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九条院邸への招待(前編)


 蓮は、九条院邸へと向かう車の中にいた。


 車窓から流れる景色を眺めながら、彼は今日の「作戦」を脳内で反芻していた。


 雅から「一度、家にいらっしゃいませんか」という招待を受けたのは、数日前のことだ。彼女は丁寧な言葉で、自分の住む世界を見てほしいと言った。蓮はその申し出を、二つ返事で受け入れた。


 (雅との距離を、もう一歩詰める絶好の機会だ)


 数週間前、九条院家に関する資料を読み込み、「もう少し攻めた姿勢を取っても問題ない」と確信した。そして、ダンジョンからの帰りに雅の髪に触れ、手を取った。その全てで、雅は戸惑いながらも、最終的には受け入れた。


 今日は、さらに踏み込む。


 蓮の唇が、静かに笑みの形を作った。


* * *


 九条院邸の門をくぐると、蓮は思わず足を止めた。


 目の前に、広大な日本庭園が広がっていた。手入れの行き届いた松、静かに水を湛える池、白砂の上に配置された飛び石。その全てが、百年以上の時を経て磨き上げられた美意識の結晶だった。


 (これが、九条院家か)


 数週間前、九条院家に関する資料を読み込んだ時、この家が戦前から続く旧華族の家系であることは理解していた。だが、実際に足を踏み入れると、その「格」の重みが肌で感じられる。金で買えるものと、時間でしか手に入らないもの。この庭園は、明らかに後者だった。


 玄関の前には、雅が立っていた。


 淡いクリーム色のワンピースに薄手のカーディガンを羽織った、清楚で上品な装いだった。銀色の髪はハーフアップに結い上げられ、小さなパールの飾りが揺れている。その姿は、まさに名門の令嬢そのものだった。


「いらっしゃいませ、蓮さん」


 雅は深々とお辞儀をして、蓮を迎えた。その所作には、一切の乱れがなかった。


「お招きいただき、ありがとう」


 蓮は軽く頭を下げる。雅は穏やかに微笑むと、蓮を邸内へと案内した。


* * *


「まずは、庭をご覧になりますか?」


 雅が尋ねる。蓮は頷いた。


 二人は庭へと足を踏み入れた。初夏の陽光が、木々の間から柔らかく降り注いでいる。


「この庭は、曾祖父の代に作庭されたものです」


 雅は静かに説明を始めた。


「池のほとりに佇むこの石灯籠は、江戸時代のものだと聞いています。そして、あちらの松は、樹齢三百年を超えていると」


「三百年……」


 蓮は驚きを込めて繰り返した。


「ええ。この家に代々受け継がれてきたものです」


 雅は静かに目を細めた。九条院家という名門に生まれた誇りが、その態度の端々に滲んでいた。


「この配置された岩にも、それぞれ意味があるのです。禅の思想を表現していると」


 雅は岩の配置を指差しながら、静かに説明を続ける。蓮は適切な相槌を打ちながら、彼女の横顔を観察していた。


「雅は、この庭が好きなのか?」


 蓮が尋ねると、雅は少し考えてから答えた。


「好きというより……わたくしの一部のような気がいたします。幼い頃から、ずっとこの庭を眺めて育ちましたから」


 その言葉には、どこか哀愁が込められていた。


 池のほとりまで来た時、蓮はふと、雅の肩に手を置いた。


 雅は一瞬だけ睫毛を伏せたが、すぐに表情を整え、その距離を受け入れた。


「綺麗な庭だな。雅の家の歴史が、ここに刻まれているんだな」


 蓮は何事もなかったかのように、そう言った。その声には、迷いも遠慮もない。


「ありがとうございます。蓮さんにそう言っていただけると、嬉しく思います」


 雅の声は、心からの喜びに満ちているように聞こえた。蓮の手が肩に置かれたままだが、彼女は一切それに触れようとしない。


(少なくとも、俺の手を拒むことはない)


