葵との夜、焦燥の果てに
夕暮れの空がオレンジ色に染まる頃、蓮と葵はゲートタワーからの帰路についていた。
ダンジョンでの活動を終え、いつものように並んで歩く二人。蓮は今日の活動での収穫を頭の中で整理していたが、ふと隣を歩く葵の様子が気になった。
いつもなら、今日の戦闘について軽口を叩いたり、雅の支援について皮肉めいた感想を述べたりするのに、今日の葵は妙に静かだ。視線は前を向いているが、どこかぼんやりとしている。
「そういえば、この前の休日、雅の家に行ったんだ」
蓮が何気なく口にした。
その瞬間、葵の足が一瞬だけ止まった。ほんの一瞬。すぐに歩き出したが、蓮はその変化を見逃さなかった。
「……そう」
短く返す声は、いつもの飄々としたトーンではない。少しだけ硬い。
葵は視線を前に向けたまま、表情を変えない。だが、その横顔には、いつもの余裕が微塵も感じられなかった。
蓮はその変化を冷静に観察しながら、何も言わずに歩き続けた。
「夕食、一緒にどうだ?」
「今日はいい」
即答だった。
いつもなら葵は、「奢ってくれるならいいわよ」と軽口を叩きながらも付いてくる。だが今日は違った。断るときの声に、いつもの挑発的な響きが一切ない。
「そうか」
蓮は何も言わず、その返事を受け入れた。
二人は寮の前で別れ、それぞれの部屋へと向かった。葵の背中は、いつもより少しだけ小さく見えた。
◇
夜10時過ぎ。
蓮はシャワーを浴び終え、部屋着に着替えて自室の机に向かっていた。講義のレポートを書いている最中だったが、ふと手が止まる。
蓮はペンを置き、椅子の背もたれに体重を預けた。
今日の葵の様子が、頭に浮かぶ。
いつもと違う、あの硬い声。余裕のなさ。そして、夕食の誘いを断ったときの表情。
蓮は静かに息をついた。
その時、インターホンが鳴った。
蓮は時計を見る。22時12分。こんな時間に誰だ。
立ち上がり、ドアへと向かう。モニターを確認すると、そこには葵が映っていた。
ドアを開けると、葵が立っている。
「あら、蓮。こんな時間にごめんね。ちょっと来ちゃった」
少し珍しい、いつもより明るいトーンだった。
髪はまだ少し湿っており、風呂上がりらしい。黒のキャミソールにショートパンツ、その上に薄手のカーディガンを羽織っている。だが、蓮はある違和感に気づいた。
風呂上がりのはずなのに、葵は化粧をしている。
「こんな時間に、何かあったのか?」
「別に。ちょっと話がしたくなっただけ」
葵はそう言って、蓮の返事を待たずに部屋に入ってきた。いつものように、ソファに腰を下ろす。
「部屋、暖かいね」
葵はそう言いながら、カーディガンを脱いだ。黒のキャミソールから、白い肩と鎖骨が露わになる。10月の夜にしては、少し薄着すぎる格好だ。
蓮は向かいの椅子に座った。
葵が窓の外を見ながら口を開く。
「今日は少し寒かったわね」
「そうだな」
短い返事だけ。会話が続かない。
葵はソファに背を預けながら、ふと言った。
「今日のダンジョン、順調だったわね」
「ああ。お前の連携も良かった」
蓮は葵を見つめた。葵の視線は窓の外に向いたまま。
「もうすぐ11月ね。来月には第六階層も視野に入れられそう」
「そうだな」
葵は軽い口調で言ったが、その声には何の感情も乗っていなかった。
蓮は何も言わない。
沈黙。
葵の指が、ソファの縁を軽く叩く。規則的なリズムだったそれが、次第に不規則になっていく。リズムが乱れるたびに、葵の肩がわずかに震える。
「……そういえば」
葵が何か言いかけて、止まった。
「何だ?」
「いえ、何でもない」
