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笑顔の残高

作者: 岩隈大介
掲載日:2026/03/10


子供のころ両親からもらった笑顔の残がなくなってゆく      

生きて行くこと、それが人生という旅だと思う、生活している家から離れて他の土地へ移動することによって、普段の生活とは異なる環境に身を置き人との出会い、新しい価値観などの視点を得ることができ、これまでの自分を振り返り、これからの自分への活力となるきっかけを与えてくれる。

それがわたしにとっての旅に対する思いだった。子供のころから、家族からの笑顔に囲まれ育ってきて色々な場所へ旅行に連れて行ってもらった。そんな思いがあって大学卒業後、旅行会社に就職した。昭和五十四年イケイケどんどんの時代、サイパン島をメインに薄利多売で多くの観光客を現地に送っていた会社だったが、五年勤務していた時に会社は倒産。

価格競争でほとんど利益がない商品を数ページに渡り旅行雑誌へ掲載することで、多くの申し込みがあった。多くの人数を扱っていて会社に入金されるお金はたくさんあったけれど、広告費を含め、出ていくお金が入金を上回り、自転車操業になり会社は倒産してしまった。社長は雲隠れしてしまい、残された社員で旅行へ行けなくなってしまったお客さんの対応に追われた。

わたしは、この年に結婚したばかり、新婚生活半年も経たないのに、突然訪れた会社の倒産によって無職になり経済的にかなり苦しい日々を過ごすことになったしまった。悲劇としか言いようがなかった。

新婚生活を精神がボロボロになりながら送っていた。そんな生活を送る中、親戚付き合いの重荷が妻をさらに苦しめていた。

わたしが育ってきた家では祭りごとのように、よく親戚が集まっては飲み食いの宴会を開いていた。そのたびに、わしたち夫婦は呼ばれ宴会の席では親戚のおじさんらから「子供はまだか?」「仕事の調子はどうだ?」

新婚早々会社が倒産したとかは両親以外には話をしていなかったし、子供ができないため、わたしたち夫婦は産婦人科などで治療を受けているがすぐに子供などができるわけでもない。

今一番聞かれたくないことを聞いてくることがとても嫌だった。

わたしにとって、この様な親戚の集まりは子供のころからの風習のようなものであったからある程度我慢できたが、妻が過ごしてきた人生では、この様に親戚が集まることはなかったので、とても辛そうだった。それを察しわたしは妻に

「親戚の集まりには参加しなくていいよ」と告げた。両親にもそのことを話し理解してもらった。

 わたしは子供のころからとても厳しく育てられていた。食事の時に「クチャ、クチャ」「ズルズル」「ゲップ」とか音を立てて食べようものなら、頭に父からのげんこつが飛んできた。

 日常生活でも、口を開けていたりすると「口は閉じていろ」「うん」と返事をすれば「うんじゃない、ハイと返事をするのだ」とげんこつが飛んでくる。小学生の時の遠足での集合写真でわたしの口が開いて写ってしまった時には、何年もの間に渡ってそのことを叱責された。

 わたしはこの様に厳しく育てられていたのに幼年時代から、落ち着きがなく、当然のごとく学校での成績はビリから数えた方がいいくらいに悪かった。日常生活の中でも「電気をつけっぱなしにしないこと」と毎回注意されて、それでも使用していない部屋の電気を消さないでいると「何回言えばわかるんだ」と叱られていた。

父はと言えば子供のころから勉学が優秀で、就職先も役人と呼ばれる公務員の仕事をしていた。そんな父にとってわたしのようなバカ息子は、とてもストレスになっていたのだろう。わたしが頭をたたかれている時、母はその光景を黙ってみていた。母も時に、父の気に触ることを発したりすると、罵倒され叩かれていた光景をわたしはふすまの隙間から見ることもあった。わたしたちに怒っていた父にも同様にたくさんのストレスを抱えていたのであろう。このことに父も申し訳なかったという気持ちがあったのだろう? 月に何度かこのような爆発を起こしていた。ただそのあとは、家族で温泉旅行等に出かけたりして家族に笑顔を作ってくれた。旅行へ行くと色々と学ぶことができ、たくさんの思い出と笑顔をわたしにくれた。あれは小学生のころ関東県内の海水浴場に行った時だった。

当時の海の水はあまり綺麗とは言えなかった。わたしが海から上がってくると、わたしの体には海藻などがまとわりつき、わたしはそれらを頭にかぶり幽霊だと両親を笑わせていた。この時の父の笑顔は、いつもの怖い父を忘れさせてくれた。

砂地を踏みつけた足首には黒い油地味がたくさん付いていた。

「これは重油だぞ、手で触るなよ」父は砂を手に取り、わたしの足に付いた油にこすりつけ重油と称する汚れを落としてくれた。

わたしは両親が泳ぎに行っている間、浜辺で砂の山を作ったり、父、母、自分の顔を作って遊んでいた。顔のパーツは浜辺に打ち上げられた流木の脇にある小枝やプラスチック片を使った。眉毛は枝、目は貝殻、鼻はプラスチックのスポイトのようなものを使って自分なりにうまくできた作品だった。海から上がって来た両親は、わたしの作った砂の芸術作品を見ながら、父はその鼻に使ったものを手に取り捨ててしまった。その代わりに、近くにあった枝と置き換えた。

「この方が良いぞ、あのプラスチックは汚いものだ」と言った父の言葉の意味が何年かしてわかった。スポイトのようなものは、イチジク浣腸の使い終わった容器だった。昭和三十年代はくみ取り式のトイレの家庭があり、そのトイレの汚物をバキュームカーが収集してタンク内部の廃棄物を海に廃棄し水に溶けない浣腸の容器が浜辺に流されてきていたのだった。

イチジク浣腸の命名はイチジクの実の方国形が似ていることから名づけられたという説があるようだが、イチジクとは無関係、大人になってから、イチジクの花を見るとその時の事を思い出す。高貴な甘さを感じる香り、実になるとココナッツのようなまったりとした香りを感じ、この香りが鼻をとおり、幼い頃、家族と行った海水浴場での出来事が昨日のことのように思い浮かぶ。

