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正論という名の檻

 蓮は必修科目である「社会思想史」の初回ガイダンスに出席するため、大講義室にいた。


 数百人を収容できる階段教室は、新入生たちの期待と少しばかりの緊張が入り混じった熱気で満たされている。備え付けられた長机の上には、学生たちが持ち込んだ最新のタブレット端末がずらりと並び、その電源ランプが静かに明滅していた。


 講義室に入り、指定された席に着くと、隣に座っていた人物に、蓮は思わず内心で口笛を吹いた。水谷葵だった。


 彼女も蓮に気づくと、驚いた様子は見せず、ただその唇の端に、先日の履修相談会で見せたのと同じ、悪戯っぽい笑みを浮かべた。『奇遇、ですね』と、唇の動きだけで伝え、楽しそうに目を細める。


 それは、2人だけの秘密を確かめ合うような、共犯者の挨拶だった。蓮もまた、口元に微かな笑みを浮かべて頷き返し、正面のスクリーンへと視線を戻した。


 やがて、チャイムが鳴ると同時に、1人の女性が軽やかな足取りで壇上に立った。若々しく、快活な笑顔が印象的な女性だ。


 服装はシンプルだが、仕立ての良いジャケットが彼女の知的な雰囲気を際立たせている。学生たち、特に男子学生からは、憧れの混じった小さなため息が漏れた。


「皆さん、おはようございます。この『社会思想史』を担当する、佐藤亜紀です。約半年間よろしくお願いしますね」


 凛としながらも、親しみやすい声だった。彼女がにこやかに自己紹介を終えると、正面の巨大スクリーンに、手元の端末で操作したであろう講義シラバスが鮮明に映し出された。


--------------------------------------------------

講義要項シラバス


講義名: 社会思想史 (History of Social Thought)

担当教官: 佐藤 亜紀 准教授

開講時期: 1年前期 火曜1限 (9:00-10:30)

評価方法: 中間レポート(50%)、講義への参加度(50%)

 ※注意:講義全15回のうち、3分の1以上の欠席者は単位取得の権利を失う。

概要: 我々の社会の安定を支える伝統的価値観が、いかにして歴史的に形成されてきたかを学ぶ。過去の思想的混乱とその反省を踏まえ、現代社会の構造的優位性を理解することを目的とする。


講義計画(抜粋):

第1回: ガイダンス/社会思想史とは何か

第2回: 「伝統的価値観」の形成とダンジョン以前の社会

第3回: 国家と個人 - 社会契約論の現代的解釈

...

第8回: 【資料研究】20世紀における急進的思想の興亡

...

第15回: 総括 - 伝統と革新の先に

--------------------------------------------------


「本日のレジュメは、既に学内システムにアップロードしてあります。各自、手元の端末でログインして、PDFファイルをダウンロードしてください」


 佐藤准教授はスクリーンを示しながら、事務的な口調で説明を続ける。


「評価はシラバスにある通り、中間レポートが50%、そして講義への参加度が50%です。この『参加度』というのは、ただ出席しているだけではありません。毎回の講義の最後に簡単なリアクションペーパーを提出してもらいますから、その内容も評価に含みます。しっかり聞いていてくださいね」


 その言葉に、学生たちの間から「うわ、マジか」「毎回はきつい」といった、ひそやかな悲鳴が上がる。


 蓮も、その巧妙に隠された意図を冷静に分析していた。


(講義計画を眺めていると、蓮は奇妙な既視感を覚えた。どこかで見たことのある、予定調和の物語のような構成)


 蓮の視線が、スクリーンに映し出された講義計画の文字を追う。


(毎回のリアクションペーパーは、学生たちの「正しい理解」を確認するための、優しい枷なのだろう。実に洗練されている)


 その後、佐藤准教授は講義の年間スケジュールや、参考文献といった補足事項を丁寧に説明し、さらに10分ほどが経過した。学生たちの間に若干の弛緩した空気が流れたのを見計らい、「さて」と、彼女は改めて意識を引き締めるように言った。


