風・ざわめく
01 - 02:風・ざわめく
噂は噂。
などと切り捨てることも出来ない状況だった。
あの翌日、北泉公園で人体の一部が発見されたことはニュースになり、事件はいまだに解決したとの報は得られていない。
不用意に学園の行方不明の生徒と被害者を結びつける報道はさすがになかったものの、それでもここ数日、学園の周りにはちらほらと報道関係の車を目にするようになってきていた。
そして、行方不明の生徒の名前も、公にはされていないものの、噂に敏い生徒の間では既に周知のものとなっていた。
「……ちょっと、気味悪いわよね」
「だねー。さすがにこれは、あちしとしても予想外、予定外、ってトコ」
智晴はここ数日、不機嫌な様子だった。無理もない。蒐集者を名乗る彼女の把握できないところで、何か事態が動いているのだから。
とはいえ、彼女がその先端に追いつくのも時間の問題だと灯駈は考えている。彼女のネットワークの巨大さ、強靭さはそれとなく感じてきたものだ。
「それにしても、腕だけしか見つからなくて、他の部位がまったく見つからないってのも変な話ね」
「んー、調査はしている、見たいなんだけどね。けど、大量の人員を動員して一斉捜索、見たいな事には、まだなってないねぇ」
「色々、変な話ね」
とはいうものの、警察の捜査がどのように進められていくのか、実際のところ彼女にはよくはわからない。単にイメージで語っているだけだ。
「あっちゃんは何か見てないの? 不審人物とかさ」
「見てたらとっくに警察に言ってるわよ」
言いながらも脳裏に浮かぶのは、夜のベンチに座るあの男の姿。
しかしなぜか、アレに触れるのは躊躇われた。
「とにかく、被害者の人が生きているにしろそうでないにしろ、早く解決してほしいことだけは確かね。正直、夜のランニングを禁止されてストレスがたまっちゃってるのよ」
「部活には入らないんだ、やっぱり?」
「今更っていう感じがするのよねー。いくら1年とはいえ、もう大体のコミュニティは出来てるでしょうし。そこに割り込みかけるのも、ちょっと」
そう言いながら、教室の中を見回す。彼女のクラスは1年8組。1クラスおよそ40人の1学年10クラスの『神葉学園』は、それなりの進学率やそれなりの部活動成績を持つ、それなりの学校、というのが内外の認識である。
この場合の『それなり』は決して貶しているわけではなく、むしろ褒めているに近い。過酷な生徒間競争があるでもなく、また、目も当てられないレベルの成績不振者が揃っているわけでもないということで、昨今の教育施設には珍しくいじめ等の問題は少ない――ないし、大問題にまでは発展しない。『それなり』に精神的に成熟した生徒がいるおかげであろうと、彼女は考えている。
そんな学園にあり、典型的な『それなり』を体現したクラスにも、すでにいくつかのグループは存在する。赤組、青組、白組、泥沼、と彼女は大別しているが、泥沼を除いた他のグループも、自分たちと同じように今回の事件の話題をしているらしい。昼休みなのだからもう少し明るい話題でも探したらどうだ、と思わなくもないが自分たちにもそれは当てはまる。
泥沼はいつも通り泥沼なので放っておいて問題ないだろう。
ちなみに灯駈は気付いていないが、彼女と智晴その他数名を含んだグループは『海溝』と呼ばれていたりする。ちなみにちなみに、海溝は人類にとっては宇宙と同レベルの未探索地帯である。智晴は自分たちがそう評価されていることについてそれなりに好意的に解釈しているので、特に異論はない。
ともかく、教室だけでもこのようにグループができてしまっているのだ。あるいみクラス以上に個人間の繋がりの強くなる部活動――それも運動系ともなると、そのグループ内の結束はより強固になっていることだろう。特に、夏休みは部活漬けだったはずで、よりその絆も強まっているはず。そこにわざわざ強襲をかけようとは、さすがに思わない。
「家での鍛錬に加えてもらっても、結局手加減されて他の門下の人達の邪魔になっちゃうし。ひとりで型の訓練してても限度があるし」
「……あっちゃんでも手加減されるん?」
