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交錯する日常


 週末。神谷蓮は、光来市街地のコンサートホール前で、九条院雅を待っていた。


 11月上旬の午後。街は秋の装いを纏い、人々が行き交う。蓮は、その中で一人、静かに時計を見つめていた。約束の時間まで、あと5分。


(雅とのデート。婚約者としての距離感を計算しながら、着実に絆を深めていく)


 昨夜は葵と一緒にいた。あの夜から何度か線を越えて、互いの体温を知っている関係になった。だが、それとこれとは別だ。葵との時間と、雅との時間は、全く異なる意味を持っている。


 蓮は内心でそう整理していた。雅は、蓮にとって利用価値の高い存在だ。九条院家の三女という社会的地位、そして良妻賢母としての洗練された振る舞い。それらは全て、蓮の野心を実現するための重要な要素だ。


 しかし、それだけではない。雅との時間は、蓮にとって意外と心地いいものだった。彼女の優しさ、落ち着いた雰囲気、そして何より、彼女が蓮を「婚約者」として真剣に向き合ってくれる姿勢。それらは、蓮の心に、わずかな温かみを与えていた。


 蓮は、静かに周囲を見渡した。通り過ぎる人々の中に、何組かのカップルがいる。彼らの多くは、笑顔で何かを話し合い、自然に寄り添っている。


(俺と雅の関係は、あれとは違う)


 恋愛感情からではなく、互いの利益と立場から成り立つ関係。それでも、この時間が不快ではない。むしろ、予想以上に自然だ。


「お待たせいたしました」


 雅の声が、蓮の思考を遮る。振り返ると、そこには銀髪をハーフアップに結んだ、優雅な姿があった。上品なコートを羽織り、控えめだが洗練された装い。九条院家の令嬢として、気品ある立ち居振る舞いだ。


「いや、こちらこそ。時間を割いてくれて、ありがとう」


 蓮は、婚約者として適切な距離感を保ちながら、雅に微笑みかけた。雅も、優しく微笑み返す。


「こちらこそ、お誘いいただきありがとうございます。私、このコンサートホール、以前から気になっていたんです」


「そうか。それなら、良かった」


 二人は、コンサートホールへと足を踏み入れた。ふと、蓮は口を開いた。


「前回とは、また違った時間になりそうだな」


 何気ない言葉のようで、そうではない。あの日——雅の部屋で、彼女の着替えを眺めたことを、蓮は忘れていない。


 雅は一瞬だけ瞳を伏せた。だが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべる。


「そうですね。前回の蓮さんの行動は、私にとっては少々想定外でした」


 少々どころではなかったはずだ。あの時、雅は羞恥に顔を真っ赤に染めて、クッションで身体を隠していた。それでも今、その声には余裕がある。あの日の動揺を、もう飲み込んでしまったのだろうか。


「相互理解が進んだと思えば、何よりだ」


 蓮は悪びれる様子もなく、さらりと返した。自分でも少し図々しい言い方だとは思う。だが、それでいい。


 雅が小さく息を吐いた。


「……相互理解、ですか」


 呆れたような、それでいてどこか楽しげな響き。その表情には、怒りも不快も見えない。むしろ、蓮の返しを受け止めた上で、こちらを試すような余裕すら感じられる。


「まあ、今日は落ち着いてお話しできそうですね」


 蓮は内心で感心した。この女は、やはりしたたかだ。羞恥に震えていたあの姿と、今の余裕ある微笑み。その切り替えの鮮やかさが、蓮にはたまらなく面白い。


 もっとも、雅の本心がどうであれ、彼女から婚約を解消するという流れはないだろう。この婚約は九条院家の決定だ。雅個人の意思で覆せるものではないし、そもそも雅はそのようなことを考えもしないだろう。


 だからこそ、蓮は大胆に振る舞える。多少踏み込んでも、雅が離れていくリスクは低い。その構造を理解した上で、蓮は一歩ずつ距離を詰めている。


 クラシックコンサート。蓮は、音楽にはそれほど興味がないが、雅が楽しそうにしているなら、それでいい。


 ホールの中は、静かな空気に包まれていた。観客たちは、それぞれの席に座り、開演を待っている。蓮と雅は、指定された席に座り、しばらく静かに時を過ごした。


「蓮さん、最近の大学生活は、いかがですか?」


 雅が、優しい口調で尋ねてきた。蓮の大学生活やダンジョン活動について、丁寧に質問する。その視線は、単なる社交辞令ではない。本当に蓮のことを理解しようとしている。婚約者として、夫を支える存在でありたい——その思いが、言葉の端々から滲み出ている。


「順調だ。講義も実習も、着実に進んでる」


 蓮は、適度に情報を共有した。全てを話すわけではないが、雅を安心させる程度の情報は伝える。それが、婚約者としての適切な距離感だ。


「それは良かったです。私も、蓮さんが素晴らしい制圧士になられることを、心から信じています」


 雅の言葉には、偽りのない真剣さが込められている。蓮は、その言葉を聞いて、内心で少しだけ動揺した。


(……疑いを持たない目だ)


