日常の中の静かな不安
午前の講義は「制圧士概論」だった。
教授が淡々と語る。
「昨年度の制圧士殉職者は987名。そのうち新人が約3割を占めています」
987名。新人が約3割。
数字だけを読み上げる声に、講堂は静まり返った。しかし、その静寂は一瞬だけだ。すぐに、ノートを取る音、ペンを走らせる音が再開される。学生たちは、その数字を「統計」として処理し、日常に戻っていく。
蓮は、その数字を頭の片隅に留めておいた。統計としては知っている。だが、具体的な顔を思い浮かべることはない。
隣の席で、葵の手が止まっていた。ペンを握ったまま、どこか遠くを見ている。
蓮は気づいていたが、特に何も言わなかった。
講義が終わり、二人はダンジョンへ向かった。
* * *
第7階層での戦闘だ。この階層は、推奨レベル17の領域だ。蓮と葵は、既にこの階層で活動できる実力を持っている。
戦闘は、順調に進んでいった。蓮の召喚獣が敵の注意を引きつけ、葵の水魔法が的確に追撃する。無駄のない動き、計算された戦術。二人の連携は、この数ヶ月で確実に磨かれていた。
しかし、今日の葵は、少し様子が違う。
蓮の召喚した獣が、ホブゴブリンの注意を引きつける。通常なら、その瞬間に葵の水の矢が敵を貫くはずだ。しかし今日は、葵の詠唱が始まるまでに微かな間が空いた。ほんの一拍。それだけだが、蓮には明らかに感じられた。
魔法の精度自体は変わらない。水の矢は正確に敵を射抜き、ホブゴブリンは崩れ落ちる。しかし、判断に微かな迷いが見える。まるで、別のことを考えながら戦っているかのような。
蓮は、その変化に気づいていた。しかし、特に何も言わない。戦闘に支障をきたすほどではない。だが、確かに何かが違う。
(集中力が欠けている。何を考えている?)
蓮は葵の横顔を一瞥したが、彼女の表情からは何も読み取れなかった。いつもの、感情を表に出さない顔。しかし、その奥に何かが渦巻いているのは明らかだった。
戦闘が終わり、休憩を取る。ダンジョン内の休憩エリアで、二人は座り込んで水分補給をする。
この空間は、地上とは違う。誰もいない。蓮と葵だけの、静かな時間が流れる。
石造りの休憩エリアは薄暗く、魔石のランタンが微かな光を放っている。第7階層特有の湿った空気は、肌にまとわりつくように重い。遠くから聞こえるモンスターの鳴き声――おそらくダイアウルフの遠吠えだ――が、この階層が決して安全ではないことを思い出させる。しかし、ここは休憩エリア。安全地帯として機能している空間だ。
葵は水筒を手に取ったが、飲む前に動きを止めた。視線は宙を彷徨っている。
蓮はそれを観察していた。佐伯のことか。
しばらくの沈黙の後、葵が口を開いた。
「……佐伯さん、いい人よね」
葵が、ぽつりと呟いた。蓮は、少し考えてから答えた。
「そうだな。家族思いで、真面目だ」
「……あの人、本当に幸せなのかな」
葵が、小さく呟く。その言葉に、蓮は少し驚いた。
「どうした? らしくない」
蓮が、葵の様子を観察していた。葵は、普段は飄々とした態度を保っているが、今は少し違う。
「安い給料で、命懸けで。それで満足できるのかなって」
葵の言葉には、言語化できない違和感が込められている。蓮は、その言葉を聞いて、少し考えてから答えた。
「佐伯は満足しているだろう。『国のため』という価値観に支配されているからな」
蓮の言葉には、冷徹な分析が込められている。葵は、その言葉に、少し驚いたような表情を見せた。
「だが、俺はあんな生き方はしない。安い金で働かされて、いつか死んで終わり。そんなのはまっぴらだ」
蓮の言葉には、確かな意志が込められている。葵は、その言葉を聞いて、少し驚いたような表情を見せた。
「俺たちは上に行く。トップに立たなければ、結局は消耗品だ」
