陰・忍び寄る
奴らはどこにでもやってくる。
奴らはどこへでもやってくる。
奴らは全てを連れて来る。
奴らは全てを奪い去る。
故に、奴らは。
01 - 01:陰・忍び寄る
四条灯駈にとって、朝夜のジョギングは幼い頃からの日課であり、ライフサイクルに組み込まれた習慣でもある。
今日もいつもの通り、いつものコースをぐるりと回る。家を出て住宅街を通り抜け、丘の上の公園を一周して、別ルートを経て帰る。
およそ二十分程度の道のりになる。
時刻はおよそ夜の九時。寝るには早いが出歩くには遅い時間。
そんな半端な時刻だからか、そのとき、そこにいた人物にふと意識が向いた。
公園のベンチに腰掛ける、黒いコートの男。長い袋を抱えて、うつむいている。一見すると眠っているようだった。
季節は九月。まあ、外で一晩過ごしても凍死してしまうようなこともないだろうが、気になるといえば気になる。が、この時間にこんなところで眠るというのは怪しいといえば怪しい。
少し迷った挙句、結局彼女は無視をすることに決めた。
もしここで彼女が彼に声をかけていれば、あるいはその後の結末は別のものになったのかもしれない。
後に彼女は、そんな風にこの時のことを思い返すことになる。
翌朝。
目覚ましとともに灯駈は目を覚まし、ジャージに着替えてジョギングへ向かう。コースは夜のものと同じ。同じコースでも夜と朝では印象が変わる。彼女はその変化を好いていた。それだけに、普段との空気の変化にも敏感だった。
「……? なにかあったの?」
公園へ向かうにつれ、空気のざわめきを感じる。現実の音としてのざわめきではなく、雰囲気、違和感といった感じの何か。
家が武術を教えており、彼女もその道に生きているせいか、鋭敏な自分の感覚に対して灯駈は一定の信頼を置いている。
それが、告げている。
何か、得体の知れないものがあった。
そう。ある、ではなく、あった。
彼女が昨晩ジョギングで通ってから今までの時間に、何か、得体の知れないものが。あるいは、得体の知れない事が。
公園に入ると、その印象はより強くなった。思わず、足が止まる。
「……キモチワルイなぁ。何よ、この空気」
不機嫌に顔をしかめた
こういった空気は身に覚えがない。まったくの未知の雰囲気であった。と同時に、新鮮味などまるでない。あるのは肺臓に粘度の高い液体をなみなみと注がれるような、胸糞悪い違和感。
一瞬、迷う。
果たしてここで引き返すべきか、否か。
結論として、彼女は進むことにした。
ここで引き返しては、まるで自分がこの空気に負けてしまったようではないか。そういうのは、なんというか、我慢ならない。
武術家たるもの負けず嫌いな程度で丁度よいというのが、彼女のポリシーである。まあ、友人にしてみれば『それ、自分の欠点をうまいこと言い逃れようとしてるだけじゃん』という事になるが。
ともあれ、彼女は公園のコースに沿ってジョギングを再開する。
芝生のコースを抜け、池沿いの並木道を抜け、コースの四分の三程度を消化したところで。
「……、誰か居るの?」
言い知れない感覚にまた足が止まる。彼女にしては異例のこと。それでも、この感覚を放置することは出来ない。
公園全体を包む違和感。その原因が今自分を見ているそいつなら。
放置するには、危険が過ぎる。
腹の奥で覚悟を決めながら、待つ。自分に注がれる視線に変化はない。まるで機械に見つめられているような気持ちになりながらも、待つ。
しかして。
ふ、と。視線は唐突に消え去った。
そのまましばらくその場で待ち、他に気配を感じないことを確かめながら、息を吐く。
「よかったのか、悪かったのか」
気配は消えた。が、公園の雰囲気は変わらない。相変わらず早朝の清涼な大気に似つかわしくない、怖気の走る空気が立ち込めている。
この空気がよくない、という直感はある。この空気のせいで感覚が鋭敏になり、同時に気配が埋もれてしまいうまく相手を捕らえ切れなかった。
しかし、相手が只者ではないこともまた確か。もし、今襲われていたらどうなっていたのか。そんな相手に声をかけたのは明らかに軽率ではあったが、かといってこんな空気を作り出すような相手が自分の生活圏に居るのならそれはさらに明らかに決定的に、ヤバイ。
「目を付けられなきゃいいんだけどね」
無理だろうな、と。若干醒めた意識で自分の言葉を否定する。
彼女はかぶりを振ってジョギングを再開した。
規則正しく揺れるポニーテイルを、遠くから眺める視線があった。
公園少し離れた、小高い山の古い給水塔の上。街を一望できるその場所に、一人の男の姿があった。