そんな父が、もう一カ所優しくなる場所があった。父はよく秋葉原に連れてきてくれた。万世橋から川面を見ながらいろいろな話を聞かせてくれ、そのあとラジオ会館などへ行き何かを買ってくれた。幼年時代にゲルマニウムを買ってくれ電池も使わずイヤホンから聴こえてくるのが不思議でたまらなかった。

父がこの万世橋の上が好きなのは、父自身子供のころ何かあると必ず、この場所から川面を見て心を落ち着かせていた場所なのだと話していた。父が生まれ育ったところは、ここから徒歩十分くらいの神田東松下町だと話してくれた。

「神田駅には五分ぐらいの場所だったんだぞ」

「なんで引っ越ししたの?」と聞くわたしに

「お前のじいさん、俺の親父が知り合いの保証人になって、その知り合いが破産したため、多額の負債をかぶることになったんだ」

この時の、とても悲しそうな顔で話す父の顔は忘れることができない。

 その後も父は、何かの節目の時などに万世橋にわたしを連れ訪れていた。わたしが成人式を迎えた年からは、よく万世橋で待ち合わせして、蕎麦屋へ行ったりして最後は必ず神田駅ガード下の焼き鳥屋でビールを飲んでいた。その時、父が子供のころ自宅周辺のお祭りの話を聞かせてくれた。

 地元の友達たちと「ワッショイ、ワッショイ」という掛け声は忘れることができない。今じゃリズムの取りやすさとか、地方からの担ぎ手を頼んで「エイサーとかソイヤー」という掛け声になってしまったことが残念でたまらないと悲しい顔をしていた。

 わたしが務める会社が倒産した時も、父は秋葉原で会おうと、万世橋で待ち合わせをした。万世橋から川面を見ながら色々と話を聞いてくれた。

「結婚したばかりなのに、大変だったな」

「毎日忙しかったから、まさか倒産するなんて」

「生活費は大丈夫なのか?」

「どうにかやりくりしています。来月から次の仕事が決まるまで、国内バスツアーの添乗員のアルバイトをする予定です」

バスツアーのアルバイトは、細かい手配だとかで大変なこともあったが、日本各地を仕事と称して巡れることは楽しかった。そんな生活を送っていた時、会社の倒産後、当時の同僚たちが、新たな旅行会社を立ち上げることが決まり、わたしも声をかけられ、その会社で働くことになった。新しい会社ではアジア担当になった。

 妻もわたしもアジアが好きで。結婚する前からお互い、アジア諸国を旅行していたので、職場で困難が発生した時でも、家に帰り妻に相談したりして乗り越えていた。

 新しい会社での勤務が、二年が過ぎたときだった。一人で経理を担当する社員から、あまりの忙しさから経理補助をパートで募集してほしいとの要望があった。そのことを自宅に帰り妻に話すと「わたしでも大丈夫かな?」「えっ」結婚して四年目を迎えていたが、二人の間には子供はできなかった。産婦人科での治療を続けていたが、わたしから「無理はしなくて大丈夫だよ、自然体でくらしていこうよ」「いいの?」「今君の目の前に、こんな子供みたいな大人がいるじゃない」

 妻はわたしの務める会社の経理助手のパートで働くことを決めた。

そんな会話のあと「どの国が一番好き」と言う話になり、いっせいのせ「香港」「香港」と二人は同時に香港を選択した。それからの二人は、時間を作っては香港への旅を楽しんでいた。

二人は本当に香港が大好きだった。わたしが香港を好きになったのは、一九七三年「燃えよドラゴン」の映画を観て香港の街中を歩いてみたいと思っていた。一九八二年に初めて香港へ行ってみた。当時の香港は「香港フラワー」と呼ばれる造花が有名だった。劇中でブルース・リーが「Don`t think feel」は名言だと思っています。日本語に直訳すると「考えるな、感じろ」この言葉は大好きだった。この時から香港が好きになり、なにか辛いことがあると香港へ、九龍半島の先端に立ち、ビクトリア湾を見ていると何かパワーをもらえる思いがした。父が万世橋の上から川面を見ている思いと同じなのであろう。結婚してから、わたしたち夫婦のパワースポットへは最低1年に一回は訪れていた。

 香港での楽しみの一つは、数少なくなってしまったワゴン式飲茶、ワゴンの中に、湯気が出ている蒸籠を積み上げ店内を廻るおばちゃん。何台かあるワゴンはそれぞれ積み込んでいる料理が違い、大好きなダイコンモチが来るのを待つワクワク感がたまらなかった。ワゴンがテーブル横に来た時、おばちゃんが蒸籠の蓋を開けてくれると、湯気の中に食べたいシュウマイなどが、いくつか希望を告げると、テーブルに蒸籠を手際よく置いて、伝票にチェックを入れてくれる。手元の大好きなポーレイ茶の急須が空になれば、蓋を半分開けた状態で置いて待つだけで、どこからかお茶の担当者がテーブルにきて、お湯や茶葉をいれてくれ、飲茶をゆっくりと楽しむ香港での時間が大好きなところ、帰国時には円盤型をしたポーレイ茶をお土産として購入、歴史を感じさせるような古い紙に包まれた円盤型に固められたポーレイ茶の塊を手に取ると、カビのような匂いが鼻に感じる。ペンチとハンマーを使い、黒い塊を砕き、急須に適量を入れお湯をさすといい香りが脳に刺激を与えてくれ、このお茶に出会った頃を思い出す。わたしは大好きなエビ、妻はカモの料理が大好き、香港へきてお腹を満足させていた。

わたしにとっての香港は第二の故郷。子供の頃好きだった縁日を懐かしく思う心をくすぐってくれる街。香港には男人街と女人街という夜になると露店が連なるスポットがある。ガイドブッ初心者は女人街がおすすめと書いてあった。女人街へは地下鉄のモンコック駅から徒歩で行くことができた。電車を降りるとたくさんの乗客が下車し同じ方向へ歩いている。駅の案内看板に女人街の文字が見え行き先は皆同じ、ぞろぞろと女人街出口へと続く階段を上って行く。目的地が一緒だと思うわたしはその後ろを追いかけるように歩く。すれ違う駅へ向かう人たちは女人街で購入したものを薄いピンク色のビニーに購入したにいれ嬉しそうに両手に持って歩いている。その先に裸電球の明かりが漏れて照らされる露店の竹棒で支えたビニールの屋根が見えた。わたしの心はウキウキで歩く足を早めた。その時、私の鼻を今まで嗅いだ事のない匂いが突き抜けた。はじめて嗅ぐ臭い匂い、決して良い匂いではない。匂いの元へ目を向けるとそこには人だかりができていた。臭い不気味な食べ物を皆美味しそうに食べている。なんてところなんだと思い臭い物体の正体を探ると臭豆腐という文字が書かれていた。好奇心旺盛なわたしですら、この臭豆腐を食べようという気持ちになれなかった。

