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九条院邸への招待(後編)


 キスを交わした後、二人はしばらくの間、無言で座っていた。


 雅の部屋の窓からは、先ほど二人で歩いた庭が見える。


 蓮は雅の手を握ったまま、その横顔を静かに眺めていた。雅の頬は、まだほんのりと赤く染まっている。その表情には、戸惑いと、それを隠そうとする気品が混在していた。


 蓮は、雅の内面を推し量った。キスを受け入れたのは、婚約者としての役割からだろう。だが、その瞬間の彼女の瞳には、確かに何かが揺れていた。それは恋愛感情なのか、それとも役割への献身なのか。蓮には、まだ分からなかった。


 やがて、雅が小さく息を吸い込んだ。


「……そろそろ、応接室に戻りましょうか」


 雅は穏やかにそう言った。その声には、いつもの落ち着きが戻っていた。だが、蓮には見えた。彼女が膝の上で、ほんのわずかに手を握りしめているのを。


「ああ。そうだな」


 蓮は雅の手を離し、立ち上がった。



 二人は再び応接室へと戻った。


 蓮がソファに座ると、雅も自然にその隣に腰を下ろした。先ほどよりも、二人の距離は近い。


 雅は使用人を呼び、お茶を運んでもらった。温かい香りが、部屋に漂う。


「お茶を、どうぞ」


 雅が差し出した茶を、蓮は受け取った。一口飲むと、ほっとする味わいが口の中に広がる。


「美味しいな」


「お口に合って、何よりです」


 雅は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔には、見合いの席で見せた完璧な微笑みとは、どこか違う温かみがあった。蓮は、その変化を静かに記憶に留めた。


 しばらくの間、二人は穏やかな沈黙の中、お茶を飲んでいた。


 先ほどまでの緊張は、もうそこにはなかった。代わりにあるのは、穏やかで心地よい時間だけだった。


 やがて、蓮が口を開く。


「雅」


「はい」


「せっかくだから、このまま少し外に出ないか?」


 蓮の提案に、雅は穏やかに微笑んだ。


「外に……ですか?」


「ああ。少し、街を歩きたい」


「それは……素敵ですね」


 雅は静かに頷く。


「喜んで、お供させていただきます」


「では、準備ができたら――」


 蓮が言いかけた、その時だった。


 玄関の方から、人の気配がした。


 雅がふと窓の外を見る。


「あら……お父様がお帰りになられたようです」


「そうか」


 蓮が答えた、その時だった。


 廊下を歩く足音が近づいてきて、応接室のドアの前で止まった。


 コツコツと、ノックの音。


「雅、神谷殿はまだいらしているのか」


 落ち着いた男性の声が聞こえた。


「はい、お父様。今日はお出かけでしたのに、お疲れのところ申し訳ございません」


 雅がそう答えると、ドアが静かに開いた。


 入ってきたのは、見合いの席で一度顔を合わせた、雅の父・忠久だった。落ち着いた雰囲気を纏い、その立ち居振る舞いからは、長年権力の中枢にいた者特有の貫禄が感じられる。今日も和服を着こなしたその姿は、まさに名門の当主そのものだった。


「これは、神谷殿」


 忠久が穏やかに微笑む。蓮はすぐに姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。


「ご無沙汰しております。本日はお邪魔しております」


「ああ、今日は雅から聞いておりました」


 忠久の視線は穏やかだが、その奥には鋭い観察眼が潜んでいることを、蓮は感じ取っていた。


 忠久は少し考えるような素振りを見せてから、蓮に向き直った。


「神谷殿、せっかくなのでもしよろしければ、少しお時間をいただけないだろうか。二人で、お話ししたいことがあるのだが」


「はい。もちろんです」


 蓮が答えると、忠久は満足げに頷いた。


 その言葉に、雅がすぐに立ち上がった。


「では、わたくしは自室に戻っておりますね」


「ああ、すまんな、雅」


「いえ、とんでもございません。蓮さん、後ほど」


 雅は蓮に向かって軽く会釈する。


「ああ。また後で」


 蓮が答えると、雅はドアを開けて部屋を出て行った。その後ろ姿を見送ってから、忠久は蓮の向かいに座った。


 二人きりになった後も、忠久の口調は穏やかだった。


「本日は遠いところ、よくいらしてくださいました」


「いえ、お招きいただき光栄です。立派なお屋敷で、緊張しております」


 蓮が正直に答えると、忠久は穏やかに微笑んだ。


「そう畏まらずとも。雅も、神谷殿がいらっしゃることを楽しみにしておりましてな」


「ありがとうございます」


「ところで、このお茶は気に入りましたか? 娘が選んだものなのですが」


「ええ、とても美味しいです。香りも良く、落ち着きます」


「そうですか」


 忠久は満足げに頷いてから、湯呑みを静かに置いた。その一連の所作には、一切の無駄がない。やがて、忠久は背筋を伸ばし、改めて蓮を真っ直ぐに見つめた。


 その瞬間、空気が変わった。穏やかな笑みは変わらない。だが、蓮は感じ取った。目の前にいるのは、もはや「雅の父親」ではない。半世紀にわたって政財界の中枢を渡り歩いてきた男が、今、自分を値踏みしている。