智晴は眉をひそめる。彼女が以前見た灯駈の戦闘(灯駈に言わせてみればあれを戦闘などとは生温いにも程がある、ということだが)は、アニメか何かがそのまま出てきたかのように見えたのだ。それはさながら停滞する台風。進撃する城壁。鉄壁の迫撃砲。
神浄四相流が一。四条式。音に聞こえたその技術は、彼女の想像を遥かに超えたものだった。
「そうねぇ……明彦さんとか鈴木原さんとかなら、なんとか勝負になる……かなぁ?」
自身の兄弟子たちを想像して、どうにか対抗できそうな相手を探すが、それでも5本に1本取れたならば御の字、といったところだという自覚が灯駈にはあった。
そも、体格が違う。筋力が違う。
四条式においてそれは勝利の絶対のバロメーターではあり得ないが、勝敗を分ける要因であることに異論は出ない。
体格が違えば高さが違う。距離が違う。
筋力が違えば強さが違う。弱さが違う。
「まあ、いつかは勝てればいいとは思うんだけどね。それは今じゃないわね」
「おおおう、なんだか余裕が見えるね」
「そりゃあなんて言ったって、ほら、あたしは、その、ねぇ………………身長が」
ぼそりと。
彼女に取って最も許しがたい現実を口にする。
智晴も、ああ、うん、と微妙な返事しか返せない。
四条灯駈は、背が低い。150センチにも満たない。いや、それはごまかしだ。はっきりというならば140と少々しかない。はっきりと格闘技向きの体格ではない。
「それでも……き、きっと、伸びる……これから、伸びるに違いないんだから…………!!」
それはどこか自分に言い聞かせるような声だった。あまりにも哀れ過ぎて智晴も何も言い返すことができない。
「まあそれに、筋力もこれからまだ多少はつくだろうし……対して、あの人達は今後その辺は下り坂だろうしね」
後は技術よ、と肩をすくめる。
生来的な部分での差がなくなれば、残りは技術と経験がものを言う。歳は兄弟子、姉弟子たちが当然上であるが、四条式の経験年数で言えば、僅かに自分のほうが上。無論本格的な鍛錬に入ったのはここ数年ではあるが、あの父の強さを誰よりも間近で観てきたのは他ならぬ自分なのだ。その分のアドバンテージは、きっとある筈だと彼女は考えている。
「そっかー。そうなるとあっちゃんは四条式初の女性師範になっちゃうのかな?」
長い四条式において、これまで女性師範というものは登場していない。しかし灯駈は首を横に振る。
「初、は無理かなぁ。葉鉄姉ぇが多分先を越すと思う」
「…………あの人かぁ」
灯駈の家(というかあれはもう屋敷だ。敷地内に道場がある時点で屋敷だってば、とは智晴の頑なな主張)に何度もお世話になっていれば、自然とその門下と顔を合わせる機会も増えてくる。
入学式で知り合って以来、それなりの頻度で遊びに行っている智晴たちはすでに四条式門下とは顔見知りといえた。
「四条式は鍛錬を見せてくれないからよくわからないんだけど、あの人ってどのくらい強いの?」
「……………………」
なぜか。
ビデオの静止ボタンを押したように、灯駈が固まった。完全なフリーズである。
「……あれ? あっちゃん?」
唐突な変化に怪訝に思う智晴の前で、かたかた、ふるふる、と小さく震え出す。よくよくみると、額にはびっしりと脂汗が浮かんでいた。心なし顔色も悪い。目は虚ろで光を映してはいなかった。
「あ、あっちゃん? どったのあっちゃん?!」
「や、やめてやめてよもういいじゃない。それ以上やったらみんな死んじゃうっていうかむしろねえもう死なせてあげてお願いだから、そんな、酷い、見てられないよ葉鉄姉ぇ」
「なんか変なスイッチ入ったー?!」
元に戻るのに数分を要した。
「う……ううううううう」
「うんがんばったよ、君は頑張った。だから今は泣いていい、泣いていいんだよ」
よくわからないが、とにかく震える灯駈を優しく胸に抱く智晴。そこそこいいシーンにみえるかもしれないが何しろ抱きとめている人物の表情がやや危険域に達しているため非常に残念な光景になっていた。
(うふふふふふふふ、あっちゃんの柔らかい肩、身長の割にふくよかな胸、珠のような肌! ああ、たまんねぇ、たまんねっす!!)