 露店の裸電球に吸い寄せられるように再び歩き出した私の背中に見えない気流に乗りながら臭豆腐の匂いが追いかけてくる。背中に鼻などついていないのに背中で匂いを感じるほどだ。そんな香港へ両親を連れていきたいといつも思っていた。

わたしの父はとても気難しい人だったが歳を重ねるうち、わたしが子供のころの怖いころに比べると幾分丸くなってきていた。それでも旅行に携わる仕事をしているわたしが「お手頃の海外旅行があるから行こうよ」と誘っても

「日本国内すべて行ってもいないのに何が海外旅行だと」一喝、聞く耳を持たなかった。

父はよく「旅には三つのたのしみがある」と言っていた。決して旅行が嫌いではなかった。旅に対する独自の思いを持っていた。

一つ目は、行く前に考えるプラン。どこへ行こうか? 何をしたいか? 何を食べたいか? 色々と考えて旅先を考え行く先を決める楽しさ。

二つ目は、本命である旅先での楽しみ。行く前に考えたプランをいかに実行し、現地の景色、空気、人とのふれあい等を楽しむ。

三つ目は、旅で撮影した写真を観たり、沢山の旅の思い出を積み重ねることができる。

旅についてこのように語っていた父は、食に関しては日本料理でなく中華料理が大好でした。一九九六年の父の誕生日の食事会を中華レストランで行いその際に、わたしは香港を舞台にした映画「慕情」のDVDをプレゼントした。「慕情」は気に入ってくれた様で、三回も観てしまったと言ってきたので、冗談っぽく「映画の舞台だった香港へ行ってみよう」と言ってみると、父からの返事は予想外にも

「そうだなどうせ行くなら、天気も良く夜景が一番綺麗に見える十一月がいいかな」と、自分自身で色々と調べていた。それにはいささか驚いてしまった。わたしは父の気持が変わらないうちに十一月の香港への航空券とホテルの予約をした。

こうして父は香港デビューした。滞在日数はゆっくり楽しみたいので六泊七日と長い日程にし、滞在中には大好きな広東、四川、北京中華料理を満喫していた。香港観光では、通常のスポットとマニアックな所とでほとんど制覇した感じであった。中でも移動の際、よく利用していたスターフエリーにはご満悦のようで、乗船の際は必ず日本人観光客が少ない現地の人が多く利用している一階に乗りヴィクトリア湾の絶景を楽しんでいた。父は帰国日の前日もう一度スターフェリーに乗りたいと、チムサーチョイとセントラルを往復した。

景色を楽しむ父の背中に近づくと、父は「慕情」の曲を口ずさみながら涙していた。そんな父の背中に「香港の夜景独り占めですね」

「楽しかったよ、特にこのスターフェリーから眺める景色は最高だ」

「そんなに気に入った場所なら父の命日にはこの場所に来て祈ってあげるよ」と言ってしまった。それを近くで聞いていたわたしの妻が「なに縁起でもない事言っているの」とわたしの背中をつねった。それを見ていた父は怒ることもなく「その時はお願いするよ」と涙をぬぐいながら言った。

父は初めて香港を訪れたその後も毎年十一月になると、わたしたち夫婦と香港へ行っていたが、二〇〇五年の十一月の香港は父の体調不良のため行くことができなかった。わたしは妻と二人で香港へ行き、父への為にたくさんの写真を撮影してきた。その写真をアルバムにして大晦日の日に実家へ行った。父はビールも酒もほとんど飲めず苦しそうにしており今年は香港行けなくて残念だったと持参した写真を見ながら寂しそうにつぶやいた。

翌朝、苦しむ父の姿を見かねタクシーでお茶の水の大学病院へ行った。正月だったが緊急対応で受け入れてもらい検査を受けた。検査を終えた父が車いすに乗り検査室から若い看護師さんに押され出てきて、ニコニコしながら、私に手を振りながら入院になったよと言った。それが元気な父の姿を見るのが最後になった。翌日見舞いに行くと強い鎮痛剤を打たれた父は眠っていた。時折目を覚ますが何を言っているのかはわからなかった。そんな中一回だけ目を開き「香港へ行きたい」と朦朧とうわごとを言った。それがわたしが聞いた父の最後の言葉になった。二〇〇六年一月九日父はこの世を去った。その翌年の一月九日の父の命日に私は香港のスターフェリーの二階に乗りヴィクトリア湾の絶景を観ながら、父と約束した「慕情」の曲をくちずさんだ。

数年前父は食道癌にかかり外科的手術による処置治療が決まった。わたしは手術日が決まるまで検査入院した父のもとへ毎日見舞いに通い手術前の父の

悩み事を聞かされていた。病室には父と同じ食道癌の患者がいたが、その患者はすでに手術を終え数日経っていた。わたしが挨拶するも答えは返らず感じが悪い人で見向きもしてくれなかった。父に対しても同様に言葉を発することはなかった。医師からの手術の方法、術後の注意点などが説明され、今までのように声を出しての会話ができなくなるとか、喉に穴を開けるため湯船に深く浸かると溺れてしまうなどを聞かされた父は日々落ち込んでいった。

その翌日見舞いに行くと、昨日の落ち込みの様子の父が少し明るい顔になり

「手術はやらないことに決めた」

その理由を聞くと、無愛想なあの患者が退院して行く前の日の晩、父に週刊誌をくれた。その週刊誌の折り目があったページには食道癌を放射線治療した人たちの体験記が書かれていた。あの無愛想な人の書いたメモには、手術をした後にこの記事を見つけたのですが、あなたならまだ選択する時間があります。と自分の声が出なくなってしまったことを後悔しているようだった。その記事を読んだ父は放射線治療に賭けてみる決断をし、担当医にその旨を話し放射線治療科のもとへ移動となった。放射線治療と抗がん剤による長所、短所の説明を受け父は放射線治療を選択した。治療はかなり辛かったようだったが、声を失わず大好きなお風呂におもいきりつかれることを目標に食道癌と闘い勝利することができた。治療後の回復も順調で毎年あちこちへ一緒に旅行へ出かけることができた。誰もいない大浴場で大の字になり湯に浸かり喜ぶ父の姿は忘れられない。声を失うことなく十年以上この世で楽しむことができた父に放射線治療の事を教えてくれた人には感謝している。