男、と言っても見た目は若い。少年と呼んで差し支えのない年齢だろう。少年はじっと、公園を出て行く少女――四条灯駈を視線で追っていた。
『いやはや、可愛らしい女の子じゃないか』
声は楽しげに灯駈を評した。実際、そのさばさばとした態度や凛とした言動に反して、小柄な体躯と背中まで伸ばした長い黒髪、そしてくりっとした目などは可愛らしいという表現が実に似合っている。
中身は、とても可愛らしいという言葉で済まされるようなものではないが。
「……何者だよ、あの女」
呟く声は小さく、しかし答える声が上がる。
『ハッハァ! なんだ龍夜、急に色気づいたのか?』
「馬鹿かお前は」
軽い調子の声に、龍夜と呼ばれた少年は呆れた声で答える。しかし、先ほどの通りここにいるのは龍夜一人。
『ま、たまに居るだろ、ああいう感覚の鋭いヤツってのは。あの歳でってのは確かに珍しいが、なぁに、異常というほどのことでもあるまいよ』
「それはそうだが、な」
そのとき、強い風が吹いた。
風に龍夜の黒いコートがはためく。龍夜は顔を覆ってそれを凌いだ。
やがて風がやむと――。
「現れたな」
黒い異形が給水塔を丸く囲んでいた。
やせこけた人間から体毛の全てを取り払い、眼球をむき出しにして、手足を引き伸ばし、左右非対称のシルエットになるように骨格を歪め、その上から黒のペンキをぶっかけたら、きっとこうなる。
単純に、それだけとはいえない不気味さを持ってはいるが。
全部で八体の異形たち。
人は彼らを古よりこう読んできた――レギオン、と。
『ふふん。おいおい、なんだか今回は相手がやたらやる気じゃあないか。龍夜、油断するなよ?』
「誰に言ってる。当然――っつーかそんな余裕、俺にあるわけがないだろう」
『はっ! 違いない。それじゃあ、始めよう、おちこぼれ』
「ああ。そうだな。それじゃあ、終わらせよう、欠陥製品」
龍夜は一瞬の苦笑の後、レギオンの一体を睨みつけ。
「――ふっ!!」
まるで高さを気にせずに一足、その懐に飛び込んだ。
「ぐり・らぐりらるご・びじゅが!!」
焦燥の声を上げるレギオンに、竹刀袋を叩きつける。ひき肉を握り締めたような水っぽい音を立てて頭部が吹き飛ぶ。その体を蹴り飛ばし足場として、次のレギオンに迫る。
奇襲の動揺は既に相手にはない。レギオンは枯れ木のような腕を掲げ。
「ぎぎゅ・ぜぺるぺば!!」
雑音のような声を響かせる。腕がぼこりと泡立ち、膨れ上がり、無数の白いとげが――白骨が飛び出す。
振り下ろす。
その単純な動作は、大地を打ち据えコンクリートを砕いた。
急停止した自身の目の前に落ちたその兇器に、竹刀袋を突き刺し、抉る。
「こゅめろぐべろぎゅぼが!!」
悲鳴と同時、腕の根元までが弾け飛ぶ。びちゃりびちゃりと異臭を放つ液体が、その肩口から零れていた。
震えるレギオンに、蹴りを見舞う。轟音を立てて吹き飛んだレギオンは、給水塔にぶつかって消えた。
『はは、さすがに下級レギオン程度なら、問題ないみたいだな』
「馬鹿言え、これでも結構、必死だぜ?」
返す龍夜の声にはしかし、余裕が滲んでいる。
一対一ではまず敵わない。意思がなくとも本能でそれを理解したレギオンは、残り六体一斉に龍夜に飛び掛る。
『なんだ、さすがに相手も学習能力はあるみたいじゃないか』
「当然だろうさ。まあ、それにしたって」
無駄だけど。
呟きは音になる事無く、疾風のようにかけだした龍夜は言葉を飲み込み。
朝陽の中に、闇を葬り去った。
騒々しいのは、公園だけではなかった。
「……なにかあったの?」
学園は、奇妙な喧騒――というには若干弱い、しかしざわめきというには浮き足立った雰囲気――に包まれていた。
その正体がなんなのか。今朝のこともあって嫌に気にかかった灯駈は、ひとまず級友に尋ねることにした。
湊智晴。入学以来の灯駈の友人である。丸っこいめがねと一つに束ねた黒髪を目立たないように右肩に下ろした姿から、一見すると大人しい印象を受ける少女だ。
しかしてその中身はといえば。
「おやおや、あっちゃんが興味を示すとは珍しいこと。あちしとしてはそっちの方がニュースになりそうな匂いがしてならないね」
こんな感じである。
おとなしいとはお世辞にもいえない、ゴシップ蒐集者。それが、湊智晴の評判であり彼女自身それを自任し自称している。
「あのね」
灯駈は頭痛を堪えるように親指をこめかみに当てる。
ちなみに、灯駈は智晴の席の前に立っている。そして智晴は、自分の席に腰掛けている。にもかかわらず、視線の高さは灯駈の方がやや上、といった程度。智晴の背丈が高めで灯駈が小柄ということで、このような事になってしまっている。
