③
ひっと小さく声を出しそうになるのを、なんとか堪えた。
これはきっと、祠の神様だ。
根拠はないけれど、間違いないと思った。
どうしようかと、その不気味な存在から目が離せずにいると、泥人形が私に気づいて──のたり、のたりと近づいてくる。そのたびにグチュグチュという不快な音が響き、肌が粟立った。
「……!」
泥人形が汚れた手を私へと向けた瞬間。
突然、眩しい光が私の前に現れた。まるで汚れを拒むような、清浄な光。
それに対し、泥人形が怯んだ。
『アァ……ァッ……!』
「な、なにこの光は」
発光するモノが間近に現れ、私も眩しさから咄嗟に手で顔を隠す。
『その光……私もかつてはそのような姿に……。だが今はもう、どうでもいい。私の存在は不幸を導くもの。すべて、不幸にしてやる……』
泥人形は最初こそ怯んだものの、びちゃびちゃと濡れた雑巾を引きずるような音を立てながら、こちらへ向かってくる。
私は指の隙間から目を細めて泥人形を見ると、その顔の、目にあたる位置からドロドロと黒い泥が流れているのに気がついた。
まるで、泣いているみたいだ。
その泥が床を汚していく。汚穢を撒き散らしながら、泥人形はまた一歩、私へと近づく。
撒き散らされた泥。
それはきっと、神様の涙なのだろう。
涙まで泥になってしまうなんて。胸が痛んだ瞬間、目の前の白い光が容赦なく輝きを増した。
その光景を見て、私は思い出した。
前回のように白狐様が、悪意ある存在を消し去ろうとしているのだ。
私は慌てて、その白い光を抱きしめた。
「白狐様、待って! 全部を消さないであげて。なんとか助けてあげて、お願いっ!」
これは私のわがままだ。
神様は人が好きだった。でも今は、不幸を呼ぶ存在になってしまった。犠牲になった人たちは可哀想だと思う。こんな悲しい神様は、いないほうがいいのかもしれない。
それでも、かつて人を慈しんだこの神様が、絶望したまま消えてしまうのは、あまりに忍びなかった。
「なんとかしてあげて。このまま不幸で終わるなんて、悲しすぎるからっ」
声を張り上げると、抱きしめた光から『キュゥゥン』と祈りのような甲高い声がした。
途端に、泥人形がボロボロと形を崩しながら、キラキラとした光の粒となって霧散し始めた。
泥が、光へと変貌していく。
『──これは、導きの……ありがとう……──』
どこからともなく、安らぎに満ちた声が聞こえた。
神様の声だ、と思った瞬間、光の粒は呆気なく消え、泥人形の姿も消えていた。
あとは、さぁっと爽やかな風が私の髪を揺らすだけ。
「……消えちゃった。白狐様が、神様を導いてくれたのかな……」
神様は『導きの』と言っていた。
これからは人を幸せに導く存在として、神様自身も幸せになれたらいいな……なんて思っていると。
私の腕の中で、『キュゥ』と鳴く音がした。
いつの間にか抱きしめていた光が、モフモフとした柔らかい感触に変わっていることに気がついた。
なにごとかと思い、視線を落とすと──。
そこには瞳が金色の真っ白で高貴なお狐様がいた。
「わ、わぁ……かわいいー! 超モッフモフ! 尻尾が四本もあるっ。うわぁ、かわいいっ」
さっきまでの緊張感は、可愛い生き物を前にして霧散してしまった。我ながらどうかと思うけれど──だって、可愛いんだもん!
キュートなお狐様を抱きしめて頬ずりをすると、嬉しいのか身をよじって『キュウキュウ』と愛らしく鳴く。
この毛並みは、成人式で身につけたフェザーショール以上の素晴らしい触り心地だ。
もっと堪能したくて、お腹や背中、首筋まで撫でくり回す。
「かわいいねぇ。柔らかいね。いい子だね」
──階さん。待って、ちょっと起きて。
名前を呼ばれた気がしたけれど、私は構わずお狐様を抱きしめ続けた。
「あぁ、かわいい。温かい。気持ちいい」
すりすりと頬ずりを重ねると、お狐様も私の頬を嬉しそうに、ぺろぺろと舐める。
──っ、それはヤバいから。む、胸が当たってるからっ!
また何か声がする。
というか、この高貴なお狐様こそが、私に取り憑いている白狐様なのでは……と、ふと撫でる手を止めたそのとき。
「ストップ!」という、漆喰さんの鋭い声が響いた。
瞼をゆっくりと開ける。
ぼんやりした視界から、じっくりとピントを合わせると……。
私は漆喰さんを胸に抱きしめ、床に押し倒していた。
「……?」
状況が掴めない。
場所は昨日泊まった団地の一室だ。ベランダから朝日が差し込み、室内を明るく照らしている。
これもまた夢かと思いつつ、至近距離で漆喰さんと目が合った。鼻先に彼の爽やかな香水の香りが漂う。
「……なんで漆喰さん、私に抱きしめられているんですか?」
漆喰さんの整った眉がピクリと跳ねた。
「前と同じく、朝になっても全く起きてこないから様子を見に来たんだよ。……近づいたら、いきなり襲ってきた本人がそれを言うか」
「え」
言葉を漏らした瞬間、視界がぐるりと回った。
トン、と背中が床に沈み、視界を塞いだのは不敵に笑う漆喰さんだった。
前髪がはらりと揺れ、形の良い唇が弧を描く。
「朝から上司を誘うなんて、ええ度胸してるな」
「──っ!?」
「宮ちゃんは、悪い子やな」
低い関西弁と、大人の男の圧倒的な色気を前にして、一気に体温が跳ね上がった。
わぁぁ、と漆喰さんの体を跳ね除け、床を這いつくばって壁際まで後退する。
「ご、ごめんなさい! 寝ぼけてました! 悪い子じゃありませんっ。白狐様と間違えたんですっ。不幸な神様がキラキラして、光がキュゥンでモフモフしたんですっ!」
バタバタと手を振り回すと、漆喰さんはふぅ、と肩を落として咳払いをした。纏っていた色気を朝の空気に霧散させるようだ。
彼はやれやれといった様子で、飲みかけのペットボトルを私に差し出してきた。
「相変わらず意味がわからないな。とりあえず落ち着いてくれ。まずは夢で見たことを、ゆっくりでいいから教えてほしい」
「いきなり、いつも通りにならないでください。……いや、いつも通りでいいんですけどっ!」
差し出された水を受け取る。ゴクゴクと飲み、頭をクリアにしてから、伏し目がちに漆喰さんを見た。
「ふぅ……状況を整理させてください。これは現実で、私は朝まで爆睡していて、迎えに来た漆喰さんを……その」
「起こそうとした俺にいきなり抱きつき、あちこち撫で回し、頬ずりまでした」
「やぁぁ、それは忘れてくださいっ! 事故ですっ」
「忘れてやるから、早く夢の話をしてくれ。報告も仕事のうちだ」
漆喰さんは簡易式の椅子に腰掛け、ぴしゃりと言い放った。
確かにその通りだ。
私は朝日に目を細め、恥ずかしさを紛らわせるように、ポツポツと夢の内容を語り出すのだった。




