掛け合うこともなく、術式の最大威力と剣術の全力でせめぎあい、運動と反応の限界で。



「こいよ、術師」

「行くよ、騎士」



 自分自身にそう告げて。

 刃牙が疾走を開始する。

 雪杜が術式を展開する。





 ぐん、と全身の右足に加速を預ける。

 人間相手には必要性のない威力を持つ、刃牙の得意とする技。

「神浄四相流・一伎型――陰滅影牙」

 <権天使級>をも貫き穿つその威力は、人間相手なら触れた瞬間に砕き散らす。

 それを躊躇惜しげ一切無く、伝家の宝刀を抜き放つ。


 言葉にした瞬間全身に気が満ちる。それに呼応し精霊が活気づく。それは刃牙の性能を底上げする力にもなる。

 龍夜が一伎型の技を口にするのには理由がある。自己暗示だ。

 無限とも言える回数繰り返してきた鍛錬により、その一言で心身の状態をその技を放つために最適な状態に移行させる。無意識で気の廻りを調整純化し精霊の配分を最適化する。

 しかしそれには当然リスクがある。

 まず、自分がこれから何をしようとしているのかが相手にバレてしまう点。これを考慮して龍夜は他人に聞こえない程度の声で技を呟くが、雪杜はそれをもはや聞き逃さないだろう。

 戦い慣れた者ならば、相手の次の手の内が読めていれば対応策を考えるのはたやすい。

 それならば放つ技が相手にとって初見ならば問題がないかといえば、それも違う。


「穿て、世界!!」


 ばら撒かれた精霊符が明滅し、世界を撹拌する。空間裁断術式。一歩踏み込めば撹拌された空間に合わせて体がねじ曲げられ、砕かれる。刃牙の防御性能も無視できる攻防一体の術式。

