悪夢・覚めた後
02 - 16:悪夢・覚めた後
やけに暑いな、と思って目を覚ますと、智晴が添い寝をしていた。
「待ちなさい」
さすがにこれはここ数年最大の衝撃だったので一瞬で目が覚めた。爽快な目覚めとは程遠いものがあったが。
智晴はまるで子どものように灯駈の胸に顔を埋めていた。身長差が逆転しているためやや体勢に無理がある。
「何で智晴がわたしの布団に……って、あら?」
体を起こすとそこは知らない場所だった。
おそらく、どこかのホテルだと予想をつける。しかも、それなりに値段はしそうな。
部屋にふたつあるベッドの片方には灯駈と智晴。もう片方には誰かが頭まで布団をかぶっていた。ソファに視線を向けてみると、ソファの背もたれで隠れているけれど足だけが辛うじてはみ出して見えた。形や大きさからして男だと判断をつける。
状況がわからない。頭の中でクエスチョンマークがくるくる回る。
え。
何、この状況。
その時。
「ったく、骨までいってなかったのが奇跡だな、これ」
そんな言葉を言いながら、部屋の扉の一つが開いた。
どうやらバスルームに通じているらしく、もわっと奥から湯気が溢れてきた。そして同時に、これまた男が出てきた。
「あ」
「あん?」
思わず声が漏れて、互いの視線がぶつかる。
相変わらず目付きが悪い。視線だけで人を斬りつけられそうな、そんな目をしている。
東雲龍夜。どうにも忘れられない名前になりそうな気がしてならないと思っていたその男がいた。
ありったけの精霊符によりどうにか生き埋めを回避した龍夜と、安全に地上に出た雪杜たちは、ひとまずそのままホテルを借りた。色々と面倒事を受け入れてくれる有り難いホテルというものが世の中には存在するのだ。若干割高だが、設備はいい。
ひとまずそこに部屋をひとつ借り、灯駈の様子をみることとなったのだ。
「その様子だと体の方は安定しているみたいだな」
「体……安定?」
「ふむ……お前、昨日のこと覚えてないか。まあ、あんなことになったわけだしな」
「きの、う…………、あっ!!」
ばっと、上着をまくる。<細胞>の牙により深くえぐられたはずのその場所には既に凄惨な傷を思わせる跡さえ存在していない。
「え……あれ…………?」
「…………、まあ、ひと通りの流れは話しておいたほうがいいだろうな」
龍夜は開けた冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、喉に流し込みながら空いていたソファに腰掛ける。
ひととおり、昨晩起きたことを語った。確認の為に、灯駈が知ること知らないこと含め、全てを。
龍夜たちがレギオン討伐のためにあの場所へいた事。
智晴を探しに来た灯駈と合流したこと。
巨大なレギオン樹から智晴を助けだしたこと。
そして。
戦いの最中、灯駈は<細胞>の牙を受け、致命傷を負ったこと。
しかしサマエルの儀式術式により一命を取り留めたこと。
それらを語った龍夜は、頭を深く下げた。
「悪かった。そして助かった。お前がいなければこの場にいる誰かがあの場所で命を落としていたかも知れない。そしてそんなお前を俺は守りきれなかった。本当に済まない」
「え、あ、いや、そんなの。だって、あの場所に行くと決めたのも戦うと決めたのも、結局わたしなんだから、そんなの、あなたのせいじゃない」
「けど、少なくとも守る力はあったはずなんだ。きっとどこかで甘く見ていた、軽く見ていた。あるいは、重さを測り違えていた。お前はできることを尽くしたが俺はそれをためらった。それが俺の責任であるにもかかわらずな」
「あ、ううう……い、いいからもうやめて。ただあの時はとにかく必死で、そう、負けたくなかったから……」
