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クラスの初日

 入学から1週間が過ぎた4月中旬、蓮は初めてのクラス単位講義である「基礎体育」に向かっていた。


 防衛大学校のカリキュラムは、座学の多くを学生の習熟度や興味に応じて選択できる柔軟な制度を採用している。しかし一部の科目、特に、今日のような施設管理上の理由がある実技科目は、ホームルームクラス単位での実施が義務付けられていた。


 講堂から大学内のスポーツ施設の一つである第三体育館へと続く渡り廊下を歩きながら、蓮は今日初めて顔を合わせることになるクラスメイトたちのことを考えていた。50名という規模。全体から見れば小さな単位だが、この中から今後4年間、何度も顔を合わせることになる人間関係が生まれていく。


 渡り廊下には、同じ方向へ向かう学生たちの姿が点在していた。蓮は彼らを視界に入れながら、一定の距離を保って歩く。まだ誰とも関係を築く必要はない。今日はただ、観察(・・)すればいい。


 前方から、落ち着いた声が聞こえてきた。


「君も基礎体育?」


 見ると、同じ方向へ歩いている男子学生が軽く手を上げている。眼鏡をかけた、どこか学者然とした雰囲気の学生だった。


「ああ、そうだ」


「同じクラスのようだね。一緒に行こう」


 その男子学生は、穏やかな表情で蓮の隣に並んだ。


二木(ふたき)涼介りょうすけだ。君は?」


「神谷蓮。よろしく」


「神谷君か。よろしく」


 二木は淡々とした口調で続ける。その話し方には、どこか冷静で落ち着いた雰囲気があった。


「基礎体育か。必修だから避けられないな」


「まあな。でも、この辺りで身体作っておかないと、後で困るからな」


 蓮が答えると、二木は眼鏡の位置を直しながら頷いた。


「効率的にこなせればいいんだが」


「そうだな」


 短い会話を交わしながら、二人は第三体育館へと向かった。


 体育館に到着すると、既に何人かの学生が準備を始めていた。全員が大学から配布されたトレーニングウェアを着ている。トレーニングウェアは様々な組み合わせが配布されており、学生はその中から好みのものを選択できるようになっていた。


 蓮は視線を巡らせる。目に留まったのは女子学生たちの服装だった。多くがタンクトップにショートパンツ、あるいは半袖Tシャツにレギンスといった、機能性を優先した組み合わせを選んでいる。特にタンクトップとショートパンツの組み合わせは、テレビで見る女子陸上選手を思わせる露出度の高さだ。


 準備運動をする彼女たちの姿は、率直に言えば目を引くものだった。タンクトップを着た女子学生が腕を天に向けて伸ばすと、裾がずり上がってへそから下腹部まで、健康的な肌の色が惜しげもなく晒される。動きに合わせて胸のラインが浮き上がり、引き締まった腹部が伸縮する様子が生々しい。


 ショートパンツから伸びる太腿は長く、屈伸のたびにその滑らかな曲線と筋肉の動きが視界に飛び込んでくる。レギンスを履いた女子学生に至っては、生地が身体に密着して腰から脚の形を克明に描き出していた。


 目を引くのは蓮に限ったことではない。近くでストレッチをしている男子学生が、何気ない仕草で顔を上げ、女子学生たちの方へ一瞬視線を向ける。別の男子学生は、談笑しながらも時折視線を泳がせていた。


 誰もがわざとらしくならないよう、自然な動作の中に視線を紛れ込ませている。防大生としての自制心を保ちながら、しかし若い男性としての本能から、完全に目を逸らすことはできないようだった。


 しかし、女子学生たち本人はそうした視線を全く意識していないようだった。いや、正確には意識していないのではなく、気にする必要がないと考えているのだろう。


 トレーニングという明確な名目の下、機能性を優先した服装は「適切な選択」として社会的に認められている。そして男性の視線を不快に思うことは、むしろ女性として未熟な証だと教え込まれてきた彼女たちにとって、この薄着は何ら恥ずべきものではないのだ。


 その中で、蓮は濃青色の髪を見つける。水谷葵だ。彼女は体育館の片隅で、数人の女子学生と談笑しながらストレッチをしている。長袖Tシャツにレギンスという、周囲と比べてやや控えめな服装だった。