 これが別のリスクだ。何をするかはともかく、これから動く事は伝わってしまう。先手必勝の一伎型においてこのリスクは大きい。

 故に。


「ああ、そうだよな……賢い判断だよ精霊術師!」


 故に、だ。故にこそ、今この場でそれを放つ意味が出る。


封鎖(とざ)せ、天穿牙!!」


 言葉とともに歪曲空間に踏み込み――空間が星震天穿牙に、喰われた。


「は――っ!?」


 さしもの雪杜も目を剥く。それもそうだろう。術式が――否、術式を構成する精霊が、星震天穿牙に飲み込まれるようにして吸収されていったのだから。

 天穿牙の固有能力、月光。まるで月のように精霊という光を受け、その輝きを――力を増す。

 その能力は、斬りつけた術式やレギオンを精霊として飲み込み、力へ変える。

 そこまで雪杜はさすがに解らなかったが、目論見を崩されたことだけは即座に理解した。

 つまるところ。


「こちらの出だしを読み、それを潰す。相手がそうすると、わかっているようなもんだからな!!」


 相手に自分の手を読ませる。

 その上でこちらの手札の中身が解らなければ、相手は大雑把な妨害に出るしかない。しかし逆にそれを崩す事で相手の不意を生む。

 単純な読み合い。それを掴んだ刃牙は。


 黒い弾丸となって雪杜に猛然と突き進む。突き出した刃に引かれるかのように、まるで大地を平行に落下するように。その勢いはもはや止められるものではない。

 轟、と大気を切り裂く音を聞きながら。

 刃牙の中で、龍夜はぞっと心胆を寒からしめる。


 嗤っている。

 葛籠雪杜が、そうでなくてはならないとでも言うように。

 一秒後の死を確信しつつ、それでもなお、その結末の否定を確信する瞳。

 そうして、刃牙はその声を聞く。

 精霊術式。

 魔術式。

 それに並ぶ最後の大系、召喚術式。

 雪杜の放つ、切り札を。


精霊召喚術大系(・・・・・・・)――」





 己の術式を喰らい、力を増した刃を構えた騎士。轟然と迫るそれに魂まで圧迫されながら雪杜は思う。

 これでこそ。

 ああ、これでこそ、だ。

 全身の骨が軋み限界を超えた術式の運用に血管が破裂するほどに脈動を繰り返す。

 心の臓が止まっていないのが悪夢のようだ。なぜこんな化物と戦ってまだ生きていなければならないのか。

 けれど。それでも叫ぶ。

 迫る黒い鎧を睨みつけ、血を吐きながら。


「そんな世界で生きていなければならない地獄を選ばなきゃ、僕は僕のまま変わっていないじゃないか!!」


 故に命じる。己の魂に。歩んできた道と、これから先の運命に。

 全て、燃えろ。ただそれだけを。


「来いよ漆黒騎士! 僕を殺して、僕の愚かしさを否定しろ!!」


 そして。


「行くよ篠中龍夜! 君を殺して、君の正しさを砕くために!!」


 この憎らしい世界を、それでも胸を張って生きていくために。

 雪杜の術式が開放される。戦闘の開始と同時に練り始められ、圧縮され、凝縮され、極限まで深く高く広く狭く、編み組み織り込み重ね上げられたその術式を。



 精霊術大系及び召喚術大系混合術式。

 これこそ、絶対に不可能とされた別大系術式同士の融合。雪杜が異端と見做され、自由を奪われ監視される契機となった技術。

 まさか僅かの一瞬で空間裁断を越えられるとは思わなかったが、その一瞬が今まで足りなかったのだ。故に、今こそそれを発動するための時間を得た。

 これを。

 これを破れなければ、そのような相手に負けを認められる筈などない。

 精霊術式のみならば先ほどのように刀の特殊効果で飲み込めるだろうが、召喚された物理現象そのものは果たしてどうか。

 そして、その物理現象を制御している精霊術式を斬り裂けるのかどうか。

 斬り裂けるのならば、制御をなくした物理現象をどのように凌ぐのか。

 そのすべて、見せてみろと。

 そう、挑むように。


「闢け……精霊召喚術大系変異系統合成式転移術『天照荒魂(あまてらすあらみたま)』っ!!」


 そして。

 雪杜の眼前――即ちもはや刃牙の眼前。

 背丈程の高さに空間が縦に裂け、二つに開き――その中から、極光が溢れた。





 音はなかった。

 ただ、生まれた熱と光が世界から一瞬で水を奪った。大地がひび割れ草木が枯れる暇もなく消し炭へと変わる。


「馬――鹿かてめぇっ!?」


 鎧から上がった声は悲鳴だった。その声も次の刹那に焼け落ちる。

 召喚術式。原理は不明で、しかし使えることがわかっているという特殊な術式。適性があれば誰でも使え、更に習得の難度もさほど高くはないとされているため、精霊術式に次いで普及している大系だ。

 しかし、それを真に『使える』レベルまで磨き上げるのには、他二大系とは次元の違う労力が必要になると言われている。

(それを――これは、まさか――!!)

 その上更に、というべきだろう。術式の合成。精霊術式同士でやっているのは見た。それだけでも驚異的な技術であり、革新的とも言えるものだというのに。

(別大系の術式を、ひとつの奇跡を具現するために合成するだと!? どんな気狂いだこいつは!!)

 精霊術式と召喚術式と、そして魔術式。

 これらはすべて、効果対象が違う。故に同時使用も不可能とされている。

 精霊術式は精霊に。魔術式は世界にそれぞれ作用し、そして召喚術式はわからない(・・・・・)。

 作用する対象が違えばそのために必要な技術が変わる。共通するのは単に奇跡を起こすというそれだけで、感覚的には全く違う技術なのだ。

 それを、こともあろうに同時に扱い、ただひとつの奇跡を顕現させるために融合させた。

 雪杜の所業は歴史に残る程の偉業であり……おそらく彼以外には実現できないであろう異形に違いない。

 そして。

「こい――つは――!!」

 絶句、さえ遠い。

 開いた空間の奥から現れたそれ――己の刃の鋒に生まれたこぶし大の熱球――を視認した瞬間、目が灼け、潰れ、暗闇に覆われる。

 鎧を熱が覆い、熱風に体が吹き飛ばされるのに抵抗できない。


 太陽核召喚(・・・・・)

 摂氏一万二千度の炎熱が地上に現出した。


 召喚術式がいわゆる物語の中の召喚魔法の類と違うのは、被召喚物を術者が支配できない、という点に尽きる。故に召喚するならば無機物か、取引の成立する存在を喚び出すのが常である。

 無機物ならば、召喚されたものを、その後精霊術式などで操る、なども可能ではあるが、召喚から制御術式の発動までどうしてもワンテンポ間が空く。

 とはいえ核融合という人類の手に余るものを後付けで制御するのは難しいし、それ以前に召喚後に精霊術式を編み直していてはその間に己が焼け死ぬ。

 潰された視界のなか、気配だけで探れば、雪杜は防御術式を無数に連続展開することで、壊れる端から術式を更新し身を守っている。

 そうでもしなければこの熱量から身を守るなど不可能だ。召喚されたものは万物等しくその影響を与える。術者がその影響から逃れることはできない以上、自力での防御手段が必須となる。

 故に。

 雪杜は召喚後は己の防御に専念するために、事前に召喚術式に召喚後の制御のための精霊術式を織り交ぜていた。

 吹き飛ばされた刃牙を追って弾丸のような速度で膨大な熱量が接近するのはその仕組みによるものだ。


(この熱――鎧を脱げばその瞬間焼け死ぬか!!)