食道がんを克服した父は、わたしの強引な誘惑のもと、シンガポール、グアム、香港へと母を連れ旅行を楽しんでいた。グアムへ行ったときはたまたま母の誕生日が重なり、ホテルレストランのテーブルでわたしたち家族四人が食事を楽しんでいた。突然レストラン内の照明が真っ暗になり「停電なの?」とテーブルでざわついていたら、レストランスタッフがローソクの明かりとともに、わたしたちが座っているテーブルの元へ「ハッピーバースデー……」と合唱し母の誕生日を祝ってくれた。

その時の父は目頭を押さえ指の間からたくさんの涙があふれていた。誕生日の当人の母よりも感激していた。

「海外旅行なんて」と言っていた父はその後も何回も香港への旅行を楽しんでいた。最後の旅行が香港であったこと、もう一回行きたかったのだろうが、願いかなわずこの世を去った父。

わたしにとって葬儀の準備は初めての事だったが、葬儀社の担当者に無理を言い、祭壇横にモニターを設置し、香港で撮りためた風景のスライドショーを父の慰霊から見えるよう流して、映画「慕情」の音楽をエンドレスで流した。

葬儀の翌日、父が大好きだったレストランへ妻に付き合ってもらい出かけた。

子供のころ我が家では外食が多かった。月一回隣の街へ出かけ、デパートの横路地にひっそりと構える洋食店へ行くのがうれしかった。洋食店の扉を開けると目の前に階段がありいつも二階を利用していた。二階の片隅に隠れ家のように四人掛けのテーブルがあり、そこがわたしたち家族の特等席になっていた。正装をしたウェイターが器用にわたしたちの注文した料理を運んでくれ、わたしの目の前にはステンレス製の大皿に大盛りのキャベツの千切りと大きなエビフライが二匹のっている。 幼稚園児のころはこの野菜の盛り付けは食べられず。父が「小学生になったら食べるようにするんだぞ」と、わたしのお皿から苦手な野菜を自分の皿へ移し、おまけだぞと父のエビフライを一本くれた。

「ありがとう父ちゃん」と母の顔に視線を移すと母も「しょうがない子ね」と言い母のエビフライもわたしにくれた。家でも時々エビフライを作ってくれるが、ここで食べるエビフライは本当に美味しい。タルタルソースと銀の魔法のランプの様な入れ物に入ったソースとの調和がなんとも言えなかった。ある日店へ行くと、店内改装の為お休みいたしますと張り紙がはってあり悲しい気持ちになった。

二ヶ月後、待ちにまったレストランがリニューアルオープンした。店内の雰囲気は随分と変わりはしたものの二階の我が家の特別席はまだ健在だった。

いつもの様にわたしはエビフライを注文。待ちに待ったエビフライが目の前に、しかし、いつもの香りと少し違っていた。子供のわたしが感激するあのエビフライの味が少し変わっていた。レストランを出てわたしは「父ちゃんエビフライの味変わったみたい」と言うと「おまえも感じたのか」と三人家族は池袋駅へ向かい歩いていた。

わたしは店がリニューアルオープンする前のエビフライの香りと味は、死ぬまで忘れない。

 レストランを出て駅に向かいながら、久しぶりに妻の手を握り歩いていた。

「色々ありがとう」葬儀でたくさんの親戚の相手をしてくれ、さぞかし疲れていた妻に、短い言葉だった。駅前の赤信号で待っている時、ふと横のビルに目がとまった。父はこのビルによく来ていた。父は四十歳を過ぎてからスキーに夢中になり、冬が訪れると親戚中に声をかけ、参加者を集めどこかしらのスキー場へ行っていた。我が家ではスキーへ行っていたのだった。このように冬になるとそわそわし、池袋にある日本交通公社へ行きスキー旅行を決めていた父。東京オリンピックが終わった年の冬には総勢三十名の参加者を集い天元台スキー場へ決め母とわたしも行くことになった。山形県といえば蔵王スキー場が有名だったが、日本交通公社で米沢市にできた天元台スキー場が空いていて穴場だと勧められ、ここに決めたのだと父は家にあったガリ版で旅行会社のような日程表を作成し親戚中に配布していた。

 山形県米沢市にできた天元台スキー所は白布温泉からロープウェイで十分ほどの場所。宿までは吹雪の中サクサクの粉雪の中を思いリックサックとスキー板を担ぎならこどもには辛い道のりだった。

 宿に着き、係の人が父に挨拶しながら会話が行われていた。会話が終わると宿の人がどのような勘違いをしたのか部屋や宴会時の食事のグレートがアップされた。父が言うには「日本交通公社を通じてきた」といったのだが、相手はわたしたち一行を日本交通公社の関係者と思ったようだった。グレートアップ、その行為を何度か断ったのだがサービスは帰るまで続くことになった

 翌日は昨日の吹雪のあとの快晴、リフトで山頂まで行くと月山、蔵王などを見ることができた。リフトの係員は天元台は吹雪が多く晴れるなんてラッキーだねと、天元台は気温が低く良い雪質だった。樹氷に囲まれた林間コースを滑るわたしのスキー板二枚はきれいにそろっていた。この日までスキー板をそろえることができずに苦戦していたのに、これは雪質が良いパウダースノーのおかげだった。今は天元台高原スキー場と名前が変わったが、わたしにとって山形県米沢と聞けば「天元台スキー場」が頭に浮かび上がる思い出の地だ。この地でも家族はわたしにたくさんの笑顔をくれた。