脳内を毒パルスに犯された智晴の表情はどう柔らかく表現しても18禁。それを見るクラスメイトは『またかあの女』の視線。
結局、昼休みの終わりを告げるチャイムがなるまでこの光景は続いたのだった。
龍夜は繁華街を歩いていた。
時刻は昼過ぎ。ハンバーガーのファストフードを口にしながら、あたりを注意深く見回している。
ふと、通りの向こうの男と視線が合う。ハンバーガーの残りを一気に口に押しこみ、残りをゴミ箱に突っ込んで一番近くの交差点で信号が切り替わるのを待つ。昼の繁華街とはいえ、この辺りの中心的都市でもある神明市は人通りが多い。その中に埋没する。
やがて信号が切り替わる。いっせいに人々が動く中、あえてゆっくりと歩を進めてゆく。と、横断歩道の中央あたりで人と肩がぶつかった。互いに謝罪を繰り返しながら離れてゆく。渡りきったところで適当な方向に歩き出しながら、注意深くまた周囲を見回した。
足を人通りの少ない方へ――それでいて周囲に障害物のない場所へ向ける。
そんな龍夜に、どこからともなく声がかかる。
『ふうん、追っ手は掛かっていないらしいな』
「ああ。白昼はさすがに、奴らも手を出しにくいだろうからな。とはいえ、どこに使徒が紛れ込んでいるかもわからない。注意に越したことはないさ」
やはり姿の見えない声の主に、しかし龍夜は当然といった様子で応じる。
やがて、人の手の入っていない空き地を見つけると、そこへふらふらと入っていく。
『そりゃあそうだな。で、メモは受け取ったのか?』
「抜かりなく」
そう言ってポケットに突っ込んだ手を引き出すと、そこには一枚の小さな紙片。先ほど反対の通りを歩いていた男から、横断歩道でぶつかった際に受け取ったものだ。
さっとそれを一読して、すぐにポケットに仕舞う。
「どうにも、おかしい事になっているみたいだな」
『おかしい事?』
声は、怪訝な様子だ。それでもどこか、楽しげで。
「ああ。なんでも、噂が異常な速度でかつ正確に、ある学園に広がっているらしい」
『噂が? それくらい、なんでもないんじゃないのか? 人に口には戸は立てられないってのは、昔からお前ら人間が言ってきたことだろうに』
そりゃそうだがな、と溜息をつく。
連中相手に常識を考えても仕方がない、と龍夜も思いはする。しかしそれが、何か狙いがあってのことなのか、それとも単に、そういう習性を持ってしまっただけなのか。
後者であれば、まだ「まし」だと言える。手間だが、今回限りの話と割り切ることができるからだ。
しかし前者であるのならば、今後の連中との戦い自体が大きく変わってしまうことにもなりかねない。なぜならば、行動のパターンに大きな変化が生まれてしまっている可能性を考慮する必要がある。
事の判断は慎重かつ正確に、それも早急に出さなくてはならない。
「もしもこれが俺の手に負えないようなら……早急に手を打ってもらわないといけないしな……」
『ひひひ、自分で全部解決してやる、位のこと、男なら言ってみてぇよなぁ』
「無茶を言うな。あんなの、まともに一対一で相手をしている騎士団の連中のほうがおかしいんだよ」
自分の同業の最大集団を思い出してため息をつく。
対レギオンの組織は世界に数あれど、そのなかでも最大最強の名を冠するものが<楽園騎士団>であることに異論を挟む者はいないだろう。記録によれば紀元前よりレギオンとの戦いを繰り広げており、世界を覆うネットワークを持つ強大な組織。エデンあるいは騎士団と単純に読んだ場合、彼らの間ではそれ即ち<楽園騎士団>の事を指す。
龍夜の姉も騎士団に属しており、部隊をひとつ任されている程の才媛だ。もっとも、外部の人間である龍夜には具体的な役職や職務内容までは伝えられてはいないが。
己自身も騎士団に入ることを考えはしたものの、諸々の事情から入団をやめたのだ。
それでも、レギオンとの戦いにおいて騎士団と関わらずにいられることなど、まずない。今回も、とあるレギオンの討伐終了直後に追加の任務として依頼を受けたのが発端だった。