 刃牙には攻撃、防御の術式は備わっていない。幾つか結界、障壁系の術式もないではないが、この大術式の前では紙くず同然に燃え尽きるのは明白。

 太陽を制御しているのは精霊術式だ。ならばそれを斬るか、とも一瞬考えたが即座に却下する。制御をなくしたあの太陽がどうなるのか、判断がつかない。そのまま消えるならよし。だがもし、暴走し爆発などしたら、消し炭どころの話ではない。

 燃え尽きるのを待つかとも思うが、その間に自分が干上がる。今も、鎧に守られているとはいえ熱で全身が焼け付いている。あと何秒待てと言われてもそんな余力はない。そもそも、鎧の精霊が凄まじい勢いで熱に対抗し消費されている。これでは制限時間前に鎧が崩壊をはじめてしまうだろう。

 ならば。

 ぎ、と意識を絞り雪杜へ向ける。

 召喚術式の常。術者を倒し術式を無効化すれば、被召喚物は元の場所へ送還される。


「――ァァッ!!!!」


 吼える。力を振り絞り太陽に抗う。

 なぜなら今の我が身は漆黒騎士。眩い光があるほど濃くなる影より流れ出る黒龍。強い光にこそ、抗う力を得る存在なのだから。

 極限まで力を絞り、速度に力を注ぐ。

 太陽の移動速度がどの程度まで出せるのか不明だが、こちらの速度を上回らないことに賭けるしかない。雪杜が展開し続けている結界の精霊術式ならば月光で喰らえばこちらの動きも阻まれない。

 光を失い意識の糸だけを伸ばした世界で、凝縮された精霊術式の気配はすぐに見つかった。

 もはや相手は防御の術式の展開にのみ力を注いでおり、新たな攻撃術式を展開する余裕はない。つまりこれが、最後の突撃。


「――――ッ!!!!」


 水気を失い乾いた喉からかすれた息が漏れた。

 音を置き去り、極光の中を疾走する。結界の術式と、その中央に位置する雪杜の気配を過たず捉え、そこに月光を発動した星震天穿牙を突き立てんと右手を伸ばし。



 極大の破砕音とともに、龍夜の意識が吹き飛んだ。





 秒速二百二十キロ。

 太陽の公転速度――と言われている。雪杜もそれが事実かは確信はないが、要はとてつもなく早い、ということである。

 それこそ、弾丸の速度に反応、回避を実現する化物じみた漆黒騎士をして、まるで反応が追いつかないレベルの。それでも、冷静であれば安易に直撃など受けなかっただろうが、やはり大系融合術式と太陽核召喚というインパクトを見せつけられたのが大きかった。


 雪杜は刃牙が己に向かう瞬間、太陽の速度制限精霊術式を解除した。それはつまり、太陽本来の移動速度でしか操れなくなるということであり、少々の移動が遥か彼方への移動へとつながるという事だ。

 それを利用し、己に向かってくる刃牙に対し、召喚した太陽を超高速でぶつけた。


「く、は、ははは」


 冷たい高揚が腹の底から湧き上がる。太陽は既に送還した。あの術式は十秒保たないものであったが、同時に必殺の術式でもある。それを相手に、三秒近く持ちこたえた刃牙の方が異常なのだ。

 何しろ、周囲の光景はその時間で炎熱地獄へと変わり果てているのだから。篠中龍夜の名による結界がなければこれだけの被害では済まなかっただろう。

 そして、雪杜もただでは済んでいない。

 全身が乾き、血管が燃えるように熱い。熱せられた外気よりも己の吐く息の方が熱いと錯覚するほどだ。

 それでも。


「それでも――僕の、勝ちだ――」


 勝利に顔が歪む。敗北を望み、命をかけ、本気で殺意を向けた。

 己の知識と経験の総てを傾けた結果だ。それで敗北したのなら、自分のこれまでが否定されるようなもの。ならば勝利を喜ぶべきだ。

 それでも。

 それだからこそ。


「僕は――」


 視線を遠く投げる。

 辛うじて焼け残っていた社に寄りかかるように、鎧を脱いだ状態の龍夜が居た。だらりと全身の力が抜け、その生死は判然としない。生きているのだろうか。正直なところ、太陽があたったのは確実だがそれがどこにあたったのか、までは雪杜の目では把握できなかった。