 葵は人当たりの良い笑顔を浮かべ、周囲の会話に軽やかに応じている。一見すると、クラスに自然に溶け込んでいるように見えた。


(――意外と、器用に立ち回っているな)


 蓮はそう思いながらも、特に声をかけることはしなかった。まだクラス全体の力学も把握できていない状況で、特定の人物と親しくするのは得策ではない。観察する。それが今の段階では最も合理的だった。


 定刻になると、壁際に立っていた体育教官が学生たちを集合させた。


「全員、学籍番号順に並べ」


 学生たちが慣れた様子で移動する。蓮も自分の位置を確認し、列に加わった。


 教官は学生たちの前に立ち、落ち着いた声で話し始めた。


「私はスポーツ科学を専門とする、立花だ。今日は初回なので、まずこの『基礎体育』という科目の意義から説明しよう」


 立花教官は一度言葉を切り、学生たちの表情を確かめるように視線を巡らせた。


「ジョブの恩恵は掛け算(・・・)だ。土台となる基礎体力が高いほど、ジョブの能力も大きくなる」


 そう言って、教官は静かに続けた。


「本講義では、諸君が自ら身体を作り上げるための科学的知識と、正しいトレーニング方法を提供する」


「大学のトレーニング施設は24時間開放されている。本講義で理論とフォームを学び、各自が自主的に鍛錬を積む。それが防大のスタイルだ」


 立花教官は学生たちを見渡した。


「本日は初回なので、諸君一人ひとりの現在の身体能力を正確に測定する。手加減はしない。諸君の限界値を把握させてもらう」


 学生たちは姿勢を正し、一言も聞き漏らすまいと耳を傾けている。


「本日は諸君の現在の身体能力を測定する。瞬発力、反応速度、筋力、そして心肺機能だ。では、準備運動から始める」


 準備運動が終わると、最初の測定が始まった。センサー付きのマットを使った垂直跳び、反応速度を測るタイミング測定、そして握力や背筋力といった基礎的な筋力測定。学生たちは順番に、指示された動作を淡々とこなしていく。蓮も特に問題なく測定を終えた。


 これらの測定は比較的短時間で終わり、学生たちもまだ余裕を残している。


「次が本番だ」


 立花教官が体育館の奥に並ぶトレッドミルを指差した。


「最後に心肺機能の測定を行う。全員、心拍数モニターを装着しろ」


 学生たちは配られた腕に巻くタイプの小型デバイスを装着する。蓮も自分の左腕に巻きつけた。


「このトレッドミルは心拍数モニターと連動している。諸君一人ひとりの心拍数に応じて、システムが自動で速度を調整する」


 立花教官は腕を上げ、トレッドミルのディスプレイを指し示した。


「諸君にとって最も負荷の高い状態を維持したまま、20分間走り続けてもらう」


 学生たちの間に、緊張した空気が走る。


「もし途中で諦めてトレッドミルから落ちてしまった場合、今期の評価は最低となる。また、別途ペナルティも課される」


 立花教官の声に、静かな力強さが宿る。


「よって途中で諦めるのは賢明ではない。きつくてもやり遂げるように!」


 学生たちの表情が引き締まる。


「トレッドミルの数の都合上、前後半に分けて実施する。まず前半組から測定を開始する」


 蓮は前半組だった。トレッドミルに乗ると、最初はゆっくりとしたジョギングから始まる。だが、心拍数が上がるにつれて速度が調整され、常に限界ギリギリの負荷が維持される。


