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唯一、この家に匂いがしそうなものはあのベランダの灰皿くらいだ。


以前は喫煙していて、その名残なのかな。

ちゃかちゃかと菜箸を動かし、手早く卵焼きを仕上げていく。

ふわっと良い香りが漂い、黄金色に焼き上がったところで──


「なんだ。懐かしい香りがするな」


リビングの入り口で気配と声がした。振り返ると、そこには漆喰さんが立っていた。

黒のストレッチジャケットに白いシャツ、黒のテーパードパンツ。あまりにも綺麗めなコーディネートが決まりすぎていて、モデルがこの家に不法侵入してきたのかと思った。


じっと見惚れていると、漆喰さんが「焦げるぞ」と声をかけてくれた。慌ててIHの電源を切り、卵焼きをまな板の上に移す。


「お、お帰りなさい」


「ただいま。そんなにびっくりしなくとも」


興味深そうに卵焼きを見つめる漆喰さん。


「あ、ひょっとしてお料理の匂い、気になりましたか? ごめんなさい。あとでしっかり換気します」


「俺はそんなに神経質に見えるかな。君に口うるさくしたことはなかったと思うけれど」


確かに注意されたことはない。基本、自由に快適に過ごさせてもらっている。


「いえ、そうじゃなくて」と言い淀んでから、「家に匂いがつくのが嫌なのかなって。この家、人の生活臭とか全然しないから」


だから、私の趣味のお香も控えていたのだ。

思っていたことを口にして、まな板の卵焼きを素早く切り、タッパーに詰めていく。


「そうだね。最近、この家は階さんの匂いがする」


「えっ。私、そこまで体臭キツかったですか!? 実家のお線香の匂いかな? 毎日お風呂、ちゃんと入っているんですけどっ」


ショックのあまり、すんすんとエプロンの下のにある、パジャマの襟元を手繰り寄せ、匂いを確かめる。すると、パジャマを押さえる手を止められた。


「違う。今の卵焼きみたいに、なんだか懐かしい……香りがしたと思っただけだ」


オリーブグリーンの瞳が優しく微笑む。

それを見て──


「漆喰さん、酔ってますか? お茶くらいなら淹れますが」


つい、余計なことを言ってしまった。


「酔ってない」


触れていた手が離れ、ぺちっと軽く額を弾かれた。地味に痛い。

何をするんだと額を押さえながら無言の抗議をすると、漆喰さんは小さく笑うだけだった。


漆喰さんは冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し「じゃあ、おやすみ」と言って、自室へと消えていった。


その背中を見送ったあと、もう一度自分の腕や服に鼻を近づけてみる。


「懐かしい香りって、なんだろう」


どれだけ鼻をひくつかせても、正解はわからない。

漆喰さんが私に感じた香りの正体は不明なまま、夜が更けていくのだった。

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