依頼の内容は、簡単かつ不可解なものだった。
――『領主』が突然行方不明になった。彼に何かがあったのか、あるいは、なかったのか。なぜそのような事になったのかの調査。
というものだった。
『領主』とは、騎士団がある一定地域を常時監視するために、その土地に配置している常備人員である。これになるには、騎士団でも小隊長以上の地位と実力を持っていることが条件となっている。即ち、半径20キロを個人で守り切る力が。
無論、世界全体に領主を配置することは不可能である。そのため、人口密度にしたがって領主は配置される。人口が多い都市にはそれだけレギオンが発生しやすいからだ。
ここ、神明市も、そんな都市のひとつである。
「……領主がいないってことは、可能性としては領主がやられたってことだ。とはいえ、日々の定期報告では何一つ異常が報告されていない。わけわかんねえな」
残暑の熱で滴る汗をぬぐいながら思考を重ねる。姿無き声と事態の解明を目指す。
『レギオンは自然現象みたいなもんだ。自然現象の変化には必ず変化がつきまとう。領主になるだけの実力者が、それを見落とすってのは考えにくいな』
「そうだな……もしそんな事があるのだとすれば、それこそ今度の敵はよっぽど知恵が回るかあるいは中級以上の力を持っているか」
『あるいは、その両方か』
「………………」
沈黙。
強い日差しと熱気の中、ひやりと肌を冷たい空気が撫でたようにすら感じる。
ごくりと、音を立てて唾を飲んだ。
「とにかく……領主の足取りを追い続けるしかないだろうな」
『情報、手に入ったのか?』
「ああ……あまり、愉快な流れじゃないけどな」
『なに? どういう事だタツヤ』
「……腕の所有者」
『腕?』
「最近あった、謎の切断された腕と、ほぼ同時期に消えた少女。彼女が消えた当日に、領主は彼女にあっている」
『…………そいつぁ』
最悪だな。
音にならない声は、龍夜の思いと同じものだった。
『どうする?』
「ひとまず彼女の周りを洗うしかない。幸いめぼしい情報も入った。その線で探していくしかないだろうな」
『めぼしい情報ってのは、どんな話だ?』
龍夜はメモを取り出す。
そこに書かれていたのは、あまり楽しい内容ではなかった。
彼女は、いじめられていたらしい。
下校中今回の事件について話している最中、そんな事を智晴が口にした。
「いじめ? ん……まあ、うちの学校でもそういうのがないわけじゃ、ないよね」
「ああ、違う違う。いじめられてたのは学校の中じゃなくて、通ってた塾の話みたいだね」
なるほど。灯駈を理解を首を縦に振る事で示した。
加賀原南帆。現在行方不明になっている女子生徒。その消息は、北泉公園でわが校の制服のシャツを身につけた腕が見つかった時間帯と合わせるかのように、消えてしまっている。
「加賀原先輩は、去年の今頃から塾に通い始めたんだって。三年生は受験とかあるからね。で、最初は割といい成績を収めてたんだけど今年に入ってからは伸び悩んで、クラスを落とされたんだって。それをよその学校のコに突かれたみたい」
「なんとまぁ」
呆れた。成績の上下などよくある話だ。そんな事をいちいち責め立てている暇があるのなら、より自分が精進すべきだろうに。
と思うものの、しかし世の中の誰もがそんな風に自分を鍛えあげることに邁進できるわけではないことぐらい、彼女は理解している。それでもやはり、思ってしまうのは仕方のない事。
「……ていうかよく調べたわねそんなの」
「噂は噂、だよあっちゃん。噂には噂がついて回るの。噂をずっとたどっていけば、どんな話にだってたどり着くって寸法さ」
「んなもん実践できるわけないって、普通」
今度は別の意味で呆れる。
それにしても、なんだか嫌な雰囲気が増してきた。
「そもそも、腕にしたってその加賀原先輩のものだって確証はないわけよね」
「だねぇ。単純に状況がそうだってだけで、別にうちの学校の制服をどこかで手に入れて、切断した腕に合わせてしまえばいいだけなんだし」
