②
意識が深く沈み込み、海底の底に着地するような重みを感じた瞬間。目の前がぱっと明るくなった。
瞼の裏に強烈な光を感じながら、ゆっくりと目を見開く。
視界いっぱいに空から降り注ぐ、眩しい光。抜けるような青空。蝉の声。
日差しが肌に熱を伝える。空気は澄んでいるのに、どこか湿気を含んでいて……これは、夏の早朝だ。
ふと前を向けば『私』の祠の前で、蝉の鳴き声を掻き消すような妙な音楽が流れていた。
途端に、どろりとした不快な感情が『私』から伝わってきた。
なんだこの音は。
盆踊りの心躍る太鼓の音や、優しい風鈴の音は好きだが、この意味のわからない珍奇な旋律は心がざわざわする。
祠の前に置かれた、長方形の機械。そこから流れる騒音がひどく、うるさい。とても嫌だ。
しかも住人たちは私の祠をぐるりと囲み、汗を滴らせながら、一心不乱に同じ言葉を吐き出している。
「私はカルマを追い出す! 私はカルマを追い出す! 私はカルマを追い出す! 」
人の声は、不愉快な蝉の輪唱に似ていた。
「私はカルマを追い出す! 私はカルマを追い出す! 私はカルマを追い出す! 」
ああ。
どうしたというのだろう。
ここには、良い人たちがたくさんいたのに。
なぜ、こんなことになった。
そうだ──あの宗教団体が住人を唆し、すべての不幸を『私』のせいにしたのだ。
不幸とは、苦しみの中で己の心と真因を見つめ、心の在り方を変えるためにある。因果の道理に逆らわず、生きる智慧を養うためのもの。
その向こうにこそ、幸福はいつだってあるというのに。
それを導くのが『私』の役割だ。本社から分御霊を受け、この土地の開発を見守り、人々を幸せへと導くのが私の役目なのに……。
今の住民にはもう、私の声は届かない。
なぜ、あの苔色の瞳を持つ若造の言葉を信じるのだ。
苔色の瞳。
その言葉に一瞬だけ、本来の私の意識が覚醒しかけるが、刹那のうちに『私』の感情がまた心になだれ込む。
どんなに良い気を送り込んでも、住民は『私』より宗教団体を信じてしまう。気は霧散し、意味をなさない。
この祠を管理してきた氏子までもが、心を塞ぎ込んでしまった。
どうしたらいい。
お願いだ。
人の子よ。
目を覚ましておくれ。
悲しくて、とても辛い。
『私』の絶望が、津波のように心に押し寄せ、不安の海に溺れてしまいそうになる。
でもこれは決して私、階宮の感情じゃない。
前回と同じように過去を追体験しているのだと理解すると、暗い海から浮上するように、ふっと気持ちが軽くなった。
しかし、視界に広がる光景に息を呑む。
──あの祠が、無残にも壊されていた。
「あ……」と思う間もなく『私』が絶叫した。
あああぁァァァァァァッ!!
なんてことだ。
職人が祈りを込めて作ってくれた祠が。
千木、鰹魚木、鞭懸、棟持柱、御扉 、海老錠 、擬宝珠が無残にも砕けているではないか。
どれもこれも『私』と時を同じく過ごした愛おしい、大事な『私』の祠。
なぜだ。人の子よ。
その手に持つ鋸で千木引くのは楽しかったか?
金槌で鰹魚木、鞭懸、棟持柱を砕くのは爽快だったか?
鑿で御扉 、海老錠 、擬宝珠を削るのは快感だったか?
『私』をここに祀ってくれて、世話をしてくれた氏子の心を壊すのは愉快だったか!!
もういい。『私』はお前たちを導かない。
不幸をここに引き込んでやる。お望み通り、穢れを振りまく存在になってやる。
この団地に棲まう者はすべて、未来永劫、不幸にしてやる。誰一人として住まわせるものか。関わる者すべてを、奈落へ突き落としてやる。
それがお前たちの望みなんだろう!
悲痛な叫びのあと、切れ切れになったフィルムのように、団地の住人たちに次々と襲いかかる不幸が脳裏をよぎった。
子供の死。
交通事故。
病気。
怪我。
倒産。
窃盗。
詐欺。
数々の災厄が等しく降り注ぎ、住人が誰かに縋りたくても、そのときにはもう宗教団体は跡形もなく消えていた。
住人たちはいつしか団地を離れ、新しく入居した者にもまた、不幸が訪れた。
団地には、不幸を呼ぶ神様だけが取り残された。
──そうして、誰も住めなくなった団地は解体の対象となったが、建物に触れた関係者も須く、不幸に見舞われ、放置されたまま今に至ったのだ。
そうか……この団地そのものが。
神様の「新たな祠」になってしまったんだ。
なんて悲しいことだろう。心がずきりと痛んだ。
その痛みに引きずられるように意識が戻ると、私は泊まっていた団地の一室に立っていた。
寝ていたはずなのになぜ、という疑問が浮かぶ暇もなく、目の前の異形に凍りつく。
そこには腐った野菜の塊のような。
汚泥に塗れ、マネキンほどの大きさをした泥人形が、うぞうぞと蠢いていた。