「負けたくない? 一体何に?」
「何って、それは…………」
灯駈はそこではっとして自分の胸に手を当てた。
まるで自分の鼓動に耳をすますように、深く呼吸を二三度繰り返して、それから目を開いた。
「……怖かった、の」
「 ん?」
「あの、黒いの。レギオン、っていうの? とにかく怖くて、どうしようもなく逃げたくて仕方がなくて。
でも怖いだけなんて嫌。怯えているだけなんて性に合わないもの。立たなきゃ、進まなきゃって、ずっと思ってた。思ってたのよ。そう」
まっすぐに、龍夜を見る。
「あなたに助けられた、あの時から」
龍夜は。
それがいつの日を指すのか直感で理解した。
あの燃えるような夕焼けの日。黄昏の空。森の中の社。
<大天使級>の一撃を凌いだ彼女を守るために、とっさに割って入ったあの時。
「……覚えていた……いや、思い出したのか」
「お陰さまでね。
だから、うん。本当はお礼を言わないといけないのは、やっぱりわたしの方なのよ。
負けたくないと思ったの。他でもない、あなたに。
あの声を聞いて、そう思った」
あの、雷鳴のような声。
「だから戦えたの。覚えていなくても、戦えた。戦えるようになった。わたしは、ようやく自分を取り戻せたの。だから、ありがとう」
灯駈が何を感謝しているのか、よくわからなかった。単に命を救ったことではないだろう。
ただ、それが彼女の中で何か重要な意味を持っていることぐらいは推察できた。だから龍夜は何も言わず、ただひと口、水を飲み込んだ。
死を経験したとは思えないほどの穏やかな笑顔を見せられて何も言えなかった。
「……まあ、お互い昨日は世話になったってところか」
「そう、ね、そういう事になるのかも」
ささやかに笑いあう。
しかし龍夜はすぐにその笑みを消した。
「で、だ。お前の体について、ちぃと厳しい話をしなきゃならん」
「わたしの、体?」
「ああ。お前の致命傷だが、実は完全に治っているわけじゃない。つうかむしろ全然なおってない」
「え」
「その部分を精霊で補完してるにすぎないんだ。今、ゆっくりと時間をかけて肉体の再生をしているが、最速でもおよそ三ヶ月はかかる。その間に注意してもらいたいことがあってな」
「う、うん。それは?」
「そんなに構えるな。まず俺の訓練を受けてもらう。四条式であればある程度問題ないとは思うが、体を精霊に効率的に慣れさせていく必要があるからな。ま、これはそんなに重く捉えなくてもいい。次、これが絶対なんだが……お前の右手に腕輪があるだろ」
言われて灯駈は初めてその存在に気づいた。黒い、光を反射しないせいかのっぺりとした印象を受ける腕輪がはまっていた。
「それを外すな。何があっても、と思ってくれて問題ない。少なくとも一ヶ月はいっときも手放すな。仮に今それを外したら……たぶん、すんげえ痛いぞ」
「そ……そんなに痛い?」
「ああ。そのリングにはサマエルって馬鹿が入っていてな。そいつが肉体の補完やら痛覚の制御やらをやってるんだ。で、お前とサマエルが繋がるためにはそのリングをお前が身につけるしかない。仮にそれを落としたりなんかしたら、すぐさま術式が不安定になって傷口が開き始めるぞ」
「それは……ぞっとしないわね。わかった、気をつける」
「ひとまず言いたいことはその位か。あとはまあ、家への言い訳は自分で考えろ。むちゃくちゃなってたぞ、携帯」
ひょい、と投げられた携帯電話を受け取り開いた灯駈はその瞬間硬直した。
着信履歴が完全に家からの電話で埋まっていたのだ。
現在時刻を見る。
昼の二時。
朝帰りどころの話ではない。
どんどん顔色が悪くなるのは当然だが腹の傷が開いたとかではない。
「…………ど、どうしようっ!!」