「一通りの事務連絡は以上です。ですが、ガイダンスだけで終わるのも味気ないでしょう。残り時間で、早速、第1回の講義内容に入りたいと思います」


 スクリーンが切り替わり、『第1回:社会思想史とは何か』というタイトルが大きく映し出される。


「社会思想とは、その時代に生きた人々が、自らの世界をどのように認識し、理解してきたか、その思考の枠組みそのものを指します。それは、政治や経済だけでなく、家族観、道徳、そして個人と社会の関係といった、我々の生活の根幹をなすものです」


 佐藤准教授は、ゆっくりと教室を見渡した。


「そして、その枠組みは決して普遍的なものではなく、歴史の中で常に移り変わってきました」


 講義は、思想史の基本的な概念について、教科書をなぞるようなアカデミックな内容で10分ほど続いた。学生たちの集中が切れかけた、まさにそのタイミングで、佐藤准教授はふと、口調を少しだけ変えた。


 その間、蓮がふと隣に視線をやると、葵はタブレットの画面を何度も上下にスクロールさせていた。講義資料を熱心に読んでいるようにも見えるが、その指の動きには、明らかにリズムがない。


 まるで、退屈を紛らわせるための無意味な作業のようだった。彼女の横顔は、いつもの穏やかな表情を保っていたが、その目だけが、どこか遠くを見ているようだった。


「例えば」と、佐藤准教授は続けた。


「思想が、他の文化圏から『輸入』されることもあります。しかし、輸入された思想が、その土地の文化や価値観と合わず、根付かずに消えていく例は、歴史上、枚挙に暇がありません」


 佐藤准教授は、そこで少し間を置いた。


「皆さんは聞き慣れないかもしれませんが、かつて海外で『フェミニズム』という思想が流行したことがあります」


 その単語に、数人の学生が顔を上げた。


「生物学的な性差を『社会的な抑圧の産物』とみなし、男女間のあらゆる役割分担を否定せよ、と主張する、非常に急進的な思想でした」


 佐藤准教授の声は、穏やかな口調のまま続く。


「もちろん、当時の主張者たちは善意からそう考えたのでしょう。女性の権利を守りたい、という純粋な動機があったことは理解できます」


 佐藤准教授は、そこで少し間を置き、穏やかな笑みを浮かべた。


「しかし、歴史が証明したのは、この思想が根本的に誤っていた、という厳しい現実でした。我が国でも持ち込まれましたが、大きな運動になることはありませんでした」


 スクリーンの資料が次のスライドに切り替わる。


「それは単に文化が合わなかったというだけではなく、人間の本質を見誤った思想だったからです」


 彼女は、まるで客観的な事実を淡々と述べるかのように、配慮に満ちた口調のまま続ける。


「個人の持つ生来の資質や特性を最大限に活かすこと。それこそが真の平等です」


 佐藤准教授は、ゆっくりと教室を見渡す。


「画一的な『平等』を目指すあまり、かえって個々人の能力を活かせなくなってしまっては、本末転倒でしょう」


 佐藤准教授は、少し言葉を選ぶように間を置いてから続けた。


「女性は、生物学的にか弱い存在です。男性に比べて身体的に脆弱であり、だからこそ男性に守ってもらう必要がある。そして女性は、その保護への対価として、男性に尽くし、奉仕する。これが自然な在り方であり、あるべき姿なのです」


 彼女の声には、確信が満ちていた。


「制圧士であっても、この原則は変わりません。むしろダンジョンという過酷な環境だからこそ、この関係性がより明確に、そして必要不可欠なものとして現れているのです」


 少しの間を置き、佐藤准教授は続ける。


「明確な役割分担と協力関係なくして、この国の平和は守れません。善意から出発した思想であっても、現実に即していなければ、結果として人々を不幸にするだけです。フェミニズムは、まさにその典型例と言えるでしょう」


