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夜の刃、月の牙  作者: 蟹井公太
2章 傷痕・刻むみち
11/28

傷・癒えず


 02 - 06:傷・癒えず




 イメージは、黒だ。

 臭いは鉄。

 深くて。重くて。鮮烈な。

 脳に刃で直接記憶を刻み込まれたみたいに。


 深く。

    重く。

 鋭く。

    眩く。

 暗く。


 脳髄に絡みついて離れない。放してくれない。

(嫌だ――

 拒絶する。

 無駄だと。

 知りつつ。


 自分という存在さえも曖昧で、自分がここにいるのかどうかも不安定で。

 今にも折れそうな心だけを支えに、暗い泥の中に意識が沈む。

 息苦しくて、なのに抵抗もできずに。

 冷たい鉄の水に沈められるように、体から熱が奪われ、全てが消え、霞んで。

(嫌だよ――誰か――)

 叫ぶ思いは声にならず。

 そもそも自分には喉もなく。

 そもそも自分という存在もなく。

 ならば。

(誰か、助けて)

『私』って、なんなの。

 自分の存在が、黒いものに、喰われる。

 塗りつぶされる。

 塗り替えられる。

 その恐怖に、絶望に。


「あ――」


 ふわり、と。光が浮かび上がる。下から上へ。ふわふわ、ゆらゆら。

 昇ってゆく。進んでゆく。

 ふと、自分が『ここ』にいることが理解できた。ここがどこかはわからない、相変わらずの深い闇の中だけれども。確かに自分が在るということが、すとん、と胸の中に降りてきた。