「いや、そんな縋るような目をされてもな……目的とかは言ってきてないのか」
「急いでたし、それでもこんなに着信が来て出てないんだから大事よ!!」
「そういうもんか」
特殊な環境で育った龍夜はいまいち危機感を共有できずに困惑する。
とりあえず。
「横で狸寝入りしてる親友にでも聞いたらどうだ」
「え?」
「…………にひひひひ、やっぱバレてましたか」
がば、と灯駈のとなりで布団が爆発した。
「おっはよーん、あっちゃん! 無事でよかったよー!!」
布団から飛び出した智晴が灯駈を胸に抱きしめる。
「わぷっ! ちょ、智晴、落ち着きなさいよ!! ていうかいつから起きてたの?!」
「それはねぇ、」
「俺がシャワーを浴びる前からずっとだよ」
「って東雲さん気づいてたんだ……」
「どんだけしがみついてたのよ……ていうか、あなたも気づいてたんなら教えてくれてもいいのに」
「いや湊がやけにスムーズに抱きついてるもんだからてっきり普段からそういうものなのかと」
「いや普段から一緒に寝てないから。変な勘違いしないで。ていうか智晴、そもそもわたしはあなたを心配して探してたのよ! 大丈夫なの、体に怪我とか調子が悪かったりはしない?」
「へーきへーき、大丈夫だよ。ぐっすり寝てむしろ昨日より調子がいいくらいだから!」
「……とはいえ、あれだけのレギオンに囲まれたんだ。多少の変調が今後無いとも限らないしな。あとで四条式の家にでもいったほうがいいぞ」
その言葉にふたりはきょとん、と顔を見合わせた。
代表して灯駈が口を開く。
「えと……なんで、うち?」
「うん? もしかして四条式は体の気を調える治療とかはやってないのか?」
「いやうちただの道場なんだけどなんでそんな発想が……あれ、それ以前にうちの話、したっけ……?」
あー、と龍夜が頭を抱える。余計なこと言って薮蛇になったらしい。
どうしたものかと考える。戦いは終わったがいつも通りにそれだけで終わりに出来る状況ではないようだ。
下手に人と関わるとこうして面倒事が増えていく。だから世間との関わりを避けていた部分もあるのだが、今回はもうそう言っていられる場合でもないようだ。それでも関わりが四条式だった点はまだ救いがあるというべきか。ただの一般人よりは、まだ理解があるだろう。しかし四条式が裏の世界との関係を切ったという事は知っていたが道場のみを続けていたとは。なんというか中途半端な感じではあった。
さて、と考える。
ひとまずこのふたりに関しては自分が顔を出してある程度の事情を説明すべきだろう。
目の前でニヤニヤとこちらを見ている雪杜と布団の中で知らぬ存ぜぬを通している芳鈴は放っておいて問題ない。勝手にココを出ていくだろう。
「……面倒な話だが、しかたない。今回の事情の説明は俺がついていこう」
「女の子が夜に帰って来なかった事情を説明するのに男の子が着いてくる気?!」
なぜか灯駈が顔を赤くした。龍夜はなぜ驚くのかと首をかしげる。雪杜のニヤニヤとしたイヤな笑顔が妙に深くなってなぜか怒りを覚えた。
「なんか問題なのか?」
「なにかっていうか、問題しかないような気が……」
「あっはっはは、そりゃあさすがに修羅場っちゃいますよ、東雲さん」
やはり理由がわからず首を傾げる龍夜。その辺りの感覚は正常に育っていないらしい。最終学歴が中学校卒業でその中学も友人と呼べる存在もないまま、まともに通わず海外放浪と武者修行となればそれも当然だろうが。
『くっくっく、まあ赦してやってくれお嬢ちゃんたち。そいつ、馬鹿なんだよ』
「おいこら誰が馬鹿だ」
「え、何今の声。そしてなんであなたはわたしを睨んでるの」
「にひひ、あっちゃん違う違う。東雲さんが睨んでるのはあっちゃんじゃなくてその腕輪の方だよ」