また沈黙。
今度の沈黙は、さっきより長い。部屋の空気が、わずかに重くなった。時計の秒針が、カチカチと響く。
葵は窓の外を見たまま、何かを考えているようだった。その横顔は、いつもの余裕を失っている。指がソファの縁を叩くリズムが、さらに乱れる。そして、突然止まった。
葵の呼吸が、わずかに浅くなる。
「……蓮」
葵がゆっくりと蓮の方を向いた。
その瞳の色が、変わっていた。
さっきまでの明るさは消え、代わりに何か別の感情が渦巻いている。
そして――突然、葵が立ち上がり、蓮に顔を近づけた。
その動きは、まるで何かに追い詰められた獣のように、ぎこちなく、しかし決意に満ちていた。
葵の唇が、蓮の唇に触れる。最初は硬く、震えていた。だが、すぐに強引に、まるで何かを証明するかのように、まるで自分の感情を確かめるかのように、貪るようなキスへと変わる。
蓮は驚いたが、すぐに冷静さを取り戻した。葵の身体が、わずかに震えている。その震えが、彼女の内面の混乱を物語っていた。
(――これは、予想していた展開だ。だが、彼女がここまで追い詰められていたとは)
やがて唇を離した葵は、少し乱れた呼吸で、挑発するように笑おうとした。だが、その瞳は笑っていない。目が、わずかに潤んでいる。
葵の声が、蓮の耳元で囁く。
「……私としてみたくない?」
その言葉には、いつもの余裕はなかった。どこか自暴自棄な響きがある。追い詰められた獣のような、危うさが滲んでいる。
蓮は葵の肩を掴み、少し距離を取った。真剣な目で見つめる。
「……本気か?」
「本気よ」
葵はツンとした表情で答える。だが、その強がりの裏に、何かが隠れている。
「今どきの大学生なんて、みんなこんなものよ。付き合ってなくても、成り行きで……なんて話、珍しくないでしょ。私たち、もう何ヶ月も一緒にいるんだから」
わざと軽い口調で言う。でも、その瞳は笑っていない。葵は自分の言葉で、自分を納得させようとしているようだった。
「それに……」
葵は少しだけ目を逸らした。
「初めてが、あなたなら……悪くないかなって」
その言葉は、強がりと本音が混ざり合ったものだった。でも、本音が何なのか、葵自身もわかっていない。ただ、そう言うしかなかった。
「ここから先は止まれないぞ」
「ええ」
葵はツンとした表情で答えた。
蓮は葵を抱き寄せた。
葵も、その腕に身を委ねる。
再び、唇が重なる。さっきのような激しいものではなく、ゆっくりと、確かめるような口づけ。
葵の身体が、わずかに強張っている。呼吸が浅い。
蓮はゆっくりとベッドへ向かい、葵を優しく横たわらせた。葵の髪が、白いシーツの上に広がる。
蓮は葵の横顔を見つめた。白いシーツの上に広がる濃い青の髪。緊張で固くなった肩。それでも、彼女の瞳は蓮をまっすぐ見つめている。
蓮が葵の黒いキャミソールの裾に手をかけると、葵の息が一瞬止まった。
「……」
葵は何も言わなかったが、その瞳は蓮をまっすぐ見つめている。
ゆっくりと、キャミソールが持ち上げられていく。
葵の肌が、少しずつ露わになる。滑らかな腹部、そして胸の膨らみ。
キャミソールが脱がされると、そこには葵の髪と同じダークブルーのブラジャーがあった。レースの装飾が施された、大人びたデザイン。
「……綺麗だな」
蓮が素直に言うと、葵は顔を赤くした。
「……そういうこと、言わないでよ」
でも、その声には嬉しさが滲んでいる。
蓮は葵のショートパンツに手をかける。葵が小さく息を呑む音が聞こえた。
ゆっくりと、ショートパンツが下ろされていく。
