日常への回帰
「あの夜」から数週間が経過した。
葵との関係は、表面上は何も変わっていない。ダンジョンでの戦闘パートナーとして、効率的に、そして淡々と活動を続けている。
ただ、時々線を越える。
それは互いに了解済みの関係だ。計算されたものではあるが、完全に割り切れたわけではない。あの夜、予想外の温かさが胸に広がったことを、蓮は認めている。時間を共にした結果、情が湧いてしまった。それは計算外の出来事だった。
だが、だからといって戦略が変わるわけではない。葵も、雅も、これから増やすコレクションも、全て等しく価値のある存在だ。ただ、葵との時間は、思っていたより悪くない。それだけのことだ。
* * *
夜。蓮の部屋に、静寂が戻っていた。
窓の外は既に暗く、防大のキャンパスは静まり返っている。ベッドの上で、蓮は片腕を頭の下に置いたまま、天井を見つめていた。
隣では、葵が淡々と服を着ている。音を立てないように、だが急ぐでもなく。いつもの動作だ。
「じゃあ、帰るわね」
葵の声は、いつもと変わらない。蓮は軽く頷く。
「ああ」
ドアが静かに閉まる。廊下に消えていく足音。
蓮は再び天井を見つめた。部屋には、彼一人だけが残されている。
部屋には、もう誰もいない。だが、葵の香りだけが、わずかに残っていた。
(情が湧いたことは認める。だが、それは戦略を変える理由にはならない)
彼はそう整理していた。皮肉を言い、観察し、時々線を越える。便利で、面白い。そして、思っていたより悪くない。それだけの関係だ。
雅との関係も順調に進んでいる。定期的にデートを重ね、婚約者としての距離感を計算しながら、着実に絆を深めている。両方を巧みに扱っているという自覚が、蓮の心に満足感を与えていた。
(この日常が、俺にとって理想的だ)
蓮はそう確信しながら、静かに眠りについた。
* * *
数日後の朝。11月上旬の空は、秋の深まりを告げるように、どこか寂しげな青さを湛えている。
この数週間、蓮の日常は規則正しく流れていた。
午前中は講義に出る。「社会制度論」「ダンジョン経済学」「制圧士概論」。どれも単位のために出席するだけの時間だ。教授の話を聞き流しながら、蓮は頭の中で戦術を組み立てている。周囲の学生たちがノートを取る音、教授の単調な声。それらは、もはや蓮の意識の表面を滑っていくだけだった。
講義が終われば、ダンジョンへ向かう。葵と合流し、効率的にモンスターを狩り、経験値を積み重ねる。時々、雅とデートをする。メッセージを交わし、コンサートに行き、食事をする。
淡々と、機械的に、日常が過ぎていく。
蓮にとって、大学は通過点に過ぎない。講義で学ぶ知識より、ダンジョンでの実戦経験の方が遥かに価値がある。周囲の学生たちが成績や就職に頭を悩ませている間に、蓮は着実に実績を積み上げていた。
その日の午前中も、いつも通りの講義だった。蓮は寮に戻り、装備を整えた。
ドアをノックする音が響いた。蓮は時計を見る。午前8時。いつもの時間だ。
「入って」
蓮が答えると、ドアが開き、水谷葵が顔を覗かせる。濃い青のボブカットが、朝の光に照らされて微かに輝いている。
「行くわよ」
いつものように、短い言葉だけを残して、葵は部屋の外へと向かう。蓮は軽く頷き、装備を確認しながら後を追った。
防大のキャンパスを抜け、ゲートタワーへと向かう道中。二人の会話は、表面的にはいつもと変わらない。ダンジョンでの戦術の話、講義の愚痴、何気ない雑談。しかし、その空気には、確かに何かが混じっている。
蓮は、葵が時折自分の横顔を盗み見ていることに気づいていた。しかし、特に何も言わない。彼女が何を考えているか、おおよその見当はついている。だが、それを口に出す必要はない。
(あの夜のことは、彼女も整理できていない。でも、それは彼女の問題だ)
ゲートタワーに到着し、手続きを済ませる。二人はダンジョンへと足を踏み入れた。