蓮の言葉には、野心が滲んでいる。葵は、その言葉を聞いて、静かに同意した。
「……そうね。私も、そう思う」
その言葉には、確かな意志が込められている。蓮は、その言葉を聞いて、内心で少し満足した。
(葵も同じ視点を持っている。だからこそ、彼女は俺のパートナーとして価値がある)
蓮は、その事実を再確認していた。葵との関係は、「便利で、面白い関係」だ。しかし、それだけではない。彼女は、蓮にとって価値のあるパートナーだ。
「……別に。ちょっと考えただけ」
葵が、話を打ち切る。水筒の蓋を閉め、立ち上がる動作。いつもの彼女に戻ろうとしている。
蓮は、それ以上は追求しない。
佐伯の話を聞いてから、葵の反応が少しずつ変わってきている。「家族のために」という言葉。「年収600万円」という現実。それらが、葵の中で何かを動かし始めているのだろう。
だが、蓮にとってそれは観察対象でしかない。この関係を、「便利で、面白い関係」として維持する。それで十分だ。
問題は、葵がその迷いによって戦闘に支障をきたすかどうかだ。今のところ、許容範囲内だ。ならば、放置する。それが蓮の判断だった。
再び戦闘を続ける。しかし、葵の反応は、いつもより少し遅い。
敵のホブゴブリンが襲いかかってくる。蓮の召喚獣が壁となり、葵が後方から魔法を放つ。その流れは変わらない。しかし、魔法を放つまでの時間が、明らかに長い。
まるで、何かを考えながら戦っているかのようだ。
蓮は、その変化を感じ取りながらも、特に何も言わない。
数時間後、二人はダンジョンから出た。今日の収穫は、まずまずだった。しかし、葵の様子は、いつもと少し違う。
戦闘中、彼女の判断が遅れる場面が何度かあった。技術的な問題ではない。それは明らかだ。何か別のことを考えながら戦っている。そんな印象を受けた。
ゲートタワーを出ると、地上の空気が顔に当たる。11月中旬の風は、少し冷たく、秋の深まりを感じさせる。夕暮れの街は、いつもと変わらない光景だ。学生たち、サラリーマン、家族連れ。平和な日常が、そこにある。
帰路、蓮の携帯に雅からメッセージが届いた。
「今週末、お時間ございますか?」
蓮は、少し考えてから返信を打った。
「了解した。時間と場所を教えてくれ」
「明日は雅とデートだ」
蓮が、葵に告げる。葵は、短く返す。
「……そう」
その言葉には、わずかな感情が混じっている。しかし、それを表に出すことはない。
* * *
夜、蓮の部屋で一人、今日の葵の様子を振り返る。
葵の様子が、少し気になる。佐伯との交流が、彼女の内面に何かを動かし始めているのだろう。戦闘中の判断の遅れ、休憩中の表情。いつもの彼女とは、確かに違っていた。
今のところ戦闘に大きな支障はない。だが、彼女が何を考えているのか、少しだけ気にかかる。
一方、葵は自室で一人、ベッドに横たわり天井を見つめている。
頭の中に、佐伯の笑顔が浮かぶ。娘の写真を見せてくれた時の、あの幸せそうな表情。家族を守るために、国を守る。その信念が、彼の全ての行動原理になっている。
(この人は、本当に幸せなのかな)
あの笑顔を思い出すと、なぜか心がざわつく。娘の写真を見せる時の彼の目は、確かに輝いていた。しかし――。
その程度の報酬で、命懸けで。それで満足できるのか。
蓮の言葉が蘇る。「俺たちは上に行く。トップに立たなければ、結局は消耗品だ」。葵も、そう思っていたはずだ。蓮の隣に立ち、高みを目指すこと。それが自分の生きる道だと。
だが、佐伯の「家族のために」という言葉が、奇妙な重みを持って心に残る。
それは、疑問なのか。羨望なのか。それとも――。
葵は、その静けさの中で、自分の感情を整理できないまま、静かに目を閉じる。