父が肝臓がんで他界して半年が過ぎた時、母から話があるので来てほしいと連絡が、妻と二人で母が住む実家を訪ねた。

「話ってなんだよ」食事をしながら、もじもじしている母に言うと

「わたしもね、あと二年生きれるかどうかわからないから、一緒に住んでくれない」

「あと二年? 何を根拠に二年なんだよ」

「食欲もないし、どんどん衰弱していくのが自分でわかるのよ」

「うちらにも二人の生活があるから、即答はできないよ」

「わかったわ」その日は、同居するという回答は保留にして実家を後にした。



 自宅への帰り道、母からの同郷の話し合いをおこなった。そして妻から思わぬことを聞かされた。

今二人で勤めている会社で経理の助手をしている妻だが、入出金に不正な動きがあるようだ。とにかくお金の流れがおかしい。そのことを後日社長に話してみたが、あまり真剣に聞いてもらえなかった。わたしが担当しているアジアに比べ、不正疑惑のあるハワイの売り上げはかなりの入金額、翌月に仕入れ代金と広告費が発生してするのだが、その支払いは売り上げ代金よりはるかに高い、それをプラスにするために航空会社からキックバックが発生してそれを利益として補填するので大丈夫だと、それよりもアジアの売り上げが低いことを叱責される羽目になってしまった。その日を境にハワイを担当している責任者から「変な言いがかりつけるなよ」と文句をいわれ、その後もそういった行動は収まらず。会社にいずらくなってしまった。一度そのように疑われると人間の心を修正するのは難しいし、とにかくストレスが溜まってしょうがなかった。わたしたち夫婦は会社を退職することを決めた。それと同時に母と同居することも決めた。同居することによって家賃を支払うことがなくなり、無職となってしまったわたしたち夫婦にとっては、正直助かった。今後の仕事については、わたしは前回もお世話になった国内ツアーバスの添乗員を行う予定でいた。妻は以前からやってみたいと言っていたテーマパークでの仕事を契約社員として働くことになった。ネズミでなくダックを推している妻にとって嬉しい職場のようだ。正社員で就職を考えてみたものの、子供のいないわたしたち夫婦にとって、そこそこ働き、適度に旅行を楽しんだ方がいいと二人で決めた。母は朝、昼は自分で何かを作って食べるので、夕食だけを準備してほしいと、夕食は三人で食べていた。

半年を過ぎた時、旅行会社倒産のニュースを耳にした。その会社はわたしたち夫婦が働いていた会社だった。妻が経理に不正疑惑があるようだと話していたことが現実化した。

「やっぱりおかしかったんだな」「そう、キックバックと称する入金が、経理課からいつ入る? と聞くと翌日にわずかな金額が入金されていたのよ」

ハワイ担当の責任者が、キックバック専用口座を独自に作成し、その口座に航空会社からのコミッションを入金され、経理課から「まだ入金ないのか?」と催促されると、自分自身で銀行に出かけ、あたかも航空会社からの入金のような操作をしていたのだった。

本当のキックバックは、自分自身の口座に入金させ、経理から催促があると、あたかも航空会社からの入金と思わせる名前にて少ない金額を振り込んでいた。

「せっかく社長に、おかしいと打診したのにな」

「逆にあなたが悪者にされかけたもね」

「辞めるきっかけを早く作ってくれたから良かったよ、被害にあったお客さんの顔見るの辛いもな」

「ところでさ、あなたもテーマパークで働かない?」

「どうしたんだい」

「今、わたしが働いている時間帯で人を募集しているのよ、是非面接受けてもらいたいのよ」

 その後の会話で、わたしが添乗員の仕事で家を空けることで、妻が母と二人だけになることに少しストレスを感じ始めていることを知った。そんなこともあり、妻の言っていた面接を受け、勤務時間帯を妻と同じ七時から十四時までと希望し、とんとん拍子でこと働くことが決まった。

 仕事、介護の繰り返しで、自分たちの時間が思うように取れない。そんなことを続けながらテーマパークでの仕事はたくさんの笑顔をもらえ楽しく働けた。仕事終わりは妻と舞浜駅で待ち合わせ、十分ほどで着く東京駅周辺で、夕食までには家に帰らねばならない貴重な時間を楽しんだ。年月を忘れるほどの日々を過ごし還暦を迎えることに、足腰はところどころかすかな悲鳴を上げ始めていた。仕事以外の介護の重みは見えないストレスによって、身体を全体を蝕んでいるように思う。

わたしは還暦を迎えこれからあと何年この世に生きていくことができるだろうか? と思った時、八十八歳の母のことを思い浮かべた。父は十四年前に八十歳で他界した。その時、母から同居することをたのまれ、その時の母の言葉は「わたしもあと二年ぐらいしかいきれないと思うから同居してほしい」だった。

縁起でもないことだが、二年くらいならと妻に無理を言って同居生活が始まった。わたしと妻は同じ年齢で結婚した時に、還暦過ぎたら日本各地を旅して過ごそうねと話をしていた。それが母の介護をしなければならないという現実がわたしたち夫婦の目的を阻んでいた。

人間の寿命について、両親の生きていた年齢まで生きていけると聞いたことがある。だとすると両親の寿命を平均すれば、あと二十数年が自分に残された時間となる。事故も病気もないことが前提であるが「親孝行したいときに親はなし」という言葉もよく聞く。

母もいつ逝ってしまってもおかしくない年齢だと思っているがゴールは見えない。わたしはこの年齢までこれといった親孝行をしてきた記憶はない。学生時代は遊んでばかりで勉強などしなかった。そのつけがのしかかり、父が望んでいた役所仕事や名のある企業への就職などは夢の話。両親にとって、近所から「お宅のお子さんどちらへおつとめ」など聞かれるのが、さぞかし辛かったことだろう。現在わたしは介護というストレスを抱えながらどうにか暮らしている。立ち寄った書店で公募雑誌が目に飛び込み、それを手に取りパラパラとページをめくりながら読んで見ると、自分でもできそうなエッセイなどの募集があった。恥ずかしい話、学生時代の国語の通信簿の成績は、五段階でも十段階でも二だった。一をとったら勘当だぞとよく言っていた父の言葉を思い出していた。還暦を過ぎてからのわたしの挑戦は始まった。できそうな川柳、標語、エッセイなどを書き応募。確率というか能力の悪さだろうか? いつも一方通行が続く。それでも書き応募していると、ぽつりぽつりと自分の名前とコメントが雑誌に載ったりした。そのページを母に見せると「すごいじゃない」と喜んでくれる。その笑顔が見たくて「今回はこれが掲載された」と見せ、その商品のパンの詰め合わせが届くと「すごいね、すごいねと」笑顔と涙を見せてくれる。わたしは子供のころから両親にたくさんの笑顔をもらった。自分ができる親孝行は、心の底から沸いて出てくる「母の笑顔」を作ること。

