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暑い夏の日、君に出会った

作者: 久遠れん

 額からしずくのような汗が滴り落ちる。

 目に入ると痛いので、できればタオルで拭いたいのだが自転車をこいでいる最中では難しい。


 空は雲一つない快晴で、カンカン照りの太陽がアスファルトに反射して、制服からむき出しの肌を焼く。


 じりじりと肌が焼ける音が響くような錯覚を抱くほどに、八月の頭は暑くて仕方ない。

 地球温暖化の影響だと冷房の効いた空間でスーツを着たニュースキャスターが言っていた。


 最近少し調子の悪い自転車のペダルを必死に漕ぎながら、傾斜のある長い道路を上っていく。


 崖沿いにある道路は夜になると走り屋がよく来る、と母が愚痴をこぼしていた。

 走り屋、というものを志織(しおり)は詳しくは知らないが、おそらく暴走族の亜種なのだろうと考えている。


「せっかくの夏休みなのに」


 八月に二度ある登校日は、学校に行くことを義務付けられている。


 原爆が落ちた日に平和学習をするのだが、戦争が終わってから生まれた志織にとって、原爆も戦争も遠くの出来事で、どんなに勉強してもいまいちピンとこない。


「暑いなぁ」


 夏休みに学校に行くのが嫌で、部活にだって入らなかったのに。

 高校生にもなって登校日が設定されているのは予想外だった。


 ギリギリまで玄関で粘ったせいで「早く学校に行きなさい」と母親には怒られた。

 その上、いつも以上に必死に自転車を漕がなければ遅刻してしまう。


 志織の担任は遅刻するとねちっこく嫌みを言ってくるので、立ち漕ぎをしてスピードを出そうとペダルを踏む足に力を籠める。


「あれ?」


 ふと緩いカーブの先に人影が見えた。崖沿いの道路の白いガードレールの傍に人がいる。

 この辺には民家もなく、通るとしても車ばかりだ。志織だって通学路でなければ通らない。


(この道を徒歩で歩くの珍し)


 不思議に思いつつぱちりと瞬きをすると、次の瞬間には人影が消えていた。


「えっ」


 思わず声が出る。自転車から降りて周囲を見回すが、誰もいない。道路の見晴らしはとてもいい。

 崖下は海だが、まさか落ちたのだろうか。


 脳裏をよぎった最悪の予想に、慌てて彼女は自転車を押して人影がいた場所に走り、下を覗き込む。

 崖に打ち付ける波は、いつもと変わらず荒々しい。人が落ちたらひとたまりもない。


「ん-」


 目を凝らしても人の姿など見えるはずもない。志織は悩んで腕を組む。


「……見間違い、かもしれないし」


 無理やり自分を納得させて、志織は自転車に乗りなおす。

 後味は悪かったが、人が落ちたと110番する勇気はなかった。






 三日後の登校日、暑さにげんなりしながら自転車を漕いでいると、先日と同じ場所でまた人影を見た。

 今度は見失わないように目を細める。白い人影は同じ年ごろの少年のようにみえた。


 瞬きをしないのはさすがに無理だった。乾燥した目が悲鳴を上げたので、一度だけぱちと瞬きをしてしまった。


(あれ、今度はいる)