第1階層から第4階層までは、もはや通過するだけの領域だ。蓮と葵は、慣れ親しんだルートを効率的に進み、第5階層へと到達する。
第5階層。この階層は、蓮と葵にとっては既に慣れ親しんだ領域だ。推奨レベルは15だが、二人は既にそれを超えている。効率的に、そして安全に、モンスターを狩ることができる。
「いつものルートでいいわね」
「ああ」
インプが3体、通路の向こうから現れる。小悪魔の姿をした小型のモンスターが、炎の魔法を手に浮遊しながら接近してくる。
蓮は即座に召喚獣を展開し、前衛を固める。その瞬間、葵は既に後方へ移動を開始していた。水の矢が、蓮の召喚獣が引きつけた敵の急所を正確に貫く。
言葉はいらない。蓮が次にどう動くか、葵には手に取るようにわかる。彼の視線の動き、召喚獣への指示の間合い、わずかな体重移動。その全てが、彼の次の行動を告げている。
あの夜から、葵は蓮の動きをより鮮明に理解できるようになっていた。彼の思考の流れ、戦闘中の判断、呼吸のリズム。以前より深く、より正確に読み取れる。それが心地いいのか、それとも苦しいのか、彼女自身にもわからない。
インプが最後の一体になる。葵は水魔法を放とうとして、一瞬だけ躊躇した。蓮の横顔が視界に入る。彼は戦闘に集中している。こんな時でも、葵の心には雑音が混じる。
それでも、彼女の魔法は的確だった。水の矢がインプの胸を貫き、戦闘は終わる。
「今日も順調だな」
蓮の声が、葵を現実に引き戻す。彼女は軽く頷いた。
「……ええ」
息の合った連携。それは変わらない。でも、その連携の裏で、葵の心には新しい層が生まれている。蓮はそれに気づいていないが、葵自身は、その変化を無視できなくなっていた。
この一体感は、他の誰とも築けない。だから――葵は、その先の言葉を飲み込んだ。
(この連携は、確かに心地いい)
蓮は内心でそう認めていた。葵との戦闘は、効率的で、そして何より面白い。彼女の判断力と技術は、蓮の戦術を最大限に引き出す。この関係は、戦闘パートナーとして、確かに価値がある。
そして、あの夜から、その価値は少しだけ変わった。戦闘パートナーとしての価値に加えて、予想外の温かさが加わった。それは計算外だったが、悪くはない。蓮は、その線引きを明確に保ちながらも、その変化を認めていた。
戦闘が終わり、休憩を取る。ダンジョン内の休憩エリア――人工的に整備された、わずかな安全地帯だ。魔石を動力源とした照明が、淡い青白い光を投げかけている。
二人は岩に腰を下ろし、水分補給をする。ダンジョン特有の、湿った空気と石の匂い。地上の喧騒は、ここまで届かない。携帯電話の電波も届かない。
この空間は、地上とは違う。誰もいない。蓮と葵だけの、静かな時間が流れる。
葵は、ふと気づく。ダンジョンの中では、雅の存在が遠い。彼女からのメッセージも、社交界の空気も、婚約者という肩書きも。全てが、この石の壁の向こう側だ。
ここにいるのは、蓮と葵だけだ。
この時間だけは、何も考えなくていい。ただ戦って、休んで、また戦う。シンプルで、明快で、そして――葵にとっては、心地いい。
地上に戻れば、全てが複雑になる。でも、ここでは違う。
「……九条院さんとは、最近どう?」
葵が、何気ない口調で聞いてきた。しかし、その声には、わずかな緊張が混じっている。蓮はそれを敏感に察知していた。
蓮は少し間を置いてから答える。
「うまくいってる。定期的にデートしてる」
「そう」
葵はそれ以上は聞かない。ただ、短く返事をして、視線を手元の水筒に落とした。
水筒の蓋を開け、一口飲む。もう一口飲む。必要以上に時間をかけて、丁寧に蓋を閉める。その一連の動作は、いつもより慎重だった。
蓋を閉める音が、やけに大きく響いた気がした。葵は一瞬だけ肩を竦め、それから何事もなかったように立ち上がる準備を始めた。
蓮は、その様子を冷静に観察していた。
(雅のことを意識している。でも、表面上は気にしていないフリをしている)