母が生きているうちに、自分の書いた文章が本になり、書店の棚に並び「最年長の新人賞を受賞したよ」と母の最大の喜ぶ笑顔をみる。こんな夢のような挑戦を続ける毎日。

「夢は必ず叶うもの」こんな言葉を信じて親孝行。今からでも遅くないきっと叶えたい。

そんなことを思いながらすごしていたが、母の行動に異常が出てきた。

普段から散歩に出かけていたのに、玄関から一歩も出ることがなくなった。

昨年飛び込みセールスのインターホンに飛び出し、玄関で転倒し足を骨折、しばらく車いすの世話になってしまった。普段から相手を確かめてからゆっくりと対応するように言っているのに、インターホンの画面を見ずにこのような結果になってしまった。

 整形外科クリニックへ連れていくため、仕事のシフトへの迷惑が発生、自分自身にもストレスがかかっている。介護センターのスタッフが面談に来てくれて、週何回かのケアプランを提示してくれたが母は「大丈夫です」と断ってしまう。

「何が大丈夫だよ、家族が迷惑するんだよ」つい大きい声が出てしまう。

実の親子でも介護するということはつらい、家に帰り玄関を開けると、便臭、体臭、尿臭などの臭いが織り交ざったようなモアっと襲い掛かり、鼻からは水のような鼻水が流れてくる。トイレの便器や床は毎日のように糞の汚れがこびりついている。食事の時は、容赦なくわたしの目の前でゲップをする。

「汚いな、人の目の前でゲップしないで」と注意しても。何を言われているのかわからない様子の母。少しでも身体を動かせば、ムワっと臭いにおいが漂ってくる。毎日風呂に入っているのに、日に日に臭いはひどくなってくる。風呂にしても、母が一番目に入浴を済ませて、そのあと浴槽をバスクリーナーで湯垢やたくさん浮いている髪の毛を取る作業をしなければ汚くて入れない。

わたしが子供のころ、両親にお風呂に入る前には、必ず身体を湯でながしなさいと、口を酸っぱく言われていた。今は母に同じ注意をしても素知らぬ顔、

いつまでこんな生活が続くのだろうか? もう解放されたい。子供のころから両親にもらった笑顔の残高がゼロになっていく。

そんななか、妻の口数が減ってきて、一日に何回もため息を聞くようになった。わたしとの会話がほとんどなくなってきてしまった。

 二年と言われていた同居生活の年数が一七年目になろうとしているが、母の異常な言動はますます激しくなってきた。それよりも妻の精神の具合が悪くなり、心療内科に通院ようになってしまった。そして最悪のケースが来てしまった。

妻は療養所へ入院することになってしまった。国民年金が受給できるようになったら、のんびり国内旅行を楽しもうと二人で約束していたのに、今は週一回妻の入院している施設へと出かけている。

「定年退職したら日本各地を旅したい」と妻とよく話していたけど、現実はとても厳しいいもので、物価高、外国人観光客の増加で宿泊先は空きはなく、宿泊費も高騰。それに加えて母親の介護の為、外出できる時間は限られてしまう。リモートで興味深いエッセイ、小説の書き方などを受講したいが、パソコンに向かい始めると母親が嫌がらせのように部屋に入ってくる。通信講座、日本旅行などは、とてもではないがもう夢になってしまった。

今夫婦で楽しんでいることは、限られた時間で、都心のアンテナショップへ出かけること、「エキナカ旅行」と二人でわずかな時間を、買い物、軽食、現地へ行ったつもりのお土産を購入し遠くへ行かなくても旅行へ行った気持ちを快適に楽しんでいた。各地の名産品が購入できるショップが勢ぞろい、食べたいものが何でも揃うし、時にはエキナカ限定グッズに遭遇することができた。

 家に帰宅する前に、スーパーに立ち寄り夕食に使う食材などを購入するのだが、今まで買っていたものが,どんどん値上げされていく、これは値上げされていないと手に取った商品は何か軽くなっている。グラムや個数をじっくり見れば減っている。実質値上げと呼ばれる方法、毎月使えるお金は変わらないので、買える物はどんどんと減っていくばかり、それと年齢のせいなのか脳内の記憶がどんどんと減っていく。妻が入院し一人で母の介護を行い、仕事を続けていくことは辛い。

働いている職場の時給が何十円か上がった。会社の広報はマスコミを通し「給料を上げた」と発表する。職場の環境は、一人で行うポジションがいくつか増えていく、今まで三人で行っていた作業を二人で、二人で行う作業を一人でとなって、職場の仲間たちには余裕がなくなってサービス精神がなくなってきて、笑顔の数がどんどんとなくなってきている。寂しい世の中になってきてしまった。

綱渡りのような生活を過ごし、六五歳を迎え勤め先も定年退職となり、年金生活を迎えることになった。週に二回妻が入院している施設へ見舞いへ行く、妻とは高校の同級生だった。高校時代は特に結婚を考えるような付き合いはなかった。高校卒業後にそれぞれ違う大学へ行き、それから数年後に同総会で再会した時にわたしはプロポーズした。

結婚してからは紆余曲折色々あったが、どうにかこうにか過ごしてきた。見舞いに行くと高校時代の話に花が咲いた。グループで観にいった映画のことや、当時流行していた音楽やファッションなど二人は高校生に戻っていたように、入院当時の妻の顔からは少しずつ笑顔を取り戻していくように思った。

自宅への帰り道、輸入ビールを取り扱う大型酒店の冷蔵庫の前に立ち、呼び寄せられるように初めて手に取った「333」と缶の中央に数字が書かれているビール。いつもは国産のビールを飲んでいるなぜこのビールを手に取ってしまったか、その横を顔なじみの店員が通り「それサイゴン・ブリュワリーで造られているビールですよ」と声をかけてくれた。本来ベトナムでは「3」の数字は縁起の悪い数字だが、「3」をすべて足して「9」の幸運のビールとして人気があると説明してくれた。バーバーバーとも呼ばれていることも教えてくれたが「9」は幸運の数字なのかと聞いた私の質問には「それは聞いていないのでわからない」とちょっと曖昧な返事をしながら通り過ぎた。