 瞬きをしても、人影は消えていない。つい、自転車を漕ぐ足が止まる。

 その場に下りると、体に触れる風がなくなったぶん太陽の日差しを受け、体温がさらに上がった気がする。


 少しだけ距離を詰めて、疑問を口にする。


「なにしてるの?」


 純粋に不思議だった。こんな何もない場所で、まっすぐに海の向こうの地平線を眺めている男の子。

 神秘的かも、と思うには真夏の暑さが儚さを散らすようだった。


「あれ? 俺が見えているの?」


 ゆっくりと振り返った少年の言葉に、ぎょっと目を見開く。


 その言い方では、みえないのが当たり前のようで――それはつまり夏の昼間だというのに、幽霊を見ていることになる。


 動きを止めた志織の前で、少年がゆっくりと崖下を指さす。


「俺、ここから落ちて死んだんだ」


 よくよく視線を凝らすと、見たことのない学校の学生服に身を包んだ少年の姿は、本来見えるはずのない奥のガードレールが見えている。


 身体が透けていることに気づいて、ごくりと唾をのむ。

 暑さのせいだけではなく乾いた喉を少しだけ潤して、彼女はそっと口を開く。


「どうして落ちたの?」

「どうしてかなぁ」


 はぐらかすような間延びした言葉だったが、不思議と不快感は抱かなかった。

 一歩、二歩。さらに三歩。自転車を押して距離を詰める。慣れた仕草でスタンドを立て自転車を止める。


 車が通ったら邪魔だろうな、と思いつつ、昼間は滅多に車も通らないので、あえて道路に堂々と自転車を止める。


「幽霊なの?」

「そうなのかなぁ」

「身体、透けてるし。幽霊じゃないと説明できないよ」

「そっかぁ」


 やっぱり間延びした言葉遣いだ。志織から視線を外した少年は、ずっと海を見ている。

 崖に叩きつける荒々しい波を見つめ続ける少年に、好奇心から問う。


「君、名前なんて言うの?」

千歳(ちとせ)だよ」


 思いのほかはっきりとした声で返事が返ってきて、ぱちりと志織は瞬きをする。

 少しだけ意外だった。

 一緒になって海の下を覗き込んだ志織に、千歳がゆっくりと喋る。


「学校はいいの? 登校日でしょ」

「いまから行っても遅刻だし。千歳は? その制服、見たことないけど」

「俺はいいんだ」

「ふーん」


 二人で海を眺める不思議な時間。

 暑い日差しは不快でしかなかったのに、この場を離れようとは思えない。


 流れる汗で家を出る前に塗ったばかりの日焼け止めが落ちていくのを感じながら、志織はそっと息を吐き出した。






 千歳はいつも道路のカーブにいるらしい。そこから海を眺めているのだと知って、志織は足しげく通うようになった。


 ずっと部屋でダラダラしていた志織が毎日家を出ることを母親は最初こそ喜んでいたが、三週間も続くと不思議がるようになった。


 適当に「友達と遊んでる」と言った。全くの嘘ではない。

 千歳と話している、という事実は「友達と遊んでいる」にカウントしても問題ではないはずだ。


 二人の間の独特の距離感は、友達というには近くて、恋人というには遠かったけれど。


 千歳は物知りだった。

 志織がぽろりと夏休みの課題の分からないところを口にすれば、すらすらと答えてくれる。国語も、数学も、歴史も、化学も。全て教えてくれた。


 人目もはばからず日差しが熱したアスファルトにノートを広げる志織を笑うこともない。

 崖の下に落ちた理由以外はなんでも答えてくれた。


 千歳が唯一はぐらかすのが、死因だ。

 だからこそ、志織の興味を強く引き付ける。


 八月の下旬にはすっかり打ち解け、千歳の助言を受けて課題を仕上げた志織は、珍しく海風が気持ちいい日に、テレビで仕入れた知識を披露していた。


「未練がある人が地縛霊になるらしいよ」

「未練かぁ」


 昨日の夜、晩御飯を食べる際に流れていたドラマで主人公がそう言っていた。

 いつも通りふわふわと答える千歳をちらりと見て、そ知らぬ顔で志織は続ける。


「心当たり、あるの?」

「心当たりしかないなぁ」


 それはそうだ。課題を教えてくれることから、千歳は恐らく志織と同じで高校生。やりたいことなどいくらでもあるだろう。

 将来の夢が定まっていない志織でも、今死んだらやりきれなくて地縛霊になると思う。


 ふいに、千歳がそれまでの緩かった空気を霧散させた。

 いつも海ばかり見ている目が、ひたりと志織に向けられる。


 日本人特有の焦げ茶色の瞳が射抜くように志織を見ていて、つられるように彼女もまた千歳を見返した。

 吸い込まれるような不思議な吸引力を持った瞳に、志織が移りこんでいる。


「明日、ここにはこないで」

「どうして?」

「どうしても。絶対だから」


 約束だよ、と小指を差し出される。

 透けている指と指切りもどきをして、志織は「変なの」と笑った。千歳は笑わなかった。






 次の日は酷い天気だった。

 朝から大粒の雨が窓を叩き、夜のうちに母親が降ろしていたシャッターに叩きつける雨の音で目が覚めたほどだ。


「千歳、大丈夫かな……」


 ベッドの上でぼんやりと呟く。

 昨日の晩御飯の時に、父親が夜から天気が荒れるといっていた。


 台風がきてるから、と母親が相槌を打っていたのを思い出す。

 シャッターを降ろしているから薄暗い部屋の中で、膝を抱える。


 お気に入りの柄のシーツも、無理を言って母に買ってもらったパジャマも、いまばかりは気分を上げてくれなかった。

 薄暗い部屋には雨の音と風の音だけが響いている。