「…………」
なんでこう、口にするのをはばかられるようなことを平気で言うのか。
文句の一つでも言ってやろうかと思ったがしかし、自分のしているうわさ話を考えて結局何も言えなかった。そんな彼女を見てほわぁ、と笑った智晴は先を続ける。
「でもそうなってくると、やっぱり腕は誰のものなのか、誰が何のためにそんな事をしたのかがわからない。なんでそんな、偽装するようなマネが必要だったのか、なんてね」
「捜査を混乱させるとかじゃないの」
「けど制服を手に入れるって、割と難しいよ? 誰にも知られないように、てなっちゃうとねー。制服買うなんて、自分の痕跡を残すのとおんなじだもん。わざわざ偽装までするような人が、そんな当然の事に気づかないのかっていうと、ちょっとねぇ」
「じゃあやっぱり、腕は加賀原先輩のものだった?」
たずねる灯駈の言葉にしかし、智晴は難しい顔をする。
「んーまあ、あちしはあくまで蒐集者。集めるだけで分析推理は本職にまかせるしかないってかんじで」
「……まあそうよね。あたしたちが考えるようなこと、警察が考えてないわけないし」
それからはいつもの雑談だった。
昨日見たテレビや最近あった面白いこと、どうでもいいこと。
夕日指す通学路で、そんな他愛のない話をしながら。
死んだら、こんなどうでもいいことも出来なくなるんだな、と。
そんな当たり前のことを思った。
駅で智晴とわかれる。智晴は駅からしばらく歩いた所にある住宅街に住んでいる。
電車に乗って駅5つ。
西神明駅は神明市を走る私鉄の駅の一つで、名前の通り神明市の西の端にある駅だ。このあたりは中央ほどの開発が進んでおらず昔ながらの風景をのこしており、日本風の建築物も多い。駅から15分程もあるけば、彼女の家にも着く。
「ちょっと学校で話し込んじゃったわね」
今にも日は沈もうとしており、あたりは薄い闇が降りている。それでも暗闇と呼ぶには尚明るい。
――即ち黄昏時。
不意に。
意識の端に、何かがちらついた。
自然とそちらに視線が流れる。
「こんなトコに道があったんだ」
感心する。
彼女とて伊達にこの待ちに16年住んでいるわけではない。子供の頃はそれはやんちゃに近所を走りまわってはがき大将共を――
「いやそれはどうでもいいか」
思い出しそうになった忌まわしき過去を思考から葬り去る。重要なのは、この小道。家と家の隙間、人がどうにかひとり通ることができそうな、間隙の道。
そんなものを今さら発見してしまうとは。
「う、好奇心が刺激を」
それなりにいい生活をしている自覚はあるが、だからと言っていわゆるお嬢様というやつなのか、と問われれば彼女は即座にノーと答える。自覚はあるのだ、自分が俗っぽいという。
故に、こんなちょっとしたことにも興味がそそられる。ここしばらくの運動不足と相まって、好奇心がせっせと自分の背中を押しているのを自覚する。そして。
「それに従っちゃうことも、やっぱり分かってしまうのよね」
自分自身に呆れながら。
彼女は間隙に、身を進ませる。
時刻は黄昏時。
影に入れば、暗闇時。
「へぇ……」
横歩きで家数軒分の距離を進み、抜けると、そこは奇妙な空間だった。細い道がまっすぐと続いている。両脇は林に囲まれ、外からはこんなところに道があるなどわからないだろう。
「区画整備のミス?」
自分のきた道を振り返る。何かの事情で、在るべき道を塞ぐように家を立ててしまったのだろうと結論づける。何しろ古い家が多い地域だ。そんな事もあるだろう。
事実彼女の前に現れた道も、舗装は剥がれ隙間から草が顔を出している始末。相当に長い間放って置かれたのだろう。進めば獣道になっているのではないかと言うくらいの荒れ具合だ。
「さて、せっかくだし、行ってみますか」
足を、一歩。
踏み出した。
踏み入れた。
踏み入った。
踏み越えた。
ざわり。ざわり。
風に揺れた木々が音を立てる。
無音。
生活音があまりに遠い。