 蓮は内心で満足しながら、手をそっと離した。


* * *


 庭を巡った後、雅は蓮を茶室へと案内した。


 簡素だが洗練された空間。床の間には掛け軸が飾られ、香の仄かな香りが漂っている。


「お茶をお淹れいたしますね」


 雅は静かにそう言うと、茶道具の準備を始めた。


 その動きには、一切の無駄がなかった。道具を手に取り、置き、また手に取る。すべてが流れるように繋がっていて、どこにも力みがない。五歳から十三年。その歳月が、彼女の身体に刻み込まれているのだ。


 蓮は正座をして、その様子を眺めていた。湯を沸かし、茶を点てる。静かな空間に、茶を立てる微かな音だけが響く。雅の横顔は、どこまでも穏やかで、どこまでも美しかった。


 やがて、雅が茶碗を差し出す。


「どうぞ」


 蓮は茶碗を受け取り、一口飲んだ。ほろ苦い味わいが、口の中に広がる。


「美味しい。雅が点てる茶は、格別だな」


「恐縮です」


 雅はわずかに頬を緩めた。婚約者として褒められることを、素直に喜んでいるようだった。


「茶道は、いつから習っていたんだ?」


 蓮が尋ねると、雅は少し懐かしそうな表情を浮かべた。


「五歳の頃からです。最初は、正座をするのも辛くて……よく泣いていました」


「そうなのか」


「でも、今は茶を点てている時間が、わたくしにとって心を落ち着ける時間になっています」


 雅は静かにそう言った。


 蓮は茶碗を置くと、雅をじっと見つめた。


「どうかなさいましたか?」


「いや……雅の髪が、少し乱れていたから」


 そう言って、蓮は手を伸ばした。


 蓮の指先が、彼女の髪に触れた。そして、耳元に垂れていた銀色の髪を、そっと整える。その動作の中で、彼の指先が、雅の頬に軽く触れた。


 雅の瞳が一瞬だけ大きくなったが、すぐにいつもの穏やかな瞳に戻った。


「ありがとうございます。お気遣いいただき、恐縮です」


 雅の睫毛がわずかに伏せられ、口元に柔らかな弧が浮かんだ。蓮から世話を焼いてもらえることが、彼女にとっては自然な喜びのようだった。


 蓮は何も言わずに、手を引いた。だが、その唇には満足げな笑みが浮かんでいた。


* * *


 茶室を後にした二人は、応接室へと向かった。


 広々とした部屋には、高級そうな革張りのソファが置かれている。壁には西洋画が飾られ、天井からはシャンデリアが下がっていた。


 雅がソファに座ると、蓮もその隣に腰を下ろした。雅との距離は、いつもより近い。


「今日は、お招きいただき本当にありがとう」


 蓮が言うと、雅は穏やかに微笑んだ。


「いえ、こちらこそ。蓮さんに、わたくしの家を見ていただけて嬉しく思います」


「この家は、本当に素晴らしい。雅が生まれ育った場所を見ることができて、良かった」


 蓮の言葉に、雅は嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます。わたくしも、蓮さんにお見せできて光栄です」