智晴に言われて腕を視線の高さにまで持ってくる。一体どういった素材でできているのか、光を反射しないし熱も感じない。不思議な腕輪だった。
それをまじまじ見ていると、唐突にそこから声が響いた。
『よう、はじめまして、と言っておこうかね四条式』
「きゃっ?! え、なに今の本当に喋った!!」
『おー、いいねえそう言ったリアクション。新鮮っつうかやっぱこういうリアクションがあってしかるべきなんだよな、俺みたいな存在はさ。
さてお嬢ちゃん、俺の名前を言っておこうか。俺はサマエル。龍夜の保護者だ』
「サマエル……あ、わたしに儀式をしてくれたっていう」
『そうそう、そういう事。なんだ龍夜、もう事情は話してあるのか?』
「ひと通り、理解に問題がないくらいには。というかお前も、もう話していいのか? 再生術式の安定には時間がかかるんじゃなかったのか」
『おー、それなんだがよ、この腕輪がまるであつらえたみたいに馴染んでな。おかげで術式の安定も早かったんだよ』
そういうものか、と納得する。サマエルの術式は自身の存在が安定しているほど、その精度も上がる。存在自体が精霊であり術式である以上、メンタルがその結果にダイレクトに反映されるからだ。
慣れていない腕輪と灯駈の肉体に憑依することで普段より時間がかかると思ったのだが、腕輪のおかげか普段よりも早く術式を安定させられたらしい。
ともあれ、これでひとつ区切りはついたことになる。サマエルと腕輪と共にある以上、灯駈が日常生活を送る上での障害はほぼないと考えていい。
心配事はいくつかあるが、騎士として自分がこの街にいる以上、それらの問題にも対処はできると目論んでいる。
なのでまずは当面の問題を解決せねばならないわけだが。
『で、だ嬢ちゃんたち。龍夜はなんつうか、その辺配慮ができないんだよ。何しろ生まれて以来友達ができたことのないさみしーぃやつなんだ。いやマジでこいつんちに踏み入った同級生なんざいねえからなガチで』
「サマエル、お前そんなどうでもいい話を今――なんかめちゃくちゃすんげえものを見る目をされてるぞおい」
「あ、ううん。えと、その……ごめんなさい」
「にははははー……辛いこと思い出させちゃったねー……」
なぜか慰められて龍夜は目を白黒させた。
結局、大爆笑をはじめた雪杜と芳鈴を放って三人はホテルを出た。
ホテルの外装がひとめでそれと判るような作りになっておらず、廃屋一歩手前のような姿をしていることに灯駈も智晴も驚くといった一幕もあったが、それ以外はレギオンは精霊術についての話が主となった。
とはいえ、龍夜もそこまで深い話をするつもりもなく、所々を濁しながらとなったが。
若干汚れた制服姿の智晴と、血で汚れた上着は捨てておろしたてのシャツ一枚の灯駈と、ズタボロになったコートを羽織った龍夜の組み合わせはどう控え目に見ても異様だった。当人たちはまるで気にしていないが。
その会話の最中。
「でな、四条式の場合は……」
「ちょっと。ちょっと待ってお願い」
灯駈が足を止める。その眉間には何かに耐え、しかしそれに限界を迎えたような深いしわが刻まれていた。
じろり、と龍夜を見上げ睨みつける。その姿は三十センチ近い身長差を感じさせない威圧感を放っていた。ごくり、と生唾を飲み込む龍夜。サマエルはこんな自分を腕輪の中で笑っているのだろうと思うと腹は立つもののその思考が現実逃避であることに気づく。
「あのさ、昨日からずっと気になってたんだけど何その『四条式』って呼び方」
「え? いやだってお前四条式だろ」
「そうよ。わたしは四条式を使うわ。だけど苗字は四条。四条式って言うならうちの門下も両親も全員そうなるじゃない。なんでそんな不自然な呼び方なわけ?」
