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偶然の遭遇


 九条院邸を出た蓮と雅は、静かな住宅街を抜けて、光来市の中心部へと向かっていた。


 午後3時過ぎ。まだ日差しは明るく、秋の穏やかな空気が二人を包んでいる。


 雅の手が、蓮の手の中に自然と収まっている。その感触は、先ほどまでの着替えの場面とは違う、日常的な親密さを感じさせた。


 二人はまず、雅が以前から気になっていたという小さなカフェに立ち寄った。落ち着いた雰囲気の店で、窓際の席に座る。雅はハーブティーを、蓮はコーヒーを注文した。


「この前、美術館で見た日本画の展覧会について、もう少しお話しできたらと思いまして」


 雅が穏やかに口を開く。


「ああ、楽しみだ」


 蓮は相槌を打ちながら、雅の横顔を見つめた。先ほどの着替えの場面から、彼女の表情は完全に落ち着きを取り戻している。完璧な令嬢の仮面が、再び顔を覆っている。


 だが、その仮面の下に、わずかな動揺の残滓が残っていることを、蓮は見逃さなかった。


 カフェでの会話は、和やかに続いた。芸術の話、大学の話、最近読んだ本の話。雅は蓮の言葉に真剣に耳を傾け、時折楽しそうに微笑む。


 蓮は内心で確認する。


 (順調だ。雅は俺との時間を楽しんでいる。そして、先ほどの要求も受け入れた。このペースで、さらに踏み込んでいける)


 カフェを出た後、二人は街を散策した。商店街を歩きながら、雅が興味深そうに見つめる店のウィンドウを一緒に眺めたり、小さな雑貨屋に立ち寄ったり。


 雅は蓮の半歩後ろを歩く、この世界の女性にとって自然な立ち位置。その距離感が、二人の関係を象徴しているようだった。


 蓮は雅の手を握りながら、内心で満足していた。


 (この女は、完璧だ。気品、教養、そして従順さ。全てが揃っている。そして、俺の要求を受け入れる柔軟さも)


 商店街を抜け、少し広めの通りに出た。週末の午後ということもあり、人通りはそれなりに多い。カップルや家族連れ、学生の姿も見える。


 その時、蓮の視線が、通りの向こう側に一人の女性の姿を捉えた。


 濃い青色のボブカット。機能的なパンツスタイルに、上着を羽織った姿。肩には小さなショルダーバッグをかけている。


 その女性は、一人で歩いていた。視線は前を向いているが、どこかぼんやりとしているように見えた。手には、小さな紙袋を提げている。装備のメンテナンス用品を購入したのだろうか、それとも気分転換のための一人での外出だったのだろうか。


 蓮は一瞬、その姿を見つめた。


 (――葵か)


 葵は、今日は一人で市街地に来ていた。週末の外出許可を使って、装備のメンテナンス用品を購入するため、あるいは単に気分転換のために。ダンジョンでの活動が続き、少し息抜きが必要だったのかもしれない。