「暖かい……」

 どんなに深い暗闇も、絶望も、今の自分の心を折ることはできない。この温もりがある限り。

 そんな確信が安堵となって胸に広がり。





 ゆっくり、瞳を開く。

 オレンジ色の光が風に揺れるカーテンの向こうで、ゆらゆらと揺れていた。

 意識はあるが思考が働かず。

 灯駈は。

 ただ、ぼうっと。

 夢をみたことだけは覚えていた。

 どんな夢なのかは、忘れてしまっていたけれど。ただ、ここ最近いつも見ていた夢とは、なんとなく違ったような気がする。

 目が覚めた後に襲ってくる、あの孤独感と虚無感がない。むしろ暖かな充足を感じる。

「……なんだろ」

 よくはわからないけれど、悪くない気分だった。

 心なしか、体もぽかぽかと暖かく熱を持っている気がする。それは嫌な感じのしない熱だ。

 そのとき。


 からり。


 窓の開く音。

 一瞬、風が強くなり、カーテンが大きく揺れる。

 その揺れた隙間の向こうで、黒い影が窓から出て行った――気がする。なにせ寝起きな上一瞬の事だ。いまいち判然とはしなかった。

 ただ。

 なんとなく「まあいっか」という気分だった。

 黒というものに対して今の自分がマイナスのイメージを強く持っていることは自覚しているのに。些細な暗闇に、あの怪物を連想してしまうくせに。

 なぜだか、今の黒い影のことはそんなふうに考えてしまったのだ。

「ま、いっか。風が気持ちいいしね」

 夕方の風が火照った頬を優しく撫でる。

 今の調子なら、夕闇も恐れずに歩くことができそうだ。





 保健室の窓からそっと外に出た龍夜は、静かに、しかし深いため息をついた。

 極度の緊張と、自己嫌悪。

 実に昼休み終了から五時間もの間、同世代の女の子の眠るベッドの下に潜んでいるのは想像以上キッツかった。

 灯駈も随分と深く眠っている様子だったのでおそらく目は覚まさないだろう、と思いつつも、もしかしたら、と考えるとどうしても動けなかったのだ。

「はぁ……なんか疲れた」

 背中を壁に付けてずるずると腰をおろす。

 保健室の窓の外は学園でも端に位置しており、人の気配はない。木も植えてあるので、外から姿を見られる心配もないだろう。

 遠くに響く運動部の掛け声をききながら、ぼうっと視線を上に向ける。

 沈む夕日を静かに見つめた。

『良かったなぁ見つからなくて。なんつったっけ、あの、休み時間の度に様子を見に来るアレックス・キングの知り合いの女の子』

「湊智晴」

『ああそいつだ。あの娘に見つかってたらおまえ、きっと口には出せないような目に遭わされたぜ、きっと』

「欠片も冗談に聞こえないんだが」

『冗談じゃねえからな』

 休み時間の度にあの異様な気配が近づいてくるのはなかなか素敵なアトラクションっぷりだった。

「……参ってたな、あの娘」

『うん? ああ四条式の方か。そりゃあそうだろう。レギオンの事を知っている様子でもなかったし、初戦が<大天使級>てのはなかなか、洒落にならんだろうなぁ』

「やっぱりあの時、無理にでも記憶を消しとけばよかったかな」

『後悔してんのか?』

「してる。ずっとしていた。けど、きっとあのまま無理に記憶を消しても、後悔していたと思う」

 自分を射抜いたまっすぐな視線を思い出す。

 状況など何ひとつ分かっていなかっただろうに、自分自身にとって致命的な『傷』となるものだけはしっかりと見抜く瞳。

 今の自分に足りないものを、彼女は持っている。

「何をどうするのが、一番いいんだろうな」

 結局何もできなかった。

 ただ気休め程度にと、ベッドの下に不安を和らげる符を貼り、さらには精神と肉体を活性化させるように気を送った。

 うなされる声はおさまったので効果はあったのだろうが――本当に、気休め程度だ。

『さぁてなあ。ま、少なくともレギオン討伐に人生を捧げることでは、ないだろうけどな』

「……またそこに話を持っていくのか」

『ああ。多分きっと、お前を一般社会になじませられる最後の機会だからな。ま、そうはいっても素直に従うテメーじゃねえのは理解してるけどな。

 ってことでまあネチネチと小言を言って責め続ける事にしてみたってわけだ』

「うっぜぇ……」

『かははは。まあ俺の立場とはいい符号なんじゃねえのか?