「ああうん、まあ」
たつやは口ごもる。どうしよう、と智晴を見るがなぜ自分を見るのかと見返されてうつむいた。
「普通にさ、四条って呼べばいいじゃない。あなたの方が歳上なんでしょう?」
「えーっと、はい。今年十八になります。ええ」
なぜか敬語だった。
「じゃあもっとしゃきっとしなさいよ」
年下の女の子。それも見た目はより幼く見える少女相手に叱られて小さくなる龍夜。なかなかに奇妙な光景だった。
「ああ、じゃあまあ……四条…………………さん」
「今なんで『さん』を小さくつけた」
灯駈の眼光が更に鋭くなる。
「い、いいじゃねえか別に『さん』くらいついたって!!」
「智晴にはつけてないじゃない! なによわたしの事が怖いとかそういう事?!」
「今現在すげぇ視線してるだろうがっ!!」
そりゃあ怖いんじゃないかなぁと思っても口に出さない智晴だが龍夜は口に出す。その辺に人付き合いの未熟さが出ていた。
「あら、重心が後ろに向いたわ。心なしか姿勢も臨戦態勢に入っているし。そのくせ力の入り方が全力で逃げを打ってるのはどういうことかしら。昨日の戦いを見る限りあなたは前に進み続けるタイプだと思ったのだけれど。何、わたしはレギオンよりも怖いわけ」
「その冷静的確な分析が怖くない奴がいたらあってみてえよ逆に……」
ほぼ無意識の逃げの姿勢を一瞬で的確に見破られて内心の汗がどばっと噴き出す。何この女超怖い。三奈も超怖いがこっちも超怖い。結論、女がだいたい超怖い。現在進行形で女性に対してのトラウマがガリガリと音を立てて刻み込まれていく。
『けけけけけ、まあしゃあねえよ四条の嬢ちゃん。そいつ、四条式には苦手意識をこれでもかってくらいに刷り込まれてるからな』
「苦手意識……? 四条式を知ってるの?」
『ああ、あるいみで嬢ちゃん以上には知ってるんじゃねえのか? 例えば、四条式の全力を正面で受け止めた場合に、内臓がどんな位置変動を起こして地獄の苦しみを生み出すのか、とかな』
瞬間。
龍夜が口元と腹を抑えてうずくまる。両肩がカタカタふるえる。踏んではいけないスイッチを踏み潰したらしい。
「手加減するっていったんだよ、あの野郎……ちくしょう、信じた俺が馬鹿だった…………!!」
「あー……」
灯駈も四条式の威力はだいたい理解している。しかしその全力をぶつけ合えば死人が出かねないため、完璧な一撃を受けたことはない。なにしろ構造的に人間よりも遥かに頑健なはずのレギオンさえもまとめて粉砕できる攻撃だ。そんなもの受ければ普通は死ぬ。
という事は龍夜はそれに耐え切ったわけで脱人類を果たしている気がしたが、いちいち茶化すことでもないので黙っておく。
「まあ……でもわたしはそんな事してないじゃない。四条式ってだけで一緒にされたらたまらないわよ」
「お前の言うことはわかる。もっともだと思う。けど四条式って意識したらどうしても、な……」
立ち上がり冷や汗を拭う龍夜の表情は真剣そのものだった。どうやら相当に深い傷を心に負わされたらしい。
「ふぅん……ん? それじゃあ四条式って意識しなければいいんでしょう?」
「あ? ああ、まあそんな理屈にはなる……のか?」
首を捻る龍夜。
「じゃあ名前で呼べばいいじゃない」
名案だと言わんばかりの灯駈であったが。
「ーーーーはぁ?」
龍夜の全身を嫌な気配が舐めた。殺気とは違う。もっと粘度が高く、怖気を誘う気配だった。発生源はすぐそば、灯駈の背後、つまりは智晴から出ていた。その異様な気配に灯駈は気づいていない。完全に龍夜にのみ向けられていた。
「……やめようぜ、そいつは俺には少々荷が重いようだ」
