Side葵:名前のない感情
朝の光が、カーテンの隙間から部屋に差し込んでいる。
葵は一人、ベッドに横たわり、天井を見つめていた。
時計を見る。午前6時。講義の開始まで、まだ3時間以上ある。だが、目が覚めてしまった。
昨夜のことが、頭から離れない。
蓮の部屋に行った。自分から誘った。自分から踏み込んだ。
それで――。
葵は目を閉じた。
昨夜の記憶が、鮮明に蘇る。
蓮の手の温もり。唇の感触。肌が触れ合った時の、心臓が破裂しそうなほどの緊張。
そして、風呂で後ろから抱きしめられた時。
何も言わずに、ただ髪を撫でてくれた。濡れた髪が、指の間をすり抜けていく。その感触が、なぜか優しい。
強がって「調子にのらないでね」と言った自分を、蓮は笑わなかった。ただ静かに、髪を撫で続けた。
あの時、泣きそうになった。理由はわからない。ただ、胸の奥が熱くなって、涙が滲みそうになった。
そして、帰る時の、あの虚しさ。引き止められたかったわけじゃない。……多分。
葵は枕に顔を埋めた。
(……何だったんだろう、あれは)
後悔? 満足? 嬉しい? 虚しい?
全部混ざっていて、感情が整理できない。ただ、胸の奥がざわざわと落ち着かない。心臓の鼓動が、なぜか早い。
葵はベッドから起き上がり、スマホを手に取った。
SNSのタイムラインを開く。
流れてくるのは、楽しそうなカップルの写真ばかり。「拓海さんとデート。幸せです」「健太さんが褒めてくださいました」「優さんの笑顔、最高です」
みんな、簡単に「幸せ」って投稿してる。
男性のために尽くして、喜んでもらえて、それが当たり前のように幸せそう。
普通に恋愛して、普通に関係を持って、普通に満たされてる。
羨ましい。
私は、そんな単純な感情じゃない。
高校の時、私はこういう投稿を冷めた目で見てた。「普通の女の子」を演じて、「普通の恋愛」をして、「普通の幸せ」を掴む。それが社会の期待する正解。
優秀な男性を見つけて、その隣で微笑んで、支える。それが「正しい生き方」として、当たり前のように教え込まれる。
退屈だと思ってた。その枠の中に収まるなんて、まっぴらだと。私は観察者でいたかった。誰にも依存せず、誰の期待にも応えず、ただ面白いものを探して生きていく。
それが、できると思ってた。
でも今は?
葵はスマホを置いた。
自分と蓮の関係は「普通」じゃない。
彼には婚約者がいる。正妻がいる。そして自分は――何だ?
(共犯者、って言ってたっけ。でも、昨日の私は、共犯者のつもりであんなことしたわけじゃない)
最初は、本当にゲームのつもりだった。蓮という面白い男を見つけて、退屈な世界でスリルを感じられる相手として、共犯関係を楽しむ。それだけのはずだった。
いつから変わったんだろう。いつから、ゲームじゃなくなったんだろう。
じゃあ、何のつもりだったの?
独占欲? 嫉妬? 好き? 全部? 違う気もする。
答えなんて、出るわけがない。
葵は再びベッドに倒れ込んだ。
天井の染みを数える。一つ、二つ、三つ。……馬鹿馬鹿しい。
(……とりあえず、大学行くか)
葵は重い体を起こした。
◇
午前の講義。
葵は机に教科書を広げていたが、教授の話が頭に入ってこない。
蓮は隣の席にいる。いつもと変わらない態度で講義を受けている。ノートを取り、時折教授の話に頷いている。
それが余計に葵を混乱させた。
(……何、あの冷静さ。昨日のこと、本当にどうでもいいの?)