 さて龍夜それはそうと、もうそろそろいい時間じゃねえのか?』

 サマエルの言葉に時計を見ると、時刻は五時も半ばを過ぎていた。

 今日の夜もどうせレギオンがわんさかと襲ってくることだろうから準備が必要だ。

 雪杜に任せておけばそうそう準備が必要な事態に陥ることはないだろうが、好き好んで油断を選ぶ必要もない。

 立ち上がり、窓を振り返る。

 カーテンの向こう側にいる少女の事を一瞬だけ想像して。

 跳躍。

 一足で学園を囲む塀を飛び越えた。





 夕闇の中をひとり歩く。

 いつまでたっても、灯駈の脳裏からはいつかのあの怪物の記憶は消えない。

 ずっと消えないような気がしていた。

 あれが、ナニモノであったのか。いったいどうなったのか。なぜ自分が無事なのか。

 何もわからない。

 わからないからこそ、怖い。

 現代社会に生きてきて、完全に正体不明の存在、というものと遭遇する機会などほとんどない。

 そしてそれが、見ただけで生理的嫌悪感で全身が拒絶の反応を全力で示すような存在だったのだ。精神へのダメージは計り知れない。


 当然、灯駈は知らないことだが。

 レギオンは人の精神に大してよくない影響を与える。

 それは当然といえば当然。人間の負の感情が形を持ったのがレギオンであり、それらがより凝縮し、強力になったものが位階を昇るのだ。

 真正面から何十人、何百人、何千人という数の、あらゆる負の感情を向けられる嫌悪感がそこにはある。

 憎悪。悪意。嫉妬。劣情。害意。不信。怨恨。猜疑。憤怒。嫌悪。絶望。

 言葉にできるものからできないものまで、ありとあらゆる人間の負。

 騎士や術師とて、訓練なしにいきなり向かえばあまりの衝撃に気を喪うこともあるくらいだ。

 なんの知識も準備もなく、しかも<大天使級>を凌いだ。それは素直に、賞賛されるべきことであった。


 しかしそれを知っても、灯駈はやはりこの恐怖を乗り越えられない自分を不甲斐ないと評するだろう。

 それは意地と呼ばれる感情だった。



 ふと、その道に視線が向かう。

「まあ、さすがに行かないけどさ」

 そこは、隙間の道。あの森に続く、隠された道。

 さすがに、あの血と闇にまみれた場所に踏み入る勇気も無謀も持ちあわせてはいない。

「近所にこんな場所があるっていうのも、なんていうかあんまりいい気持ちはしないけど。

 ……そういえば、あの時のあの」


 死体。


 は。


 どうなったのだろう。

 いや、どうなったのか、は、分かっているのだ。

 だって。


 あれだけ。


 ぐちゃ。


「――ふぅ」

 深く、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

 ひとつ、この日々から学んだことがある。

 恐怖は自分の意志を折ることはできない、ということだ。

 どれだけの恐怖が自分にのしかかろうとも、四条灯駈は四条灯駈としての意志を曲げず、変えず、貫くことができる。己がそうであろうとする限り。

 だから。

「お墓くらい作ってあげないと、いくらなんでも、ね」

 いや、それ以前に警察に通報するべきか。

 ずっと思い出すことを避けていたが、よくよく考えなくとも自分が見た光景は異常な物であると同時に重要な物であるとも気づいた。

 気づいたが、どう説明したものか、と頭を悩ませる。まさか、見たこと、起きたことすべてを語るわけにもいくまい。どう考えても白い格子付きの部屋に閉じ込められる。

 だから。

「はあ」

 やれやれ、と呆れる。

 自分の単純さに。

 今日はちょっと調子が良いからと、あっさり前言を翻すのだから。

「まあ、見てから決めましょうか」

 足を向けた。

 彼女に深い深い『傷』を残した、その森に。





 森は。

 秋の爽やかな風に包まれていた。

 困惑が灯駈の表情に広がる。それは、社の前に立ったときに頂点に達した。

「ええと、これ、どういう事かしら?」

 空気が澄んでいる。

 程良く光の差し込む、森の中の社。

 秋の夕暮れの光がチラチラと揺れ、夜の訪れが近いことを示していた。

 そのすべてが。

「すごく、いい場所みたいじゃない」

 いや。

 事実、ここは条件自体は非常に恵まれた場所だったのだ。

 閑静な住宅街の、さらに道一つ向こうにある、ひと目のない森。

 地形のせいか風は心地良く吹き渡り、木々の奏でる葉ずれの音はささやかな歌となって耳を撫でる。

 差し込む光も強すぎず弱すぎず、この時間だと特に陰影のコントラストが際立ってまた見事な情景を醸し出している。

 そんな、素敵な場所。なのだ。

 ただ。

 この前とは。


「空気が、ぜんぜん違う」


 胸いっぱいに、息を吸う。

 気持ちがやすらぐ。

 以前のような、立っているだけで肺が押しつぶさそうな圧迫感も、ねっとりとした嫌悪感も何一つない。

 あるがまま、みたまま、そのまま。そんな世界が広がっていた。

 混乱する。

 いや、悪いことでないことは確かだ。正直に言えば悪い予感がすればすぐに引き返すつもりだった。森に一歩踏み込んでヤバイと感じたらすぐ帰るつもりだった。しかしそれはなく、それどころか迎え入れるように澄み渡る光景が広がって。