 その瞬間、蓮は隣から、小さく息を呑む気配を感じ取った。


 振り向くと、葵はまっすぐに壇上を見つめていた。その横顔は、いつもの穏やかさを保っていたが、唇だけが、僅かに引き結ばれていた。


 周囲の学生たちにとっては、心地よい正論なのだろう。疑う余地のない、完成された物語。


 蓮は、この価値観がどのようにして、人々の内側に根を下ろしていくのかを、静かに観察していた。悪意も強制もない。ただ、誰もが信じて疑わない「善意」と「合理性」という土壌が、そこにあるだけだ。


 佐藤准教授の穏やかな笑顔は、その土壌を丁寧に耕す庭師のようだった。


 その時、ふと隣の気配が動いた。


 蓮が視線を落とすと、葵のノートの隅で、シャープペンシルが小さく何かを描いているのが見えた。それは、壇上で熱弁する佐藤准教授の似顔絵。


 しかし、その頭には、悪魔のツノと尻尾が、確かに描き加えられていた。


 いたずらは、ほんの一瞬。葵はすぐにそれに気づいたのか、慌てた様子でさっと消しゴムをかけると、何事もなかったかのように顔を上げ、蓮に気づかれないよう小さく舌を出した。


(なるほどな)


 蓮の口元に、誰にも気づかれない、微かな笑みが浮かんだ。


 胸の奥で、何かが静かに蠢いた。それは支配欲と呼ぶにはまだ曖昧で、しかし確かに、彼の中で獲物を見つけた狩人の本能が目覚め始めていた。


 この退屈な世界で、この社会の欺瞞を見抜きながら、まだ誰のものでもない存在。


 やがて講義の終了を告げるチャイムが鳴り、学生たちが一斉に席を立つ。荷物をまとめる音、椅子を引く音、そして何気ない会話が、講義室を満たしていく。


「フェミニズムって、初めて聞いたわ」


「ああ、海外の失敗例だろ? 無理に変えようとして上手くいかなかったやつ」


 誰かが軽く笑う声が混じる。それは嘲笑ではなく、遠い国の出来事を他人事として受け流すような、柔らかい響きだった。


 そんな会話を背景に、リアクションペーパーを記入する学生たちの手元が、蓮の視界に入る。『講義内容に深く共感しました』『適材適所の重要性を再認識できました』『現代社会の優位性がよく理解できました』。


 出口脇の回収ボックスに、100枚を超える短文が吸い込まれていく。似た言い回しばかりで、角の取れた文面が並ぶのが、少しおかしかった。


 誰1人として疑問を抱いていない。いや、抱くことすら思いつかないのだろう。


 その喧騒の中、ふと、蓮と葵の視線が、一瞬だけ、確かに交わった。


 言葉はない。


 だが、その視線は雄弁に語っていた。


(――あなたも、見えていたんでしょう? この空虚な正論が)


 それは、この退屈な世界で初めて見つけた、共犯者への無言の挨拶だった。


 その余韻が、2人をしばらく席に縫い付けていた。


 周りの喧騒が、まるで遠い世界の音のように感じられる。張り詰めたような、それでいて心地よいような、不思議な空気が2人を包んでいた。


 やがて、蓮が先に荷物をまとめ、立ち上がる。教室を出る間際、彼は無意識に葵がいた席の方を一瞥した。


 すると、葵も丁度立ち上がったところで、またしても、一瞬だけ視線が交錯する。葵は驚くでもなく、ただ、その唇の端に、悪戯な笑みを浮かべた。


 それは「次はどうするの?」とでも問いかけるような、共犯者への挑戦的な合図だった。彼女のその、全てを見透かしたような笑みの前に、蓮は初めて、計算通りに進むはずの段取りに、予測不能な変数が加わったことを実感した。


 蓮は何も言わず、ただ軽く頷いてみせ、今度こそ教室を後にする。


 1人残された葵は、自分のノートに描いて、そして消した悪魔の落書きの跡を、指でそっと撫でた。


 彼女の胸中に、小さな希望と、共犯者を見つけたことによる、かすかな高揚感が芽生え始めていた。



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