 10分を過ぎた頃には、呼吸が荒くなり、脚に疲労が蓄積していく。それでも速度は緩まない。脚が悲鳴を上げ、肺が焼けるような感覚を覚える。


 蓮は表情を変えず、淡々と走り続けた。20分が永遠に感じられた。


 ようやく測定が終わり、蓮は機械から降りると、壁際で呼吸を整えた。内心では全身の疲労を感じているが、表情には出さない。


 続けて後半組が始まり、しばらくすると全ての学生が測定を終えた。体育館には荒い息遣いだけが響いていた。


「給水タイムだ。10分間休憩する」


 教官の声に、学生たちは思い思いの場所で飲み物を飲み、床に座り込む。20分間、限界の負荷で走り続けた学生たちは、等しく疲労困憊している。


 蓮も体育館の隅で水を飲みながら、周囲の様子を観察した。内心では全身の疲労を感じているが、周囲の学生ほどダメージは表に出ていない。


 壁際では、床に座り込んだまま肩で息をする男子学生たちが、立ったまま水を飲む蓮の方を見ていた。


「神谷、お前元気だな!」


 明るい声が聞こえて振り向くと、同じクラスの犬井(いぬい)健人けんとが笑顔で近づいてきた。その後ろには、先ほど渡り廊下で一緒になった二木涼介もいる。


「いや、こう見えて結構疲れてるよ。あれはきついな」


「そうか。いや、俺も久しぶりにきつかったわ。高校の部活思い出した」


 犬井は気さくに話しかけてくる。二木が横から口を挟んだ。


「だが、他の連中と比べると神谷は随分と余裕があるように見えるな」


 二木は眼鏡の奥の目で蓮を冷静に観察している。


「今後の実習が楽しみだ」


「ああ、楽しみだな。実際のダンジョンでどうなるか」


 蓮は軽く笑みを浮かべて答えた。犬井の明るさと、二木の冷静さ。対照的な二人だが、どちらも悪くない。


(――使いやすそうだ)


 蓮は他のクラスメイトたちへと視線を移した。少し離れた場所では、女子学生たちが小声で話していた。


 何人かはマットの上に仰向けで寝転び、荒い呼吸を整えている。タンクトップやショートパンツといった露出の多いトレーニングウェアが、汗に濡れて肌に張り付いていた。


「きつかった……」


 一人が太ももを押さえながら、苦しそうにそう言った。


「ダンジョンでは、怠ったら自分に返ってくるから。防大を選んだのは私たちなんだし、頑張りましょう」


 黒髪をポニーテールにまとめた女子学生が答える。まだ呼吸は荒いが、その表情には前向きな決意が浮かんでいた。周囲の女子学生たちも小さく頷く。


 蓮は体育館の隅から、その光景を冷静に観察していた。疲労困憊で寝転ぶ女子学生たち。汗に濡れた肌、露わになった太ももや二の腕。


 機能性を優先した結果とはいえ、その光景は否応なく視覚的な刺激を伴っていた。


(――まあ、悪くない眺めだ)


 蓮は内心でそう結論づけ、視線を外した。


 その視線の先に、濃青色の髪を見つけた。


 水谷葵は、体育館の反対側の壁際で一人、水を飲んでいた。周囲の女子学生たちが床に座り込んだり寝転んだりしている中で、彼女は壁に背を預けて立ったまま、静かに呼吸を整えている。長袖Tシャツの袖口から覗く手首が、わずかに汗に濡れて光っていた。


 彼女の表情は、いつもの人当たりの良い笑顔ではなく、どこか虚空を見つめるような、冷めた目をしていた。


 その瞬間、葵の視線がこちらに向いた。


 一瞬、二人の視線が交差する。蓮は何も反応せず、ただ冷静に彼女を見返した。


 葵は少しだけ目を細め、口の端をわずかに上げた。それは笑みとも、挑発とも取れる曖昧な表情だった。彼女は水のボトルを軽く傾けて見せると、そのまま視線を外し、再び虚空を見つめ始めた。


(――相変わらず、何を考えているか分からない)


 蓮は内心でそう評価し、視線を他のクラスメイトたちへと移していった。


 疲労を滲ませながらも前向きに励まし合う女子学生たち。葵のように一人静かに呼吸を整える者。そして男子学生たちも、それぞれ異なる反応を見せている。


 50人の学生たち。それぞれが異なる表情で、この初回の基礎体育を終えようとしている。


 だが、蓮にとって重要なのは、彼らがどのような人間で、どのように利用できるかだ。今後4年間、このクラスという小さな社会の中で、誰が協力者となり、誰が障害となるか。それを見極めるのが、今日の本当の目的だった。


 給水タイムが終わると、教官が学生たちを集合させた。


「本日の測定はこれで終了だ。諸君の取り組む姿勢は悪くなかった」


 立花教官は一度言葉を切り、学生たちを見渡した。


「本日取得したデータは、諸君一人ひとりに最適化されたトレーニングプログラムの作成に使用する。次回以降は、そのプログラムに基づいた実技指導を行う。各自、ジムでの自主トレーニングも怠らないように。解散」


 学生たちは更衣室へと向かった。蓮も荷物を手に取り、体育館を後にする。


 クラスという小さな社会。その力学を理解し、利用する。それが今後の課題だった。


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