たった一歩。
それはきっと、超えてはならない一歩だったと、その瞬間に気づいた。
気づいてしまった。
肺が絞めつけられ、視界が一気に狭まる。
無意識に呼吸を止めているのだと気づいたのは、今にも窒息をするという段になってからだった。
「はっ、はっ、はっ、はっ……んなのよ、これ」
深呼吸を繰り返しながら両腕で体を抱える。寒い。寒くて寒くて寒くて寒くて。
全身がまるで燃えるよう。
「落ち着きなさい――いえ、無理ね。ならば自覚なさい四条灯駈。あなたは今、怖くて怖くてたまらない」
自分自身に言い聞かせる。
「だから……だから、周囲に注意。それでも、注意できているとは思わないこと。油断しないで、とにかく不意に備えること」
未経験の圧の中にありながら、彼女が選んだのは自分を取り戻すことではなく、現状の自分自身を現状のまま制御することだった。
進むにせよ戻るにせよ、自分に意識を向け外部に意識できなくなるる時間を恐れた。
その甲斐あって、10秒経たぬ内にどうにか動けるだけの落ち着きを取り戻す。
「さあ……どうしようかな」
あえて軽い口調を意識する。
戻るべきだ。理性はそう叫ぶ。本能がそう急かす。このまま進んでもろくな事にはならず、ろくな目にも合わない。今ここが無理のし時であるはずがない。
だから進むべきだ。
灯駈は足を踏み出す。
そこにあるのはただの予感。
進めば『何か』があるというその予感にしたがって、彼女は足を進めた。
道はいつの間にか完全に草に覆われ、彼女の予想に違わず獣道の様相を呈している。
闇はだんだんと深くなる。それは道を挟んでそびえ立つ木々のせいかそれとも沈んだ太陽のせいか。
彼女が一歩を踏み出すごとに、闇は深くなっていく。
もうもとの場所に戻ることができないのではないか。
洒落にならない空想が脳裏をよぎったとき、それは姿を表した。
「…………こんなところに、社?」
彼女の言葉通り、そこには社があった。それは小さいものの、しっかりとした佇まいをしている。まるで。
「え?」
おかしい。それはおかしい。ありえない。
社とはつまり木造建築だ。この道は間違いなく長らく放置されたものだ。あれほど荒れ果てていたのだから間違いない。
なのに。
なぜ。
目の前の社は、なぜこんなにも、しっかりと佇まいを残しているのか。
まるで、今もこまめにていれされているような。
――ぴちゃり
水の音。
――ぴちゃり。ぴちゃり。ぴちゃん
やけにはっきりと聞こえた。
周囲を見回しても、水音を生むようなものは見当たらない。
息を潜める。
嫌な予感が膨れ上がる。
――ぴちゃり。ぴちゃり
なおも水音は響く。
「――裏だ」
気づく。
水音は、社の向こうから響いてきている。
池でも、あるのだろうか。
そんな――自分でも笑えるくらいに、信じられない想像をしながら。
ゆっくりと、すすむ。
さく。
さく。
さく。
自分の刻む足音がやたらと大きく響くのを恨めしく思いながら、大きく弧を描いて社の裏へと回る。
果たして。
そこには人がいた。
姿は、社の影になっている上に時刻とも相まって、うまくつかむことができない。
わかるのは、しゃがんで、首を上下に動かして、ぴちゃり、ぴちゃりと音を立てているということ。
よほど必死なのか。
その人物がこちらに気づいた様子は、ない。
「……誰?」
そっと、問いかける。
人物の動きが、止まった。
ぴたりと。はたりと。
きれいに。
じっと、待つ。
じっと、じっと。そっと、そっと。
何か。
嫌な感じが膨れ上がる。
いつでも逃げ出せるように重心を後ろに向けながら。
もう一度、声をかけようとしたとき。
「――――」
すっと、人物が立ち上がった。
そうして、ようやくシルエットがつかめる。
どうやら身長は160センチ前後といったところ。髪は肩口で切り揃えられており、スカートを履いているらしいことからも、おそらく女性であることが判断できた。
それから。
それ、から。
「シャツの、袖が」
ない。
