再会と記憶の断片
ガイダンスから2時間後。講義棟の廊下は、解放感と新たな始まりへの期待がないまぜになった学生たちの熱気に満ちていた。
周囲の学生たちがこれからのサークル活動や寮生活に胸を躍らせる中、神谷蓮の思考はすでに次の一手、これからの大学生活をいかに戦略的に進めるかという冷静な分析へと移行していた。
彼の頭の中では4年間の計画が緻密に描かれており、履修講義の最適解も出ている。
任意参加の履修登録相談会に彼自身の用件はなかったが、有望な新入生たちの動向を探るには好都合な場所でもあった。蓮は、人間観察という実利のために、あえてその喧騒の中へ足を運ぶことにした。
人の流れに乗って、履修登録相談会が開かれているラウンジへと向かう。ガラス張りで開放的なその空間は、すでに多くの新入生でごった返していた。どの顔も、国家の未来を担うエリートとしての自負と、未知への好奇心で輝いている。
そんな中、ふと、人垣の向こうにひときわ目を引く姿が映った。窓から差し込む午後の陽光を鈍く返す、美しい濃青のボブカット。濃い青が揺れるたびに光を吸い込み、輪郭だけがきらりと際立つ。
(あれは……水谷、か)
入学式の時に遠くから見かけたが、こうして間近で見ると、その存在感は圧倒的だった。見覚えのある横顔。それが同じ高校の出身である、水谷葵だと気づくのに、そう時間はかからなかった。彼女もまた、蓮と同じく、適性発現の際に髪と目の色が変わるという、50人に1人ほどの稀有な体質だった。
高校時代の彼女は、成績優秀だが目立つタイプではなく、どこか達観したような静かな雰囲気を纏っていた。しかし今、蓮の目の前にいる彼女は、まるで別人のように洗練された美しさを放っている。
切れ長の瞳は、まるで深い海のような濃紺で、そこに宿る光には、周囲を冷静に見渡す鋭さと、どこか人を惹きつける妖しさが同居していた。すっと通った鼻筋と、柔らかな曲線を描く唇は、笑みを浮かべていないのに、どこか余裕を感じさせる。
その表情は、まるで周囲の喧騒を一枚のガラス越しに眺めているかのようだった。
華奢だが均整の取れた体つきは、露出の多くない服装の上からでも、その洗練された美しさを主張していた。彼女の立ち姿には、自信に満ちた凛とした空気がありながら、どこか力の抜けた自然体の魅力も感じられる。
その絶妙なバランスこそが、彼女を単なる「美人」ではなく、人の目を釘付けにする「何か」へと昇華させているのだろう。
蓮は以前、彼女がSNSで多くのフォロワーを抱えているという話を耳にし、興味本位で一度だけそのアカウントを覗いたことがあった。画面越しに見た彼女も十分に魅力的だったが、実物はその何倍も魅力的だった。
ただ華やかなだけではない。自信に満ちた立ち居振る舞いの奥に、どこか底の知れない空気が漂い、それが彼女の複雑な魅力を形作っていた。
適性者としての覚醒が、内面からの自信となって彼女を輝かせているのだろう。その複雑な魅力こそが多くの人々を惹きつける理由だと、蓮は冷静に分析した。
(……水谷、か。見違えたな。だが、ただ外見が洗練されただけではない)
蓮は、ラウンジの喧騒の中で、彼女だけが周囲の空気に染まらず、一枚隔てた場所に立っているように見えた。それは、高校時代に時折感じた、他人を冷静に観察する目の光と同じだ。
(SNSでの影響力、稀有な身体的変化、そして、あの流されない立ち姿。一つ一つは小さいが、揃えば……)
蓮の視線は、自然と彼女の輪郭を追っていた。華奢な肩のライン、すっと伸びた背筋、周囲に流されない凛とした佇まい。そのすべてが、まるで磨かれた宝石のように、彼の目に映る。
胸の奥で、何かが静かに熱を持ち始めた。
それは単純な欲望ではない。もっと複雑で、もっと暗い衝動だった。未加工だが質の高い原石を見つけた鑑定家のような、冷たい興奮。気高いものほど、美しいものほど、手折って、組み敷いて、自分だけのものにしてしまいたくなる。