葵も、表面上はいつも通りを装う。教科書を開き、ペンを握り、メモを取るふりをする。
でも、蓮の横顔を見るたびに、昨夜のことがフラッシュバックする。
蓮に触れられた時の感触。体温。肌を通して伝わってきた、あの鼓動。
(……ずるい)
胸がざわつく。心臓が、痛いくらいに脈打っている。
蓮がペンを回す。何でもない仕草。なのに、その指先から目が離せない。昨夜、同じ指が自分の頬に触れたことを、体が覚えている。
葵は視線を教科書に戻した。だが、文字は何も読めない。活字が踊っているように見えて、頭に入ってこない。
(……集中しなさい、水谷葵)
自分を叱咤する。でも、隣から漂う蓮の気配が、意識の端にずっと引っかかっている。
やがて講義が終わる。
蓮が立ち上がり、こちらを見た。
「今日のダンジョン活動、行くか?」
淡々とした声。
葵は短く答えた。
「……行く」
何か言いたい気がする。でも、言葉が見つからない。
蓮は何も言わずに教室を出ていった。
葵は一人、椅子に座ったまま、ため息をついた。
◇
午後。ゲートタワー第5階層。
二人でのダンジョン活動。
蓮が召喚獣を呼び出し、前衛を務める。葵は中衛で魔法を放つ。
いつものパーティ構成。
だが、今日の葵は、いつもと違う。
戦闘中は、集中できる。
蓮の指示が飛ぶ。「葵、左から三体!」
考える前に体が動く。詠唱を紡ぎ、魔力を練り上げ、《アクア・ショット》を放つ。水の弾丸がゴブリンの胸を貫く。
この瞬間だけは、余計なことを考えなくて済む。蓮との連携も、いつも通り滑らかだ。共鳴の鎖が二人の感覚を繋ぎ、言葉にしなくても意図が伝わる。
戦っている時の自分は、好きだ。迷いがない。答えを求めなくていい。ただ、目の前の敵を倒すことだけに集中できる。
だが、戦闘が終わると、すぐに現実が戻ってくる。
安全地帯で休憩する二人。蓮は召喚獣を解除し、水筒を取り出す。
「飲むか?」
何でもない声。何でもない仕草。昨日のことなんて、何もなかったみたいに。
葵は黙って水筒を受け取った。冷たい水が喉を通る。体は潤うのに、胸の奥は乾いたままだ。
(昨日、あんなことをしたのに。何も変わらない)
蓮は、雅さんを選ぶ。
それは最初から決まっていたこと。
じゃあ、私は何と戦ってるの? この敵じゃない。この感情と、だ。
葵は魔法杖を握りしめた。杖の表面が、手のひらに冷たく当たる。
戦闘が再開する。
葵は魔法を放ち続けた。《アクア・ショット》、《ハイドロバインド》。次々と魔法を紡ぐ。戦闘に没頭することで、答えの出ない問いから逃げる。逃げているだけだと、わかっている。
◇
ダンジョン活動が終わり、二人はゲートタワーを出た。
夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。
蓮と葵の二人が、並んで歩く。
沈黙。
葵は何か言いたい。でも、何を言えばいいのかわからない。
蓮が先に口を開いた。
「……昨日のこと、後悔していないか?」
その問いかけは、淡々としていた。感情が読めない。でも、その目は、葵をまっすぐ見つめている。
葵は即答した。
「してない」
それだけは確かだった。
後悔はしていない。でも、後悔していないなら、これは何? この感情は?
蓮は「……そうか」とだけ返した。
それ以上、何も聞かない。でも、その視線は、葵から離れない。
葵も、それ以上何も言えない。言葉にできない。
沈黙が続く。
夕暮れの空が、二人を包み込む。オレンジ色の光が、蓮の横顔を照らしている。
綺麗だ、と思った。銀色の髪が夕日に透けて、淡い金色に見える。その顔は、いつもと変わらない。冷静で、感情が読めない。
(……何か、言いなさいよ)
言葉を待っている自分がいる。何でもいい。「また明日」でも、「気をつけて帰れ」でも。昨日のことに触れなくてもいい。ただ、何か。
でも、蓮は何も言わない。沈黙が、夕暮れの空気に溶けていく。
葵は、皮肉の一つでも言ってやろうと思った。「昨日のこと、もう忘れた?」とか。「私のこと、どうでもいいんでしょ」とか。
でも、口を開いたら、違う言葉が出てきそうで怖い。
結局、葵は短く告げた。
「じゃあね」
精一杯の、いつも通り。
蓮は「ああ」と返す。その声は、いつもと変わらない。淡々としている。
葵はその場を離れた。振り返らない。振り返ったら、何かが崩れてしまいそうだった。
蓮の視線を背中に感じながら、葵は歩き続けた。
その視線が、なぜか重く感じられた。見送られているのか、見透かされているのか、わからない。
◇
夜。寮の自室。
葵は再び一人、ベッドに横たわり、天井を見つめていた。
整理できない。
私は、何がしたいんだろう。
蓮を独占したい?
でも正妻になりたいわけじゃない。
昔の私なら、こんな風に感情に振り回されることなんてなかった。冷静で、観察者で、全部を俯瞰してた。誰かに依存するなんて、ありえなかった。
それが、今は。
なりたいのか?
それも答えが出ない。
昨日、あんなことして。それで何か変わった?
何も変わってない。
蓮は相変わらず雅さんと結婚する。私は……何?
好きなの?
違う気がする。でも嫌いじゃない。
じゃあ何? 執着? 依存? 全部?
どれも違う気がする。
葵は再びスマホを手に取ろうとしたが、手が止まった。
もう、見たくない。
SNSの投稿を見ても、答えは出ない。みんなが簡単に言葉にできる「好き」という感情が、自分には見つからない。
葵はスマホを置き、ベッドに倒れ込んだ。
胸の奥が、重い。何かが詰まっているような、でもそれが何なのかわからない。
このままでいいのか?
いいわけない気がする。
でも、じゃあどうしたい?
答えが出ない。
葵は目を閉じた。
暗闇の中、ただ一つだけ、確かなことがある。
(わからない。でも、確かなことが一つだけある)
私は、蓮から離れられない。
それが、愛なのか、依存なのか、執着なのか、それとも全く別の何かなのか。
葵自身にも、まだわからなかった。
ただ、この名前のない感情だけが、確かに胸の奥で渦巻いている。
葵はベッドの中で、体を丸めた。
明日も、蓮と会う。
明日も、蓮と二人でダンジョンに行く。
明日も、この曖昧な関係が続く。
それでいいのか?
答えは出ない。
でも、離れられない。
葵は枕に顔を埋めた。
答えの出ない問いだけが、頭の中でぐるぐると回り続けていた。