 天穿牙はといえば、己の傍の地面に突き刺さっていた。一体どのような素材でできているのか、柄は焼け落ちそうになっているが刃には曇りひとつ存在しない。

 天穿牙を抜く。ぼろり、と柄が崩れ、刀が大地に乾いた音を立てて転がった。

 それがまるで、自分に使われるのを拒んだかのようで、なぜか妙に小気味よかった。


「……まあ、そうだね。僕に刀は似合わない、か」


 苦笑し。


「なぁに、勝手に、終わったつもりになっていやがる」


 耳に飛び込んできた割れた声に、表情が強張った。





 なぜ生きているのか。

 推測を立てるならば、背後を狙ってきた太陽に対し、とっさに天穿牙の柄で受けるために刀を引いたから、というのが大きいだろうと判断する。

 天穿牙の素材が、太陽という属性に対してある程度耐性があるだろうという推測に基づく判断だったが、どうやら賭けには勝ったようだ。

 それでも、右腕が動く気配はない。感覚が完全に失われている。また、両足も痛みを訴えていた。骨が折れているか、少なくともヒビくらいは入っているだろう。

 吐く息に血の匂いが混ざっていることから、どうやら内蔵も傷つけたらしい。満身創痍である。

 だが。

 生きている。


「馬鹿な……」


 笑って何かを言おうとするが、口が乾いて動かない。

 代わりに動きで応じる。

 つまり。


 やや膝を曲げ半身になり、相手をまっすぐに見やった。


 それだけで雪杜は理解したのだろう。両手に精霊符を構え、動揺を消す。

 互いに限界であることは見て取れた。雪杜は大術式により精霊も体力もほぼ枯渇。両手に精霊符を構えたものの、発動できるかどうかも微妙、という有り様。

 龍夜は気力体力ともになんとか余裕はあるが、全身が壊れ物の状態。鎧を砕かれた影響から全身の精霊が変調をきたしており、動く度に鋭い痛みが走り思考がまとまらない。

 特に、灼けた目は未だ視力は戻らない。刃牙の遮蔽機構により失明は免れただろうが、術式による処置をすぐにでも行わなければ元の視力へは戻らないだろう。

 故に。

 これからのことも踏まえた上で、龍夜は駆け出した。死ぬつもりはない。それでも、死に近づくだけの疾走を開始した。

 なぜならば。


(お前の決着を――俺も見たいと、そう思うからだ!!)


 それがどのような形であれ。

 壊れた魂を持つ人間が、日の当たる世界に向き合うというのなら。それを見たいと、そう願うからこそ。


 先ほどまでとは比べるまでもない、速度の遥かに劣る疾走。しかしそれでも、その動きにゆらぎはない。

 雪杜はそれに対し、正面から術式で撃ち合う。というより、それしかできないほどに消耗していた。

 それでも力を振り絞り降り注がれた精霊符から、炎の槍が撃ちだされた。

 熱に浮かされる大気を切り裂き、まっすぐに己に向かうそれを。


(神浄四相流・一伎型――虎牙突穿)


 神速の左拳の突きで、打ち砕く。


「な――」


 驚愕に口を開く雪杜に、内心で喝采をあげる。先程はこちらが引っかかったが、やり返してやったという単純な優越。


 神浄四相・一伎型は剣術ではない。


 ただそれだけの、隠し種。

 天穿牙を振るい、刃牙でもその存在感を見せつけたからこそ、この当然の事実に気がつけない。

 その驚愕の隙間を狙い、龍夜の拳が雪杜の心臓に打ち据えられた。





「か……」

「お……」


 ふたりが呻く。

「く、はは……」

 雪杜が痛みを訴える己の胸を見下ろして笑った。

 胸を真っ赤に染める血。鉄の匂いが脳に麻薬のような恍惚感を生む。

 白と黒を行き来する視界が脳を揺らがせ、世界から現実感を奪う。

 その一撃により雪杜の心臓の機能は奪われる。そうなっていたはずだ。龍夜に、それだけの力が残っていたのなら。

 だが実際には雪杜は死なず、術式により血まみれになった龍夜の拳が、その胸に血の華を塗りつけたに過ぎない。

 左肩。そこにつけた傷。それが、龍夜の最後の一撃に込める力を許さなかった。


 ならば。


 ならば反撃の狼煙をあげろ。勝利のために。己の愚かさを認め、それでも、彼女に自分が生きていることを証明するために。

 例えその相手がいなくなっても。

 己の魂にその事実を突きつけるために。

 勝つのだ。

 彼女に導かれた己は、一人でも未来を歩くことができるのだと、それを証明するために。


 上がらぬ腕。

 踏み出せぬ足。

 それらを抱えてもなお、前に進む意思は折れはしないのだと。


「あ…………」


 声を、漏らし。


「ああああああああ!!!!」


 叫びを、吐き。


「僕の、勝ちだ――――!!!!」


 勝鬨を、あげ。


「ああああああああっ!!!!」


 腹に込めた力でもって、己の額を、龍夜に叩き落とした。


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