(……そうだ。これが、俺の本質だ)
蓮は、自分の内側で蠢く歪んだ欲望を、冷静に認識した。
この女は、ただ眺めているだけでは物足りない。手に入れて、飾って、俺だけのために輝かせたい。その衝動が、理性の底から湧き上がってくる。
(まずはじっくりと見極めるとしよう)
彼の目が細められる。
(ふさわしいと判断したなら、時間をかけてでも手に入れる。俺だけのために奉仕し、俺だけの色に染まるよう、内も外も徹底的に)
彼は隙のない笑みを表情に貼り付け、長期的な「捕獲計画」の第一歩を踏み出すことを静かに決めた。まずは接触し、油断させ、情報を引き出す。それがすべての始まりだ。
順番待ちの列にいる彼女を見つけると、蓮は人混みに紛れるようにして、ごく自然にその背後へと立った。そして、人当たりの良い、柔らかな笑みを浮かべて声をかける。
「もしかして……水谷か? 久しぶりだな。やっぱりこの大学だったんだな」
呼ばれた彼女は、一瞬、驚いたように肩を揺らし、ゆっくりと振り返った。そして、蓮の顔を認めると、その整った顔立ちに、花が咲くような、磨かれた笑みを浮かべた。
「神谷君……ご無沙汰しています。まさか同じ大学だなんて、奇遇ですね」
彼女はそう言って微笑むが、その目は値踏みするように細められていた。蓮はその視線を受け流しながら、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、今日のガイダンスで見かけた気がしたんだが。水谷は何組なんだ?」
「3組ですよ」
「同じだな」
葵は少し意外そうに目を瞬かせ、それからくすりと笑った。
「そうなんですね。それはまた……奇遇が重なりますね」
一瞬、二人の間に沈黙が落ちる。同じクラスという事実が、互いに新たな意味を持ち始めたのを感じる間だった。蓮は視線を周囲に巡らせ、話題を切り替えるように言った。
「それにしても、すごい熱気だな。入学式より疲れるかもしれない」
蓮が軽く笑いながら言うと、葵もくすりと笑った。
「ふふ、なんだか私たちまで、あの熱気に当てられてしまいそうですね」
その言い方には、自分たちを喧騒から一歩引いて見ているような響きがあった。蓮はそれに応じるように、話を続ける。
「そういえば。水谷のジョブは確か『水魔法士』だったっけ」
「ええ。神谷君こそ、『召喚師』でしたよね? とても珍しいジョブだったので覚えていますよ」
その、どこか懐かしさを感じさせる声の響きと、高校時代に時折感じた探るような視線を思い出し、蓮の意識は自然と1年前の記憶の断片へと誘われていった。
* * *
高校2年の春、クラス替えで初めて彼女と同じクラスになった。それが、水谷葵との最初の出会いだった。
当時の蓮にとって、彼女は「真面目なだけのクラスメイト」の1人に過ぎなかった。特に親しく話すこともなく、教室という閉じた空間を共有する、ただそれだけの関係。
しかし、時折、理由の分からない視線を感じることがあった。他の女子生徒たちが向ける、分かりやすい好奇や憧憬とは質の違う、何かを探るような、それでいて非難の色はない、静かな視線。
その視線の主が水谷葵であることに気づいてからも、蓮はその意図を測りかねていた。
状況がわずかに変化したのは、蓮の適性が発現し、その髪と瞳の色が変わった日だった。クラス中の誰もが、驚きと羨望の入り混じった目で彼を遠巻きに見つめる中、彼女だけは少し違う、複雑な表情を浮かべていた。
それは、まるで未知の生物を観察するような興味と、急に遠い存在になってしまったことへの戸惑いが同居したような、不思議な色合いをしていた。
同じ適性者と分かってからも、廊下ですれ違う際に、何かを探るような含みのある視線を交わすだけ。言葉を交わすことはほとんどなかったが、互いが「同類」であり、同時にどこか「異質」な存在であることを、無言のうちに意識し合っていたように思う。
しかしながら、彼女のあの静かな視線に込められた意味は、結局、卒業するまで分からないままだった。