 雅は、蓮を「婚約者」として、心から真剣に向き合っている。それは社交辞令でも建前でもない。計算の欠片もない、純粋な信頼。


 九条院家という後ろ盾に加え、この無条件の信頼——蓮にとって、これ以上に都合のいい関係はない。


 コンサートが始まった。オーケストラの音色が、ホールに響き渡る。蓮は音楽よりも、静かに音楽に身を委ねる雅の横顔に視線を向けていた。


 暗がりの中で、蓮は雅の横顔を観察していた。銀色の髪が、ホールの微かな照明に照らされて、柔らかな光を放っている。瞳を閉じ、音楽に身を委ねる雅の表情は穏やかで、唇にはわずかな微笑みが浮かんでいる。


 時折、雅の指が、座席の肘掛けの上で、目に見えない鍵盤を弾くように軽く動く。それは、無意識の仕草だろう。音楽に合わせて、自然に身体が反応しているのだ。


 その姿は、まるで舞台の上の演奏者たちと同じ世界に溶け込んでいるようだった。雅の優雅さは、単なる外見の美しさではない。内面から滲み出る、洗練された気品だ。


 あの日、雅の部屋で触れた、あの髪の感触を思い出す。さらさらとした、絹のような手触り。


 ふと、葵の手を思い出す。昨夜、蓮の背中に回されていた、あの細い指。雅の手は、それとは違う。もっと繊細で、もっと慎ましやかだ。


 そして、蓮はふと、雅の手に触れた。座席の間で、そっと手を重ねる。雅は、ほんの一瞬だけ手が止まったが、すぐにその手を受け入れる。抵抗も戸惑いもない。あの日、雅の部屋で手を取った時とは、明らかに違う反応だ。


(順調に進んでいるな)


 雅は、もう蓮の要求に慣れている。キスも、スキンシップも、そしてあの着替えのシーンも——全てが、この自然な受け入れを作り出した。


 コンサートが終わり、二人はホールを出た。時間は、まだ午後の早い時間だ。


「食事でも、どう?」


 蓮が提案すると、雅は優しく頷いた。


「はい、お願いいたします」


 近くのレストランへと向かう。上品な雰囲気の店で、二人は席に着いた。メニューを見ながら、軽い会話を交わす。


「最近、ダンジョン活動は、いかがですか?」


 雅が、再び質問してきた。その口調は丁寧だが、質問の内容は具体的だ。単なる社交辞令ではなく、本当に蓮の活動内容を理解しようとしている。


「順調だ。第5階層での活動を続けてる。経験値も着実に積み重ねてる」


「それは良かったです。私、蓮さんが無理をされないか、いつも心配しているんです」


「ありがとう。でも、適切な戦術と準備があれば、問題ない」


「さすがです。私も、蓮さんが安全に活動されていることを、心から願っています。もし、何かお手伝いできることがあれば、遠慮なくおっしゃってくださいね」


 その言葉には、婚約者として夫を支えたいという、真摯な思いが込められていた。


「雅は本当に、自慢の婚約者だな」


 蓮がふと口にすると、雅の動きがわずかに止まった。


「……そう、でしょうか」


「ああ。こうして気遣ってくれる婚約者がいるのは、心強い」


 雅の頬に、ほんのりと赤みが差した。それは恋愛的な照れではない。婚約者としての役割を認められたことへの、静かな喜びだ。


「私は、蓮さんのお役に立てているのでしょうか」


「十分すぎるほどにな」


 雅は小さく微笑んで、視線を伏せた。その表情には、まんざらでもない様子が滲んでいる。良妻賢母として認められること——それが、彼女にとっての何よりの喜びなのだろう。


 雅の言葉には、打算がない。純粋な心配だ。蓮は、その温度を感じ取りながら、内心で少しだけ温かみを感じた。


 しかし、感情に流されるわけにはいかない。蓮はすぐに思考を切り替えた。この関係を維持し、九条院家との繋がりを強化する。それが、今の蓮にとって最優先事項だ。


 食事が運ばれてきた。二人は、静かに食事をしながら、会話を続けた。


 蓮は、テーブルの下で雅の手を取った。雅は、ほんの一瞬だけ手が止まったが、すぐにその手を委ねる。


 葵の手は、もっと力強かった。蓮の服を掴み、引き寄せ、求めてくる手だ。だが雅の手は違う。静かに、従順に、蓮の手の中に収まっている。以前なら、この程度のスキンシップでも、彼女の手は冷たくなっていた。だが今は、温かく、そして自然に蓮を受け入れている。


(あの日、雅の部屋でキスを交わしてから、関係は確実に進展している)


 蓮は内心でそう整理した。雅の部屋での出来事——あの着替えのシーンを思い出す。羞恥に震えながらも、最終的には蓮の要求を受け入れた雅。そして、最後に「わたくしの着替えを眺める心地は、いかがでしたか?」と、逆に試すような余裕を見せた彼女のしたたかさ。