 次の日、天気が回復した午後に渋る母の目を盗んで自転車を車庫から出す。

 普段より急いでいつもの道路のカーブに着く。


 そこには一瞬、いるのかどうかを疑うほどに体が薄くなった千歳がいつも通り佇んでいた。

 違う個所を上げるなら、常に海を見ていた彼が、まっすぐに志織がやってくる方向を見ていて、彼女の姿を認めて笑顔で片手を上げたことだろう。


「身体すごいことになってるよ?!」


 慌てて自転車から降りる。駆け寄ると、いつも穏やかな表情だったけれど、どこか張り詰めた空気を纏っていた千歳が、柔らかく笑っていた。


「心残りが消えたんだ」

「え?」


 一昨日と今日で違うこと。台風が来たこと以外に、なにかあったのだろうか。

 思わぬ言葉にぱちぱちと瞬きを繰り返す志織に、千歳が笑う。

 大人びた普段の表情とは違う、年相応の子供らしい笑み。


「君は俺のお母さんなんだ」

「えっ?!」


 先ほど以上の大声が口から飛び出す。

 目が零れ落ちそうなほど見開く志織に、千歳は悪戯が成功した子供のように笑った。


「俺は未来からきた。お母さんが死ぬと俺が生まれなくて困る」


 からりと言われたセリフに三度目の驚愕が志織を襲う。

 自分を指さして、呆然とした声が口からこぼれた。


「し、しぬ?」

「そう。昨日、本当はお母さんは死ぬはずだった。でも、俺が来たから助かって、俺が生まれる」


 回らない頭に情報を詰め込む。思考回路がパンクしそうだ。

 けれど、ふと疑問が脳裏をよぎった。


 違和感を言葉にするのは難しかったが、まとまらない散らかった思考のまま、どうにか口から押し出す。


「それ、変じゃない」

「そうだね」

「だって、私が死ぬなら千歳はそもそも生まれないもん」


 志織が昨日死ぬはずだったのであれば、千歳が生まれる未来は来ない。

 もっともな志織の指摘に、千歳が肩をすくめる。否定の言葉はない。


「お母さんの言う通りだ。これはタイムパラドックスなんだ」

「たいむ……?」


 本をあまり読まない志織にとって、聞き馴染みのない単語だ。

 首を傾げた彼女に、千歳がいつも課題を教えてくれる時のように声音を少しだけ柔らかくする。


「卵が先か、鶏が先か。もう俺にもわからないんだ」

「どういうこと?」

「最初にお母さんを助けたのは、多分俺じゃない。でも、どこかの誰かがお母さんを助けて、俺が生まれた。偶然生まれた僕は、自分が生まれてくるために、ずっとお母さんを助けている。本来、生まれるはずのない僕が生まれて、いつもここでお母さんを助けるんだ。いつが始まりなのか、もう誰にも分らない」

「?」


 いつもならすんなり理解できる千歳の話が今日は理解できない。

 これでもかみ砕いてくれているのだろうが、小難しくて仕方ない。


 さらに首を傾げた志織に、千歳がくすくすと笑う。

 その身体はもはや輪郭が周囲の景色に溶けていた。


「千歳!」

「崖から落ちて死ぬのは――お母さんの方だったんだ」

「っ!」


 衝撃的な一言を発して、千歳の姿は空に消えた。

 そこに最初から存在しなかったかのように、何も残さず綺麗にいなくなる。

 咄嗟に延ばした手は、むなしく空中を掻いただけに終わった。




▽▲▽▲▽




(お母さんは助かった)


 熱い夏、肌を焼く日差しは過去とは比べ物にならないくらい強い。

 災害級の強さだと連日ニュースが報じている。


 毎年更新され続ける災害並みの暑さに、大人たちは口々に「昔はよかった」という。

 彼の母もその一人だ。


 先ほどまで大人になりきらない母と一緒にいたことを懐かしく思いながら、彼は白いガードレールに手を置く。

 手のひらに白い粉がつくが、気にするようなことでもない。


「今度はいつ死ぬのかな」


 彼の未来はいつも一緒だ。千歳は必ず崖から落ちて死ぬ。

 過去を変える代償なのだろうと理解している。どんなに慎重に人生を歩んでも、日常を送っても、必ず母を助けた報いを受ける。


 母が死ぬはずだった八月の終わりに、崖から落ちるのだ。


 どうして千歳がそんなことを知っているのかと言えば、彼の頭には膨大な記憶があるからだ。

 数多の世界の記憶が、彼の聡明な頭脳にだけ刻まれている。


「非科学的だよなぁ」


 幼い頃、一度だけ父に泣きついた。脳裏に残る自分ではない自分の記憶が恐ろしかったのだ。

 千歳の父は鼻で笑って一蹴して、それから一度も人には話していない。


 母にだって、秘密にしている。

 どうやら志織は過去に千歳に助けられた記憶がないらしい。


 そこを深堀すれば、先ほど口にした「卵が先か鶏が先か」は解決するのかもしれないが、彼にはその勇気がない。


(お母さんに否定されるのが、一番怖い)


 頭が可笑しな子供だと、気が触れているのだと、夢想にふけるのは大概にしろ、と。

 どこかの世界の千歳が投げかられた心無い言葉たち。母である志織にだけは、言われたくなかったから。


(それなら、僕は)


 ――死を選ぶ。


 不可抗力で理不尽な死を、受け入れる。




 ずいぶん昔に、そう決めたから。

 千歳は決して志織に見せなかった暗い笑みを浮かべて、うっそりと笑った。





読んでいただき、ありがとうございます!


『暑い夏の日、君に出会った』のほうは楽しんでいただけたでしょうか?


面白い! 続きが読みたい!! と思っていただけた方は、ぜひとも


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