 なにこれ。


 色々と納得がいかない。

「……けど、まあよしとしましょうか」

 ここはもう悪い場所ではない。

 それだけが確かならばそれでいい。

 警戒心は残したまま、しかし余裕を持って。

 緊張の面持ちで、社の裏に回る。

「まあ、予想はしてたわよ」

 何もなかった。

 あれだけ生い茂っていた雑草が見事に綺麗に刈り取られていて。

 むき出しになった地面には、何も残っていなかった。

 試しに、自分が倒れた場所あたりの地面を撫でてみるも、ただの土の感触だけが返ってきた。指についた土の匂いを嗅いでみても、やはり変な匂いはしない。

 つまりは、腐ったような臭いだとか血の臭いだとか。そういったものだ。

 灯駈があの怪物に出会ってまだひと月も経っておらず、あれから雨は降っていない。もっとも、台風が近づいてきているようではあるが影響が出るのはまだ先だろう。

 だから、痕跡が無くなる理由など本当はないのだが。

「まあ、あれだけの雑草が無くなっている、っていう時点で期待はできないわよね……誰がやったのかしら。

 警察? の、仕事じゃないわよね。行政かしら。だとしても、あんなものが見つかればそれなりに騒ぎになってそうなものだけれど」

 いや。

 あれだけのものだからこそ、逆に隠蔽にかかった、とか。

 バラバラ死体という言葉すら生易しいものが見つかった、などということになれば、近所に住む人々にどれだけの不安を与えることになるか。そのあたりの事情を慮って隠した、とも考えられないだろうか。

 確かなのは。

 いずれにせよ、今自分がこの場所でできることは何ひとつなさそうだ、という事だけだ。

 そう考えて、失笑が漏れた。

「また、わからないことばっかり。いい加減、やになっちゃうわね」

 その時。

 そちらに視線が向いたのは、本当に、ただの偶然だった。

 灯駈が立っている社の裏側の、さらにその先。

 雑草の刈り取られた領域の、ギリギリのラインにそれはあった。

 最初は、それが何かはよくわからなかった。

 けれど、近づいてみてわかった。

 みっつ、土が小さく盛られており、その上にそれぞれ、大きな石がのせてある。

 石の前には湯呑みが埋められており、湯呑みの中には水が入っていた。その隣には花。そして、それらの前には小さく灰が溜まっている。

 簡易的ではあるものの、それが何であるのかは容易に想像がついた。

「お墓だ……」

 みっつの、墓。

「こんなところに、誰が……」

 いつからあるのだろう。花は比較的新しいらしく、まだ枯れてはいない。線香の灰が風で飛ばされていないことを考えても、最近、誰かがこの墓を参ったことは確実だろう。

 たしかに、ここはいい場所だ。

 死者の魂の安らぎを願うには十分な。

 そこまで考えて。

 思う。


 この下に埋まっているのは。


 はたして。


 何、なのだろう。


 犬。猫。代表的なペットといえばそれくらいだが、墓の大きさからして猫はないだろう。ならば犬。大型犬が三匹。なるほど、それならばこの大きさも納得だ。何も不思議なことはない。

 だからきっと、この下には天寿を全うした老犬が三匹。

「……って考えるのは、さすがに卑怯かしら」

 社を振り返る。

 正確には、先ほど、灯駈自身が土を検分した場所を。

 大型犬の死体を抱えてあの細い道を通るのはなかなかに大変だろう。

 それよりも、ここにもともとあったものを埋めた、と考えたほうがよりしっくり来る。

 つまり。

「そういう事、なのかしら。

 でもそうなると今度は、残りの二つがやっぱりわからないのよね」

 さてこれはどういう事だろうか。

 考え込もうとして、やめた。答えを得るには情報が少なすぎる。そして今情報を得ようと思うのならば、きっとこの墓を暴くより他にはない。

 ありえない。

 己の恐怖を乗り越えるために。その程度の理由のために、墓を暴くなど。そんなこと、四条灯駈が許すはずがない。

 だから、ここまで。

 自分が知り得たことはここまでで、結論は結局何もわからない、というそこまで。

 それでいいと、納得する。

「うん、よし」

 ひとまず、自分に出来ることはここにはもう残っていない。いや、ひとつしか残っていない。だから。灯駈はその場に腰を下ろし、手を合わせ、瞳を閉じる。心を鎮める。静かに、穏やかに。