 その記憶が、今この瞬間の雅の自然な受け入れと重なる。彼女は、もう蓮の要求に戸惑うことはない。婚約者として、夫の望みに応えることが当然だという価値観が、彼女の中で完全に内面化されている。


 蓮は、雅の手を優しく握りながら、彼女の横顔を見た。上品な食事の仕草。その姿は、あの日見た裸体とは全く違う、気品ある令嬢の姿だ。だが、蓮は知っている。その衣服の下に、あの白い肌が隠されていることを。そして、その肌を、自分だけが見られることを。


(雅と葵——二人の関係は、全く違う)


 蓮は内心で比較した。葵は、もう肉体関係を持った。あの夜、二人は完全に結ばれた。その時の葵の体温、呼吸、そして一体感。それは、直接的な、欲望に満ちた関係だ。共犯者として、互いの利益のために結ばれた、計算された関係。


 一方、雅は違う。まだ肉体関係はない。キスと、着替えを見ただけだ。だが、その関係性は、葵とは全く異なる質を持っている。社会的地位、家柄、そして婚約者としての立場——全てが、雅との関係を特別なものにしている。葵との関係は、欲望と計算の結晶だ。だが、雅との関係は、それ以上の何か——支配と従属、そして社会的な逆転の快感が混じり合った、より複雑なものだ。


 雅は、蓮の視線を感じ取ったのか、少しだけ顔を向けた。その瞳には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。


「どうかなさいましたか?」


「いや。ただ、雅が美しいと思って」


 その言葉に、雅の頬がほんのわずかに赤く染まった。だが、それは以前のような動揺ではない。婚約者として褒められることへの、自然な喜びだ。


「ありがとうございます」


 雅はそう答えて、再び食事に戻った。その動作は、一切の乱れがない。あの日、羞恥に震えていた女性とは、まるで別人のように見える。だが、蓮には分かる。この落ち着きこそが、雅の本質なのだと。どんな状況でも、最終的には自分の立場を取り戻す。そのバランス感覚こそが、この女性のしたたかさなのだ。


「蓮さん」


 雅が、静かに呼びかけてきた。蓮が視線を向けると、彼女は少しだけ頬を染めて、控えめに微笑んでいた。


「今日は、とても楽しかったです。私、こうして蓮さんとお時間を過ごせることが、本当に嬉しくて」


 その言葉には、飾りがない。純粋な喜びが、雅の表情から伝わってくる。蓮は、その素直さに、わずかな戸惑いを覚えた。


「俺も、楽しかったです」


 蓮は、婚約者として適切な返答をした。嘘ではない。実際、雅との時間は悪くなかった。


「これからも、こうしてお時間をいただけたら、私、とても幸せです」


 雅の言葉に、蓮は静かに頷いた。そして、テーブルの上で繋いだ手に、少しだけ力を込めた。雅は、その手を優しく握り返す。


 その時、蓮はふと、雅の唇を見た。あの日、雅の部屋で重ねた唇の記憶が、鮮明に蘇る。柔らかく、温かい感触。そして、雅がその唇を受け入れた時の、わずかな戸惑いと、すぐにそれを隠した冷静さ。


(あの日から、俺と雅の関係は確実に変わった)


 蓮は内心でそう確信した。社会的には雲の上の存在である彼女が、蓮の前では従順に身を委ねる。そのギャップが、蓮の心の奥底で、黒く渦巻くような支配欲を満たしていく。


(葵とは、また違う)


 蓮は、二人の違いを噛みしめた。九条院家の令嬢が、自分の前でだけ無防備になる。その特権的な立場が、蓮の支配欲を満たしていく。


 二人の間に、静かな時間が流れる。レストランの温かな照明の下、婚約者としての距離感が、わずかに縮まった気がした。いや、正確には、蓮が一歩ずつ踏み込んで、雅がそれを受け入れる。その繰り返しが、今この穏やかな時間を作り出しているのだ。


 蓮は、その時間を楽しんでいた。雅の優しさ、落ち着いた雰囲気、そして何より、彼女が蓮を「婚約者」として真剣に向き合ってくれる姿勢。それらは、蓮の心に、わずかな温かみを与えていた。


(計算外だが、悪くない)


 蓮はそう認めていた。雅との関係は、単なる利用関係ではない。そこには、確かに何かが生まれ始めている。しかし、それを深く追求するつもりはない。今は、この関係を維持することが、蓮にとって最も重要なことだ。


 蓮は、雅と別れて、自分の部屋に戻っていた。今日のデートは、順調だった。


 部屋の窓から、街の灯りが遠くに光っている。蓮は、その光を見つめながら、今日の出来事を振り返った。雅の笑顔、手の温もり、そしてあの穏やかな時間。全てが、予想以上に心地よかった。


 蓮は、自分の心の奥で、少しだけ違和感を感じていた。しかし、それを深く追求するつもりはない。


 蓮は、その静けさの中で、明日のダンジョン活動のことを考えていた。葵との時間。それは、また別の関係だ。


 蓮は、そう確信しながら、静かに眠りについた。



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