家に帰りシャワーを浴びいつものようにリビングのソファーに座り缶ビールのプルトップを開くと、国産ビールと変わりなく泡が湧き出てきた。泡をうまくかき集めるように上唇を使いながら、冷たいビールを喉に流し込んでいく。いつもの味とは違うビールでも、一日の終わりのビールは美味しいな。いつもと違った味もいい。

帰宅の際、玄関ポストから持ってきたいくつかの郵便物を見ながらビールを喉に流し込んでいく、その中にお寺からの郵便物があった。手に取り開封してみると、父の命日の供養のお知らせと記された文面が目にとまった。十三回忌を終えてからは、ほとんど寺へ行くことはなかった。命日の供養のお知らせと書かれている文書を読み終え、ここ数年、忙しさを理由にお墓参りに行っていないことを悔やんだ。十三回忌以降お墓に足を運ばないわたしに遠い空の上から亡き父が怒っているに違いないと本棚の片隅にある父の葬儀関係のファイルを取り出した。死亡届、葬儀の時の挨拶原稿、参列者の名簿などを見ると当時の思いが浮かびあがってくる。死亡届の本籍地の欄に、千代田区神田東松下町三十三番地と書かれているのを見て、今飲んでいるビールは天国の父が手に取らせた物なのかな? と仏壇に手を合わせた。仏前でホコリのかかった鈴の内側に鈴棒で打ち鳴らし、チーンという澄んだ音をわたしの耳にとどけてくれ、命日の日が一月九日であることを頭の中で思い、番地が三十三、亡くなった日が九日、先程酒店の店員にベトナムのラッキーナンバーが九ということを教えてもらい、そのビールを今こうして飲んでいる。天からのお告げだったのか? ほろ酔い気分になりながらお寺への返信用はがきに法要を行っていただく胸を期した。

 後日一人でお寺へ行った。亀戸駅からバスで十くらいのところにお寺はある。

子供のころから、お寺の中は気味が悪い、線香などの臭いが脳に恐怖心を与えているのだろうか? 今は座布団ではなく椅子が用意されているが、あえて足のしびれ覚悟で座布団に座った。

父さん母をひとりぼっちにしてこの世を旅立ってしまって。今わたしは足のしびれとあふれ出る涙をハンカチで拭きながらお経を聞いている。線香の煙で目がしみ、追い打ちをかけ涙がポツリ、ポツリと目を閉じるたびにハンカチに染み込んでいく涙。この場所は子供のころからとても嫌な場所だった。家族に連れられ法事などでお寺へ連れてこられるのがとても気持ちが悪かった。お坊さんが何をしゃべっているのがわからず退屈と足のしびれが苦痛でたまらなかった。

そんな場所にわたしは一人でいる。今ではお経を始める前にお坊さんの発する念仏が書かれた解説書を貸してもらえる。ひらがなが少ない漢字だらけの文字ばかりの冊子なので、耳から入ってくるお経に合わせ文字を追っていくのが精一杯。時折父のことを思い出し目を閉じると再び涙があふれぽたりと本の文字の上に落ちる。涙はお経の本に落ちるとあっという間に丸い円を描きながら紙に吸い込まれていく、その涙のシミは綺麗な丸模様を描く。なんで父は母を置いて遠い世界へ行ってしまったの? ポタポタと落ちる涙を吸い取ってくれているお経の書かれたページは、わたしの悲しみをそっと吸いとってくれている。そんなことを思っていたら、目で追っていたお坊さんのお経の文字がどこか先へ行ってしまった。慌てて今耳に聞こえるお経の文字を読み追いかける。やっと見つけた文字のまわりには乾いた涙の後のようなシミがたくさんある。わたしと同じように故人との別れを悲しみ涙を落とした涙のシミなんだろう。たくさんの人がこの本の上で故人との別れを悲しんでいるのだろう。

ふたたび目を閉じると子供のころの父との思い出が頭に浮かんできた。昭和三十年代後半の東京の空は光化学スモッグ注意報が連日発令されていた。そんな曇った空の下、父は万世橋の上で川面を見ながら、父が子供のころの話をわたしにいろいろな話を聞かせてくれた。

お寺の帰りに、秋葉原で下車し、父が大好きだった万世橋の上に来た。

川面を眺めながら母の介護の辛さを愚痴るように、亡き父へ語りかけているわたし。左手方向へ目を移した時、父が話していた万世橋駅のことを思い出した。中央線の神田からお茶の水間に明治四十五年に開業した万世橋駅、父はこの駅で一年運輸省からの出向で働くことになったけど、暇だったと話していた。昭和十八年に万世橋駅は休止となった。駅の方を見ていると、駅員さんの格好をしている父の姿が目に浮かんできた。それに誘われるように旧万世橋駅時代のプラットホームにデッキに向かった。ベンチに腰掛けながら通り過ぎる電車を目で追い、空に向かい父との一方通行の会話をした。先程お寺でたくさんの涙を流してきたはずなのに、ここでもなぜかたくさんの涙が溢れ出てきた。涙をぬぐいながらホームから旧万世橋駅の一九一二階段を下ろうとしたとき、足を踏み外してしまった。一瞬で地面に身体をたたきつけられ、目の前が段々と暗くなり意識が朦朧となっていった。

「大丈夫ですか?」遠くの方から聞き覚えのある声が聞こえ目を開けると、古い制服を着た駅員がわたしの体を起こしてくれた。その駅員の顔を見てわたしは驚いた。

「父さん」わたしの目の前に父が駅員の制服を着てわたしを抱きかかえてくれている。

「母さんの面倒見てくれてありがとう。苦労かけてごめんな」

「父さん、疲れたよ」

「わかっているよ、父さんも、雲の上からずっと見ていたよ、よく頑張ったな」

「もっと愛情をもって接したいのに、つい強い言葉を母にかけてしまうんだ」

「十八年は長かっただろう。ごめんな、そして今までありがとう」と父は階段を上り始めた。そしていつの間にか、父の左側には、老婆の後ろ姿が、父が老婆を支えながらゆっくりと階段を上っている。わたしが階段を上ろうとしたとき「あなたは、まだこっちへ来たらたらだめよ」二人が振り向いた。そこにいたのは父と母だった。