* * *
「――神谷君?」
葵の声で、蓮は思考の海から現実へと引き戻された。目の前で彼女が、履修案内の分厚いパンフレットを、どこかつまらなそうに指でなぞっている。色分けされた付箋が何枚も飛び出し、角は丁寧に揃えられていた。
「どうした、つまらなそうじゃないか。お望みの講義でもなかったか?」
蓮が会話を続けると、葵は顔を上げ、悪戯仲間を見つけたかのように、ふっと口元を緩めた。だがその目は、笑っていない。
「生活デザイン論が必修、ですものね。ええ、とても……有意義な講義ばかりで、目移りしてしまいます」
蓮もその講義名は知っていた。女子学生にのみ課された必修科目で、表向きは「豊かな生活設計」を謳いながら、その実態は良妻賢母としての素養を磨く、いわゆる家庭科教育の発展版だ。
パンフの角を、彼女は指先で2度、軽く弾いた。その仕草は、まるで退屈な玩具を放り投げる直前のようだった。
その、思いがけず漏れ聞こえた本音――否、計算された皮肉に、蓮は内心で小さく息をのんだ。だがそれ以上に、彼の興味を引いたのは、彼女がその皮肉を口にした後、蓮の反応を値踏みするように見つめてきた、あの猫のような目だった。
(なるほど、彼女もただの優等生ではない、か……)
その発見は、蓮にとって意外な喜びであり、同時に彼女という人間への強い興味を掻き立てられるものだった。
だが蓮は、すぐに別の事実にも気づいた。
(……いや、違うな。これは試されている)
「まあ、優秀な学生ほど、そういう『有意義』な講義を熱心に受けるものさ」
蓮は、わずかな間を置いて続ける。
「俺たちも、せいぜい真面目なフリをしとかないとな」
その予想外の返答に、葵は少しだけ目を見開き、探るようにじっと蓮の目を見つめ返した。沈黙が、二人を包む。その沈黙は、互いの本質を測り合う、静かな攻防のようだった。
やがて彼女の表情がふっと和らぎ、少し困ったような、それでいて心底楽しそうな、複雑な微笑みが浮かんだ。その笑みには、まるで「面白いものを見つけた」とでも言いたげな、挑戦的な光が宿っていた。
「……神谷君って、やっぱり面白いね。高校の時から、ちょっとだけ、そんな気はしてた」
不意に投げられた、親密さの滲むタメ口。蓮は一瞬、意表を突かれて言葉に詰まる。
この世界の女性は、かなり親しい関係でない限りは男性に対して一歩引いた丁寧な言葉遣いを徹底するよう教育されているはずだ。その規範から逸脱してみせる彼女の行動は、無意識なのか、あるいは意図的なのか。
彼女のその小さな反逆に、蓮は純粋な驚きを禁じ得なかった。だがそれは、決して不快なものではない。
むしろ、駒だと思っていた相手が、突如としてプレイヤーとしての意思を示したことへの、面白さが込み上げてくる感覚だった。彼の計画が乱されたわけではない。ただ、目の前の彼女という存在が、当初の想定より、少しばかり興味深い存在なのだと、改めて認識させられただけだ。
その事実に、蓮は思わず口元を緩めた。
その言葉は、二人の間にあった見えない壁を、少しだけ打ち壊したように感じられた。
結局、二人は近くの空いている相談ブースで、並んで履修の相談を受けることになった。当たり障りのない会話を交わしながらも、蓮の胸には新たな感情が芽生え始めていた。
(この女は、案外面白いかもな)
単に「コレクション」として手元に置くだけでは、惜しい。
あるいは、この素晴らしき世界を渡る「共犯者」にさえ、なり得るのではないか。そんな可能性が、蓮の頭をよぎった。
蓮はポケットの中の端末を一度だけ起動し、スケジュールに目印を一つ置く。そしてすぐに画面を伏せた。それで十分だった。
(最初の一手は、小さな仕込みでいい。気づかれずに近づき、静かに積み重ねる)
一方の葵もまた、他の誰とも違う視点を持つ蓮に対し、退屈な日常をかき乱してくれそうな、強い興味と期待を抱き始めていることには、まだ気づいていなかった。