 だが、その表情には、いつもの飄々とした余裕が感じられなかった。どこか、考え事をしているような、あるいは何かに悩んでいるような、そんな雰囲気が漂っている。


 その瞬間、葵がふと視線を上げた。


 そして、通りの向こう側にいる蓮と雅の姿を、目にした。


 葵の体が、一瞬だけ固まった。


 頭では「雅の存在」を知っていた。見合いの話も聞いていた。公示も見ていた。


 だが、実際に蓮と雅が手を繋いで歩く姿を、目の当たりにするのは初めてだった。


 葵の表情が、わずかに変わる。驚き、そして――何か別の感情が、その瞳の奥に浮かんだ。


 雅の完璧な立ち居振る舞い。気品のある服装。そして、蓮の隣にいる姿。それは、葵にはない「正しさ」を、まざまざと見せつけているようだった。


 葵は、自分が持っていないものを、目の前に突きつけられたような気がした。雅の完璧さ、気品、そして――蓮の隣にいる権利。


 蓮は葵の視線に気づいた。一瞬、目が合う。


 蓮は驚いた様子を見せず、静かに雅に告げる。


「雅、少し待っていてくれ」


「ええ」


 雅は穏やかに頷いた。だが、蓮が向かった先に女性がいることに気づき、内心で動揺する。その表情は完璧な笑顔で覆い隠されているが、視線だけは蓮の動きを追っている。


 蓮は葵の方へ歩いていく。


 葵は、その場に立ち止まったまま、蓮を見つめている。表情は、いつもの飄々とした余裕を失っている。


「葵。偶然だな」


 蓮は淡々と告げる。内心では、面白い展開だと愉しんでいる。


「……ええ」


 短く返す声は、いつもの調子ではない。視線は蓮の後ろにいる雅に向いている。


 雅は少し離れたところで立ち止まり、蓮と葵のやり取りを見守っている。その姿は、完璧な令嬢としての気品を保っているが、内心では複雑な感情が渦巻いている。


 蓮は葵の視線の先を理解し、静かに告げる。


「ああ、紹介しよう」


 蓮は雅を手招きする。


 雅が近づいてくる。その歩き方は、流れるように自然で、完璧な立ち居振る舞いを崩さない。


 三人は通りの端で向き合う形になる。微妙な緊張感が、空気の中に漂っている。


 蓮が二人を紹介する。


「雅、こちらは水谷葵、俺のパーティメンバーだ」


「葵、こちらは九条院雅さん」


 雅は一瞬の動揺を完璧な笑みで覆い隠す。


「水谷さん。初めまして」


 丁寧に、だが距離を保つ口調だった。


「……初めまして」


 葵は短く、抑えた声で答える。複雑な表情を浮かべている。


 雅の視線が、蓮と葵の距離感を静かに観察している。蓮は葵のことを下の名前で呼んでいた。親密な関係――その事実が、雅の心に小さな波紋を広げる。


 雅は、内心で考えていた。パーティメンバーという言葉は、確かに正しい。だが、その距離感は、ただの戦友というには近すぎる。蓮の口調、葵の反応。そこには、何か別のものが潜んでいるように感じられる。


 だが、雅はそれを口にすることはない。婚約者として、夫となる方の過去や関係性を詮索することは、良妻賢母として適切ではない。ただ、胸の奥に、わずかな違和感が残る。


 葵の視線は、蓮と雅が繋いでいた手に吸い寄せられる。雅の気品、美しさ、立ち振る舞い。そして、蓮の隣にいるのは自分ではなく雅だという現実。


 葵は、自分が何を感じているのか、言葉にできない。嫉妬? 劣等感? それとも、もっと別の何か? 全てが混ざり合って、胸の奥でざわついている。


 短い沈黙が、三人の間に流れる。


 誰も次の言葉を見つけられない。通りを歩く人々の足音や、遠くから聞こえる車の音だけが、この不自然な静けさを際立たせる。


 蓮は冷静に、二人の反応を観察している。


 (面白い。葵の動揺、雅の動揺。そして、この微妙な空気)


 葵は、何か言おうとして、口を開いた。だが、言葉が出てこない。


「……それじゃ、私はこれで」


 短く告げて、立ち去ろうとする。


「ああ。また明日」


 蓮は淡々と告げる。


「……ええ」


 葵は一瞬だけ蓮を見て、それから雅を見る。何も言えず、背を向けて歩き出す。


「失礼いたします」


 雅は静かに一礼する。完璧な笑顔だが、目は複雑な光を宿している。


 葵は一人、通りを歩いて行く。振り返ることはしない。胸の奥が苦しい。


 雅の完璧さが、頭から離れない。あの気品、あの立ち居振る舞い。そして、蓮の隣にいる権利。全てが、葵にはないものだった。


 葵は、自分が何を感じているのか、まだ整理できていない。ただ、胸の奥がざわついて、落ち着かない。


 後ろには、蓮と雅が並んで立っている。葵の背中を見送る二人。


 蓮は雅と歩き出しながら、内心で確認する。


 (面白い展開だった。葵の反応、雅の動揺、そしてあの微妙な空気。葵は動揺している。雅の存在を、具体的な「敵」として認識した。これで、彼女の焦燥感はさらに深まるだろう)


 蓮は雅の手を握りながら、次の一手を考えていた。


 (今日は、十分すぎる成果だった。雅の着替えを見て、街を歩いて、そして葵との遭遇。全てが、計画通りだ)


 二人は、そのまま街を歩き続けた。


 午後の日差しが、二人の背中を照らしている。



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