そんな灯駈をみながら、智晴はほんわかと優しい気持ちでいっぱいになる。
「ああ……持って帰って朝まで全身嘗め回したいなぁ……」
邪な気持ち満載だった。
「智晴……冗談でも変な事いうのやめて」
「冗談でなければいいの?!」
「……ねえ智晴、人間の頭蓋骨って、実は手のひらで割れるのよ。知ってた?」
「うん、おーけーおーけー。ごめんってばもうやだなぁ、ちょっとしたジョークですよジョーク。なのでそろそろ頭を開放していだだだだだ!! 脳が、脳が!!」
大げさに暴れる智晴を開放する。頭蓋が、脳が、などとぶつぶつ呟く彼女をしばらく眺めて、灯駈は尋ねる。
「で?」
「うわ雑」
やー別にいいんだけどねー。と彼女は学園の騒ぎの原因をまとめて語った。
腕が、見つかった。
正確には腕だけが見つかった。
三日ほど前から、ある学園の生徒が行方不明なのだという。そして、見つかった腕は、この学園の制服を着ていた――この場合その表現が正しいのかはさておいて――という。
噂。
しかし調査してみたところ、確かに学園の生徒で行方が分からなくなっているものがおり、警察に捜索願も出ている。
その腕が、件の学園生のものであるかは、いまだ判明してはいないが。
可能性は、十二分にあると睨んでいる。
「って感じ、かねぇ」
「随分と血生臭い噂話ね。これで盛り上がるのも、あまりいい趣味とはいえないわよ?」
「にゃはは。うんまあ、その辺は性分なのですよ。……けど実際、ちょっと変な感じではあるよ」
声から遊びを取り払う智晴。その様子に灯駈はただならぬものを覚えた。
「警察の動きが、あわただしい割に妙に揃ってる。こういうのって基本的に、多方面への聞き込み調査とかそういうのから入るはずなんだけど、今回はそれがない。まるで、最初から原因が分かっているみたい」
灯駈は首を傾げる。その仕草にほわっとなりそうな智晴は、先ほどの頭蓋割りの恐怖を思い出して無理矢理自分をシリアスモードに叩き込む。
「つまり、警察は最初から犯人、ないし、事件の全容を掴んでいるように感じるってこと。それでいて、なぜか犯人検挙の気配は感じられない」
「それは……確かに、変かもしれないけど」
それをいうならなんでそんなに情報を正確に掴んでいるんだ、と問い詰めたくなる智晴の調査能力の方がおかしい。
「あなたの情報、そもそもどのくらい信用できるのよ」
「あいたたたー。こりゃあ痛い言葉。まー確かに、あたしの情報ってば一次ソースはほとんどないからね」
肩をすくめて白状する智晴に、呆れた視線を向ける。
「とりあえず、不用意に不安を煽るような噂を広げるのは感心しないわよ」
「んー。それについてはもう手遅れ、としかいいようがないレベルで広がってる感じ。誰だろうね、一晩でこんなに噂を広げるやつって」
「…………」
智晴は不機嫌に呟く。確かに、徒に不安や恐怖を駆り立てる『だけ』の噂など、彼女の性分からしていちいち他人に広めたりはしないだろう。そもそも彼女はあくまで蒐集者であり、喧伝者ではない。
「智晴。一晩っていうのは?」
「ああそれはつまり、腕が見つかったのが昨日の――あー、時系列的には今日の、かな。深夜に見つかったから。ちょっと色々、事態が動くのが早すぎるよね」
なるほど、確かに噂になるにしても、ちょっと早すぎる。いや、噂の伝達速度はその中身のインパクトに比例するからどうとはいえないだろうが、しかしそれでも、学園全体に波及するには、早すぎるといえるだろう。
それも、腕。
普通に考えれば、惨殺。
今朝のニュースを見た限りでは、まだ事件として正式に発表もされていない。
それが、噂としてこれほどまでに広がっている。
違和感が全身を襲う。
「まったく、今日は朝からずっとこんなことばかりね」
「んん? なぁに、朝がいかがしたんかい?」
「いえ、こっちの話。……ともあれ、話してくれてありがとう」
「いやいやいやー……っと、忘れるところだった。あっちゃん、ひとつ忠告」
殊更声を潜める智晴に、嫌な予感が膨れ上がる。
「腕が見つかったのは、北泉公園。たしかあっちゃんの家、近くだったよね? 気をつけたほうがいいかも」
嫌な予感は得てして当たる。
北泉公園。
彼女のジョギングコース。
ふと、思い出す。
昨夜のベンチの男。
彼が手にしていた袋。
細長い袋。
あれなら、例えば、刀や剣などが納まるのではないか。
と、そんな嫌な想像を追い払って、自分の席に着く。
だからなんだというのか。そもそも、人体を切断できるような武芸者、そこらにぽんぽんいるわけがない。
憂鬱な気分を抱えて、一日が始まる。
ええと、色々初めての投稿になります。とにかく、完結をめざして。頑張ります。