遠くの方からサイレンの音が聞こえて、再び目が覚めた。背中がごとごと揺れ、キョロキョロと周りをみると、わたしは救急車で搬送されているようだ。

「意識回復しました」救急隊員が無線でどこかに連絡している。

「今、お茶の水の病院に向かっていますから」

 平成十八年一月九日十五時二十六分お茶の水の病院で息を引き取った父さんが入院していた病院だった。

 病院に到着しいくつかの検査を受け特に異常が無いということで、病院を後にした。頭が朦朧とした状態で家にたどり着くことができた。

「ただ今」家中の電気はいつものように、つけっぱなしだった。使わない部屋の電気は消すようにと注意をしてもうなん十年たつことやら、今日は怒る力もなくベットに入った。翌朝、カラスの鳴き声で目が覚めた。母の眠る寝室のふすまが閉まったままで、家中の雨戸も開けられていない。いつも、雨が降ろうが、風が吹こうが家中の雨戸をあけてしまう母なのに、この日はまだ寝ているのか? 少し心配になり、ふすま越しに声をかけるが返事がない。急いでふすまを開けた。目の前に目を閉じ寝ている母の姿が、いつもと何かが違った。わたしが強く起こりおびえているような顔でなく、子供のころから見ていた優しい母の寝顔だった。

父が迎えてきたのだろうか? もう母の心臓は動いていなかった。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、波阿弥陀仏。母との楽しい思い出、そして別れが、お坊さんからの言葉がわたしを現実に戻した。ここまでの辛さがほっとした気持ちになった。

親戚には母のことは知らせなかった。わたし一人で母を天国の父のもとへ送った。


妻が入院している療養所に出かけ、担当医師に無理を言い、自宅での療養を希望した。

ここの施設で治療し始めて約三年になる。三年前には人相が豹変するほど精神不安定になっていた。週一回この施設を訪れているが、このところ顔色と気持ちが安定してきていた。

「香港へ少し旅行でも行こう」「えっ、お母さんは?」

「それなんだけどさ、先週父さんの元へ旅立って行ったよ」妻は深く息を吐きだすように、頭の中が十八年前に高速で戻されているように思えた。

「還暦過ぎたら日本各地を旅しようって言っていたけど、遅くなってごめん。国内ツアーの前に香港でパワーをもらおうよ」

「香港、久しぶりだね」

わたしたち夫婦は何かの節目には必ず香港へ行っていた。辛いことがあった時、香港の地に足を踏み入れると、目に見えないパワーを得ることができた。

成田を離陸した機内の中、乾いた空気がエアコンから吐き出されている。もうすぐ香港だね、航空機の高度を少しずつ下げているのが身体に感じる。耳がツーンとなり右手親指と人差し指で鼻をつまみ耳抜きをする。ダイビング中海底でも同じことをする。海の中、空の上とこんなに離れた場所なのに同じようなことをしている。耳が正常にもどり鼻にドブのような匂いがしてきた「まもなく香港に到着だな」と匂いが教えてくれる。数十回と訪れる香港上空で自分だけだろうか? この匂い。この匂いとともに客室乗務員のアナウンス「まもなく香港国際空港に到着いたします」

妻がドブの匂いしてきたねと軽く鼻をつまむ仕草をした。

着陸に備えシートベルトをしっかり締め軽く目をつぶりうとうととしているとタイヤが滑走路に何回か軽くバウンドしながら無事着陸「乗務員からの指示があるまでそのままお待ちください」とアナウンスがあるが機内の所々で頭上の収納ケースをバタン、バタンと開け荷物を下ろしている。棚から取り出した荷物からオーデコロンの香りなどが機内を漂う。そんなに慌てなくてもよいのにと思いながら機内の扉が開くのを座って待つ、鼻がなれてしまったのかもうドブのような匂いはしない。機内ドアが開けられ前の人の背中を見て歩いていく空港の外へ出ると「ムッワッ」と湿気を感じ排気ガスの匂いが鼻をつき頭上の上を怒っているような広東語が交差し聞こえてくる。ホテルのチェックインを終えすぐに男人街の行きつけの海鮮レストランへと向かう。レストランと言ってもローカルな小さな店でお客のほとんどが路上に並べられたテーブルで食事を楽しんでいる。わたしたちの香港の一日目はこの店のポーチャイ飯と蒸しエビから始まる。

 顔なじみの定員が「久しぶり」とサンミンゲルビールを持ってきた。

「久しぶりってなん十年ぶりだよ」

「ずっとわたしたち夫婦のこと覚えてくれたんだ」

遠くの方からほのかにドリアンの独特の匂いが風に乗って鼻をつく。香港の一日目が始まる瞬間だ。香港へ来ると二人はここ男人街の海鮮料理の店へ来ていた。店の従業員は今でも二人を憶えていてくれた。最後に来て十年以上前になるのに嬉しい限りだ。

「カチッ、カチッ、カチッ」と独特の音を奏でる香港の信号機。ネーザンロードを前の人の背中を小走りに追いかけ横断歩道を渡っていると、すれ違う人が持つ紙袋からガイダンジャイの香りがした。大仏の頭のような、見た目はグロテスク、外はカリカリ、中はしっとり柔らかなホットケーキの様な大好きな香港版ベビーカステラ。この香りを嗅いだ瞬間、わたしは、ガイダンジャイの店がある方向へと歩き出した。店の前には十人以上の人が並び、その後方に並んだ。店の中から何とも言えない、いい香りが脳の奥底に届く。目をつぶるとその香りとともに二人の記憶は、楽しかったことだけをはっきりと思い起こしてくれた。並んでいた列の先頭になり、ガイダンジャイを手に取ることができた。

「あぁ、この香り久しぶりだね」二人は笑顔でガイダンジャイに思わず鼻を寄せた。「いい香りだ」ネーザンロードをガイダンジャイを食べながら二人は歩き出した。

わたしは妻の手を強く握りビクトリア湾へと向かい歩いていく。  

「今までいろいろと苦労かけてごめんね」

「わたしこそ、こんな体になってごめんなさい」

二人はビクトリア湾から香港の景色を眺め、無くなってしまった笑顔を取り戻していた。


                                   (終わり)



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