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それぞれの時間


 週末。神谷蓮は、光来市街地にある大型書店の前で、九条院雅を待っていた。


 11月中旬の午後。街は秋の装いを纏い、人々が行き交う。蓮は、その中で一人、静かに時計を見つめていた。


 雅が、優雅な姿で現れた。銀髪をハーフアップに結び、上品なコートを羽織っている。九条院家の令嬢として、一分の隙もない立ち居振る舞いだ。


「お待たせいたしました」


「いえ、こちらこそ。お時間をいただき、ありがとうございます」


 蓮は、婚約者として適切な距離感を保ちながら、雅に微笑みかけた。雅も、優しく微笑み返す。


「こちらこそ、お誘いいただき、ありがとうございます。わたくし、この書店、以前から訪れてみたいと思っていたのです」


「そうですか。それなら、良かったです」


 二人は、書店へと足を踏み入れた。


 店内は広々としており、天井まで届く本棚が整然と並んでいる。新刊コーナー、文芸書、実用書、専門書。様々なジャンルの本が、整理され陳列されている。平日の午後ということもあり、客はそれほど多くない。静かで落ち着いた雰囲気の中、蓮と雅は、ゆっくりと店内を歩き始めた。


 雅は、新刊コーナーの前で足を止めた。平積みされている本のタイトルを眺めている。蓮も、その隣に立って、本棚を見た。


 そこには、この世界の「日常」が並んでいた。


 『制圧士のためのキャリアデザイン――国家と共に歩む未来』『ダンジョンマネジメント実践ガイド』といった制圧士向けの実用書。『良き妻、良き母――家庭を支える女性の美徳』『夫を支える知恵――パートナーシップの本質』といった、女性向けの自己啓発書。


 蓮は、その光景を冷静に観察していた。


 雅は、女性向けの実用書コーナーに目を向けた。『家庭を彩る季節の料理』『教養ある女性のためのマナー講座』といった本が並んでいる。彼女は、その中の一冊を手に取り、ページをめくった。


「このような本を読むと、自分がまだまだ未熟であることを感じます」


 雅が、手にした本のページを見つめながら、静かに呟いた。その横顔には、婚約者としての務めを全うしようとする、揺るぎない真摯さが浮かんでいる。蓮は、その言葉に少し驚いた。


「未熟、ですか?」


「はい。婚約者として、蓮さんを支えるために、まだ学ぶべきことがたくさんあると思うのです」


 雅は本を閉じ、蓮へと視線を向けた。その瞳には、迷いのない決意がある。夫を支えることが自らの役割であり天命だと、彼女は心の底から信じている。


 その信念は、演技ではない。雅は本心から、蓮を支えることを自らの使命として受け入れている。この世界の女性が無自覚に内面化している価値観を、彼女は疑うことなく体現していた。


 その姿が、蓮の心に微かな――名前を付けられない感情を呼び起こした。


 書店をひと通り見た後、併設されたブックカフェへと向かった。雅が、優しい口調で話題を変える。


「最近、民間の制圧士の方々と交流されているそうですね」


 雅が、優しい口調で尋ねてきた。蓮は、適度に情報を共有した。


「ああ、偶然知り合ってね。有益な情報交換ができてる」


「それは素晴らしいことです。様々な方との交流は、蓮さんの成長に繋がりますもの」


 雅の言葉には、心からの真剣さが込められている。蓮は、その言葉を聞いて、内心で少し動揺した。


(この人は、本当に俺のことを信じてくれている)


 しかし、蓮はすぐにその感情を分析し直した。雅の信頼は、利用価値の高い要素だ。それを最大限に活用することで、蓮の野心は実現できる。それだけのことだ。


 そう、それだけのはずだった。だが――


 雅の優しい横顔を見ながら、蓮の心に微かな違和感が浮かんだ。計算通りに進んでいるはずの関係が、少しだけ予想と違う感触を持ち始めている。


 ブックカフェへの移動中、蓮は自然な仕草で、雅の手に触れた。雅は一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐに柔らかく微笑み、蓮の手を握り返してくる。その手は温かく、柔らかい。


 蓮は、雅の手を握りながら、内心で冷静に分析していた。


(婚約者同士のスキンシップ。社会的に期待される行動だ。この関係を強化するための、必要なステップ)


 しかし、雅の手の温かさは、計算だけでは説明できない何かを、蓮の心に残していた。


 カフェの中は、上品な雰囲気に包まれていた。テーブルには、白いテーブルクロスが敷かれ、上質な食器が並んでいる。アールグレイの香りが漂う中、蓮と雅は、静かに紅茶を飲みながら、会話を続けた。