葵の心理は、ある程度読めている。彼女は「あの夜」のことを整理できていない。そして、雅の存在が、その整理をさらに複雑にしている。
しかし、それは彼女の問題だ。
葵は水筒をバッグにしまい、軽く首を回した。いつもの飄々とした空気を取り戻そうとしているのが、蓮には見えていた。
「明日は雅と会う。次のダンジョンは明後日でいいか」
蓮が告げると、葵は一瞬だけ顔を上げた。その目には、何か言いたげな色が浮かんでいるが、すぐに消えた。
「……わかった」
短い返事だけを残して、葵は立ち上がる。蓮も続いて立ち上がり、再びダンジョン探索を続けた。
数時間後、二人はダンジョンから出た。今日の収穫は、まずまずだった。魔石もそれなりに獲得でき、経験値も積み重ねることができた。
ゲートタワーを出ると、地上の空気が顔に当たる。11月上旬の風は、思ったより冷たい。秋が、確実に深まっている。
葵は、その風に吹かれながら、少しだけ立ち止まった。ダンジョンの中の静かな空気から、地上の喧騒へ。その落差が、いつもより大きく感じられる。
ダンジョンの中では、二人だけの世界だった。でも、地上に戻れば、現実が待っている。
「じゃあ、また明後日」
蓮の声が、葵の思考を遮る。彼女は振り返り、軽く頷いた。
「……うん」
別れ際も、いつもと変わらない。葵は軽く手を振って、自分の寮へと向かっていく。
蓮は、その背中を見送る。濃い青のボブカットが、夕暮れの風に揺れている。彼女の歩く速度は、いつもより少しだけ遅い気がした。
でも、それも気のせいかもしれない。
蓮はその背中を見送りながら、静かに思考を巡らせた。
葵の様子が、少しおかしい。でも、それは彼女の問題だ。この関係を維持する。それが今は最も重要なことだった。
蓮は自分の部屋に戻り、今日の活動を振り返った。ダンジョンでの戦闘は順調だった。経験値も着実に積み重ねられている。レベルは15を超え、このペースでいけば、来年にはさらに高いレベルに到達できるだろう。
携帯電話が鳴る。雅からのメッセージだ。
「蓮さん、お疲れさまです。明日のお時間はいかがですか? 先日、新しいコンサートホールができたと聞いて。ピアノのリサイタルがあるそうなんです。もしお疲れじゃなければ、私と一緒にどうでしょうか。お食事もご一緒できたら嬉しいです」
蓮は少し考えてから、返信を打った。
「了解した。時間と場所を教えてくれ」
雅との関係も、着実に進んでいる。九条院邸でのキス、彼女の着替えを覗いたこと。あの日の出来事を思い返す。
それでも、関係の悪化などは特にない。むしろ良好だ。
雅の父からも支援を確約され、彼女自身も「婚約者として当然」という理屈で、蓮の要求を受け入れてくれる。順番さえ守れば、かなり踏み込んでも問題ない。次は、どこまで行けるか。九条院家の三女という社会的地位、良妻賢母としての洗練された振る舞い。それらは全て、蓮の野心を実現するための重要な要素だ。
葵との関係も、雅との関係も、基本的には計算通りに進んでいる。あの夜の予想外の感情は、戦略を変えるほどのものではない。ただ、その計算の中に、少しだけ予想外の要素が混じっていることは、蓮自身も認めている。
しかし、その予想外の要素が、やがてこの関係を大きく変えていくことになることには、蓮はまだ気づいていなかった。葵の視線の先に、何かが生まれ始めていること。そして、その何かが、蓮自身の心にも、予想以上の影響を与えることになること。
だが、それはまだ先の話だ。今は、この日常を維持することが、蓮にとって最も重要なことだった。
夜が更けていく。防大のキャンパスは静まり返り、学生たちの日常が、また新たな一日へと向かおうとしている。
蓮は、その静けさの中で、明日のデートのことを考えていた。雅との時間を、どう有効活用するか。順番さえ守れば、さらに踏み込める。次は、どこまで行けるか。それが、蓮の戦略だ。
彼はそう確信しながら、静かに眠りについた。