 二人はしばらく、他愛もない会話を交わした。


「最近、蓮さんのダンジョン活動は、順調にいらっしゃいますか?」


 雅が尋ねると、蓮は軽く頷いた。


「ああ。順調だ。おかげで、パーティの評判も上がってきている」


「それは良かったです。わたくしも、蓮さんのご活躍を心から応援しております」


 雅は静かに頷いた。夫となる人の活動を支えることが、彼女にとっては当然の務めであり、同時に喜びでもあるようだった。


「雅が応援してくれることが、俺にとっては何よりの力になる」


 その言葉に、雅は少し俯いた。役割を認められることが、彼女にとっては何よりの喜びのようだった。


 会話が途切れ、穏やかな沈黙が訪れる。


 雅は少し考えるような素振りを見せてから、静かに口を開いた。


「あの……蓮さん」


「何だ?」


「せっかくですので……わたくしの部屋も、ご覧になりますか?」


 その提案に、蓮の眉がわずかに上がった。


「いいのか?」


「ええ。お見せしたいと思っておりました」


 雅は穏やかに微笑んだ。その表情には、ためらいも迷いも見えなかった。


「それなら、ぜひ」


 蓮は即座に答えた。


* * *


 雅に案内され、蓮は二階へと続く階段を上った。


 階段を上る音だけが、静かな廊下に響く。雅の背中を追いながら、蓮は内心で笑みを浮かべた。


(雅の部屋……プライベートな空間だ。ここで何ができるか、楽しみだな)


