②
夜二十一時を過ぎたころ。
私は自分でもどうかと思うが、くつろいでいた。
コンビニで買った食事も食べ終わり、支給品のジャージに着替えた。
洗面所で洗顔と歯磨きを済ませ、軽く体を拭いて気持ちもサッパリする。
殺風景なリビングの真ん中、寝袋の中に蓑虫みたいに入り込み、タブレットから音楽を流しながら、スマホ片手にPDFを読み込んでいた。
初めの一時間はちょっとだけそわそわしていたけれど、別に何も起こらない。
心霊番組によくある、誰もいないはずの物陰からの視線や物音、そういったものが一切なかった。
聞こえたのは、家の外で犬の散歩をしているだろう犬の鳴き声くらいだ。
だから、よく分からないモノや感じないものにビクビクするのが面倒臭くなったのだ。
そうやって時間を過ごしていると、漆喰さんから電話が掛かってきた。
さっと通話ボタンを押す。
「もしもし。階です。漆喰さん、どうしたんですか?」
寝袋からむくりと起き上がる。
『安否確認のために連絡した。その様子じゃ、本当に何も起こってなさそうだな』
「ええ、何も起こってません」
『何も起こってない。本当に?』
「はい。凄く静かな場所って感じなだけで」
一瞬の間のあと、漆喰さんの懐疑的な声がした。
『怖くはないのか』
「そうですね、お化け屋敷みたいに気持ち悪い人形やギミックがある訳じゃないし。リビングや廊下は明かりを付けて寝ようと思っています。あと何か不気味なことがあれば、すぐにベランダから脱出しようと思っているから、怖くはないですね」
『そうか……あと、二階には行ってない?』
「はい。行ってません。別に行けと言われてないし」
スマホの向こう側で、漆喰さんが感心した声を上げた。
『何も起こってないことに驚きだ……それに二階に行ってはないとはいえ、なんでそこまで平気なんだ。凄い体質だ。白狐が精神を鈍らせているのか……それとも生来の図太さなのか……』
漆喰さんはブツブツと『白狐がいきなり力を発揮したとみるべきか』などと独り言を言い出したので止める。
「漆喰さん。ナチュラルに私のことディスってませんか?」
『そんなことはない。褒めている』
言い切る漆喰さん。
脳内でキリッと私を見つめて断言する姿が容易に浮かんだ。
褒めているのかどうか、本当のところはわからないけれど、ここで問い詰めても仕方ない。それに、なんだか眠くなってきて、ふあぁと欠伸が出た。
「とりあえず、今のところ順調です。何も変なことは起こってません。けど、夜更かししたいとかはないので、今日は早めに寝ます。えーと。明日、七時ごろに迎えにきてくれるんですよね?」
『そうだ』という漆喰さんの返事を聞いて、もう寝ると伝える。
漆喰さんは再度『何かあったらいつでも連絡をするように』と言ってくれて、電話を終えた。
うんっと背伸びをする。
部屋は相変わらず寒々しいが、ブランケットを敷いて寝袋に入り込んだら暖かい。
まるで家の中でキャンプをしているみたいだ。それに私には、コンビニで買ってきたホットアイマスクがある。
明るい部屋でもアイマスクがあれば気にならないだろう。
「さて、ホットアイマスクを使って寝ますか」
そうやって、事故物件の夜は過ぎて行くのだった。
※※※
『私』は──イライラしていたし、不安だったし、気持ちがザワザワしてどうしようもなかった。
(何故だろう。私はぬくぬくとホットアイマスクをして熟睡したはずなのに。あぁ、これは明晰夢。なんか変な夢を見ているのだろう)
そう思い、夢の中の誰かの『私』を眺め続けようとすると、その『私』の気持ちが私に馴染んだ。
『私』は鬱々とした気持ちを鎮めるために、暗い部屋で黙々と、ベタベタと、お札を貼って気持ちを落ち着かせようとしていた。
あの人に言われた通りに。窓は邪気のカルマが流れ込んでくるから、特に重点的にべったりと貼らなければいけない。
一枚、二枚、三枚……たくさん。
「ふふ、ふ。これは宇宙の周波数を整えるお札……これでカルマが浄化される……」
窓にも壁にも天井に床にも貼った。
これでカルマを断ち切れると思うと『私』はほっとした。
どさりとベッドに倒れ込む。
この部屋にはこのベッドしかない。後はすべて捨てた。何故なら、家に余計なものを置くとカルマが発生しやすくなるからだ。
だから『私』の気を食べているという、飼っていたハムスターや犬も殺して庭に埋めた。
「邪気物を庭に埋めることによってカルマを浄化。そして正気の流れを家に呼び込むのよ。家を正さないと、私も正しくなれない」
だから私がどれだけ頑張っても、仕事が上手く行くわけがない。昔からテストで百点を取らないと無価値だと言われたのも、親にカルマが溜まっているから。
恋人が親友に奪われたのもそう。頭痛が治らない、生理不順、体調不良もそのせい。
家がちゃんとしていないからだ。
あの人は優しく言ってくれた。『家を大事にしてこそ、人は幸せになれるからね』と。
(あ。そのフレーズは……『健照教』でも同じことを言っていた気が……)
私が考え込みそうになると『私』の思考が流れ込み、そちらに意識を持って行かれた。
──本当にその通りだ。
家を大事にしなくては。
基本の家がなっていないのに、そこに住む私がすべてにおいて上手くいきっこないのだ。
目を瞑り、お腹の上に手を置いて祈る。
「私はカルマを追い出す私はカルマを追い出す私はカルマを追い出す私はカルマを追い出す私はカルマを追い出す私はカルマを追い出す私はカルマを追い出す……」
こうやって言霊を繰り出して、本来あるべき自分の姿を思い描く。
これで家も私も浄化される。カルマを追い出して、少しずつ正しい気を積み重ねるのが大事。
あの人は綺麗な笑顔でそう言ってくれた。
家を出たばかりで、大変なのに『私』を気遣ってくれた。
それだけではなく『私』の腕のリストカットを見て涙を流してくれた。親は泣いてくれなかったのに。
こんな『私』でも優しく見つめる──美しいオリーブグリーンの、あの瞳を思い出したとき。
ドンドンッと、扉を叩く音がした。
『私』は思わずチッと舌打ちする。
「ユカリちゃん。ちょっとだけ、お話ししましょう? 今日は民生委員の方も来てくれたの。ユカリちゃんの悩みごとを聞いてくれるって」
「ユカリ、出ておいで。お前の好きなケーキを買ってきた。リビングで皆で食べよう。民生委員の人もお前と話したいと、リビングで待っているんだぞ」
──あぁ。うるさい。
ババアにジジイども。
『私』が『私』のために、今後の人生を上手く行くように家を改善する必要があると何度も訴えたのに、ちっとも理解しない老害ども。
『私』が丁寧にあの人からの教えなどを伝えたら、私がおかしくなったと心療内科への診察を勧めてきやがって。
しかも、また民生委員を連れてきたという。
扉を叩く音は止まず、不快な声が響き続ける。ババアとジジイは民生委員が来ているからか、いつもよりギャアギャアと騒ぎ立てて不愉快極まりない。
無視を決め込むにも、今日はなんだか無性にイライラしてしまって、ばっとベッドから飛び上がり、乱暴にドアを開けた。
「うるせぇんだよっ! 私の祈祷の時間を邪魔をするなっ! カルマが溜まったら、どうしてくれるんだっ!」
扉の前で突っ立っていた二人を怒鳴りつける。
ジジイの手元を見ればマロンケーキを手にしていて、ひょろりとした身長も相まってバカみたいだと思った。