左腕は不規則に膨らんだシルエットから、長袖であることがわかる。
右腕は。
肩口から先の袖が存在せず。
腕が。
「腕が――ある」
ある。そこには正真正銘、人間の腕があった。義手などではありえない、確かな人間の腕。
女性はこちらに後ろ姿を向けたまま、また、じっとその場に立ち尽くした。
もう、限界だった。
今すぐこの場を去りたかった駅から真っ直ぐ家に帰ればよかった悲鳴を上げてみっともなく泣きわめいて一刻も早くこんな場所から。
――――びちゃ
音が。
気づく。
音だけではない。
むしろ、音ではない。
この、慣れ親しんだ、しかし好きになることのできない、この。
臭いは。
――血、では。ないのか。
どこから。
どこからそんな臭いがするのだろうだって気がつくと血の匂いがする違う血の匂いしかしないまるで自分が血の中にいるようで血になってしまったようでそんなありえないことがあるはずがないことがあるということはつまり。
それだけの、血が。
溢れて。
「カァッ!!!!」
「きゃあああああ!!」
女性が、首を大きく上に振った。その口から細長い何かが打ち上がる。何かはぶんぶんと回転しながらぼとりと社の天井に落下し、ごと、ごと、と不規則に転がっていく。それの両端はいささか不揃いで、一方からは不揃いなひものようなものが飛び出しておりそこから何かがぴちゃぴちゃと漏れ出していてもう片端は少し丸くなっていて細長い棒が5本突き出していて。
そう、つまりは。
それは。
びちゃびちゃと音を立てていたのは。
だから。
口に咥えていたのは。
喰らっていたのは。
「――――ぃ」
「カァァァッ!!」
悲鳴をあげる前に、女性が飛んだ。
スイッチが、切り替わる。
「ガアアアアアッ!!」
「はあああああっ!!」
どのような力を持っているのか、刹那のうちに眼前に迫っていた女性を、素早く身を屈め、襟をつかみ、掌底を胸に当て。
「勢っ!!」
すれ違い様、打撃を加え螺旋に投げる。
一切の手加減もない一撃。
衝撃は空気を引き裂き巨大な風船が爆発するような音を立てて、女性が10メートルの距離を吹き飛ぶ。
「よし、いけ――」
日々の積み重ねの反射が、彼女に一瞬の正気を取り戻させるが。
それも、一瞬。
びちゃりと、全身を濡らすのは赤黒。
「――え?」
女性の突進とともにまき上げられた赤黒い泥が、彼女に降りかかったのだ。
酷い、匂いがする。
あまりにも酷い。冒涜的な匂いが。
だってこれは、命の証であるこの匂いは。こんな風に、野ざらしに、気晴らしのように、ぶちまけていいものでは。
「――あ」
見てしまう。見てはいけないものを。
入れ替わっていた。
女性を吹き飛ばす代わりに、自分はもとの女性がいた場所に近づいていた。近づきすぎていた。
もう、一歩足りとも近づいてはならなかったのに。
沈んでいる。
靴が、浅く。
赤黒い泥の中に、沈んでいる。
沈んでいる。赤黒いものの中に、白いものやピンク色のぷるぷるとしたものが。
あたりにぶちまけられたものは、それは、その正体は。
小さな丸いものに、糸がぶら下がっているような。それは。
――――目があった。
ぷつん、と。
灯駈は己の精神が限界を超えたことに気付かずに、糸が切れるように意識を手放した。
心臓をたしかに撃ちぬいたはずの女性が立ち上がる姿を見たような気もしたが。
それさえもはや、どうでもよかった。
だから。
最後の最後に聞こえた雷鳴のような雄々しい叫びの正体も、結局わからぬままとなった。
妙ですね。もっとポップでライトな話を書きたかったのに。スプラッタとかホラーとか苦手なんです。
最初に腕を出したのが運の尽きか。
気分は30分特撮風アクションで。今回でAパート終了と行ったところでしょうか。もっとも、腕がどうだのなんだのなんて子供には見せられませんけれど。
設定説明をいかに挟むかって難しいですね。みなさんスゲェなと書いてわかるこの厳しさ。
次回もなるべく早い更新を心がけて。がんばります。