「神谷殿」


 忠久が少し改まった口調になる。


「先日のお見合いの席で、あなたの志は聞かせていただきました。トップランカーを目指し、国家に貢献する。素晴らしいお考えだと思います」


 蓮は黙って頷く。忠久の言葉には、まだ本題が続くという予感があった。


「しかし、あの時は雅もおりましたし、仲人もおりました。今日は、改めて私と二人で、率直にお話しさせていただきたい」


 忠久は少し間を置いてから、蓮を真っ直ぐに見つめた。その視線には、名門の当主としての重みが込められている。


「あなたの志は本物ですか。それとも、お見合いの席での建前でしたか」


 問いの言葉は穏やかだったが、その裏には鋭い観察眼が潜んでいた。この問いにどう答えるかで、忠久の評価が決まる。蓮はそれを、正確に理解していた。


 蓮は少しの間を置いてから、答える。


「……正直に申し上げます」


 蓮は忠久を真っ直ぐに見つめ返した。逃げも隠れもしない、という姿勢を示す。


「建前、といえばそうかもしれません。ですが、私はその建前を現実にするつもりです。トップランカーを目指し、実績を積み、社会的地位を確立する。それが私の目標です」


 蓮の言葉には、野心が込められていた。愛国心ではなく、自らの利益のための野心。しかし、その結果として国家に貢献することになるのであれば、それは九条院家にとっても問題ないはずだ。


 忠久は、しばらく蓮を見つめたまま、何も言わなかった。応接室に、重い沈黙が流れる。


「……なるほど」


 やがて、忠久は満足げに頷いた。


「正直な方だ。それでいい。我々が求めているのは、綺麗事ではない。結果を出せる人間です」


 忠久は少し体を前に傾けてから、続けた。


「実は、神谷殿。我が家は、長年この国の制圧士たちを支援してきました。資金面でも、人脈面でも」


 忠久の言葉には、九条院家の歴史と権力が滲んでいた。


「神谷殿のような、将来性のある若者に投資することは、我が家にとっても意義深いことなのです。資金援助はもちろん、必要な人脈の紹介、情報の提供。あらゆる面で、神谷殿の成長を支援させていただきます」


 その言葉は、明確だった。九条院家は、蓮を「投資対象」として見ている。そして、その見返りとして、蓮が成功した際の利益を期待しているのだ。


「ありがとうございます。その期待に応えられるよう、精進いたします」


 蓮の言葉に、忠久は満足げに頷いた。


「ところで、神谷殿」


 忠久が、少し声のトーンを落とす。


「雅のことを、よろしくお願いします」


「もちろんです」


「雅は、良妻賢母として育てられてきました。神谷殿を支えることが、彼女の喜びです」


 忠久の言葉には、この世界の価値観が色濃く反映されていた。


「それから……」


 忠久は、世間話のように軽く釘を刺す。


「若い二人に、野暮なことは言わんさ。ただ、順番だけは間違えるなよ? そこさえ弁えてくれれば、あとは君に任せる」


 その言葉の意味を、蓮は正確に理解した。


 (婚前交渉は構わない。だが、結婚前に子供を作るな、ということだ)


 それは、九条院家としての最低限のラインだった。名門の令嬢が、婚外子を産むことは、家の名誉に関わる。だが、それ以外のことであれば、若い二人の関係を尊重する、という忠久の姿勢が見て取れた。


「承知いたしました」


 蓮が答えると、忠久は再び穏やかな笑みを浮かべた。


「では、雅が待っています。行ってあげてください」


「ありがとうございました」


 蓮は丁寧に頭を下げ、部屋を後にした。


* * *


 廊下を歩きながら、蓮は今の会話を反芻する。


 (やはり、俺の仮説が正しかった)


 以前、九条院家に関する資料を読み込み、複数の仮説を立てた。なぜ九条院家ほどの名門が、まだ実績のない自分を選んだのか。


 ①召喚師という希少ジョブへの投資。②新興勢力との繋がりを作る戦略。③雅の年齢と適性者としての価値を考えた現実的判断。④父親が蓮の潜在能力を見抜いた。


 どの仮説が正しいにせよ、この縁談は九条院家にとって戦略的な「投資」であり、自分が成果を出し続ける限り、一方的に破棄される可能性は極めて低い。


 そして、忠久の最後の言葉。


 (順番さえ守れば、かなり攻めても問題ない、ということだ)


 蓮の心の中で、次の段階への決意が固まっていく。


 雅は、蓮の要求を受け入れる。それは今日、証明された。


 キスを交わしたこと。雅の部屋に入ったこと。そして、雅がそれを受け入れたこと。その腹の底にどのような感情があるかは分からないが、少なくとも表面上は素直に応じた。


 (次は、もっと踏み込める)


 蓮の唇が、静かに笑みの形を作った。胸の奥で、暗い炎がゆっくりと燃え上がる。


 あの完璧な淑女が、俺の言葉一つで頬を染め、俺の要求に従う。その光景を思い返すだけで、体の芯が熱くなる。


 (雅の部屋で、もっと私的な時間を過ごす。あるいは、もっと身体的な接触を求める。婚約者として当然、という理屈で、少しずつ境界線を押し広げていく)


 蓮は先ほど訪れた雅の部屋へと向かった。


 今日の訪問は、大きな成果を上げた。


 次の一手は、もう見えている。雅の部屋で、もっと踏み込んだ要求をしてみる。彼女がどこまで受け入れるか、その反応を見る。そして、その結果に応じて、さらに次の段階へと進む。


 蓮は静かに、次の戦略を練り始めていた。



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