下着は上下で揃えられていた。ダークブルーのショーツ。風呂上がりのはずなのに化粧をしていた理由が、今になって理解できた。
葵は、最初からこうなることを想定していたのだ。
「……見ないでよ」
葵が恥ずかしそうに視線を逸らす。だが、その身体は蓮を拒んではいない。
「見るなと言われても無理だ」
蓮は葵の身体を見つめながら、その肩に口づける。
「ん……」
葵が小さく声を漏らした。
蓮の唇が、葵の首筋をゆっくりと這う。鎖骨、肩、そして胸元へ。
「あ……」
葵の呼吸が乱れ始める。
蓮の手が、葵の身体を撫でる。腰のライン、背中のライン。葵の身体が、わずかに震えた。
「ん……」
葵の声が、少しずつ甘くなっていく。
蓮の指が、ブラジャーのホックに触れる。葵の身体が、緊張で固くなった。
カチリ、という小さな音。
ホックが外れる。
ブラジャーが、ゆっくりと剥がされていく。葵の胸が露わになる。
普段着からは分からなかった——想像以上に豊かな膨らみが、蓮の目に飛び込んできた。華奢な身体に不釣り合いなほど、その双丘は形よく張りがあった。
「……っ」
葵は視線を逸らそうとしたが、蓮が顔を近づけてきたため、目を閉じた。
蓮の唇が、葵の肌に触れる。
「あっ……」
葵の身体が、ビクリと反応する。
蓮の手が、ショーツの縁に触れる。
「……」
葵は何も言わなかった。ただ、蓮の肩に手を置いて、ぎゅっと握りしめた。
ゆっくりと、ショーツが下ろされていく。
葵の呼吸が、さらに乱れる。
「……蓮」
葵が小さく名を呼ぶ。その声は、熱を帯びて掠れていた。
蓮は葵を抱きしめた。
葵も、その腕にしがみつく。
やがて――。
二人だけの、濃密な時間が過ぎていった。
◇
葵は蓮の胸に顔を埋めたまま、小さく息をついた。
汗ばんだ肌が密着している。蓮の腕が、葵の背中を優しく撫でる。
(……何、これ)
葵の胸に、複雑な感情が渦巻いていた。満たされたような、それでいて何かが壊れたような。
蓮を独占したはずなのに、どこか虚しい。
(でも……温かい)
蓮の体温が、葵の身体を包み込んでいる。この温もりが、今の葵には何よりも必要だった。
「……風呂、入るか」
蓮の声が、静かに響く。
葵は小さく頷いた。
◇
蓮の部屋の風呂。
シャワーを浴び終えた葵は、先に湯船に浸かっていた。
湯気が立ち込める中、ぼんやりと天井を見つめている。
蓮もシャワーを浴び終え、湯船の縁に手をかけた。
「俺も入るぞ」
「……ええ」
葵は短く答えた。
蓮は湯船に入ると、葵の後ろに座った。葵の背中が、蓮の胸に触れる。
葵の身体がわずかに緊張したが、蓮はそのまま葵を後ろから抱きかかえるように腕を回した。
「……っ」
葵は何も言わなかった。ただ、蓮の腕に身を委ねる。
しばらくの間、二人の間に会話はなかった。
湯船の水が揺れる音だけが、静かに響いている。
葵は湯船の縁に腕を置き、顎を乗せて、ぼんやりと湯気の向こうを見つめている。
蓮の腕の中で、葵の身体が少しずつ力を抜いていく。
沈黙。
やがて、葵が小さく口を開いた。
「……ねえ、蓮」
「何だ?」
「一回やったくらいで、今後調子にのらないでね」
わざとらしく軽い口調で言う。だが、その声には、わずかな震えが混じっている。
「私、別に……あなたのこと、そこまで特別に思ってるわけじゃないから」
その言葉を聞いて、蓮は何も言わなかった。
ただ、静かに手を伸ばし、葵の髪をゆっくりと撫でる。濡れた髪が、指の間をすり抜けていく。その感触が、なぜか優しい。
さっきまでの情事の余韻が残る中での、この強がり。蓮はあえて何も指摘しなかった。