 この下で眠るのが人であろうと、なかろうと。

 あるいは、万が一。自分が出会ったあの怪物であろうとも。

 こうして墓を建てられたということは、この下で眠るものの死を、誰かが悼んだということだ。ならば自分も、祈るくらいはしてもよいだろう。

 その魂が、どうか安らかでありますように。





 家に帰る頃にはすっかり日が落ちてしまっていた。

「ただいまー」

「あらぁ、おかえりなさい、灯駈ちゃん」

 出迎えたのは緋金葉鉄(あかがね はがね)。現四条式において、三番目の腕を持つ。彼女は四条の家に住み込みをしているのだ。

「ただいま、葉鉄ねえ。きょうは仕事はもう終わったんだ」

「はいー。最近は街もだいたいが平和で。ちょっと前はどこもかしこも不安でいっぱい、といった感じだったんですけどねぇ」

「そうなんだ」

 ちなみに、葉鉄がなんの仕事をしているのか、灯駈は知らない。というかきっと誰も知らない。以前灯駈の父が訪ねようとしていたが、数分後戻ってきたら訪ねようとした事自体を忘れてしまっていた。何をした。

 なにかしらの職業に就いているのか、いないのか。それさえもわからない。なにかこう、ロクでもない雰囲気だけはぷんぷんしているのがまたタチの悪いところだ。

 生活費はきっちりと出してくれる(その上懐には余裕があるのかお高い洋菓子和菓子をしょっちゅう買ってくる)ので、まあいいか、というふうに受け入れられている。

 ともあれ。

 そんな葉鉄の言葉に、ふと引っ掛かりを覚えた。

「不安でいっぱいっていうのは、やっぱり北泉公園の事件のせい?」

「んー、それもありますけどぉ、ビルの爆発事件の方が影響としては大きいかなぁ、と思ったりなんか」

「ビルの……ああ、そういえば」

 使われていないビルが何故かいきなり爆発したとか。それもかなりの勢いで。

 ガスも電気も通っていないビルでの爆発で、幸いにも落下物等による被害もなく被害者はゼロ、という話だった。

「どうしてそれで、問題になるの?」

「場所が場所ですからねー。あのあたりはもともと治安が良くなくて、いくつかの派閥が縄張り争いを繰り返してるんですよー。

 で、そんな場所でいきなり爆発。

 どうも、誰も彼もが相手の挑発だ、と思い込んじゃったみたいで」

「はー。なるほど」

 見えない恐怖に踊らされた人たちが、またここにも。

「そうして考えてみると、新学期が始まってからこっち、街中不安になっていたのね」

「そうなんですよね。まあ、見えないからこそ恐怖と警戒を抱いてしまう、というのはわかるんですけどねー。

 あ、もうすぐご飯ですから。着替えてきてくださいね」

 そういって、まったくもう骨の一本や二本でグダグダ言うのなら最初から言うこと聞いてくれてればよかったんですけどねーまったく関節増やさないとこちらのいいたいこともわからないんでしょうかー、と、まったくよくわからないひとりごとをつぶやきながら立ち去る葉鉄の背中を見送って、灯駈は自室に向かった。