 カフェの窓から見える街の風景。若い夫婦と子供の姿が多く見られる。ベビーカーを押す20代前半と思しき夫婦、小学生くらいの子供を連れた家族連れ。この国では少子化が進んでおらず、若くして結婚・出産するのが珍しくないことが、街の景色から自然に伝わってくる。


 蓮は、その風景を見ながら、内心で冷静に分析していた。


(制圧士には手厚い支援がある。住宅補助、医療費免除、子育て支援。若くして家庭を持つことを推奨する社会システムだ)


 巧妙に設計された社会の仕組み。個人の選択のように見えて、実は制度によって誘導されている。しかし、それを不満に思う者は少ない。むしろ、その仕組みに感謝している者が大半だ。


「最近のダンジョン活動は、いかがですか?」


 雅が、尋ねる。蓮は、適度に情報を共有した。


「順調だ。着実に実力を積み上げている」


「それは良かったです。蓮さんなら、きっと素晴らしい制圧士になられます」


 雅の言葉は、社交辞令ではない。本心からの期待だ。蓮は、それを感じ取っていた。


 街を散策しながら、二人は会話を続けた。雅が、話題を振る。


「先日、お話しした佐伯さんという方、ご家族がいらっしゃるそうですね」


 蓮は、淡々と答えた。


「ああ、23歳で妻と3歳の娘がいる。家族思いのいい奴だ」


「ご家族を守るために、制圧士として働く。素晴らしいことですね」


 雅の言葉には、心からの感心が込められている。蓮は、その言葉を聞いて、内心で少し複雑な感情を抱いた。


(佐伯の生き方を、雅は純粋に素晴らしいと思っている。それがこの世界の価値観だ)


 蓮は、その事実を認識していた。しかし、自分は彼らとは違う道を行く。消耗品として使い捨てられる道ではなく、トップに立つ道を。その意志を、再確認していた。


 カフェを出て、街を散策しながら会話を続ける。11月中旬の午後の日差しが、街を優しく照らしている。街路樹の葉が色づき、秋の深まりを感じさせる。


 雅は蓮の腕に、自然な仕草で手を添えた。婚約者として、ごく自然な振る舞い。その温かみが、蓮の腕を通して伝わってくる。


 街を歩きながら、二人は様々な話題を交わした。雅が、最近読んだ本の話をしたり、蓮が、ダンジョンでの出来事を軽く話したり。会話は、決して深いものではないが、心地よいリズムで続いていく。


 通りすがりの人々が、二人を見て微笑む。若い婚約者同士の姿は、この世界では祝福されるべきものだ。


(すべてが、そこへ向かうように設計されている)


 蓮は、周囲の視線を感じながら、そう認識していた。この世界では、若い男女の関係は「結婚」というゴールに向かうことが当然とされている。


 その期待に応えることが、蓮にとっての最適解だ。雅との関係も、その枠組みの中で機能している。


「わたくしは、蓮さんが選ばれる道を、心から応援しております」


 雅は蓮を見上げ、穏やかに微笑んだ。


「それがどのような道であっても、わたくしは蓮さんをお支えする――それが、婚約者としてのわたくしの務めですから」


 その言葉には、役割への献身と、そして――雅自身も気づいていない、微かな温かみが滲んでいた。


 蓮は、その言葉を聞いて、わずかに歩調を緩めた。


 計算外の感情が、また蓮の心に浮かんだ。雅の純粋な信頼。それは利用価値のある要素だ。しかし、同時に――


(……少し、罪悪感に似た何かを感じる)


 蓮は、その感情をすぐに押し込めた。今は、この関係を維持することが重要だ。感傷に浸っている場合ではない。


 夜、蓮が雅と別れて帰る。駅のホームで雅を見送った後、蓮は一人、夜の街を歩いていた。


 雅との時間を振り返りながら、蓮は自分の野心を再確認する。トップに立つ。それが目標だ。そのために、全てを利用する。雅も、葵も、佐伯たちとの繋がりも。


 しかし――


 雅との関係は、計算通りに進んでいる。しかし、その計算の中に、少しだけ予想外の要素が混じっていることに、蓮は気づいていた。


 雅との時間は、意外と心地いいものだった。彼女の優しさ、落ち着いた雰囲気、そして何より、彼女が蓮を「婚約者」として真剣に向き合ってくれる姿勢。それらは、蓮の心に、わずかな温かみを与えていた。


 計算外だが――悪くない。


 蓮は、そう確信しながら、静かに寮へと向かっていった。冷たい夜風が頬を撫でる。しかし、蓮の心には、微かな温かみが残っていた。



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