その優しい仕草に、葵の強がりが一瞬だけ揺らいだ。
(……何、それ。ずるい)
言葉が出てこない。胸の奥が、わけもわからず熱くなる。視線を逸らし、湯船の中に沈み込む。
蓮の手が、葵の頭を優しく撫で続ける。
その温もりが、かえって葵を苦しくさせた。
◇
深夜1時過ぎ。
「じゃあ、帰るね」
葵は立ち上がった。服を着て、髪を軽く整える。鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらないように見えた。でも、何かが違う。
蓮は「泊まっていけばいい」とは言わなかった。引き止めない。
葵もそれを予想していたかのように、「……そうね」とだけ返した。
部屋を出る直前、葵は振り返らずに小さく呟く。
「……おやすみ」
「おやすみ」
蓮も短く返した。
ドアが閉まる音。廊下に響く足音が、次第に遠ざかっていく。
一人残された蓮は、ベッドに腰を下ろし、天井を見上げた。
しばらく、何も考えずにいた。
やがて、口元に笑みが浮かぶ。
蓮は右手を見つめた。さっき、葵の背中を抱いた手。彼女の震えが、まだ指先に残っている。
(――ようやく、ここまで来たか)
水谷葵。
深い海のような濃紺の瞳。光を吸い込む濃い青の髪。すっと通った鼻筋に、柔らかな曲線を描く唇。華奢だが均整の取れた身体は、触れてみると想像以上に柔らかかった。
あの容姿だ。男が放っておくわけがない。
講義室で彼女が席に着けば、周囲の男子学生の視線が集まる。声をかけようとして、結局できずに終わった連中を何人も見てきた。女子学生の間でも、羨望と嫉妬が入り混じった複雑な視線を向けられている。
SNSのフォロワーは数万人。彼女の投稿には称賛のコメントが並び、同世代のファッションリーダーとして影響力を持っている。
戦闘能力も申し分ない。水魔法士としての実力は同学年でも上位、俺との連携は完璧だ。
(俺のコレクション第一号としては、申し分のない逸品だ)
そして何より——あの女は、自分から来た。
誰に強制されたわけでもない。俺が命じたわけでもない。彼女自身の意思で、この部屋を訪ね、自分から唇を重ね、自分から服を脱いだ。
(これだ。この構図こそが、たまらない)
無理やり奪うのではなく、相手が自ら望んで差し出す。高嶺の花が、自分の意思で俺の前に跪く。その過程こそが、俺の求めていたものだ。
半年以上かけて、少しずつ距離を詰め、依存させ、追い詰めた。そして今夜、彼女は自ら堕ちてきた。
胸の奥で、暗い満足感が広がっていく。
(最高だ)
だが、その笑みは、やがて少しだけ柔らかくなった。
風呂で葵の髪を撫でた時のことを思い出す。彼女の強がりが、一瞬だけ揺らいだ。あの時、胸の奥に予想外の何かが広がった。支配欲とは違う、もっと単純な——。
(……情か)
最初は「面白い女」だと思っていた。支配下に置きたい、最初の獲物。だが、いつの間にか、彼女は単なる駒を超えた存在になっていた。
(まあ、半年も一緒にいれば、多少の情は湧く。それだけのことだ)
蓮は自分を納得させるように、そう結論づけた。
天井を見つめたまま、静かに目を閉じる。
(だが、戦略は変わらない。葵も、雅も——全て、俺のものにする)
部屋には、もう誰もいない。
だが、葵の香りだけが、わずかに残っていた。
その香りを、蓮は深く吸い込んだ。
葵は手に入れた。次は——。
蓮の視線が、窓の外の夜空に向いた。どこか遠くに、九条院邸があるはずの方角。
(雅)
あの完璧な淑女を、自分の色に染め上げる。その想像だけで、身体の奥が熱くなる。
蓮の唇に、静かな笑みが浮かんだ。