智晴を見ながら龍夜は首を横に振る。何この理不尽な包囲網。嫌がらせか。
「じゃあどうしようっていうのよ。話がまとまらないじゃない」
ぷくっと頬をふくらませる灯駈。可愛らしい姿だが威圧感が野生の虎を思わせる。そしてその背後には飢えた狼のような異様な気配を放つ智晴。
「名前を呼ぶのが恥ずかしい、なんて性格でもないでしょどうせ」
「どうせって何だよ。まあ確かにそりゃあそうだが」
呼称は距離感や感覚で使い分けているが、名前で呼ぶ事に特に臆したりはしない。ただしこの状況は別である。
「じゃあいいじゃない」
「…………ええと」
ちらり、と視線で訴える。勘弁して下さい。
「…………。ちっ」
軽く舌打ちした智晴を見て胸を撫で下ろす。不満はあるようだがどうにか許可されたらしい。
「わかったよ。じゃあ名前で呼ぶ」
「ええ、それでお願い。改めて、私の名前は四条灯駈よ。よろしくね、東雲さん」
「よろしく頼むよ、灯駈」
そこでようやく、彼らの視界に灯駈の家の――四条式の門が見えた。
灯駈は玄関の前に立つ。
玄関は道場の門をさらに少し先に行った場所に、隠れるようにあった。指先はしばらく宙を彷徨い、やがて意を決してボタンを押す。
リィイン、という涼やかな音が屋内から響いてきた。
待つこと数秒。
『はあい、どちら様ですか?』
インターホンから聞こえてきたのは若い女性の声。おっとりとした印象をうけるものだった。
「あの、葉鉄姉っ、わたし、です、その心配かけて」
ごめんなさい、と言おうとした所で。
両開きのはずの玄関の扉がばがんと外れて吹き飛んで庭の木々に突き刺さった。同時に飛びでした影が十メートル以上の距離を飛んで。
「あかりちゃあああああああああんっ!!!!」
飛び出して来たのは女性だった。どう考えても慣性を無視した急制動で灯駈を抱きしめた。力強く抱きしめられた灯駈は声も出せずにじたばたする。身長差のせいで足も地面から離れてしまっていた。
「ああもうよかった心配したんですよぅ、本当に一晩中どこにいってたんですか何かあったんじゃないかって心配で心配でもうわたしどうしたらいいのかぁ、ああよかった本当にもうあんまり心配かけちゃだめですよぅ師匠なんて可哀想なくらいにうろたえていてあんまりに鬱陶しいから絞め落としちゃいましぃ、ああんもう本当に良かったぁそしてテメェは何者だァ!!」
「っ?!」
甘ったるい声で灯駈をなで繰り回していた女性の拳が唐突に突き出され、龍夜の鼻先でピタリと止まる。
突然の動作に後ろで見ていた智晴は目を向いた。龍夜も少なからず衝撃を受けた。そして。
「あらまぁ、これは珍しい」
女性もまた驚いていた。
「あなた、別口の同門ですね?」
「……知ってるのか、あんた」
「ええ。これでも一応、師範代ですから」
ふにゃり、と笑う女性は緋金葉鉄と自己紹介をした。
「師範代……」
龍夜は何か難しい顔をしていたが、かぶりをふって思考に沈みそうになる自分を振り払った。
そんなやり取りを訝しげに見ていた灯駈だが、はっと気づいて葉鉄に声をかける。
「そ、そうだ! お父さんはどうしたの?」
「師範? それがねえ、余りにもうろたえていたものだから」
くい、と。
腕を交差させて絞め落とすジェスチャー。
「寝かせました」
花が咲いたような笑顔に、三人は凍りついた。それは寝かせたとは言わない、とは誰もが思ったが、龍夜でさえ口には出来なかった。
さあどうぞ、と案内をする葉鉄の後を、灯駈と智晴は続いて入っていく。
龍夜はまだしばらく難しい表情をしていたが、やがてため息をひとつ漏らしてその後へと続いた。
「…………腹いてぇ」
呟く言葉は誰にも届かない。
が。
今回の一連の事件、彼にとっての本当の試練はむしろここからだった。