③
唯一、この家に匂いがしそうなものはあのベランダの灰皿くらいだ。
以前は喫煙していて、その名残なのかな。
ちゃかちゃかと菜箸を動かし、手早く卵焼きを仕上げていく。
ふわっと良い香りが漂い、黄金色に焼き上がったところで──
「なんだ。懐かしい香りがするな」
リビングの入り口で気配と声がした。振り返ると、そこには漆喰さんが立っていた。
黒のストレッチジャケットに白いシャツ、黒のテーパードパンツ。あまりにも綺麗めなコーディネートが決まりすぎていて、モデルがこの家に不法侵入してきたのかと思った。
じっと見惚れていると、漆喰さんが「焦げるぞ」と声をかけてくれた。慌ててIHの電源を切り、卵焼きをまな板の上に移す。
「お、お帰りなさい」
「ただいま。そんなにびっくりしなくとも」
興味深そうに卵焼きを見つめる漆喰さん。
「あ、ひょっとしてお料理の匂い、気になりましたか? ごめんなさい。あとでしっかり換気します」
「俺はそんなに神経質に見えるかな。君に口うるさくしたことはなかったと思うけれど」
確かに注意されたことはない。基本、自由に快適に過ごさせてもらっている。
「いえ、そうじゃなくて」と言い淀んでから、「家に匂いがつくのが嫌なのかなって。この家、人の生活臭とか全然しないから」
だから、私の趣味のお香も控えていたのだ。
思っていたことを口にして、まな板の卵焼きを素早く切り、タッパーに詰めていく。
「そうだね。最近、この家は階さんの匂いがする」
「えっ。私、そこまで体臭キツかったですか!? 実家のお線香の匂いかな? 毎日お風呂、ちゃんと入っているんですけどっ」
ショックのあまり、すんすんとエプロンの下のにある、パジャマの襟元を手繰り寄せ、匂いを確かめる。すると、パジャマを押さえる手を止められた。
「違う。今の卵焼きみたいに、なんだか懐かしい……香りがしたと思っただけだ」
オリーブグリーンの瞳が優しく微笑む。
それを見て──
「漆喰さん、酔ってますか? お茶くらいなら淹れますが」
つい、余計なことを言ってしまった。
「酔ってない」
触れていた手が離れ、ぺちっと軽く額を弾かれた。地味に痛い。
何をするんだと額を押さえながら無言の抗議をすると、漆喰さんは小さく笑うだけだった。
漆喰さんは冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し「じゃあ、おやすみ」と言って、自室へと消えていった。
その背中を見送ったあと、もう一度自分の腕や服に鼻を近づけてみる。
「懐かしい香りって、なんだろう」
どれだけ鼻をひくつかせても、正解はわからない。
漆喰さんが私に感じた香りの正体は不明なまま、夜が更けていくのだった。