 廊下を進むと、立派な木製のドアの前で雅が足を止めた。


「こちらが、わたくしの部屋です」


 雅はそう言って、わずかに間を置いてから、ドアを開けた。その動作には、どこか決意のようなものが込められているように見えた。


 部屋の中に足を踏み入れると、蓮は思わず目を見張った。


 広々とした部屋だった。九条院邸全体が和の趣を基調としているのとは対照的に、この部屋は洋風のテイストで統一されていた。


 床には柔らかなベージュのカーペットが敷かれ、大きな窓からは先ほど見た庭が一望できる。部屋の奥には白い本棚が並び、古い文学書や茶道の本が整然と並んでいた。


 壁には風景画が飾られ、窓際には小さなテーブルとアンティーク調の椅子が置かれている。


 そして、部屋の中央には、キングサイズの立派なベッドが置かれていた。白いリネンのシーツとレースの飾りが、清潔で上品な印象を与えている。


「どうぞ、こちらへ」


 雅は窓際のテーブルの方を指し示した。蓮はその椅子に座る。


 雅もその向かいに座った。二人の距離は、いつもより近かった。


「落ち着いた部屋だな」


 蓮が言うと、雅は柔らかく頷いた。


「ありがとうございます。わたくしにとって、一番落ち着く場所です」


「この本は、全部読んだのか?」


 蓮が本棚を指差すと、雅は頷いた。


「ええ。幼い頃から、読書が好きでして」


「雅らしいな」


 その言葉に、雅は嬉しそうに微笑んだ。


 蓮は窓の方へ視線を向けた。


「窓から、さっきの庭が見えるんだな」


「ええ。わたくしは、この窓から庭を眺めるのが好きなのです」


 雅も窓の方を見る。そこには、先ほど二人で歩いた庭が広がっていた。


「夕方になると、夕陽が庭を照らして……とても綺麗なのです」


 雅は穏やかに語る。その横顔には、どこか懐かしむような表情が浮かんでいた。


「見てみたいな」


 蓮がそう言うと、雅は驚いたように蓮を見た。


「本当ですか?」


「ああ。雅が好きな景色を、俺も見てみたい」


 その言葉に、雅は少し間を置いてから、穏やかに微笑んだ。婚約者として、自分の世界を共有できる喜びが、その表情に滲んでいた。


「……ありがとうございます」


 静寂が、部屋を満たす。


 蓮は立ち上がると、雅の隣へと移動した。そして、彼女のすぐ隣に座る。


 二人の距離は、さっきよりもずっと近かった。


「こっちの方が、窓がよく見えるからな」


 蓮は何事もなかったかのように、そう言った。


「ええ。一緒にご覧いただけて、嬉しく思います」


 雅はそう答えた。ただ、その手が膝の上で、ほんの少しだけきつく握られているのを、蓮は見逃さなかった。


 二人は並んで、窓の外を眺めた。


 やがて、蓮の視線が雅の髪に向けられる。


「雅の髪……本当に綺麗だな」


 そう言って、蓮は手を伸ばした。


 蓮の指先が、彼女の銀色の髪に触れた。さらさらとした、絹のような感触。


「そのように言っていただけて、光栄です」


 雅は嬉しそうに微笑んだ。婚約者として褒められることを、素直に喜んでいるようだった。


 蓮はゆっくりと手を引くと、今度は雅の手を取った。


 雅は抵抗することなく、その手を委ねた。


「雅の手は、小さいな」


「蓮さんの手は、大きくて温かいですね」


 雅は穏やかに微笑んで答えた。だが、蓮が握る彼女の手は、ほんのわずかに冷たくなっているような気がした。


 蓮は雅の手を握ったまま、彼女の顔を覗き込んだ。


「雅」


 蓮が静かに名を呼ぶ。


 雅が顔を上げる。その瞳が、蓮を映していた。


 窓から差し込む光が、彼女の銀髪を淡く照らしている。


 二人の顔は、もう間近にあった。部屋の空気が、わずかに張り詰めたように感じられた。


「出会ってから、そろそろ二ヶ月になるな」


 蓮が静かに言った。


「そうですね……」


 雅は穏やかに微笑んだ。


「正式な婚約は、まだ先だが……俺は、雅ともっと親密になりたい」


 その声は、いつもより低く、静かだった。


 雅の瞳が、わずかに揺れる。


「……と、おっしゃいますと?」


「キスをしたい。……いいか?」


 蓮の言葉は、問いかけだった。


 雅は少しの間を置いて、静かに答えた。


「少し恥ずかしいですが……蓮さんがそうおっしゃるのでしたら、もちろん喜んで」


 その声には、いつもと変わらぬ穏やかさがあった。柔らかな微笑みを浮かべたまま、彼女は蓮を見つめている。


 蓮は、雅の顎にそっと手を添えた。


 そして、ためらうことなく、彼女の唇に自分の唇を重ねた。


 雅は拒むことなく、その唇を受け入れた。


 柔らかく、温かい感触。それは、蓮にとって初めての、雅との本当の意味での接触だった。彼女の唇は静かで、動くこともなく、ただそこにあった。


 数秒後、蓮は顔を離した。


 雅の瞳が、ゆっくりと開く。その目には、驚きと戸惑いが混じっていた——瞬きをするように、ほんの一瞬だけ。だが、それはすぐに、いつもの穏やかな微笑みに変わった。


「……不思議な感覚です」


 雅は穏やかに微笑んで答えた。その声には、どこか戸惑いと驚きが混じっているように聞こえた。


 ただ、蓮には見えた。その笑顔が浮かぶ一瞬前、雅の眉がほんのわずかに——本当にわずかに——動いたことを。だが、それは瞬きよりも短い時間で、すぐにいつもの気品ある微笑みに変わっていた。


 (違和感を感じているな。でも、それを表には出さない。さすがは雅だ)


 蓮は内心で満足しながら、雅の反応を観察していた。


 九条院家の令嬢。政府高官すら一目置く名門の、三女。この国の上流階級が百年以上かけて磨き上げた、完璧な淑女。


 その唇を、今、俺が奪った。


 彼女が自分の感情を徹底的に律している様子が、逆に彼の支配欲を刺激した。


 二人はしばらく、何も言わずに座っていた。


 蓮は雅の手を取り、親指で彼女の手の甲をそっと撫でた。雅はその感触を、穏やかに受け入れている。


 (ああ、なんて素晴らしい女だろう)


 蓮は心の中で喝采を送りながら、雅との静かな時間を味わっていた。


 数ヶ月前、自分は地方の一般家庭出身の、ただの新入生だった。それが今、九条院家の令嬢とキスを交わし、彼女の私室で二人きりの時間を過ごしている。


 全ては計画通りだ。


 九条院家の資料を読み込み、「攻めても問題ない」と判断した。そこからは段階的に距離を詰めた。ダンジョンからの帰りに髪に触れ、手を取った。今日は、庭で肩に触れ、茶室で髪を整え、部屋で手を握り——そして、キスまで辿り着いた。


 全てが、蓮の描いた筋書き通りに進んでいる。


 今日の成果は、十分すぎるほどだった。


 次は、もっと踏み込める。


 蓮の唇が、静かに笑みの形を作った。



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