 自室についてまず通学カバンを机の横に起き、制服を脱いでハンガーにかける。

 部屋着に着替えてカバンから携帯電話を取り出すと、メールの着信を示すランプが点滅していた。

 着信数は一件。

 送信者は。

「智晴じゃない。どうしたのかしら」

 智晴とは校門の前で別れてそれっきりだ。今日も師匠の手がかりを探すと息巻いていた。

 さては進展でもあったか、とメールを開いて、その感想が。

「馬鹿なのかしら」

 であった。

 いや、彼女は酷くない。いや、彼女の智晴に対する扱いは若干酷いものはあるが、まあそれは彼女なりに心をゆるしている証でもある。

 ともあれ、酷いものは別にある。

 届いたメールの文面だ。


『今日って何Gだっけ』


 意味が分からない。

 しばし悩んで。

「あ、智晴? このメールの文面、意味が分からないんだけれど、あなた本格的に脳を……?」

 メールではなく電話で直接問いただすことにした。

『あーうー! あっちゃん酷いよー!』

「ごめんごめん。でもこの文面で何を理解しろっていうのかがちょっと」

『いやあ。なんかこうびっくりしちゃってさー。このびっくりをどうやってあっちゃんに伝えようかって思ってその結果が』

「失敗ね」

『失敗か! うーん、やっぱり強敵だなぁ』

 一体何と戦っているんだろうと思いもしたが、まあそれはさておいて。

「それで智晴。一体何があったの?」

 問う灯駈の声に、電波の向こうで智晴はしばらく口ごもり、やがてこう言った。


「あのさ、あっちゃん。

 人が空飛ぶ所見た……っていったら、信じる?」





 翌日、早朝。

 早朝練習のある運動部の声を遠くに聞きながら、智晴の言葉を待つ灯駈。

 場所は保健室の裏。奇しくも昨日、龍夜が夕焼けを見送っていた場所だ。

 ここならば、うっかり他人に話を聞かれる心配もない。

「それで智晴。どういう事なの?」

「いやぁ、まあその」

 智晴が語るには、こういう事だった。

 彼女は師匠を探している。が、手がかりは一向に見つからない。彼女の情報収集能力が十全に発揮されるのはこの街限定ではあるものの、逆に言えばこの街で人の口に登った話なら時間はかかれど集めることは可能。

 そう自負していたのだが、どうやっても師匠の情報が集まらない。

 これは発送の転換が必要だと、ならば空の情報を手に入れようとなった。(なぜそうなるのか灯駈は問い詰めようとしたが諦めた)

 そうしてここ数日は、夜の街を高いビルから、夜の暗闇でもシャツに透けるブラの紐までバッチリ見える超高性能の双眼鏡を使って(あとで絶対に回収しようと灯駈は心に誓った)、夜空を観察していた。

 特に重点的に人目につかない場所を探した。彼女が情報を手に入れられないのなら、それは人の目に入らず、人の口に登らない場所であると考えたのだ。


 そして。


 見た。


 その黒い影は、ビルからビルへ。凄まじい速度で移動していた。

 その後を追うように、もうひとつの影。

 その二つはグループらしく、常に合わせて移動を繰り返していた。

 驚いたのは、その速度と跳躍力。

 ビルからビルへ飛び移るのだが、そのビルとビルの間にはビルが二、三棟建っているのだ。

 彼女の特製双眼鏡をしてもその速度と距離で影の姿は判然としなかったが。


 人影、だったように思う。


 ということだった。

「つまり智晴は、得体の知れない何か、を見たっていうの?」

 なぜこう次から次へと未知との遭遇が繰り返されるのか。今年の運勢はそういう流れなのか。嘆きつつ、尋ねる灯駈。

「うん。そういう事」

「そう、ねえ。正直なんとも言えない、というのがわたしの感想かな。

 それだけなの?」

「それだけ、というかなんというか。むぅ」

 困ったように智晴は人差し指を頬に当てる。

「……智晴。何があったの。教えて」

 夕焼けの中で三つ並んだ墓石を思い出す。

 何かあってからでは、遅い。

 しばらく黙っていた智晴は、やがてゆっくりと、ためらいがちに口を開いた。

「……あったの」

「会った? 誰に?」

 ふるふる、と首を横に振る智晴。力のないその動作に、不安が胸の中で鎌首をもたげる。

「目が」

「め」

 こくり。


「目が、合ったの」


 ひやり、と心臓を直接冷たい手で握り締められたような。


「その、黒い人影と、目が合った気がするの」


 智晴は。

 困ったように笑って。

 違う。困っているのだ。ただ、それを正直に顔に出すことをしないだけで。

 だから。

「そう……」

 手を打たなければ。

 その黒い影が何者かなどは分からないが。そして、どうしてもあの怪物を連想してしまうが。それでも、いや、それならばなおのこと手を打たなくてはならない。

「うん。わかったわ、智晴。つまり、それが一体なんなのか、あるいは誰なのか。それがわからないのね」

「う~~~~ん」

 しかし智晴の歯切れはやけに悪い。

 というか。

 これは。

 まさか。

「思い至るフシでもある……って事?」

 智晴は。

 眉間にシワを寄せ、指を当て。





「あっちゃん、放課後、教会まで付き合ってくれない?」


 顔を上げて、そういった。


2章そろそろ折り返しです。


誰が傷を負うのか。

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