②
「ただいま」と扉を開けて家の中に入る。
玄関は広く、人感センサーで足元も天井も勝手に明かりが点くから、非常に便利だ。
中も漆喰さんが言っていたように、この家は高級レジデンスそのもの。
広い廊下に、スタイリッシュで清潔な洗面所。
家具も黒で統一されていて、すべてがホテルライクだ。
手を洗ってからリビングに入ると、真っ先に目につくのは壁掛けの大きなテレビでも、重厚なソファやガラステーブルでもない。
──端に置かれた、これまた洗練された洋風の厨子。それは小さな仏壇のような雰囲気のものだ。
そこに祀っているのは、ウカノミタマノカミ様。
白狐様の上司にあたる神様。
漆喰さんは私と同棲するにあたり、この神様をこの家で祀ることにしたそうだ。
厨子の中には、稲荷神社から授与された御神札を中央にして、左右に榊。御神酒、塩、水、米がしっかりと供えられていた。
私はエコバッグをキッチンに置いてから、その厨子の前に行き、扉を開いて手を合わせる。
「今日は今から、ちらし寿司を作ります。あとでお供えしますから、なにとぞ男運を食べないでください」
……と、切実な願いを込めて深く頭を下げた。
この厨子は漆喰さんいわく、彼が白狐様から身を守るためのものらしい。
本来なら、私から異性を遠ざけたい白狐様にとって、漆喰さんは『障り』を与える対象になる。しかし漆喰さんは、白狐様の上司にあたる神様をこうして祀ることで、その『障り』を回避したのだという。
理屈としては、上司を熱心に祀っている信者に、その部下が手を出すことは上司の顔に泥を塗るようなもの。
さすがの白狐様も、上司の信者──ひいては自分の信者にもなり得る者には手を出すわけにはいかず、現状、漆喰さんには何も起きていなかった。
どうやらそれに対して白狐様は不貞腐れているらしく、漆喰さんは「一日でもお祈りをやめたら、何が起きるか怖い」と苦笑していた。
「……私と今後付き合う人は、こうして神様を祀ってくれたら、問題なく付き合える! ……って、最初に『私と付き合うために祭壇を用意してくれ』なんて言う人とは、正直お付き合いしたくないよね。むぅ」
稲荷神社系に勤める人ならワンチャン可能性はあるが、私と同年代の異性がそんな職場にいる確率はさぞかし低いだろう。
そう思いつつお祈りを終えて、私はキッチンに戻った。
「さて、ちらし寿司を作ろうっと」
私は漆喰さんのようなブルジョワではないので、こうしてキッチンを借りて自炊に励むのだった。
※
時刻は夜の二十一刻を回っていた。
昼間にちらし寿司を大量に作って、白狐様にもちゃんとお裾分けした。その後はゴロゴロしたり、部屋でゆっくりと過ごしたりしていた。
夕食は昼間に作ったちらし寿司と、具だくさんのお味噌汁。それにお漬物。
食事を終えてお風呂にも入り、寝る前にもう一度キッチンに立った。明日の朝食と昼食の準備をしておこうと思ったのだ。
それでも、漆喰さんはまだ帰ってこなかった。
「漆喰さんって、この家が嫌いなのかな……」
そんなことを思いながら手を動かす。
朝ごはんも、もちろんちらし寿司だ。それを食べやすいように、おにぎりにする。
明日の昼ごはん用には、スープジャーにお味噌汁を入れて、冷凍の唐揚げと今から焼く卵焼きを用意しよう。
「お米を炊くのは、今日はもういいや」
明日の昼、お腹の空き具合でコンビニでおにぎりを一個買うか二個にするか決めればいい。そう考えながら、卵焼きの準備をする。
大きな冷蔵庫を開ければ、中身は私が買い込んだ食品がほとんどだ。
漆喰さんが元から入れていたのは、ミネラルウォーターが数本。
冷凍庫に至っては、氷しか入っていなかった。
「うーん。一応、調理器具は一通り揃っていてそれを使わせてもらっているけど……多分、漆喰さんにとってはこの器具も『家の飾り』のひとつなんだろうなぁ」
冷蔵庫から卵を二つ取り出す。
手を動かしながら考える。
この家で暮らしてみて分かったのは、漆喰さんがこの場所にまったく愛着を抱いていないということだ。
漆喰さんの趣味だと分かるようなものは、何ひとつない。とにかく、ただ綺麗なだけの家。
唯一、趣味嗜好らしきものを見つけたのは、広いベランダの片隅に置かれたブランド物の陶器の灰皿だった。吸い殻はなかったが、底は微かに煤けていた。
「漆喰さん、煙草を吸うのかな。匂いはしなかったけど……元カノのものとか?」
口にしてみたものの、違う気がした。
漆喰さんの部屋には入ったことがないので中の様子は分からない。でも、きっと整理整頓された綺麗な部屋だろう。部屋でこっそり煙草を吸っているイメージも湧かなかった。
掃除は週に一回、業者のクリーニングを入れているそうだ。せめてもの礼に掃除くらいはすると申し出たところ、「家政婦にでもなりたいのか」と言われる始末だった。
なので、掃除は気がついたときに留めている。
その他に気になったのは、洗剤やシャンプーがすべて無香料であること。
消耗品は自由に使っていいと言われたので有り難く使わせてもらっているが、どれも質が良いだけに、香りが一切ないのは少し味気ない。
卵を溶き、塩と砂糖を少々入れた卵液を熱したフライパンに流し込むと、ジュワッと良い音がした。
甘く香ばしい匂いがふわりと漂う。
「まるで家に匂いがない……そう、この家。本当に匂いがしないのよ」
漆喰さんはどうやら香水は事務所でつけているようで、この家は徹底して無臭なのだ。
モデルルームのような無機質な空間に、私が持ち込んだ卵焼きの匂いだけが、少し場違いに浮いているような気がした。




